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プロローグ

「父さん」
穏やかな声で微睡みから引き上げられる。
ぱちりと目を開けると、目の前には青空。幾度か瞬きを繰り返していると、笑い声が降ってきた。
「珍しい、寝惚けてんのか?」
黒いカソックの胸元で見慣れた十字架が揺れている。そうして、漸く目の前にいるのが自分の子供だと認識した。
青空を思わせる髪が僅かに瞳を隠す。そうすると、彼の翠の双眸に空が生まれ、小さな森を閉じ込めているかのように見える。
幾度も見たはずのその色彩は、しかし今回もまた僕を陶然とさせた。
すごく、きれい。
思わず手を伸ばせば、当たり前のように近づいてくるその愛しい色彩を抱き込んで、頭を撫でる。そうして、漸く夢の余韻を払拭することができた。
「おはよう、父さん」
「おはよう、アダム」
そう返せば、アダムは嬉しそうに笑った。
僕より大きな子供は、一般的な成人男性より体格にも身長にも恵まれている。そんな子が、微かに頬を緩ませる。それを可愛いと思ってしまうのは親の欲目だろうか。真偽がどうあれ、彼が世界で一番可愛い僕の息子であるのは間違いない。成人しても親を鬱陶しがらず、こんな風に起こしてくれるのだから。
そこまで考えて、はたと気づく。
この子に起こされた事は決して多くない。何故なら、この子は非常に寝付きも寝起きも悪く、何度起こしても二度寝してしまう。起こしてからも、目を離せば壁に激突して寝ていたり、歯ブラシを咥えたまま船を漕いでいる。それくらい睡眠に対して貪欲だ。だから毎朝、彼を叩き起こし、腕を引っ張って身支度を終わらせている。
目の前にいる子供に再度目を遣る。
ロザリオはしっかりと胸元で揺れ、カソックの前もきちんと閉じられている。髪はいつも通り跳ねているが、櫛を通した形跡がある。寝起きはいつも以上に半目になっている双眸も、眉間の皺もない。しっかりと覚醒している子供の姿がそこにあった。
まさか。
「お寝坊さん」
ニヤニヤと笑いながら、僕の鼻を摘まむ。いつも、中々起きない彼を嗜めるように口にする言葉と仕草。
血の気が引いた。
慌てて布団をはね飛ばし、部屋を飛び出る。後ろから噛み殺したような笑い声と「そんなに急がなくても平気だ」という言葉が聞こえてきた。朝の時間に関してイマイチ信用できない息子の言葉に、時計を仰ぎ見る。起きる時間を三十分程過ぎている。平気ではない。
顔を洗うよりも先にダイニングの椅子にかけてあるエプロンを身に付け、直ぐ様お湯を沸かす。
熱したフライパンに玉子を割り入れたところで、ゆったりとした足取りで息子が現れた。慌てて朝食を用意する僕を見て、なにやら呆れたような表情を浮かべる。指をさされ、後ろへ目をやれば、急いでいたせいでエプロンの紐が解けていた。しかし、直している暇はない。目線だけで息子にその旨を伝えれば、ひらりと翻る紐が、ふいに結ばれた。
「おはよー、マスター」
「………おはようございます、ルシファーさん」
無意味なほど甘えた声と共に、後で結ばれた紐を辿るように指が這う。そのまま抱き締められる前に、僅かに浮かせた足で離れるように軽く後ろの人物をつつく。しかし、その意図を正しく理解しながら、その人は腕を回してきた。
溜息を一つ。
彼は、普段ならこんなことはしない。これは寝坊して慌てている僕の邪魔をして楽しんでいるのだ。そうと分かれば、遠慮などする理由はない。鳩尾辺りを狙い、後ろへ向けて肘を思い切り降り下ろす。鈍い音と共に「ひどぉい」と、対して痛がっていないような声が聞こえてきた。それでも尚、邪魔をしようと引っ付いてくる執念だけは凄まじい。
さて、どうしようかと考えていると、何もしていないのに絡んでいた腕が離れた。
「うわぁ、居たの…」
一瞬覗いた声色に、珍しく本音をそのまま口にしたのだと悟る。
視線だけで後ろを見遣る。
いつも半分だけ後ろに撫で付けられている漆黒の髪は、寝起きのせいでまだ整えられていない。いつもなら露になっている片目に髪がかかり、普段以上に感情が読みにくいが、揺らぐ血のような赤色に僅かの動揺が見え隠れしている。
「おはよう、アダムくん。珍しいね。いっつもマスターに引き摺られて起きてくるのに。明日は槍でも降るんじゃない?」
「おはよう、悪魔サン。槍なら今降らしてもいいが?」
カソックの黒から滲み出るように、闇が蠢く。それを見て、ああ、愛息子は本日ご機嫌ナナメのようだと察する。
よく考えれば、教会に悪魔が我が物顔で居着いていいはずがない。しかし、彼が主人だと呼ぶ自分がいる限り、悪魔は当たり前のように此処に居座るだろう。仕方がない。今さら目くじらを立てたところで、彼の口八丁に乗せられ此方が疲弊するだけだ。
「アダム、おいで」
いよいよ滲み出る闇が揺らいだのを見て、息子を呼ぶ。すると、闇は直ぐ様消え去り、此方へ歩み寄ってきた。
何の用と問いたげな彼に、これを食卓まで持っていってと皿を差し出す。作ったのは簡単なスクランブルエッグなのに、それを見た息子は本当に優しい顔をする。
いい子に育ったと思う。出会った頃は、そんな顔で笑うようになるとは思ってもいなかった。
皿を受け取ったアダムは、それを器用に三つ持って食卓へ向かう。その横でルシファーさんが珈琲の準備をしてくれているのが見えて、なんだかんだ二人とも今の生活が嫌ではないのだと再確認する。だから、きっと今はこのままでいい。ずっとこうしてはいられないのだから。今だけは、幸せな朝の夢に浸っていたい。
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