アザレアに祈む
何かに包まれているかのようなあたたかさの中、白哉は、ゆっくりと意識が浮上するのを感じた。なぜか拘束されたように身体が動かないことに違和感を覚えながらも、重い瞼をのろのろと持ち上げる。
視界いっぱいに映ったのは、黒々とした奇妙な紋様。しかしどこかで見覚えがあるような気がすると記憶を探ること数秒後、白哉は、それが己の副官の身体に彫られた刺青の模様であることに思い至った。
そして、一拍遅れていまの状況を把握する。
―――なんだ…これは……
並ぶように同じ敷布の上で横になった恋次の腕が自分を抱きしめるようにして背に回り、そのせいで息がかかるほど近くに刺青の彫られた胸板が見えるのだということに気がついた白哉は、このような状況に置かれている意味がわからず盛大に眉をひそめた。
そこへ、白哉の身じろぎを感じ取ったのか、頭上から聞き慣れた声が降ってくる。
「―――隊長! 気がつきました?」
ゆっくりと顔を上げれば、すぐそばに恋次の顔があった。髪を下ろしているからか、何やら見慣れぬ姿のようにも思える。
恋次は、何かを案じるような顔でこちらを覗き込んできた。
「身体は大丈夫っスか? 一応、呼吸も体温もだいたい元に戻ったみてえですけど……まだ何かおかしなとこあります?」
「…体温……?」
「ああ、はい。昨日すげえ勢いで体温下がってたから、こうやって……」
「………」
つまり、この体勢は、自分の体温低下を防ぐために、恋次が己の体温を分け与え続けていたがためのものだったのか。
恋次の言葉を聞きながら、白哉の頭の中に混濁していた昨晩の記憶が戻ってくる。……そうだった。自分は、毒で意識を飛ばす前に、ここへ―――恋次のもとへと駆けたのだった。
「…って、あ、すいません。なんかもう俺は一晩中くっついてたんで慣れちまったんスけど、そりゃあ、やっぱり気分悪いっスよね。待ってください、大丈夫そうだし、いま退きますね」
白哉の沈黙をどう取ったのか、安堵したような顔を途端に慌てたようなものに変えて、恋次はすぐさま白哉から距離を取る。恋次の身体がぱっと離れるとともに、自身を包んでいたぬくもりがふっと消えて、白哉は名残惜しさにわずかに手を伸ばしかけた。そんな己の思考に驚愕し、思わず固まる白哉を他所に、布団から這い出た恋次は白哉の枕元に胡座を掻くと、困ったように頭を掻きながら早口に喋り始める。
「その…、ガキの頃、流魂街ではよくやってたんスよ。これが一番効率よく身体あっためる方法だったんで…。なんで、えーと…、目覚めの悪さは勘弁してもらえると……」
「………」
目覚めの悪さ、とは、男に抱かれた状態で目覚めたことについて言っているのだろうか。確かに、普通に考えれば、男などに抱きつかれて気分が良いわけがない。
しかし、意外にも白哉の心の中に不快の文字はなかった。それどころか、離れずともよかったのに、などと血迷ったことを思ってしまう。毒を受けて、心が弱りでもしたのだろうか。
あるまじきことだ、と白哉は思わず眉根を寄せる。
死なぬと、わかっていたはず。
ただ、倒れても人目につかぬ場所が欲しかっただけ。
それなのに、よもや部下に縋りたくなったとでも言うのか。
この、私が。
「……あの、隊長?」
白哉がずっと黙り込んでいることを訝しんだのか、恋次がそろそろとこちらを覗き込んでくる。とんだ迷惑をかけた上に、これ以上心配をかけるわけにもいくまいと、白哉は引き攣った痛みを訴える喉から声を押し出した。
「………不快ではない。世話を、かけた」
むしろ、一晩中白哉を抱き抱えていなければならなかった恋次の方こそ、不快を覚えただろう。そもそも彼のもとを訪れたのは白哉の勝手で、 巻き込まれた恋次は完全なるとばっちりだ。さすがに文句のひとつも言っていいはずなのに、相手が上官だからか未だにそれは飛んで来ない。
ちらりと見上げると、恋次の顔はなぜか驚きに染まっていた。そして、それを訝しむ白哉の前で、恋次は次いでやわらかな笑みを浮かべる。
「いいっスよ、そんな。気にしないでください。ちょっと心臓に悪い登場だったのは否定できませんけど、頼ってもらえたのは嬉しかったっスよ」
「…!」
予想外の言葉に、白哉は思わず目を瞠る。
