アザレアに祈む
最初の異変に気づいたのは、指先の痺れだった。
次いで浮かぶ冷や汗に気取られぬよう息を整えようとすれば、意図せず乱れを見せ始めた呼吸。異常を察するには十分すぎた。
唯一、鍛錬を積んだ白哉の不調を察せる者がこの場にいないことだけが救いだったが、しかしあまりにもタイミングが悪すぎる。
相も変わらず長々しい貴族たちの話し合いは、未だ一向に終わる気配を見せない。毎度のことながら、定例会合は終了予定時刻など存在していないかのように続いていた。
耐えることには慣れているが、あまりにも唐突な、そして急激に悪化を見せる己の身体の変化を、白哉は訝しむ。
まず始めに、先ほど口にした膳を疑った。
残念ながらここはそういったことが日常茶飯事に行われる世界で、四大貴族という立場ゆえに他と比べれば数こそ少ないだろうが、白哉も何度か経験がある。幼少より毒に耐性をつけてきたのも、このような場合に命を落とすことがないようにするためだ。
しかし、それで片付けるには些か疑問が残った。
繰り返すが、白哉には毒物に対する耐性がある。それも、あのマユリが苦労するほどのあらゆる数に対して、だ。それなのに、闘いのいろはも知らぬ貴族の誰かが、白哉をこれほどまでに不調に追い込めるとは考えにくい。
とはいえ、傾向が現れ始めた時間を考えれば、膳に何か仕込まれていたと考えるのが妥当になる。白哉が当主を継ぎ、その実力が隊長格として確固たるものであると認められるようになってからは、このようなことは極端に減ったはずなのだが、こんな小細工でまだ自分をどうにかできると思っているのだろうか。
この程度では、自分は死なない。
そう、確信を持って言える。この程度では、自分を殺すことなど不可能だ。異変は白哉を苛むが、しかし、それには白哉に死をもたらすほどの力はなかった。だから白哉は席を立たないし、冷静に分析を続けている。それを見越した上での仕込みなのだとしたら、何とも質の悪い嫌がらせだ。
白哉は、毒により死にかけたことが過去に二度ある。
一度目は、毒物の耐性を付ける前、病弱な父が当主を継いだことを快く思わぬ者が、その跡取りを消そうと仕掛けたものだった。白哉が家の慣例よりもずっとはやくに毒を飲み始めることになったのは、そういった経緯があったためだ。
二度目は、父の訃報に心を揺らし、毒を見誤ったときで、祖父にいらぬ心配をかけた。このとき白哉が口にしたのは、常の耐性用の毒ではなく、毒殺に用いられるあらゆる猛毒が含まれた複合毒だったのだ。しかし、このときに得た耐性は大きく、無事に死線をくぐったことにより、これ以降、猛毒と名のつくほとんどの毒は白哉に効力を成さなくなっていた。
ゆえに、その白哉にこれほどの不調を与え得るということは、仕込まれていたものも複合毒であると考えて間違いないのだろうが…。
毒物は繊細だ。調合を間違えればただでは済まない。複合毒を扱えるような輩を、白哉はそう多くは知らなかった。その筆頭にいるのが、昨日訪れた十二番隊の主なわけだが―――…
そのとき、ふと、白哉はマユリが話していた言葉を思い出す。
『今回は霊圧の揺れ幅が―――…』
聞き流してはいたが、それでも記憶力はそれなりにある。そのあと、マユリは今回配合した毒の効果を説明していたはずだ。
麻痺、冷や汗、頭痛、不整脈、それから体温低下……
先ほどからさらに悪化している自身の症状と、それらは実に都合よく合致した。なるほど、と白哉は無表情の仮面の下で息をつく。
以前、白哉の膳の中に、霊圧を崩す作用を持った毒が含まれていたことがあった。しかし、崩すと言ってもそれは一時的に霊圧を不安定にさせるだけのもので、意識を集中させれば霊圧が揺れていることなど傍目には気づかれぬ程度の効力しか持たない。それだけならば、せいぜい嫌がらせにしかならない程度のものだったのだが。
