コキアの枯れる前に【朽木白哉生誕祭2019】
意外と遅くまでかかってしまった下拵えを終えたのは日付が変わって随分と経った頃で、これは寝不足になりそうだと翌日の寝坊を案じながら寝たというのに、恋次がぱちりと目を覚ましたのはまだ仄かに薄暗い早朝だった。
何だってこんな時間に、とため息をつきながらも、なぜか妙に目が冴えてしまっていて、恋次は諦めてむくりと上体を起こす。途端に襲ってきた冷気に、思わず両腕を擦った。
まだ日も昇りきらない凍えるような朝。
どうせまだ誰も起きてはいないだろう、と無意識のうちに辺りの霊圧を探った恋次は、予想外にもごく近くにいる人物の気配にやや目を見開いた。……確か、あの人の私室はまったく反対の方向にあったはずだと思うのだが、なぜこんなところに?
少し迷ってから、恋次はのそのそと緩慢な動作で布団から這い出ると、手早く足袋に足を通す。そして、部屋の隅に置いておいた上着を手に取ると、肌に刺さるような朝靄の冷たさにふるりと身を震わせながらそうっと回廊に出た。
身を竦めるのに合わせるように霊圧も縮こめ、静かな足取りで回廊を進んで行くと、やがて目当ての人が見えてくる。すっかり真っ白に染められた庭面の中、ちらりはらりと降る雪の中に佇む姿に、恋次は思わず足を止めた。
四季折々の景色に、まったく違和感なく溶け込んでいるその姿は、美しいとか、そういった言葉の方が役不足なほど見事なもので。
柄にもなく、見惚れてしまった、と言えばいいのか。
綺麗なものには性差って存在しないんだな、なんて、そんなことを考えていた恋次は、ふと、白哉の視線がどこへ向けられているのかに気づく。
その目が向けられている先には、一本の梅の木。
風流にはとんと疎い恋次が、それを梅の木だと判断できたのは、その枝先にわずか一輪だけ咲く、小さな紅い花があったからだった。
その花の名に思い至るとともに、恋次は、かつてこの人が語っていた言葉を思い出す。
『……その年の春、最初の梅が咲く前に――――…』
妻を、亡くしたのだと。
それならば、いま、あの人が想いを馳せているのは。
実際にはすぐ近くにある花に向けられているはずなのに、どこか遠くへ飛んでいるように見える白哉の眼差しに、恋次は再びあの感覚が胸の奥底から湧き上がるのを感じた。
そのまま、どこかへいってしまいそうな。―――会ったこともない、彼の妻に、彼を……とられてしまいそうな、気がして。
恋次は思わず、草履を履くのも忘れて庭先へ降りると、瞬歩でも使ったのではないかと思うほどに素早く白哉のもとへと駆けた。
霊圧ですぐそばまで来ていることにはとっくに気づいていたのだろう、特に驚く様子も見せずに振り返った白哉の細腕を、恋次は勢いのままに掴んでしまう。けれど、白哉の目が見開かれたことより何より、恋次の心の中を占めるのは、そこに確かに感じられた感触に対する安堵だった。
―――消え、なかった。
手を伸ばしたら、消えてしまいそうに、思えて。
こんな行動を、してしまったのだけれど。
恋次は、先ほどから胸をうるさいほどに埋め尽くす感情の意味を、いまこの瞬間に―――理解した。
『それはつまり、その、相手のことを好いているということだろう』
あれから、ずっと否定しながらも、切って捨てられなかったルキアの言葉。彼女のように顔を赤らめることもなければ、幸せそうに頬を緩ませることもないけれど、これは、確かに。
―――俺、この人のこと、好きだったのか
まさか、と心底意外に思う気持ちと、反対にどこか腑に落ちたような、納得した気持ちが入り交じって、恋次は何とも言えない表情になる。
『……――――愚かな、ことではないのか』
あのとき、白哉が返してきた答えの意味を、ようやく悟った。
なるほど、確かに、その言葉が相応しい。
馬鹿だなあ、と思った。
