スパイスの誘惑
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カレーだ。
仕事を終えて家に帰る途中、というかもうほとんど家の前なんだけれど、ふわりと漂う匂いは食欲をそそるカレーの匂いだ。近所の家のどこかが今日はカレーだったんだろうか。そう思いながら見上げたベランダは、私の部屋はもちろん暗いけれど隣は煌々と明かりがついていた。
隣人は、我妻さんは今日はもう帰っているようだ。珍しい。だからといって用事もないのに会いに行くわけにはいかない。時々会話をする仲の隣人は、お部屋にお邪魔したこともお邪魔されたこともある、それでもまだ「ただの隣人」の域を出ない。まあ、仲がいいと頭に付けられるくらいにはなったかもしれないけれど。
ガチャリと鍵を回して部屋に入って荷物を置く。朝出た時以来の見慣れた我が家は冷えた空気で私を迎えてくれた。今日も一日お疲れ様だ自分。
「……カレー食べたいな」
カレーの匂いというのはどうしてあんなに誘うのだろう。どこかの家から漂った匂いだけで、私の心はカレー気分だ。確かレトルトがあったはずだからそれでいいや。ごはんはあったっけ。ぼんやり考えながら部屋着に着替えていると、隣の部屋からコンコンと壁を叩く音が聞こえた。これは、隣人の我妻さんからの合図だ。慌てて着替えてしまった部屋着の上からストールを巻くと、我妻さんといつも話す場所であるベランダに向かった。
からりと音を立ててベランダに出ると、我妻さんはもう出ていたようで隔壁の向こうからひらひら手を振っている。そしてやはり漂う匂い。夕飯がカレーだったのは相当ご近所みたいだ。
「春野ちゃんこんばんは!」
「こんばんは我妻さん」
ベランダに出てみるとやはり寒い。部屋着隠しに羽織ってきたストールだけれど、あって良かったと思いながら前をしっかり合わせた。
「あっ寒いでしょ、呼び出しちゃってごめんね?」
「いえ、大丈夫です。どうしました?」
呼び出したからにはなにか用事があるのだろう。いや用事が無くてもいいんだけど。居るなら会いたいなと思うくらいには、私はもう我妻さんが気になっていたから。
「ね、きみさ。カレー食べない?」
「……は、」
唐突に、そんな事を言われて固まってしまう。さっきの独り言が聞こえてしまったんだろうか。驚いたやら恥ずかしいやらですぐには言葉が出てこない私に、我妻さんは相変わらずにこにこと話しかける。
「俺今日半休でさ、カレー煮込んだの。多めに作ったし良かったら食べない?」
「え、と。いいんですか?」
「もちろん!」
ごはんもいっぱい炊いてあるからうちにおいで、と。了承を告げて部屋に引っ込んだ私は、急いで着たばかりの部屋着を脱ぎ捨ててまともな服に着替えた。髪もメイクも少し整えて、それでも急いで。部屋を出る前に買い置きの缶ビールを冷蔵庫から出して、それをレジ袋に入れて持って隣の部屋へ。
「いらっしゃい!上がってー」
「お邪魔します」
何度か来たことのある我妻さんの部屋は、たまに部屋の隅に物が積まれていたりするけれど、基本的には綺麗だ。
「ビール持ってきたんで良かったらどうぞ」
「いいねぇ!春野ちゃん、ごはん食べながら飲めるクチ?」
「いけますよ」
「んひ、俺も」
じゃあすぐに開けちゃおうと言うことになり、我妻さん特製のカレーライスを二人分並べた食卓に缶ビールも並んだ。
ふたり揃っていただきますと手を合わせて、どうぞと促されてスプーンでひとくち。ぱくりと口に入れるとスパイスの香りと濃いめの味付けが広がる。示し合わせたかのように缶ビールに手を伸ばし、持ち上げカチンとふちを合わせ、喉を鳴らして流し込む。美味い。けれどこのカレー、
「……これ、お肉なに入れました?」
「牛肉鶏肉豚肉です!」
「えっ全部?全部入れたんです?」
「うっ、お、美味しいかと思って……」
「いやまぁ、美味しいですけど……」
「でしょ!?」
私が美味しいと言ったらぱっと明るい顔をして、こだわりポイントを語り始めた。カレーは市販のルーじゃなくカレー粉で作ったらしい。レトルトでも食べようかとしていた私とは大違いである。
「で、今日って二月九日でしょ?肉の日だから肉カレーにしてみたんだぁ」
しかもちょっといいお肉です!と得意げに言う我妻さんは、普段よりなんだか可愛いとか、思ってしまった。
美味しいごはんで食もビールも進んで、あっという間に食べ終わってしまった。お邪魔しておいてなんだけど、帰る時間が近づくと少し寂しい。
「我妻さん、もう少し飲みます?持ってきますけど」
なんて、少しでも一緒の時間を長引かせたくてそんな事を言ってしまった。ほんのりと目元を染めた我妻さんは一瞬止まった後、んー、と喉の奥で考えるような声を出した。
