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アザレアに祈む


 
 ―――結局、聞けなかったな……

 連日の残業の疲れを癒そうと入れた風呂からのっそりと上がった恋次は、誰もいない自室で、はあ、と大きなため息を漏らした。

 せっかく、白哉の方から踏み込んで来たのに。

 誰がどう見てもこれ以上ないほどの好機だっただろうが、しかし、何となく白哉がこれ以上は聞くなと言っているような気がしてしまって、結局尋ねてみることができなかった。

 そりゃあ、もちろん、非番の日に彼が何をしようがそれはまったく彼の自由だし、恋次とて非番の日に何をしたか一々白哉に報告などしない。―――しない、のだが、しかし。

 とにかく、あの人は休むという言葉を知らないから。
 副官として、ちゃんと休んでいるのだろうかと、つい気にしてしまうのはもう仕方のないことだと諦めてほしいというか。

 ―――迷惑、だったかな

 もともと、他人に必要以上に干渉されることを嫌う質だ。あくまで純粋な心配であっても、白哉にとっては煩わしいことだったかもしれない。改めて考え直してみれば、非番の日にまで部下に居場所を特定されるなど、あまり気持ちのいい話ではないだろう。

 ―――明日、謝った方がいいか……

 うやむやになってしまったが、気分を害したかもしれない。だとすれば、やはり自分は謝るべきだ。うん、そうしよう、と決めて、それならば今日はさっさと寝ることにしようと、恋次は寝室へ続く扉を開けようと手をかける。

 慣れた霊圧をわずかに感じたのは、その瞬間だった。

「……え…?」

 とっくに定時で切り上げたはずの人の霊圧をすぐそばで感じて、恋次は困惑の声を漏らす。

 ここは六番隊舎で、恋次が住まいとしているのはその敷地の中にある副官用の独立棟の家だ。そんなところに、しかも間もなく日付が変わるというこんな時間に、まさかあの人が来るはずがない。

 しかし、感じる霊圧は、恋次が間違えるはずのないもので。
 そして、なぜかその霊圧が不安定に揺れていて、さらには頼りなく小さく感じることに、恋次はさらに首を傾げる。

 まだぽたぽたと雫の垂れる髪を乱雑に跳ね上げて、恋次は隊舎と繋がる続き廊下のある玄関とは反対の方向に爪先を向ける。そのまま居間を通り抜け、さらに奥に続く廊下の突き当たりに設置されている裏口の扉に手をかけると、恋次はそうっと押し開けてみた。

 そして、次の瞬間、驚愕に目を見開く。

「…ッ?! 隊長ッ?!」

 壁にもたれるようにして頽れている人物に、恋次は思わず駆け寄った。荒い息と閉じられた瞼に、さあっと血の気が引いてゆく。

「隊長! 朽木隊長!! しっかりしてください!!」

 何が起きているのか理解できないまま、とにかく応えが欲しいと力任せに肩を揺すれば、白哉の長い睫毛がわずかに震えた。

「ッ隊長!!」

 慌てて顔を覗き込めば、焦点が合わず宙を彷徨っていた白哉の視線が恋次を捉える。れんじ、と声にならない唇の動きに、どっと安堵が押し寄せた。

「いったい…何が……どうしたんスか……」

 頬に髪が張りつくほどびっしりと浮かんだ汗。青白い顔。荒い息に、苦痛に歪められた顔。明らかに尋常ではない。

 しかし、とても話せる状態ではないのか、白哉は口を開くもそれは声にならず、耐えかねたように再び瞼を落としてしまう。

 それを見た恋次は、失礼します、と一言断りを入れると、徐に白哉の背と膝裏に腕を差し入れ、なるべく負担をかけないよう慎重にその身体を抱え上げた。そして、先ほど布団を敷いたばかりの寝室へと運び入れる。寝る準備をしていてよかった。何があったのかは知らないが、この状態の白哉をわずかでも直に床に下ろすのは忍びない。

「待ってください、いま、四番隊に連絡を……」

 白哉を敷布の上に下ろすと、恋次はすぐさま踵を返して四番隊へ連絡を入れようとしたが、それは、袖を掴まれることによって白哉に止められた。
 掴まれた、と言っても、わずかに引かれる感覚を覚えただけで、白哉の手はすぐに力なく床に落とされてしまったのだが。