文句を言うならまだしも、何を言っているのだ、この男は。
恋次のそばに置かれたものを見やれば、そこには、水に、湯桶に、手ぬぐいに、替えの衣まである。白哉に付き添い、ほとんど眠ることなどできなかったであろうことは想像に難くない。何より、こちらを見やる目の下に浮かんでいるのは、そのせいで出来た隈だろうに。
「え、何スか?」
驚きがあまりにも顔に出てしまっていたのか、恋次が不思議そうに尋ねてくる。
迷惑をかけられた自覚もないのか、この男は。
「……面妖な、ことを……」
言うものだ、と続くはずだった言葉は、しかし抑えていた咳が漏れたことによってふつりと途切れてしまう。そのまま連鎖のように続きそうになったが、白哉は咄嗟に手のひらで口を押さえ、それを無理矢理に押し殺した。
「隊長。水飲めます?」
咳を見咎めた恋次が、すぐに水の入った湯のみを差し出してくる。白哉はうなずき、上体を起こそうとしたが、しかしまだ腕に力が入らないのか上手く身体を起こせない。苛立たしげに眉根を寄せていると、不意に、ぬっと恋次の腕が白哉の身体に伸びた。
「ちょっと失礼します」
そう、断りを入れてから、恋次の片腕が白哉の上体をゆっくりと起こす。瞬間、白哉は激しい眩暈に襲われたが、恋次は慌てることなく白哉を自身の胸に押し付けるようにして寄りかからせ、腕を回してしっかりと支えると、もう片方の手で持っていた湯のみを白哉の口に当てがった。唇に冷たい温度が触れる。
「飲めます?」
応えの代わりに咽下を繰り返すと、恋次はほっと息を吐いた。
「よかった。意識ねえと自力で飲んでもらえねえんで、困ったんスよ。飲ませるよりこっちの方が早いから、助かります」
「……飲ませる…?」
水を飲まされた覚えなどない白哉は、恋次の言葉に首を傾げる。すると、恋次はハッと我に返り、如何にもしまったと言わんばかりの顔になった。これでは失言をしたと自分で暴露しているようなものである。白哉がますます不思議に思ってじっと恋次を凝視すると、恋次はそうそうに誤魔化すことは諦めたのか大きくため息をついた。
「えーと……だから、ですね…、意識飛んじまってて飲んでもらえなかったんで、こう……口移しで……」
「……………」
「……いやもうほんとすいません! それしか方法がなかったと言えばそうなんですけどそれとこれとは別でほんとすいませんでした!!」
わずかに目を見開いた白哉の仕草をどう取ったのか、白哉のことは片腕でしっかりと支えながらも平身低頭よろしくばっと頭を下げた恋次の行動に、白哉はさらに驚いて固まってしまった。
恋次が行ったのは、歴とした救護措置だ。その行動に感謝こそすれ、怒るなど有り得ないことである。恋次が白哉に謝罪をする理由などひとつもない。むしろ、謝罪しなければならないのは白哉の方だ。知らずともよい面倒事に、こちらの勝手な都合で引き込んだのだから。
白哉が目を見開いたのは、怒りなどではなく、ただ恋次がそのような行動を取ったことに純粋に驚いたからである。
おそらく、恋次が口移しで水を飲ませていたことで、現在白哉の身体は脱水の症状を免れているのだろう。しかし、もし水を与えず脱水症状になったとしても、それで命が危ぶまれるほど白哉は脆くはない。
ゆえに、極端な言い方をしてしまえば、恋次の行動は必ずしも必要なものではなかったはずなのだ。
にも関わらず、恋次は口移しという手段を用いてまで、白哉に水を与えた。それは、白哉が目覚めたときに少しでも症状が和らいでいるようにという、純粋な厚意だ。
その厚意だけで、ただの上官でしかないはずの自分に口移しなどが出来たことに、白哉は驚いたのだった。
「……恋次」
名を呼べば、おそるおそるといった様子で恋次が顔を上げる。そんな様子を眺めながら、なぜ怒られると思っているのだろう、とその思考を心底不思議に思いつつ、白哉は努めて穏やかな声で告げた。
「礼を、言う。兄の方こそ、不快だったろう。済まぬ…」
こうしていま辛うじて声が出せているのも、恋次のおかげかもしれない。掠れてはいるものの言葉の形は成している白哉の声を受けた恋次といえば、なぜか驚きに大きく目を見開いていた。それと同時に顔いっぱいに困惑を浮かべ、しばらく首を傾げてから、何を思ったのかぽつりとつぶやく。
