彼の魔法


古びた外見に似つかわしくない、妙に綺麗な洗面所で着替えて出てくると、自分のスーツのズボンが台に置かれて作業されているところだった。


「コーヒーでよかったらあるけど飲む?」
「いえ、結構です」
「そう」


賑やかな2人は既におらず、トントントンと叩く音だけが辺りに響く。奇抜な柄のジャージにスーツのシャツというかなりパンチの効いた格好のまま鞄を床に置き、壁にもたれて見るともなしに彼の作業を見ていた。
液体を染み込ませた布でコーヒーに汚れた部分を丁寧に叩いていく。さっきと打って変わった真剣な横顔。知らない空間なのに不思議と心地よくて、単調な音のせいか眠たくなってきた。


「眠かったらその椅子で寝てていいよ」


見透かしたように言われ、何も言い返せない。小さな声で礼を言ってボックス席に座り、そのまま本当に眠ってしまった。


***


「できたよー。起きてー」


真っ暗闇の中から呑気な声がして、意識がぐっと浮上する。
目を開けた先、茶褐色のテーブルと痺れきった腕があり、次いでさっきの男の顔が目に入った。完全に寝てしまったのかと自分の愚かさ加減を恥じる間もなく綺麗になったスーツのズボンが差し出される。


「あ、ありがとうございます」
「こちらこそ」


ふわりとまた笑い、その顔のまま、形のいい指で上を指す。


「帰るところ、ないんだったら上が空いてるよ」
「……え?」


あまりの見透かし具合にズボンを取ろうとした手が止まった。
もしかしたらこの人は魔法使いか何かで、さっきの二人は実はネズミか何かで、自分がこうなったのを昨日あたりからずっと見ていてそれで……。


「うなされてたから。すごく」
「あ……」


そんな訳はなかった。自分が全部曝してしまっていたのだ。
何を聞いたのか、何を知ったのかは分からないが、彼は淡々と事実を述べ、またカウンターの向こうへ行き、何かの作業を始めた。
返してもらったズボンは僅かに温かく、丁寧に落とされたのかコーヒーの染みは跡形もなくなっている。
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