壁の向こう
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アパートの薄い壁なんて、俺の耳からしてみればあってないようなもんで。まして隣の部屋ともなれば、ほぼ同じ空間にいるのと変わらない。
ガチャ、と音が響いたのは隣の部屋の玄関ドアだろう。今まで顔も合わせたことの無い隣人がこの時間に帰ってくるのは珍しい。どうやら女性らしい隣人の音をしっかり聞いてしまうのは悪い気がして、いつもならあまり気にしないようにするその生活音を、今日は何故か興味を引かれて耳をすませた。
とんとんと床を踏む軽い足音。きっと小柄なのだろう隣人は、そのままドサドサと乱暴に荷物を下ろして部屋の奥へと移動する。ぼす、という音、これは多分ベッドか布団に倒れ込んだ音かなぁ。疲れてるんだろうか。それで早く帰ってきたのかな。
顔も知らない隣人の行動や状況を想像しながら耳を傾ける俺は、冷静に考えたら変態じゃない……?我に返って音を拾うのをやめようとした時、微かに聞こえたのは。
「泣いて、る……?」
小さなくぐもった音は、布団か枕に顔を押し付けているのか。けれどこの音は多分、泣いてしゃくりあげる音だ。俺自身が人よりよく泣く方だから、よく聞くこの音に間違いはない。けれどどちらかと言うと泣き喚く俺と違って、この音はあまりにも悲痛な響きを纏っていた。
「……何か、あったのかなぁ」
常に無い時間の帰宅。押し殺した泣き声。何かあったと察するには十分すぎる。他人ではあるけれど、泣いてる女の子を放っておくことができる性格じゃないから、何かしたい。けれど隣人とはいえ知らない奴に声かけられたりしても怖いだろうし、さてどうしたもんか。
結局、なんの慰めにもならないことはわかっているけれど、隣人がいるであろう隣の部屋に面した壁に背を預けて座り込んだ。ほら、落ち込んでる時とか悲しい時、寄り添うだけで心を支えられたりするじゃん?これは俺の自己満足だから、相手に伝わってなくたって、いい。
密やかな泣き声が寝息に変わってからもしばらく、俺はその場から動かなかった。時々思い出したように眠ったまま泣く声に心が痛む。
「寝てる時くらい、辛いことなんか忘れたらいいのにねぇ……」
壁の向こうには聞こえないであろう呟きを零す。いつの間にか、部屋の中には夜の闇を追い出す夜明けの明るさが入り込んできていた。
寝そびれたなぁ。俺以外誰もいない部屋では遠慮も何も無く、大口を開けて欠伸をした。大きく息を吸って、吐く。自分のその動作に触発されて、体が慣れた煙たさを求め始める。一度こうなるともう吸いたくてたまらない。俺はテーブルに放り出していた煙草とライターを手に取り立ち上がる。硬い床に座っていたせいか、どこかの関節がぱきっと音を立てた。
カラリと軽い音を立てて窓を開け、うっすら明るくなり始めたベランダへと出た。朝の空気はどうしてこうも澄んでいるんだろう。この綺麗な空気に煙を混ぜるのは少し気が引けるけれど、吸いたい気持ちには抗えない。一本取り出し咥え、ライターで火をつける。俺が吸い込むのに合わせて先端が赤々と燃え、肺が煙で満たされていく。ゆっくりと長く息を吐くと、口から吐き出された紫煙が夜明けの空気に溶けた。
「はー……」
染みる、生き返る、うまい。うーん、まるでおっさんみたいだなぁ。そんなことを思いながらぼんやりと空を眺めていると、カラリと俺がベランダに出た時と同じ音が隣の部屋から聞こえた。
「あ、」
「…………え?」
俺が思わず声を出すと、驚いたような、困惑したような音と共に声がした。泣き疲れて眠っていたであろう隣人が、外に出てくるとは思わなかった。ベランダで吸うのはマズかったかな、煙草が嫌いな人からしたら不快かもしれない。少し心配になり「非常時はここを破って隣家へ避難できます」と書かれた薄い壁からひょいと覗くと、俺と歳の変わらなそうな女の子がいた。
「あーすみません、隣の者ですけど。煙草。吸ってました」
先手を打って謝罪と自白をすると、彼女は昨晩泣いていたからであろう赤い目をぱちりと瞬かせた。
初めてその姿を見る隣人は、足音で聞いていたとおり小柄で、華奢で。泣き腫らした目が赤くて、痛々しくて、なんだろう……守ってあげたいというか、なんというか。少しどきりと鳴った心音は彼女には聞こえていないだろうけれど、誤魔化すように言葉を続けた。
「ハジメマシテ、お隣さん」
「……はじめまして」
少し掠れた声で返事が返ってきて、短いながらも会話ができたことが嬉しくて思わず笑った。けれど、急に胸を締め付ける辛そうな音がして、そっと逸らされた目から涙が溢れるのが見えてギョッとする。
「……え、ちょっ…大丈夫!?」
