ディスタント

distant

1.遠い。遠く離れた。距離がある。
2.時間が隔たった。昔の。
3.敬遠した。他人行儀なら、付き合いの悪い。よそよそしい。冷ややかな。
4.遠くを見るような。ぼんやりした。かすかな。
5.現実的でない。可能性が低い。

 いつものようにお土産を渡しに天道家へ立ち寄った。立ち寄るとは行っても実際のところはそう容易に辿り着ける目的地ではない。手土産を口実に、「会いたい人」がいるから死に物狂いで辿り着いた。そんな必死な男の浅ましい思惑など見抜かれているのかいないのか、「お茶でもいかが」とかすみさんは家へ上げてくれた。玄関を上がると「久しぶりね」と出迎えてくれたのは想い人のあかねさんで、幸運なことに邪魔な恋敵の姿は見えなかった。 

 挨拶もそこそこに、玄関から縁側へと促された。気候も良く、気持ちの良い風が通り抜けている。久々にあかねさんと会えた興奮冷めやらぬ熱を、徐々に落ち着かせてくれるようでもあった。
 あかねさんとは、隣同士並んで腰をかけている。その距離にして、わずか30センチメートルもあるだろうかというくらいの近さである。茶菓子を乗せた盆一つしか二人の間を隔てるものはない。少しばかりの緊張感を一方的に持ち合わせつつ、他愛もない会話でひと時を過ごす。しかし、元来口下手な気質であるため会話が途切れた瞬間に咄嗟の機転を利かせて話題を提供するという器用な技量は持ち合わせていない。土産話のネタも尽き、さてどうしたものかと思案しているところ、今までにこにこと笑顔を向けながら相槌を打ってくれていたあかねさんがふと真面目な顔になり、淡々と語り出してきた。

「良牙くんとあたしって距離があるのよ」
 
 「え?」と思わず発したかった言葉すら遮るように、あかねさんは続けた。

「まず、物理的な距離。良牙くんって、一月の内、いや下手すりゃ丸々一カ月は修行の旅へ出ていることもあるでしょう。そもそも会える時間が限られているわ」

それは確かにそうだ。俺は16歳。本来ならばあかねさんや乱馬と同じく学生の身分でいられる年齢である。しかし、自分自身を心身共に鍛えて強さにさらなる磨きをかけ、いつか憎きライバルとの決着をつけるためにも日夜修行を続けるという生活を送っている。言わば放浪の身である。ただこの放浪というのも大部分は本意ではなく、本心では一刻も愛しい人の元へ帰りたいとは思っているのに、生まれ持ってしまった方向音痴という特異体質がそれを許してはくれないのである。愛しくてやまない女性に、いくら会いに行くといった旨を手紙へと記しても、それが日付通りに叶えられることは稀で、予定より1日遅れただけでも奇跡といっても良い。

「それから、あたしたちってすごく他人行儀だわ。もう初めて出会ってから随分経つのに、未だに「あかねさん」なんて。」

 続けて切り出されたことは予想外のことだった。呼び方一つに彼女がそれ程こだわりを持っていたなんて。
 ライバルとの再会を果たし、挑んだ再戦で身も心もズタボロにされ、惨めな思いをした日のことである。子豚の姿をしてはいたけれど、あかねさんは確かに鼻先にキスをくれた。その瞬間の彼女は俺にとっての女神と称しても過言ではないくらい眩いばかりの神々しさで、俺の心は一瞬で奪われてしまった。まだお互い、知り合いとも言えない仲だった。だからこそだろうか、彼女は俺にとってはあまりにも崇高な存在すぎて、真正面から「同い年の男子」として向き合うことが出来ないで今に至っている。

「でも、一番の隔たりはやっぱり心の距離ね。あたしたちって良い友達だとは思うけど、心を許してるかというとそうでもないもの」

「 ……」

 そこでいったんあかねさんは話を止めた。今までの話をまとめると、要するに俺は遠回しにフラれているのではないか?と思ったけど、それを断定してしまいかねない可能性を少しでも潰したくて、俺は話を聞いているのか聞いていないのかどちらにもとれるようなあいまいな素振りでいた。
一方のあかねさんもあかねさんで、今までの話は俺に向かって語っているようでいながら、遠くを見つめて独り言を言ってるかのようなどちらともつかない口ぶりだったので、俺は「下手に反応しない方が吉」という結論を出した。

 しばし、沈黙は続く。

いつの間にか菓子のなくなった盆はかすみさんに下げられていた。隔てる物が無くなった今、あかねさんとの距離は、わずか数センチメートル。少し動くだけでも指先が彼女に触れてしまう程の距離。……距離。……距離感。

ーーそれって一体何なんだろう?

 今ここにいる俺とあかねさんはこんなにも近くにいるのに。何故それ以上の意味や認識、理解を追求する必要があるんだろう。

ーーあ、やっぱりこれは遠回しにフラれてるんだろうな。

 いや、もしかしたらこれは結構直接的に言われているのかもしれない。明確にするのを避けていた結論は、とうとう逃げ場を失ってしまった。結論にたどり着くと同時に、抑えていた想いが一気に溢れ出して来て止まらなくなった。
 本当はずっと気づいていた。彼女と自分の間にある距離の遠さを。彼女には許嫁がいる。言わばそんな、単純な壁だけではない。俺があかねさんにどれだけ近づいても、決して辿り着くことのない果てしない道程。でも、それに気づいているからといって、そこで納得出来るものではない。

 だって、俺はーー

「あかねさんのこと好きだ、もっと知りたいし、近づきたい」

 フラれてからする告白に果たして意味などあるのかは不明だが、とうとう抑えきれなくなった本音を、情けなくも涙ながらに訴えた。

 会えない時間の惜しさは、誰よりも自分が感じている。それが彼女との距離を詰めることへの阻害をしているなら、もう俺は一生彼女の側から肩時だって離れない。
 他人行儀を気にすると言うのなら、いくらでもぶち壊してみせる。だって俺たち、本来普通に出会っていたなら、ただの、同い年の少年少女じゃないか。君と同じ制服を着た学生達みたいに、「あかね」って呼ばせてくれよ。

 お願いだから、何でもするから、どうか君の心の鍵を開けて。そんなことを望むことすら烏滸がましいのかもしれない。だけど、俺にその権利を与えてほしい。許してほしい。君の心をもらえるなら、俺は今までの人生や、それまで培った価値観さえ投げ打ったって構わないんだ。

「それで良いのよ」

 俺の告白を後に、あかねさんはふと寂しげな表情で応えた。それから、まるで何かをごまかすかのように、にっこりとしたいつもの愛想の良いとびきりの笑顔を向けてくれた。
 「それで良い」とは、何がそれで何が良しとされてるんだろう。彼女の真意は見えそうで見えない。いや、もう俺は何事にも目を背けたくなってしまっているのかもしれない。

 ただ一つだけはっきりとしてしまっているのは、俺がこの笑顔に絆されてしまっている内は永久に彼女との距離は縮まらないだろうということ。この事実は俺にとってはあまりにも惨すぎて悲しくて涙が止まらない。それでも、滲む視界の先にぼんやりと見える彼女はやっぱり天使か女神じゃないかと思うぐらいに輝いて見えていた。