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今日も明日も明後日も

「おはよう、Pちゃん」

目を覚ますと、柔らかなタオルケットに包まれていた。持ち手の付いたバスケットには柔らかなタオルケットが詰め込まれている。これは、あかねさんが俺のためにこしらえてくれた、俺専用のベッドだ。目を覚ますと同時に待っているのは、愛しい少女の優しい微笑み。この時ほど幸福という感情を全身で味わえることはないだろう。

いつのまにか、あかねさんの部屋は俺のホームになっていた。「Pちゃん」として天道家にたどり着けば、必ずここが俺の定住するスペースとなる。最初こそあかねさんの胸に抱かれながら眠りについていたものの、いつしか俺専用の寝床が作られていた。これはあの憎らしい恋敵の入知恵か?しかし実のところ、この手作りベッドも嫌いではなかったりする。それは、正式にこの部屋に住む一員としてのポジションを確立した証のように思えたからだ。

気づくと、最近では本来の姿である人間の身体でいる時間よりも、子豚の姿でいる時間の方が長くなってしまっている。目が覚めて眠りにつくまでの間を、忌まわしいとさえ思っていた豚の姿で過ごした日も少なくはない。
ふと、「このままでいいのではないか?」と考え始めたのはいつからだっただろうか。それは、今まで持っていた信念や目標、或いは自己の存在さえも否定さえしてしまいかねない愚かな考えだ。だけど、一度頭に浮かんでしまったが最後、その思考は俺の中から消えることはなかった。

ーー「響良牙」としてではなく、「Pちゃん」として生きていくという選択ーー

俺は、居場所を確立した。「あかねさんの部屋」は、もはや「俺の部屋」と呼んでもいいくらいに俺の身体全体に馴染んでいた。まるで、ここで産まれて育ったのではないかと錯覚さえする程に。一日の始まりをこの部屋で迎え、彼女が不在の間は留守を守り、そして一日の終わりもこの部屋で迎える。
放浪生活を続けている身としては、安住の地があること自体有り難いことだ。ただ、俺の言う「居場所」というのは、物質的な意味ではない。精神的な意味での充足感を満たすことも意味している。「ペットのPちゃん」としてあかねさんと過ごす日常の一時の心地良さは、「響良牙」として過ごす日々とは比較しようもないくらい、甘美な時間だった。

「良牙」としてのあかねさんとの関係は、いつまで経っても友人の域を出ないままだ。伝わらない想いのもどかしさに幾度となく枕を涙で濡らした夜もある。
あかねさんの許嫁である乱馬、俺の最大の好敵手にして恋敵。その男は俺が決して飛び越えることができない壁を、易々と飛び越えていく。あかねさんも乱馬も、素直になれずとも、心の底ではお互いのことを想い合っているというのは見ていればバレバレだ。気付きたくないし、気づかないふりをしていることもあった。「俺とあかねさん」の間にある距離感と、「乱馬とあかねさん」の間にある距離の差は、一目瞭然で、その事実を目の当たりにするような2人のやり取りを見ては惨めな思いもした。
それが、「ペットのPちゃん」に姿を変えることで、一転して「愛されている」という満足感、優越感にひたることが出来る。「あかねとPちゃん」の間には、乱馬にすら到底入ることが出来ない二人だけの特別な絆がある。あかねさんが悩み、その胸の内を明かしながら涙を頬に伝せれば、その涙を拭うのは俺の役割となる。……もっとも、その涙の原因が乱馬だった時などはこちらの胸が苦しくなるが、ペットとしてその涙を癒すことが出来るならば本望だった。

……まさか、不幸の原因とさえも思っていたこの呪いの姿で自己肯定感を得られることになるとは思ってもいなかった。詰まるところ、俺は「ペット」として存在することで、「男」としての勝負から、勝ち目の見えない乱馬との勝負から目を背けたかったのかもしれない。