薄い隔壁から身を乗り出すようにして慌てて声をかけると、隣人はびくりと肩を揺らす。きょとんとして俺を見るその目からは、変わらずボロボロと大粒の涙か零れていた。痛ましい姿に駆け寄って抱きしめたい衝動に駆られる。今こそ非常時じゃない?壁を破るべき?いや落ち着け、それはどう考えても怖がらせるだけだろ。とりあえずどうにか泣き止んでもらいたい。
「な、なんで泣いて……」
そこまで言ってから、俺の手から未だに立ち上る煙に気づく。
「あ、煙草!?そんなに嫌いだった!?ごめんなさいねぇ!!」
持っていた携帯灰皿に煙草を押し付け火を消すと、蓋をしめて手の中に隠す。少しでもにおいが閉じ込められるように。
彼女は俺の言葉で、自分が泣いていることに気がついたらしい。俺のせいじゃないと言いながら目を擦るのを見て、単純だけど禁煙を決意してしまった。泣かせたくない、笑って欲しい。初めて会った女の子に向けるにしては重すぎる感情は、これはきっと。
他愛もない話を努めて明るい口調で話していくと、最初は思わずといったふうに笑いを零した彼女の顔が少し明るくなって、辛そうな音もなりを潜める。涙も止まったみたいだ。そうしているうちに日が登ったのか急に辺りが明るくなって、彼女の濡れた頬やまつ毛がきらきらと輝いている。それはとても綺麗だと思った。
――ああ、やっぱり。俺はこの子を好きになったみたいだ。
このままそれじゃあと別れてしまうには惜しい。だって今まで姿も見たことがなかった隣人だ、この機会を逃せばまた会える保証はない。だから。
「俺の話し相手にならない?」
煙草をやめるから、口寂しいから。適当に理由をつけて、その理由の一端を担ったと思わせて。そんな強引な誘い方だったけれど、それでも彼女はいいですよと肯定を示してくれた。喜びのあまり思わず飛び上がりそうになった俺に、くすりと笑うその笑顔が陽の光よりも眩しい。
そういえばお互いにまだ名前を知らない。人に聞く前にまずは自分からと名前を告げると、するりと告げられた彼女の名前は耳触りの良い響きで、思わず下の名を、ナオちゃんと口に出してからしまったと思う。ただの知り合い程度のやつが馴れ馴れしすぎる。彼女からは拒絶の音も不快そうな音もしないけれど、同時に照れや恥じらいも聞こえない。これは、まだだ。
改めて苗字で呼び直す。いまはまだ知り合いとして、隣人として。
「これからよろしくねぇ、春野ちゃん」
「よろしくお願いしますね、我妻さん」
きみから聞こえる音が、俺と同じ恋の音に変わるまで。
ガチャ、と音が響いたのは隣の部屋の玄関ドアだろう。今まで顔も合わせたことの無い隣人がこの時間に帰ってくるのは珍しい。どうやら女性らしい隣人の音をしっかり聞いてしまうのは悪い気がして、いつもならあまり気にしないようにするその生活音を、今日は何故か興味を引かれて耳をすませた。
とんとんと床を踏む軽い足音。きっと小柄なのだろう隣人は、そのままドサドサと乱暴に荷物を下ろして部屋の奥へと移動する。ぼす、という音、これは多分ベッドか布団に倒れ込んだ音かなぁ。疲れてるんだろうか。それで早く帰ってきたのかな。
顔も知らない隣人の行動や状況を想像しながら耳を傾ける俺は、冷静に考えたら変態じゃない……?我に返って音を拾うのをやめようとした時、微かに聞こえたのは。
「泣いて、る……?」
小さなくぐもった音は、布団か枕に顔を押し付けているのか。けれどこの音は多分、泣いてしゃくりあげる音だ。俺自身が人よりよく泣く方だから、よく聞くこの音に間違いはない。けれどどちらかと言うと泣き喚く俺と違って、この音はあまりにも悲痛な響きを纏っていた。
「……何か、あったのかなぁ」
常に無い時間の帰宅。押し殺した泣き声。何かあったと察するには十分すぎる。他人ではあるけれど、泣いてる女の子を放っておくことができる性格じゃないから、何かしたい。けれど隣人とはいえ知らない奴に声かけられたりしても怖いだろうし、さてどうしたもんか。
結局、なんの慰めにもならないことはわかっているけれど、隣人がいるであろう隣の部屋に面した壁に背を預けて座り込んだ。ほら、落ち込んでる時とか悲しい時、寄り添うだけで心を支えられたりするじゃん?これは俺の自己満足だから、相手に伝わってなくたって、いい。
密やかな泣き声が寝息に変わってからもしばらく、俺はその場から動かなかった。時々思い出したように眠ったまま泣く声に心が痛む。
「寝てる時くらい、辛いことなんか忘れたらいいのにねぇ……」
壁の向こうには聞こえないであろう呟きを零す。いつの間にか、部屋の中には夜の闇を追い出す夜明けの明るさが入り込んできていた。
