無罪者の憂鬱


異動になって間もないので引き継ぎ業務もなく、以前いた部署や交流のあった同期に少し挨拶をして回った。何かを察したのか、誰も何も聞いてこず、知らなかったのは自分だけだったのかと疎外感が募る。
退職に必要な手続きを済ませ、有休消化に関する説明など受けて帰路についた。
自宅最寄り駅まで来たが、まっすぐ帰る気になれない。奇しくも先月、すれ違い生活で彼女と別れたばかりだった。誰もいない家に帰るよりは普段は行かない駅前商店街のどこかで自棄酒でも煽ろうかと思い、夕方過ぎの幸せな匂いに満ちた通りを当てもなく歩く。
と、賑やかな通りから少し外れたところに小さな看板を見つけた。
イーゼルに立てかけられた黒板に猫の絵と店の名前。シンプルな看板にひかれてドアを開けるとそこはショットバーだった。


「いらっしゃいませ」


静かな声が薄暗いカウンターの向こうから聞こえてきて、その後から静かなジャズが追いかけてくる。客はひとりふたり。いずれも静かに飲んでおり、感傷に浸るにはもってこいの場所だと思った。


「ウィスキーください」
「…かしこまりました」


柔らかいスツールに腰かけて注文すると、程なくして琥珀色の液体が目の前に置かれた。口をつけると氷の冷たさと共に火のような熱さが唇を焼く。元々酒には強くないため、立ちのぼる匂いだけで酔ってしまいそうだった。


「チェイサーはどうされますか?」
「ちぇ……?」
「来てたんだ。言ってよー」


一口飲んで息をついたじゅんにマスターが話しかけてくるが、言っている単語の意味が分からない。聞き返そうとした時、横から声がした。
薄暗い照明に柔和な笑顔が浮かび上がる。年齢不詳。職業不詳。何か絵の描かれたTシャツによれた上着を羽織っていて、かろうじて性別だけは男と分かる。


「お連れ様でしたか」
「待ち合わせてたの。チェイサーあげて」
「失礼いたしました。どうぞごゆっくり」


何が何だか分からないままに会話が終了し、目の前に水が置かれた。助かった…と口をつけていると隣にその男が座る。微かに油の匂いがした。
マスターが半分入ったビールグラスと乾き物の皿を運んでくる。それに軽く頭を下げて、彼はグラスを手に取った。


「かんぱーい」
「乾杯」
「よかったらどうぞ」
「ありがとうございます。…あの」
「ん?柿ピー嫌い?」
「いえ。好きです。じゃなくて」
「んー」
「あの、あなた、は」


突然現れた人物に不信感しか抱けない。
もしかして詐欺師か。マルチ商法の仕掛け人か。それともゲイのナンパか。
それでもマスターに聞かれてはいけないと思ってしまい、声が小さくなる。それに彼は笑い、同じく声を潜めた。


「飲み慣れてないもん、注文してっから」
「はぁ」
「嫌なことあった?」
「はぁ……」


今日の出来事が『嫌なこと』のレベルに入るのか果たして疑問だが、優しく聞かれて思わず泣いてしまいそうになった。こくりと頷いたじゅんの背中をぽんぽんと叩き、


「オイラでよかったら聞くよ」
「はい……」


もうこの人が詐欺師でも何でもいい。甘く染み渡る優しさにひかれるように、じゅんは今日の出来事を話し始めた。
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