「まだ、飲みたい気はするけど。そろそろ帰った方がいいと思うなぁ」
「そう、ですよね……」
まずった。迷惑に思われたかも。そう思って心臓がぎゅうと収縮する。なんだかんだ結構我妻さんが好きになってしまっている私は、帰れと言われたことにかなりショックを受けていた。
「あ、いや迷惑とかじゃ無いからね!?そういうんじゃなくて、あー……」
私の心を読んだかのようにフォローしてくれるけれど、一度傷んだ心はちょっと復活できそうにない。とりあえず言われた通りに帰ろう。
「私、帰りますね。ごちそうさまでした」
なるべく不自然にならないように、感じが悪くならないように。そう思いながらも気が急いて、逃げるように立ち上がる。私を追いかけるように我妻さんも立ち上がった。そのまま玄関へ向かってドアを開けようと手を伸ばす。と、ドアノブを握った私の手の上から、大きな手が重なった。
「……帰して、あげられなくなるかもしんないから。これ以上飲んだら、きみが居たら」
背後、というより頭上から聞こえる声に、振り返ることが出来ない。これは私の背中にぴたりと触れるくらいの距離に、我妻さんがいる。近すぎる。心臓が、跳ねる。
「だから、今日はもうお開き」
「あがつま、さん……」
私の手ごとドアノブを握って、回して。押し出されるように外に出たのは、文字通り我妻さんに背中を押されたからだ。触れられた所が熱い。顔も、あつい。酔いが急に回ったみたいにどきどきしている。
「……おやすみ」
「っ、おやすみ、なさい……!」
そう言うと、私は振り返ることが出来ないまま自分の部屋へと逃げ込んだ。帰宅してから暖められる間もなかった部屋が、火照った私をひんやり迎えてくれる。慣れた自分の部屋に少しだけ落ち着いたのか、じんわり後悔が湧き上がってきた。
「なん、っで!逃げたの私……!」
パニックになって逃げてしまったけれど、私はもう誤魔化しようがないくらい我妻さんが好きなんだから、逃げる必要なんて無かったんじゃない?後悔先に立たず。
それに、我妻さんがあんなことを言うなんて。期待してもいいのかもしれない。
「……次は、逃げない……」
でも、できれば食後じゃない方がいいかもしれない。せっかく我妻さんとなにかあるなら、カレーの匂いがしたとかいう思い出は避けたい。キスとか。
ぐるぐる考えて、少し想像して。やましい妄想を振り払うように熱いシャワーを浴びてさっさと寝てしまう事にした。寝れるかは、わからないけど。
仕事を終えて家に帰る途中、というかもうほとんど家の前なんだけれど、ふわりと漂う匂いは食欲をそそるカレーの匂いだ。近所の家のどこかが今日はカレーだったんだろうか。そう思いながら見上げたベランダは、私の部屋はもちろん暗いけれど隣は煌々と明かりがついていた。
隣人は、我妻さんは今日はもう帰っているようだ。珍しい。だからといって用事もないのに会いに行くわけにはいかない。時々会話をする仲の隣人は、お部屋にお邪魔したこともお邪魔されたこともある、それでもまだ「ただの隣人」の域を出ない。まあ、仲がいいと頭に付けられるくらいにはなったかもしれないけれど。
ガチャリと鍵を回して部屋に入って荷物を置く。朝出た時以来の見慣れた我が家は冷えた空気で私を迎えてくれた。今日も一日お疲れ様だ自分。
「……カレー食べたいな」
カレーの匂いというのはどうしてあんなに誘うのだろう。どこかの家から漂った匂いだけで、私の心はカレー気分だ。確かレトルトがあったはずだからそれでいいや。ごはんはあったっけ。ぼんやり考えながら部屋着に着替えていると、隣の部屋からコンコンと壁を叩く音が聞こえた。これは、隣人の我妻さんからの合図だ。慌てて着替えてしまった部屋着の上からストールを巻くと、我妻さんといつも話す場所であるベランダに向かった。
からりと音を立ててベランダに出ると、我妻さんはもう出ていたようで隔壁の向こうからひらひら手を振っている。そしてやはり漂う匂い。夕飯がカレーだったのは相当ご近所みたいだ。
「春野ちゃんこんばんは!」
「こんばんは我妻さん」
ベランダに出てみるとやはり寒い。部屋着隠しに羽織ってきたストールだけれど、あって良かったと思いながら前をしっかり合わせた。
「あっ寒いでしょ、呼び出しちゃってごめんね?」
「いえ、大丈夫です。どうしました?」
呼び出したからにはなにか用事があるのだろう。いや用事が無くてもいいんだけど。居るなら会いたいなと思うくらいには、私はもう我妻さんが気になっていたから。
「ね、きみさ。カレー食べない?」
「……は、」
唐突に、そんな事を言われて固まってしまう。さっきの独り言が聞こえてしまったんだろうか。驚いたやら恥ずかしいやらですぐには言葉が出てこない私に、我妻さんは相変わらずにこにこと話しかける。