『………相手の幸福だけを願うことができず、己の願いを押しつけたいと望む。相手のもっとも心深くに根差すのは己でありたいと、自分勝手な願いを抱く。そして、愚かしくもその願いを捨てられぬ』
恋次の胸に湧き起こった感情の正体は、まさにそれで。
亡き妻を想う姿に心を乱されて。
自分から離れないでほしいと身勝手に願って。
そして、気づいてしまえば、その心を捨ててしまうことなんて、どうしたってできない。
「…―――隊長……」
ぽつりと、恋次がつぶやくように呼べば、白哉は掴まれた己の腕から恋次の顔へと視線を移す。すぐにでも離せと言いそうなものだが、なぜか黙ったままの白哉に、恋次は続けて言葉を押し出した。
「……俺、わかりました、隊長の言ってた言葉の意味」
はじめは何のことだかわからず訝しげな顔をしていた白哉だが、しかしすぐに思い当たったような顔になる。そして、わずかに驚きを再びその瞳に宿した姿を静かに見下ろしながら、恋次はぽろりとこぼした。
「――――俺、あんたが好きです」
雪に溶けるようにこぼされた言葉は、しかししっかりと白哉の耳には届いたようで、白哉はこれまで見たことがないほどに目を見開く。
どれほど外にいたのか、すっかり冷えてしまっている白哉の腕を離すとともに、恋次はその手をそうっと包み込むように両手で握ってみた。……触れてみたら、なるほど、もっと触れたいと、そんな願いが湧き起ってくる。
それが叶わなければ、苦しいのだろう。
いま、胸を押し潰しそうになっている苦しさは、きっと、そういうことで。
それにしても、とんでもない人を好きになってしまったと、初めてだというのにあまりにも無謀な人選に、恋次は己の嗜好を呪いたくなる。もう少し、こう、どうにかならなかったのか。同性だとか、そういうのを抜きにしたとしても、あまりにも高嶺の花すぎるだろう。
その高嶺の花といえば、ようやく我に返ったようで。
「………なにを……言って……」
途切れ途切れの声を、ぎこちなく漏らした。
苦しさを紛らわせるように、恋次は努めていつも通りの口調で返す。
「まんまの意味ですけど」
「……そのような素振り、一度も……」
「それは……しょうがないじゃないスか。ずっと自覚なかったんスから」
自覚したのは、たったいまである。そのまま流れるように告白をしてしまったことに、恋次はいまさらながらに慌てるが、すっかり後の祭りだ。振られたせいでこの人との関係がぎくしゃくするのは嫌だなあ、と恋次は心の中でぼやく。じわじわと体温を奪う朝の空気が、いっそう冷たさを増した気がした。
そんな恋次を見上げたまま、白哉はぽつりとつぶやく。
「……おまえは、ルキアを好いているのではなかったのか」
「…へえっ?」
あまりに予想外な、そして嫌というほど聞き慣れた勘違いに、恋次は驚いて目を見開いた。部下たちに勘違いされるのはまだわかるが、人の恋愛事情などまったく関心がないようなこの人から、よもやそんな台詞が出てくるとは思わなかったのだ。
「……なんで隊長までそんな勘違いしてんスか??」
本気で首を傾げると、白哉は気まずげにふいと視線を逸らし、よりいっそう聞き取りにくくなった声で小さく返してくる。
「……わざわざ屋敷まで鍛錬と称し会いに来ていた上、夕餉をともに取って行けと言ったとき、機嫌が良さげだったろう」
盛大な勘違いに、恋次は思わず天を仰ぎたくなった。
わざわざ屋敷まで来ていたのは他の誰でもない彼の誕生日会のためだし、夕餉をルキアと一緒に取れと言われたとき頬を緩めたのは、単に白哉が妹を気遣う様子が微笑ましかったからだ。
しかし、後者はともかく前者はまだ告げるわけにはいかない。うっかり口を滑らせようものなら、せっかく昨日夜遅くまでかけた下拵えが水の泡である。というかまずルキアに殺される。袖白雪で確実に仕留めに来ること間違いなしだ。まだ命は惜しい。そして何より恋次自身サプライズは成功させたい。