 まるで、指にも腕にも、力が入っていないかのような。

「…よ、せ……」

 持ち上げる気力もないのか瞼は閉じたまま、掠れた声を絞り出す白哉に、恋次は信じられないとばかりに叫ぶ。

「隊長! あんたいま自分がどういう状況がわかってます?! そんな状態で、呼ばねえわけにはいかないでしょ!」
「大事、ない……」
「どこからどう見てもありますけどっ?!」
「…じきに、治まる……」

 頑なに四番隊への連絡を良しとしない白哉の態度に、恋次は訝しげに眉根を寄せた。

 確かにこの人は誰かに弱みを見せることを嫌うし、滅多なことでは疲労も不調も認めようとはしないが、しかし、この状態は明らかにおかしい。痩せ我慢をするとかそういったレベルの話をとっくに超えている。隊長格として、職務に影響が出ることを何よりも嫌うこの人の性格を考えれば、四番隊への連絡を拒むというのはどう考えても不自然だ。

 直に治まる、と言った。

 それは、この症状に心当たりがあるということだろう。
 そして白哉は、それを治めるのに四番隊の力は必要ないと判断した。だから恋次を阻むのだ。だから……四番隊へは、行かなかったのだろうか…?

 ―――けれど、それならば。

 なぜ、自分のところへ来たのだろう。

 何がどうなっているのかわからないまま、しかし白哉の言を無視することはできず、恋次はまだ不服の残る声ではあったが白哉に応える。

「……わかりました。四番隊には連絡しません。それでいいんスね?」

 念押しするように確認を問うと、白哉はわずかなうなずきを寄越してきた。それと同時に、気が抜けたのか一層息が荒くなる。あれでも抑えていたのか、と普段の白哉からはかけ離れた様子に、恋次は目を瞠った。

「隊長。……隊長?」

 白哉の頼みを承諾はしたものの、だからと言ってこの状態のまま放置することなどできるはずがない。自分はどうするべきなのかと上手く動かない頭を必死に回しながら恋次は白哉に声をかけたが、しかし、応えはなかった。
 わずかに肩を揺すってみても、反応がない。

 どうやら気を失ってしまったらしい。

 やはり尋常ではない様子に、自然と恋次の顔は険しくなる。そして、まず、白哉がこんな状態だと知っている者は他にいるのか、と考えた。

 もし、誰にも伝えずひとりで恋次のもとまで来たのだとしたら、白哉の屋敷の人々は、彼がいまどこにいるのかも、どんな状態なのかも知らないということになる。もしかしたら、ずっと主の帰りを待っているかもしれない。

 詳細は伏せるにしても、どうにか連絡を、と考えたところで、恋次は幼馴染の存在を思い出した。……そうだ、ルキアなら自分でも連絡がつく。こんな夜中に起こすのは忍びないが、緊急時だ、勘弁してもらおう。

 恋次は寝室を抜け出すと、居間に置きっぱなしにしていた伝令神機を手に取る。ルキアの番号を表示したところで、ああ、そうか、と思い至った。

 ―――ルキアがいるから

 屋敷には帰れなかったのか。

 本人は上手く隠しているつもりなのだろうが、白哉のルキアに対する愛情は深い。心配をかけまいとしたのだろう。

 そうなると、やはり本当のことは言わないでおいた方がいいのだろう。あとで何故言わなかったとルキアからは恨み言のひとつやふたつは言われるかもしれないが、そのときは甘んじて受け入れることにしよう。飛び蹴りが来ても致し方ない。

 ルルル…と静かな居間に無機質な電子音が響いた。

『もしもし。恋次か』
「ああ、悪いな、こんな時間に」

 意外にもしっかりとした声で出たルキアに、恋次は応える。どうやらまだ寝てはいなかったようだ。助かった。

『いや…。どうした?』
「あー、その、隊長のことなんだけどよ」
『兄様?』

 瞬間、ルキアの声が跳ね上がる。相変わらずの兄様至上主義な様子に窃笑しつつ、嘘をつくのは苦手なんだよなあ、と心の中でぼやいた。

『兄様がどうかされたのか? 今日は貴族の会合があるから、定時で上がられたはずだが……』
「なんだおまえ、知ってんのか」
『当然だ。だからこうして起き……いやなんでもない』

 なるほど、どうやらルキアが起きていたのは偶然ではなく、白哉の帰りを待っていたためだったらしい。そういえば、白哉に「おかえり」と言えるようになったのが嬉しいのだと、以前言っていたことがあった。