「俺今日半休でさ、カレー煮込んだの。多めに作ったし良かったら食べない?」
「え、と。いいんですか?」
「もちろん!」
ごはんもいっぱい炊いてあるからうちにおいで、と。了承を告げて部屋に引っ込んだ私は、急いで着たばかりの部屋着を脱ぎ捨ててまともな服に着替えた。髪もメイクも少し整えて、それでも急いで。部屋を出る前に買い置きの缶ビールを冷蔵庫から出して、それをレジ袋に入れて持って隣の部屋へ。
「いらっしゃい!上がってー」
「お邪魔します」
何度か来たことのある我妻さんの部屋は、たまに部屋の隅に物が積まれていたりするけれど、基本的には綺麗だ。
「ビール持ってきたんで良かったらどうぞ」
「いいねぇ!春野ちゃん、ごはん食べながら飲めるクチ?」
「いけますよ」
「んひ、俺も」
じゃあすぐに開けちゃおうと言うことになり、我妻さん特製のカレーライスを二人分並べた食卓に缶ビールも並んだ。
ふたり揃っていただきますと手を合わせて、どうぞと促されてスプーンでひとくち。ぱくりと口に入れるとスパイスの香りと濃いめの味付けが広がる。示し合わせたかのように缶ビールに手を伸ばし、持ち上げカチンとふちを合わせ、喉を鳴らして流し込む。美味い。けれどこのカレー、
「……これ、お肉なに入れました?」
「牛肉鶏肉豚肉です!」
「えっ全部?全部入れたんです?」
「うっ、お、美味しいかと思って……」
「いやまぁ、美味しいですけど……」
「でしょ!?」
私が美味しいと言ったらぱっと明るい顔をして、こだわりポイントを語り始めた。カレーは市販のルーじゃなくカレー粉で作ったらしい。レトルトでも食べようかとしていた私とは大違いである。
「で、今日って二月九日でしょ?肉の日だから肉カレーにしてみたんだぁ」
しかもちょっといいお肉です!と得意げに言う我妻さんは、普段よりなんだか可愛いとか、思ってしまった。
美味しいごはんで食もビールも進んで、あっという間に食べ終わってしまった。お邪魔しておいてなんだけど、帰る時間が近づくと少し寂しい。
「我妻さん、もう少し飲みます?持ってきますけど」
なんて、少しでも一緒の時間を長引かせたくてそんな事を言ってしまった。ほんのりと目元を染めた我妻さんは一瞬止まった後、んー、と喉の奥で考えるような声を出した。
「まだ、飲みたい気はするけど。そろそろ帰った方がいいと思うなぁ」
「そう、ですよね……」
まずった。迷惑に思われたかも。そう思って心臓がぎゅうと収縮する。なんだかんだ結構我妻さんが好きになってしまっている私は、帰れと言われたことにかなりショックを受けていた。
「あ、いや迷惑とかじゃ無いからね!?そういうんじゃなくて、あー……」
私の心を読んだかのようにフォローしてくれるけれど、一度傷んだ心はちょっと復活できそうにない。とりあえず言われた通りに帰ろう。
「私、帰りますね。ごちそうさまでした」
なるべく不自然にならないように、感じが悪くならないように。そう思いながらも気が急いて、逃げるように立ち上がる。私を追いかけるように我妻さんも立ち上がった。そのまま玄関へ向かってドアを開けようと手を伸ばす。と、ドアノブを握った私の手の上から、大きな手が重なった。
「……帰して、あげられなくなるかもしんないから。これ以上飲んだら、きみが居たら」
背後、というより頭上から聞こえる声に、振り返ることが出来ない。これは私の背中にぴたりと触れるくらいの距離に、我妻さんがいる。近すぎる。心臓が、跳ねる。
「だから、今日はもうお開き」
「あがつま、さん……」
私の手ごとドアノブを握って、回して。押し出されるように外に出たのは、文字通り我妻さんに背中を押されたからだ。触れられた所が熱い。顔も、あつい。酔いが急に回ったみたいにどきどきしている。
「……おやすみ」
「っ、おやすみ、なさい……!」
そう言うと、私は振り返ることが出来ないまま自分の部屋へと逃げ込んだ。帰宅してから暖められる間もなかった部屋が、火照った私をひんやり迎えてくれる。慣れた自分の部屋に少しだけ落ち着いたのか、じんわり後悔が湧き上がってきた。
「なん、っで!逃げたの私……!」
パニックになって逃げてしまったけれど、私はもう誤魔化しようがないくらい我妻さんが好きなんだから、逃げる必要なんて無かったんじゃない?後悔先に立たず。
それに、我妻さんがあんなことを言うなんて。期待してもいいのかもしれない。
「……次は、逃げない……」
でも、できれば食後じゃない方がいいかもしれない。せっかく我妻さんとなにかあるなら、カレーの匂いがしたとかいう思い出は避けたい。キスとか。
ぐるぐる考えて、少し想像して。やましい妄想を振り払うように熱いシャワーを浴びてさっさと寝てしまう事にした。寝れるかは、わからないけど。