「いや、それは隊長がルキアを気遣ってたからで…。つうか、あんたたち兄妹が仲良くしてるの見たら、俺じゃなくたって嬉しいと思うと思いますよ。そもそもルキアが好きなの俺じゃねえし。何つー勘違いだ……」
それもこれも、ルキアが誰と付き合っているのか公言しないのが悪い。いっそここで伝えてやろうかとも思ったが、当事者でも何でもない自分から彼に妹の恋愛事情を伝えるというのもおかしいだろう。
いつか、妹さんをください、とこの人に言いに行かなければならない一護の苦労を考えていた恋次は、ふと、手のひらにかかる重みが増したような気がして不思議に思う。首を傾げながらも恋次はうつむいた白哉の顔をそうっと覗き込もうとしたが、しかしそれよりもはやく、なぜか白哉は体重を恋次の方へと傾けてきて、そっと恋次の肩口に額をつけた。
突然のことに驚き固まる恋次の耳に届いたのは、果たして声と呼んでもよいのかどうかさえわからない、真っ白な息とともにこぼされた小さなつぶやき。
――――よかった、と。
恋次には、確かに、そう聞こえた。
なにが、と問い返す余裕もない恋次の耳に、またしても小さすぎる言葉が届く。
「………私は……ルキアから、これまでも多くのものを奪ったというのに、この上、横恋慕までしているのかと……それこそ墓場まで持って逝くつもりであったのに……」
「……………は?」
ただでさえ白哉の行動に驚き固まっていた恋次は、そのさらに上を行く衝撃を食らい、思わず間抜けな声を漏らす。そして、まじまじと、自分に身体を預けている白哉を見やった。
なんか、いま、とんでもない言葉が聞こえたような気がする。幻聴か。とうとう耳が壊れたのか。いやとうとうって何だよ、それじゃそろそろ壊れる予定があったみたいじゃねえか。ねえよ。
「…………隊長、いま、何て言いました?」
何とか硬直を解き、恋次が信じられない思いながらも尋ねると、白哉はここでようやく己の失言に気がついたのか、はっとしたような表情になる。慌てたように肩口から離れ、背けられた顔を、恋次は反射的に追った。
「……横、恋慕って…、あの……俺の知ってる意味で、合ってます……?」
「……………他に、どのような意味があると言うのだ」
莫迦者、と返された声には、いつもの凛とした力強さはすっかりなくて。
恋次は、胸の奥底から凄まじい勢いで湧き上がった衝動のまま、白哉の華奢な身体を思いっきり抱きしめた。
「ッ、れん―――」
「…ほん、とうに?」
思わずこぼれた問いに、白哉は沈黙する。
恋次はたまらず繰り返した。
「ほんとに、隊長が、俺を?」
「……何ぞ文句でもあるなら言ってみろ」
「文句なんて!」
不本意極まりないと言わんばかりの声音で告げられ、恋次は慌てて否を返す。そして、抱きしめる腕に力を込めると、今度は自分が白哉の肩口に顔をうずめながら、恋次は応えた。
先ほどの白哉のように、消えそうな小さな声ではなく、確かに伝えるように、はっきりとした声で。
「嬉しい、です」
まさか、こんなことが、あるなんて。
振られると、そう信じて微塵も疑わなかったのに。
抱きしめた瞬間こそ驚きのためか身体を強ばらせたものの、ぐっと力を込めても、白哉が恋次の腕を振り解くことはなかった。
そのまま、しばらくの沈黙が落ちる。
「……つうか隊長、身体冷えすぎっスよ。いつから居たんスか」
この、気恥ずかしさのような、むず痒さのような、何とも形容しがたい感覚を払拭しようと、恋次は努めていつも通りの声音で話を変えた。しかし、腕はしっかりと白哉を抱き込んだまま、離そうとはしない。
「………陽が、昇る前から」
その答えにゆっくりと顔を上げれば、あたりはいつの間にか、明るいひかりに満ちていた。積もった雪が陽の光を反射し、少し目にまぶしい。―――完全に、夜が明けたのだ。