「隊長の帰り待ってたのか」
『…む。まあ、な。今日は随分と遅くていらっしゃるが。貴族の集まりは長引くのが日常茶飯事だから先に休めと言われてはいるのだが……』
「あ〜…それなんだけどな、隊長、いまウチにいるんだよ」
『なに?』
「えっと…、隊長帰したあとに、ちょっと面倒な案件が出てな。貴族の方の集まりが終わったあとに、こっち来てもらったんだ。だから、今日はこのまま隊舎に泊まってくって」
『そう、なのか…』
「悪いな。せっかく待ってたのに」
『いい、構うな。そんなことより、兄様にあまりご無理をさせるでないぞ』
「わあってるって。そっちに連絡は任せていいか」
『ああ。任せておけ。…貴様もあまり根を詰めるなよ』

 付け加えるように告げられた、彼女にしては珍しく率直な労りの言葉に、どうしたことかと恋次は目を瞠る。

「何だよ気持ち悪ィな」
『失敬な。純粋な私の労りを返せ』
「あとが怖いからいますぐ返品するわ。…んじゃな」

 軽口に軽口で返して、恋次は手短な一言とともに通話を切る。どうやら上手く信じてくれたようだと、はあ、とため息をついた。

 しかしすぐに、気を抜くにはまだ早いと己に喝を入れ直す。

 自身の寝巻きの替えと、それから手ぬぐいと湯を持って、慌ただしく寝室へと戻れば、白哉の様子は相変わらず苦しそうだった。

 その頬に、恋次はそっと手を触れる。思った通り、これだけ汗をかいているにも関わらず、白磁のような肌は驚くほどに冷たかった。先ほど、抱き上げたときに感じた冷たさは勘違いなどではなかったのだ。

 隊長羽織、そして死覇装も続けて脱がせると、その下の襦袢はすっかり濡れて肌に張りついていた。このままではさらに身体を冷やしてしまう。こうしているいまも、白哉の冷たい肌を這うように冷や汗は噴き出しているのだ。

 白哉の襦袢の襟を掴んでばっと広げると、すっかり血の気が引いて青白くなってしまっている素肌が顕になる。もとより白皙が目立つ血色のいい人ではなかったが、これではまるで死人のようだ。恋次は眉根を寄せながら、そばに置いた湯に手ぬぐいを浸し、ぎゅっと絞ると、丁寧に白哉の身体を拭き始めた。

 冷や汗をすっかり拭い去り、衣も恋次のものに替えさせると、恋次はひとまず息をつく。未だに白哉から冷や汗が止まる気配はないが、また肌に張りつくほどの状態になるのなら、そのときはまた衣を替えれば良いだろう。

 ここまでしても、白哉は目覚める気配を見せなかった。

 精神が異常なまでに堅固にできているこの人が、ここまで完全に意識を飛ばすなど初めて見る光景だ。それだけいまの状態が酷いものなのだろう。

 隊長羽織はどうしたものかと悩んだ末に壁の衣紋掛けに掛けておいたが、死覇装と襦袢はいまのうちに洗濯してしまおうと、恋次はそれらを抱えて立ち上がる。いまは自分の寝巻きを着せているが、しかし恋次と白哉では体躯が違う。寝巻き程度なら多少大きくても問題ないだろうが、しかしその格好で外に出るわけにもいくまい。帰る際にはこの死覇装は必須だ。

 洗濯機を回すと、再び寝室に戻った恋次は、次いで湯と手ぬぐいを取り替えた。先ほどまで風呂に入っていたばかりなので、わざわざ火で沸かさずとも蛇口を捻ればすぐに替えの湯が出てくるのはありがたいことだ。

 枕元に新しい湯と、それから手ぬぐいをいくつも用意したところで、恋次は白哉が何度か咳き込むような動作をしていることに気がついた。それでも押し殺したように音が潰されているのは、無意識下でもこの人が不調を悟らせまいと己の身体を制御しているのか。

 恋次は再び台所へと向かい、今度は水差しに水を汲んで、湯のみとともに手に持って戻って来る。起こすべきか否か迷ったが、しかし、これだけ発汗しているのに水分を取らずにいれば、やがて脱水症状を起こしてしまうだろう。

「隊長! 隊長、起きてください。隊長!」

 恋次は白哉を揺すり、どうにか水を飲んでもらおうとしたが、しかし白哉は目覚める気配がない。瞼どころか、まったく恋次の声に反応を見せないのだ。

 試しに白哉の上体を片腕でゆっくりと起こし、水を注いだ湯のみを口に当てがってみるが、当然ながら飲む仕草はしてくれない。口の端から、つう、と水の筋が垂れて落ちただけだった。

