今日は胃の調子が悪いようです
『 阿散井恋次の場合 』
間もなく終業時刻を迎える時刻。いつもならば仕事から解放される瞬間を今か今かと心待ちに顔を輝かせ始める恋次なのだが、しかし、本日ばかりはぐったりとした様子を隠しもせずに手元の書類に視線を落としていた。当然ながらその目に覇気はない。
―――なんで俺こんなに胃が痛えんだっけ……
そう、原因は、今朝からずっと恋次の腹の中で暴れている痛みのせいだった。二日酔いのときの症状に似ているが最近酒をしこたま飲んで酔った覚えはなく、恋次は理不尽にも思える胃痛と一日中戦う羽目になっていた。
しかし、その戦いももう間もなく終わる。幸い今日は定時で上がれることだし、帰ったらゆっくり寝ようと心に決めて、恋次は書類と睨めっこを続けた。
―――そーいや前に隊長も胃がやられてたことあったっけな……
どうにも疲労というものはすぐに胃に来るらしい、と貴族の付き合いで宴会に出なければならず胃を荒らしていた上司のことを思い出して、恋次は微苦笑を浮かべる。それにしても、思い立ったら即行動、で粥を作ったはいいが、あれ食べてもらえなかったら本当どうする気だったのだろう、と、そのときの自分の計画性のなさも一緒に思い出してしまった。
どうして見抜かれたのかと白哉は驚いた顔をしていたが、恋次からしてみれば気づかない方が無理というものだ。公私ともにどれだけ見ていると思っているのだ、と未だに自覚に欠けるらしい白哉の反応には笑いしか起きない。
そんなことを考えながら、恋次はちらりと視線を白哉にやる。
相変わらず真っ直ぐに伸ばされた背筋とまったく集中の途切れない仕事ぶりは、何度見ても感嘆の一言だ。何をどうしたらここまで真面目に仕事に取り組めるのだか恋次には見当もつかない。
それなのに、意外にもよく部下を見ているものだから、たまにこっちはびっくりさせられるのだ。いつ見ていたんだ、と思わず聞き返したくなってしまうような些細なことまで目敏く指摘されると、思わず言葉に詰まってしまう。
そんな人だから、当然、今日の恋次の不調にも気づいてはいると思うのだが。
―――特に何も言ってこねえなあ……
あわよくば心配してくれたりしたら嬉しいな、とか、まあ、そんなことを考えなかったと言えば嘘になる。確かに職務中は上司と部下という関係だが、自分たちは一応、恋人同士なわけだし、心配するような言葉を少しでもかけてくれたら嬉しいな、なんて考えてしまうのは当然のことだろう。もちろん、恋次とて好き好んで不調なわけではないのだが。
しかし、実際には何もなかった。
ちらちらと何度か視線を寄越される気配は感じていたが、それだけだ。それ以上何を言ってくるわけでもない。ああ、上手く言葉にできないのかな、とも思ったが、それにしても一日中何も言われないとさすがに少し凹んでしまう。
なんだか胃がさらに痛いような気がした。
終業まで、あと五秒。
「…あ、鳴りましたね、鐘」
隊士たちも待ちわびたであろう終業の鐘に、恋次はのっそりと顔を上げる。ちょうどいい具合にいま片付けていた書類も終わったところだ。
さっそく手元を片付け始めた恋次だったが、そこへまたしても刺さるような視線を感じて、そうっと横目に白哉の方を見やってみる。やはり書類ではなく恋次の方を見ていた白哉に、恋次はおそるおそる尋ねてみた。
「……あの、隊長? どうかしたんスか?」
「………」
恋次が尋ねると、白哉は不自然なほどに視線を泳がせる。まさか不調のせいで気づかない内に何かやらかしただろうかと、恋次はあまり働いていない頭で必死に今日の己の所業を振り返った。
「…あの、隊長……? なんか顔凄いことになってんスけど、俺、今日何かしました…?」
「…っ、いや……」
なぜか歯切れの悪い白哉に、これは本格的におかしいと恋次は席を立つ。そのまま白哉のそばまで行くと、その顔をひょいと覗き込んだ。
「なんか変っスよ? 大丈夫っスか?」
しかし、そう尋ねてみても、白哉の表情は変わらぬまま。ひたすらに首を傾げていた恋次だが、しばらくすると白哉はぽつりと言葉をこぼした。
「………今日、は、泊まってもよいか」
「はい?」
思わぬ言葉に固まる恋次に、白哉は心底居心地の悪そうな顔になりながらこちらを見上げてくる。まさかの、恋次の夜の誘いを常日頃退けている側の白哉からの誘いかと恋次が目を丸くしていると、白哉はこちらの心を的確に呼んだのかすばやく付け加えてきた。
「今日はせぬぞ」
「…ちぇっ、なーんだ、隊長からのお誘いかと思って俺いまめちゃくちゃ期待したのに」