「いや…別に全然不快じゃないですけど……」
「………は?」
予想外の返しが飛んで来て、白哉もまた、思わず困惑を顔に浮かべた。常日頃から表情に感情を出さぬよう制御することを当然としてきたはずなのに、何故かそれがいまは上手く機能していない。
「や、だから…、別に嫌とかそういうことは全然なかったんで、隊長が言ってることはめちゃくちゃ的外れだなあ…と」
「……救護とはいえ、気分は良くなかっただろう」
「いえ、別に?」
あっさりとそう言って、恋次は徐に白哉に顔を近づける。そして、訝しげな顔をした白哉の唇に、驚くほど自然な動作で自分のそれを軽く重ね合わせた。驚愕に固まる白哉からこれまたあっさりと顔を離し、恋次は何事もなかったかのような笑顔でさらりと告げる。
「ほら、別に水飲ませるためじゃなくたって、全然平気……って、あ、」
そこまで言ってから、恋次はようやく我に返ったようで、次の瞬間、白哉の耳元で喧しい大声が響き渡った。
「ごめんなさいすみません一晩中水飲ませてたせいで完全に感覚が麻痺してました!! 今度こそ本当にすみません!!」
片腕で白哉を支えていなかったら土下座でもしそうな勢いで謝罪を繰り返す恋次だったが、しかし白哉はそれに応える余裕もなく困惑を極めていた。
己の身体を唇にそっと手をやり、そこに確かに恋次が触れたことを確認しても、心の中には不快も不愉快も不本意の文字も見当たらない。多大な迷惑をかけたばかりのいまの状況ゆえかとも思ったが、しかし、如何にルキアの件で恩があるとはいえ黒崎一護に同じようなことをされても構わないかと自問してみれば、全力で御免こうむりたいとの自答が出てくる。
―――な、なぜ……
この男、だけ。
何故か本能的にその理由を考えてはいけないような気がして、白哉は咄嗟に恋次から視線を逸らし、あたりを彷徨わせる。
そうして、偶然視界に映ったのは、すでに昼過ぎを示している部屋の掛け時計だった。
白哉は大きく目を見開く。
―――昼…っ…?!
すっかり朝だと思い込んでいた白哉は、驚愕が上書きされていることにも気づかず、慌てて立ち上がろうと四肢に無理やり力を込める。自分を支える恋次を押し退けるようにして片膝を立てたが、しかしまだ身体は思うように言うことを聞かず、白哉はそのまま敷布の上に倒れ込んでしまった。
「あっ、ちょっ、隊長! 俺から離れたいのはわかりましたから! 言ってくれりゃちゃんと寝かせますってば!」
「っ、違う…」
的外れなことを言いながら自分を支え、再び敷布に横たえようとする恋次の腕を拒み、白哉は緩慢な仕草で首を振る。
「…時間、が……」
「は?」
ほんのわずか身体を動かしただけで襲ってくる、ぐらぐらと頭を揺さぶられるような質の悪い眩暈に顔をしかめつつ、白哉は恋次に示すように視線だけを時計にやった。すると、恋次はぽかんとした顔になる。
「……あんたまさか仕事行こうとしてます? その身体で?」
恋次は、信じられないと言わんばかりの表情に加え、なぜか怒ったような声で「冗談じゃねえぞ」とつぶやくと、白哉を無理に褥に押し戻した。力の入らない身体はあっさりと敷布に縫いとめられてしまい、白哉はせめてもの抗議の意を込めて恋次を睨み上げる。
「隊長が、無断欠勤など、隊の者に示しが…」
「つきますし無断欠勤じゃねえんで大人しく休んでてください」
「なに…?」
非番は先日取ったばかりだし、有給の申請をした覚えもない。先ほど目覚めたばかりなのに欠勤の届けを出しているはずもなく、白哉は恋次の言葉に盛大に眉をひそめる。
眩暈の余波で起き上がれずにいるだけなのだが、恋次は白哉が動かなくなったことに満足したのか、わけを説明し始めた。
「昨日、あんたを運び込んだあと、俺すぐにルキアに連絡したんスけど」
「なっ…」
一番伝えてほしくなかった相手の名前があっさりと出てきて、白哉は慌てたように表情を崩す。すると、途端に恋次は呆れの混じった顔になって、白哉の案じを否定してきた。
「そんな顔しなくても、隊長がぶっ倒れてたなんて話してませんよ。つうか俺も何が何だかわかんねえのに迂闊に話せねえでしょ。単に、急な仕事が入って六番隊の方に戻ってもらったから、今日はそのままこっちに泊まるって言っただけです。さすがに連絡なしで隊長が朝まで帰って来なかったら、屋敷の人たちも困るかと思って」