ある日、いつものようにあかねさんの部屋でまどろんでいたところ、いきなり身体をつまみ上げられた。そのまま抵抗もむなしく連れていかれたのは、天道家の屋根の上だった。

「お前さ、このままでいいのかよ」

無抵抗のまま屋根の上に叩きつけられたと思ったら、次に襲ってきたのは熱湯だった。熱さと痛みに涙を耐えながら、憎しみを込めて睨みあげた先にいたのは乱馬だった。
非道な仕打ちを受けた上にさらに不躾な質問を投げかけられ、思わず反射的に殴りかかってしまった。それは久々に人間の姿と、人間らしい感情を取り戻した瞬間だったと言えるかもしれない。そう言えば、乱馬と人間の姿でまともな勝負したのはいつが最後だったか…。ペットとして飼いならされた日々を過ごす内にもはや自分の内にある闘争本能など忘れかけていた。

お互い言葉を発すことはなくただただ撃ち合いは続いた。乱馬の目は、どこか哀しげなようにも見えたのは気のせいだろうか。「このままでいいのかよ」と言った乱馬の真意は、言葉で語られずとも十分に伝わっていた。
仮にも自分の許嫁の女の部屋に入り浸る男の存在など、ペットの姿を借りているとしたって許せるものではないだろう。だが、この男はひねくれたように見えて、根の深いところでは友情に厚い男だということも知っていた。俺とあかねさんが「ペットとその飼い主」という関係を重ねていくほど、あかねさんが俺をペットとして愛していくほど、乱馬はその裏に隠された事実を話すことは出来ない。それは友人として俺を哀れむ気持ちもあるだろう。そして、何よりあかねさんがその事実を知るということは、あかねさんにとって最大の悲しみを味あわせることになるのだ。
だから、乱馬は絶対に俺の正体を言うことはない。俺は、そのギリギリの線に賭けていた。



乱闘の末、いつのまにか二人共屋根から転げ落ちていた。その騒ぎと衝撃に気づいたあかねさんが、慌てた様子で駆けつけてくる。俺も慌てて庭の池まで走っていき、水の中へ飛び込んだ。

「ちょっと!また喧嘩なの!?って……あら?……今、良牙くんいなかった?」

「……」

乱馬はついに何も言わなかった。どこまでも情に熱い男だなと感心すると同時に、ひねくれたようで芯の通ったその気質に羨ましさも感じた。
まるで、良牙など始めからいなかったかのように振る舞うと、あかねさんはびっくりしたような顔で、しかしその一瞬後にはまるで慈愛に満ちた女神かのような笑みを見せて抱きあげてくれた。……もはや「良牙」のことなど意識から抜けているのだろう。一瞬虚しさを感じなくもないが、今の俺は「良牙」ではないので関係ないことだ。
憮然とした顔でじっとこちらを見ている乱馬に、あかねさんが叱責している声が頭上から聞こえたが、俺には関係ないことなので、澄ました顔で抱かれていた。
水浸しの身体だったため、そのまま風呂に連れていかれそうになった。そのため女神からは逃げなくてはならなくなってしまった。去り際に一瞬振り返った時に見てしまった、俺を見る乱馬の視線は、蔑むでもない憎むでもない今までにないものだった。

だが、それももはや俺には関係ないことだ……。

敷地内を迷いながら、やっとのことでホームまで辿りつき、あかねさんの風呂上がりを迎える。耳をぴこぴこゆらしながら、満面の笑みで飛びついていくその姿は、我ながらペットとして満点の出来だと思う。
そんな俺を、慈愛に満ちた笑顔を浮かべながら、その慎ましくも柔らかな胸で優しく受け止めてくれるあかねさん。良牙としては決して得られることが出来なかったはずの世界。手に入ることなどなかったはずの世界。安らぎの時、甘美な時、こんな幸せ、みすみす手放すことが何故出来るだろうか……。




「おはよう、Pちゃん」

今日も目が覚めたと同時に、優しいあかねさんの笑みが待っていた。そして、眠りに着く時にはまたこの優しい笑顔が見られるんだろう。


これからは、ずっとーー


今日も、明日も、明後日も……この先もずっとーーーー
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