「己の不調も鑑みず何を言っている」
「あれ、気づいてたんスか」
本日ようやく聞いた言葉に恋次が目を瞬けば、すかさず呆れたような顔が返ってきた。
「兄ほどわかりやすい者もそう居るまい」
「馬鹿にされてる気がする…」
「……それで、どうなのだ」
「え?」
耐えかねたかのような問いに恋次は一瞬首を傾げるが、すぐに、白哉から泊まってもいいかと尋ねられていたことを思い出す。
「そりゃ、もちろん! 俺が断るわけないでしょ」
しかし、急にどうして、とも思ったが、余計なことを言って取り消されるなどそれこそ愚者のすることであるので、恋次は懸命にも沈黙を守った。
恋次が住処としている六番隊舎の副官室まで、並んで歩く。それだけで、少し身体を苛む不調がふらっとどこかへ行った気がするから不思議だ。
「…邪魔をする」
「どうぞ」
律儀に玄関でそう宣言する白哉に改めて育ちの良さを感じつつ、恋次は先に草履を脱いで白哉を招き入れる。
せっかく定時で上がれたので、今日は簡単な水浴びではなく久々に風呂を沸かし、渋る白哉を先に入れてから交代で恋次が入る。さすがに自分が入ったあとの汚い湯にあの人を送り出す勇気はない。
そして、男二人で入るには些か狭い湯船と、単に恋次の理性が持ちそうにないという何とも情けない理由から、二人で風呂に入るときは自然とこのような流れになっていた。
「隊長、上がりましたよ…って」
まだぽたぽたと雫の垂れる髪を好きに遊ばせながら入った寝室では、白哉が何をするでもなく布団の上に座っていた。普通に見れば、特に何もおかしなところはない。恋次がぱちくりと目を瞬いたのは、白哉が早く来いとばかりに布団を軽く叩いたからである。
珍しいこともあるものだと思いながら恋次が近寄ると、白哉は布団の上から降りる。恋次が敷布と布団の間に身体を滑り込ませると、白哉も少しの躊躇いを見せたのちに同じように布団の中に潜り込んできた。
そして、さらに珍しいことに、白哉はそのまま恋次の背に腕を回す。恋次が無言ながらも驚いていると、白哉はその細腕でしっかりと恋次を抱きしめた。湯あがりのそれとは違う、じんわりとしたぬくもりが伝わってくる。
「………今日は、珍しいことが続きますね?」
思わずそう漏らすと、白哉は恋次の胸に顔をうずめたまま、くぐもった小さな声でつぶやくように言った。
「……今日は、調子が悪かったのだろう」
「え? ええ、はい、まあ」
「何度も、胸を抑えていた」
「あ〜…気づいてたんスね。なんか今日はちょっと胃痛が」
それで、恋次のために泊まると言ってくれたのだろうかと、先ほどまで凹んでいた気分が嘘のように上がっていくのを感じながら、恋次は頬を緩ませる。やっぱり、不器用だけど優しい人だ、としみじみと思っていたところで。
ちょうど恋次の胃があるあたりに、そっと白い手が当てられる。
そして、必死に羞恥を押し殺したような声が、耳朶を打った。
「……あたたかいものがよいと、おまえは言っていたが……私は、おまえのように粥など作れぬ故……」
告げられた言葉の意味を瞬時には理解できず、わずかにぽかんとしたのちに、恋次は白哉の言っている言葉の意味にたどり着く。そして、白哉がなぜ今日泊まりたいと言ったのかも。
「え…と、それって……粥の代わりに自分の体温であっためれば調子良くなるかもって、そういうことっスか……?」
「………悪いか」
単純な思考だと馬鹿にされたとでも思ったのか憮然とした声音で返してくる白哉に、恋次は、全身を駆け巡るようにして一気に押し寄せた愛しさをいっぱいに両腕に込めて、白哉の身体を強く抱きしめた。
「ほんとだ。治っちまいました」
「……見え透いた嘘などいらぬ」
「嘘なんかじゃないっスよ。ほんとです。隊長が俺のことそんなに考えてくれてたんだってだけで、痛みなんかどっか飛んでっちまいました」
「……そうか」
絞り出すようにして感激を言葉にすると、恋次が本気でそう思っていることは伝わったようで、白哉はいつもよりも少しだけ穏やかな応えを返してくる。
今日は一日不調で、ずっと痛みと格闘する羽目になったけれど、その声が聞けただけで、今日はとても良い日のような気がした。
「おやすみなさい、隊長」
「……ああ。おやすみ」
軽く梳かれた髪からさえも、白哉の想いが伝わってくるような気がして、恋次はその心地よさに重く感じる瞼をそっと下ろした。
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