おそらく、今回の膳にそれが含まれていたのだろう。
しかし、時が悪かった。白哉の中には、昨日マユリのもとで自ら取り込んだ毒がまだ抜け切らずに残っているのだ。耐性を上げるためにマユリの実験に付き合っているのだから、当然、白哉に渡された解毒薬を飲む気は微塵もなく、懐に忍ばせたままになっている。
霊圧は生命力の象徴だ。
如何に耐性を持っているとはいえ、己の肉体を支える最たる主柱である霊圧の安定がわずかでも崩されれば、まだ身体から抜け切っていなかった毒の影響を大きく受けることになったとしても致し方ないことだろう。
原因はわかった。そしてそれに対する対処法も。
会合が終わるまで、あとわずか。
すっかり日の沈んだ外をちらりと一瞥して、白哉はゆっくりと息を吐くと、悪化の一途を辿る己の身体を叱咤した。
腹に一物も二物もある貴族たちが犇めき合う公の面前で、四大貴族が一、朽木家の当主ともあろう者が、不調を悟られるなどあってはならないこと。苦痛に顔を歪めるなど論外だ。
そのための鍛錬を、自分はずっとしてきたはず。
さすが涅マユリと賞賛すればよいのか、如何に偶然二つの毒が重なった結果とはいえ今回の実験物は中々に強い出来だったらしいと心の中でこぼしつつも、白哉は毅然と顔を上げ続ける。
そうして、何とか最後まで無表情を貫き通すことに成功した。
いつものごとく躍起になって白哉を引き止めにかかる貴族たちを素気なく往なし、会合に使われた屋敷を足早に立ち去ると、道の角を曲がったところで白哉は壁に手をつく。感覚のなくなりつつある指で懐を探り、手渡されていた解毒薬を喉の奥に流し込めば、胃に焼けつくような痛みが走った。
―――少し、遅かったか……
どうやら、少々内臓がやられているようだ。
空の瓶をしまい、鉛のように感じる足を前に踏み出しながら、白哉は吹き出す冷や汗が頬を滴り落ちてゆく様子にぐっと眉根を寄せる。これしきの毒、死にはしないが、どうにも意識が朦朧とするのは厄介だ。このままだといずれ気を失うやもしれない。珍しいことだ。会合が思ったよりも長引き、解毒薬を飲むのが大幅に遅れたことが大きな原因だろう。
朽木家の当主であり、そして六番隊の隊長ともあろう者が、無様に倒れる様などを晒すわけにはいかない。
しかし、いま屋敷にはルキアがいる。こういったことに慣れている清家ならば話が早いものなのだが、彼女にこのような姿を見せるわけにはいかない。白哉の様子を見れば、仰天して何が会ったのかと尋ねてくるだろう。まさか、あの優愛に溢れた純真な少女に、宴席で一服盛られたなど、言えるはずもない。耐性のために常より自分が毒を飲み慣らしているということも、ずっと伝えずに黙ってきたことだ。貴族の世界のことなど、彼女は知らなくていい。
あの明るくまぶしい笑顔を曇らせるのが、もう二度と、自分であってはならない。
かといって、浮竹や京楽を頼るわけにもいかなかった。ここ数日浮竹は調子を悪くしていて、京楽はそれに付き添っている。そうでなくとも、あの二人に余計な心配をかけるのは白哉の本意ではない。何かと子どもに甘い彼らのこと、白哉をまだ子ども扱いするのだから、こんな姿を見せるのはやはり躊躇われる。
化け猫がいたら遠慮なく転がり込んでやったものを、と心の中で吐き捨てながら、白哉は暗い夜の道の先を見やる。そして、わずかな逡巡ののち、ぐっと足に力を入れて地を蹴った。
辛うじてまだ瞬歩を使うだけの脚力は残っているようだと判断すると、白哉は悲鳴を上げる身体を無視して無理やりに速度を引き上げる。足が使い物にならなくなる前に着かねば、意味が無い。
視界さえ霞み始める中、白哉は見慣れた場所を目指して、ただ無心に駆け続けた。