「そう、か…」
よくできた配慮だ。我が副官ながら、これほど気の回る男だっただろうか、と若干失礼な感想も抱いてしまったが、しかし、無意識のうちに自分はこの男のそういったところを頼ったのかもしれない。
「…済まぬ。助かった」
ひとまず肩から力を抜いて、面倒をかけたことを謝罪すれば、恋次はなぜか微妙な顔になった。
「…あのですね、隊長。あんた滅多に人に謝ったりしねえくせに、一度そうなると死にそうな顔して何度も謝るのやめてくださいよ」
「……そのような顔、しておらぬ」
「してますよ。ものすげー申し訳なさそうな顔」
「…………」
自分の顔など鏡でも見ない限りわからない。それゆえ頭ごなしに否定することもできず白哉が押し黙ると、恋次の顔には困ったような笑みが浮かんだ。
「さっきも言いましたけど、頼ってもらえるのは嬉しいんです。だから、あんまり自分のこと責めないでください。だいたい、俺はあんたの副官なんスから、何かあったら遠慮なくどんどん使ってもらっていいんスよ」
「………」
副官というのは護廷隊での話であって、それ以外―――それもごくごく個人的な面倒事まで引き受ける必要はないだろう、と白哉は思ったが、恋次は己の言葉に微塵も疑問は感じていないのか、そのまま言葉を続ける。
「で、話戻しますけど、そのルキアが、今朝早くにウチに来て、代われる仕事は粗方持ってったんスよね」
「ルキアが…?」
「そうなんスよ。さすがに急に上が二人ともいないってのはまずいだろうし俺は今日普通に出仕するつもりだったんスけど、すげー怖い顔で『兄様に粗相があったら白漣の刑だ』とか言って、副隊長の仕事も持ってかれました。ありゃ絶対隊長に何かあったってバレてるなー」
「なぜ…」
恋次は上手く誤魔化したと言っていたのに、なぜ異変に気づいたのか。恋次の他に、自分のこの醜態を知る者は誰もいないはずだ。
困惑する白哉に、恋次はやや申し訳なさそうな顔になって、白哉の胸の中で湧いたその疑問に答えた。
「や、助かったって言ってもらったあとにこういうこと言うのも何なんスけどね、俺、実はあいつに嘘が通じた試しがないんスよ」
「………」
「あ! 言っときますけど、俺だけじゃないっスからね! お互いに嘘が通じないんスよ。まあ、付き合いの長さのせいか、勘みたいなモンが働くんです。電話切るとき何か妙に素直な心配口にしてたし、もしかしたらとは思ってたんスけど、やっぱダメでしたねー」
慌てたように言い訳を付け足して、けれど最後にはからりと笑う恋次の姿に、白哉は改めてこの二人の絆の深さを思い知る。……ほんのわずか、心に穴が空いたような気がしたのは、何故なのか。
「つーわけで、二時間くらい最低限の事務連絡したあとは、俺も半休扱いです。隊長は俺と一緒にちょっと面倒な仕事片付けて徹夜したってことになってるんで、隊の奴らにもそう説明して、もう有給通してます」
…なるほど。それで、先ほど無断欠勤ではないと言ったのか。恋次の言っていた言葉の意味は理解した。―――しかし。
「このような…私事で、有給など……」
「勘弁してください。有給は私用で使うモンです」
白哉の言葉に対し、恋次は呆れたように言い返してくる。
それから、何を思ったのかちらりと白哉から視線を外し、けれどまたすぐに戻すという動作を何度も繰り返して、恋次はうろうろと目を泳がせた。急にいったいどうしたのかと白哉が訝しげに眉を寄せていると、やがて恋次は何とも言いにくそうな様子で口を開く。
「……それで、ですね、隊長。その…無理にとは言いませんけど、さすがに何があったのか気になるっていうか…、できれば話してもらえると助かるんスけど……」
「………」
なるほど、これで恋次は白哉が気を失っている間の事情を説明し終えたのだから、今度は白哉の番というわけだ。
白哉とて、ここまで迷惑をかけて黙りを通す気はない。あまり気の進む話ではなかったが、致し方ないだろう。
この、明るい笑顔が曇る様が容易に想像できてしまって、白哉は重く沈んだ心持ちのまま、けれどゆっくりと口を開いた。