 恋次はわずかにため息をつくと、白哉を再び褥に横たえる。

 そして、持っていた湯のみに口をつけると、白哉ではなく自分が水を口の中に含んだ。そのままゆっくりと白哉に覆い被さり、唇を重ね合わせると、口移しで水を与える。びく、とわずかに身体を跳ねさせはしたが無事に咽下した白哉に、恋次はほっと安堵の息をついた。

「……すいません、隊長。けど、飲んでもらわねえと困るんスよ」

 あとで知れたらもしかして本当に殺されるんじゃないか、というくらいには無礼なことをしている自覚はありつつも、恋次は何度も白哉に口移しで水を飲ませる。湯のみに注いだ水がすべてなくなる頃には、心做しか白哉の呼吸がわずかに穏やかになったような気もした。

 また咳をし始めたら飲ませた方がいいだろう、と新たに湯のみに水を注いで用意をしてから、恋次は白哉を見下ろす。

 その片手には、小さな小瓶が握られていた。

 ―――十二番隊のだよな、これ……

 白哉の死覇装を脱がせたときに、その懐から出てきた空の小瓶。回数こそ多くはないが恋次も見慣れたその形は、十二番隊が用いる薬品の容れ物だった。何度か阿近が使っているのを見たことがある。

 ―――それが、なんで隊長から……?

 白哉は、自身の異常の理由について知っている様子だった。直に治まるとまで言っていたのだ。そして、この瓶が空になっているということは、おそらく白哉はそれを飲んだのだろう。とすると、これは何らかの解毒薬か何かなのだろうか。

 白哉の症状は、どう見ても病などではなく、どちらかといえば毒を食らったときに現れる症状のように思える。そもそも、今日の定時まで恋次は白哉と一緒にいたが、そのときは何ともなかったのだ。これだけ急激な変化をもたらすものと言えば、やはり毒と考えて間違いないのだろう。

 そしてそれが、おそらくは貴族連中の集まる席での出来事であったのだろうということも、推測はついた。

 しかし、わからない。

 まさか事前に毒を盛られることがわかっていたわけでもないだろうし、盛られたにしてもなぜ丁度よく解毒薬などがあったのだろう。もしや盛られたあとに十二番隊に赴き貰ったのかとも思ったが、それならばわざわざ恋次のところへ来るはずがないと即座に打ち消す。

 ―――何があったんスか……隊長……

 いまは答える気力もなく昏睡状態に陥っている白哉を見下ろしながら、恋次は心の中で力なくつぶやいた。その額に再び透明な粒が浮かんでいることに気がついた恋次は、手元にあった手ぬぐいでそれを拭う。

 そして、ぎょっとした。

 ―――体温が…さっきより下がってる……?!

 すぐに手ぬぐいを手放し直に触れた白哉の体温は、確かに先ほどよりも下がっていた。これではまるで氷に触れているかのようだ。布団はかけているし、汗で張りついた襦袢も替えたのに、何故まだ体温が下がり続けているのか。

 直に治まると言われたって、その「直に」が果たしていつなのか、恋次にはわからない。そもそも、この人の「大事ない」という言葉ほど信用できない言葉がこの世にあるだろうか。

 恋次はわずかに迷った末、白哉に掛けていた布団を持ち上げると、その中に自分の身体を滑り込ませた。そうして、冷たくなった白哉の身体に自分の身体を押し付けるようにして、しっかりと抱きしめる。じわ、と体温が奪われていく感覚が、すぐに全身から伝わってきた。

 まだ流魂街にいた頃、寒い日にはこうして仲間たちと暖を取っていた。いまでこそ笑い話のように話せるが、しかし当時は生きるか死ぬかというほどの極限の状態の中で、誰もが生き延びるために必死にやっていたことだ。寒さから身を守るためには、実は他人の体温が一番いいのだということを、上質な着物も布団も無かったあのときの恋次たちはよく知っていた。

 ―――大丈夫……

 こんな状態で、たとえ屋敷には帰れなかったのだとしても、なぜ自分のもとを選んだのか。それは、わからないけれど。

 頼ってくれたことを、決して後悔などさせはしない。
 いま、自分にできることはすべてやろう。

 だから。……だから。

 ―――はやく、元に戻ってくださいね……

 ここでは、ゆっくり眠っていいから。
 いまだけは、何も隠さなくていいから。

 この人が自分から体温を奪ってゆくように、自分もこの人を苛む苦しみを奪えればいいのにと、ひどくもどかしい想いを抱きながら、恋次は震えの治まらない白哉の背をゆっくりと摩っていた。

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