寝そびれたなぁ。俺以外誰もいない部屋では遠慮も何も無く、大口を開けて欠伸をした。大きく息を吸って、吐く。自分のその動作に触発されて、体が慣れた煙たさを求め始める。一度こうなるともう吸いたくてたまらない。俺はテーブルに放り出していた煙草とライターを手に取り立ち上がる。硬い床に座っていたせいか、どこかの関節がぱきっと音を立てた。
カラリと軽い音を立てて窓を開け、うっすら明るくなり始めたベランダへと出た。朝の空気はどうしてこうも澄んでいるんだろう。この綺麗な空気に煙を混ぜるのは少し気が引けるけれど、吸いたい気持ちには抗えない。一本取り出し咥え、ライターで火をつける。俺が吸い込むのに合わせて先端が赤々と燃え、肺が煙で満たされていく。ゆっくりと長く息を吐くと、口から吐き出された紫煙が夜明けの空気に溶けた。
「はー……」
染みる、生き返る、うまい。うーん、まるでおっさんみたいだなぁ。そんなことを思いながらぼんやりと空を眺めていると、カラリと俺がベランダに出た時と同じ音が隣の部屋から聞こえた。
「あ、」
「…………え?」
俺が思わず声を出すと、驚いたような、困惑したような音と共に声がした。泣き疲れて眠っていたであろう隣人が、外に出てくるとは思わなかった。ベランダで吸うのはマズかったかな、煙草が嫌いな人からしたら不快かもしれない。少し心配になり「非常時はここを破って隣家へ避難できます」と書かれた薄い壁からひょいと覗くと、俺と歳の変わらなそうな女の子がいた。
「あーすみません、隣の者ですけど。煙草。吸ってました」
先手を打って謝罪と自白をすると、彼女は昨晩泣いていたからであろう赤い目をぱちりと瞬かせた。
初めてその姿を見る隣人は、足音で聞いていたとおり小柄で、華奢で。泣き腫らした目が赤くて、痛々しくて、なんだろう……守ってあげたいというか、なんというか。少しどきりと鳴った心音は彼女には聞こえていないだろうけれど、誤魔化すように言葉を続けた。
「ハジメマシテ、お隣さん」
「……はじめまして」
少し掠れた声で返事が返ってきて、短いながらも会話ができたことが嬉しくて思わず笑った。けれど、急に胸を締め付ける辛そうな音がして、そっと逸らされた目から涙が溢れるのが見えてギョッとする。
「……え、ちょっ…大丈夫!?」
薄い隔壁から身を乗り出すようにして慌てて声をかけると、隣人はびくりと肩を揺らす。きょとんとして俺を見るその目からは、変わらずボロボロと大粒の涙か零れていた。痛ましい姿に駆け寄って抱きしめたい衝動に駆られる。今こそ非常時じゃない?壁を破るべき?いや落ち着け、それはどう考えても怖がらせるだけだろ。とりあえずどうにか泣き止んでもらいたい。
「な、なんで泣いて……」
そこまで言ってから、俺の手から未だに立ち上る煙に気づく。
「あ、煙草!?そんなに嫌いだった!?ごめんなさいねぇ!!」
持っていた携帯灰皿に煙草を押し付け火を消すと、蓋をしめて手の中に隠す。少しでもにおいが閉じ込められるように。
彼女は俺の言葉で、自分が泣いていることに気がついたらしい。俺のせいじゃないと言いながら目を擦るのを見て、単純だけど禁煙を決意してしまった。泣かせたくない、笑って欲しい。初めて会った女の子に向けるにしては重すぎる感情は、これはきっと。
他愛もない話を努めて明るい口調で話していくと、最初は思わずといったふうに笑いを零した彼女の顔が少し明るくなって、辛そうな音もなりを潜める。涙も止まったみたいだ。そうしているうちに日が登ったのか急に辺りが明るくなって、彼女の濡れた頬やまつ毛がきらきらと輝いている。それはとても綺麗だと思った。
――ああ、やっぱり。俺はこの子を好きになったみたいだ。
このままそれじゃあと別れてしまうには惜しい。だって今まで姿も見たことがなかった隣人だ、この機会を逃せばまた会える保証はない。だから。
「俺の話し相手にならない?」
煙草をやめるから、口寂しいから。適当に理由をつけて、その理由の一端を担ったと思わせて。そんな強引な誘い方だったけれど、それでも彼女はいいですよと肯定を示してくれた。喜びのあまり思わず飛び上がりそうになった俺に、くすりと笑うその笑顔が陽の光よりも眩しい。
そういえばお互いにまだ名前を知らない。人に聞く前にまずは自分からと名前を告げると、するりと告げられた彼女の名前は耳触りの良い響きで、思わず下の名を、ナオちゃんと口に出してからしまったと思う。ただの知り合い程度のやつが馴れ馴れしすぎる。彼女からは拒絶の音も不快そうな音もしないけれど、同時に照れや恥じらいも聞こえない。これは、まだだ。
改めて苗字で呼び直す。いまはまだ知り合いとして、隣人として。
「これからよろしくねぇ、春野ちゃん」
「よろしくお願いしますね、我妻さん」
きみから聞こえる音が、俺と同じ恋の音に変わるまで。