「そんなに梅の花が見たかったんスか?」
時が経つのを忘れるにも程があるだろう、とすっかり冷えてしまっている白哉の身体に自分の熱を分けながら、恋次は苦笑する。しかし、先ほどまで白哉がぼんやりと眺めていた梅の木へと視線をやりつつ尋ねてみると、なぜか白哉は不思議そうな顔になった。
「……いや…」
「えっ、違うんスか? てっきり俺、梅の花見て緋真さんのこと思い出してんのかなって思ってたんスけど……」
まさか、それでとられたくなくて自覚しました、とは言えないので、恋次は微妙な気分になりつつ梅の花から視線を戻す。
そして、白哉が驚いたような顔から一転、なぜか居た堪れないような顔をしていることに気づいた恋次は、抱きしめていた腕を解いて不思議そうにその顔を覗き込んだ。
「隊長?」
「…………」
「あの…?」
急に黙り込んでしまった白哉に、恋次は困った顔になる。
白哉は、なんだか唇を尖らせたようにも見える顔で、沈黙を挟んだのちにぽつりとつぶやいた。
「……見て、いたのは、梅ではなく……」
そうして白哉がちらりと視線を寄越した先にあるのは、どう見ても枯れているようにしか見えない、茶色い塊。一見ふわふわとしているように見えるが、細い枝ばかりが密集している様を見ると、意外と硬そうだ。
「……何スか? これ」
もともと花や草木には詳しくないが、まったく見たことのない形状をしたそれに、恋次は盛大に首を傾げた。
白哉は、そんな恋次の反応は予想済みだったのか、特に意外そうな顔をすることもなく答える。
「……コキアだ」
「へー。どんな花が咲くんスか?」
「花は咲かぬ」
「あ、そうなんスか? けどなんか、意外っスね、こういうのもあるんだ」
「……誕生花、というものだ。侍従が植えていた」
「タンジョーカ?」
「日ごとに花が当てられている。それは一月末日のものだ。他に、八月の末日ならば向日葵、といったように」
「……隊長、あの、まさか一年分全部覚えてるんスか?」
「そのようなわけなかろう。おまえの―――…」
ぶつん、とそこで白哉は言葉を切ってしまったが、如何に恋次と言えどもその先を察せないほど鈍くはなかった。
『おまえの生まれた日だから』
ほんとうに想ってくれていたのだと、じわりと心があたたかくなる。
緩む頬を抑え切れなくて、恋次は白哉から意識を逸らした。そして、視線の先にある枯れたようにしか見えない白哉の誕生花に、再び首を傾げる。
「でも、あの、これ枯れてるように見えるんスけど……」
「枯れているからな」
あっさりと言った白哉に、恋次は驚いて視線を戻した。
「えっ?! この馬鹿でかいのに信じらんねえくらい超整備の行き届いた庭に、枯れたモンなんか存在するんスか?!」
「……、……言い方は兎も角として、これは私が抜かずにおくよう申しつけておいたものだ。……今日には片付けさせるが」
「え? なんで?」
わざわざ抜くなと言うほど、思い入れがあったのではないのか。白哉の言動の意味がわからず恋次が首を傾げていると、白哉はそっと恋次から視線を外し、このコキアという枯れた植物を見つめた。
「………くだらぬことだ。己に重ね合わせるなど……」
「隊長に? …これそんな隊長に似てます? どっちかっつーとあんたは真っ白い雪とかの方が似てるんじゃ……」
「そうではなく、赤く染まった姿が……」
「赤く?」
枯れる以前の姿を知らない恋次が新たな情報を聞き留めると、白哉はまたしても失言をしたらしく、しまったと言うように目を見開く。その反応に目を瞬き、恋次は足りない頭を無理やり動かして白哉の言葉の意味を悟ろうとした。
「……あの、隊長」
「………なんだ」
「……俺こういうことに関しては筋金入りの馬鹿なんで、隊長の言った言葉の意味がすげえ自惚れた内容に聞こえるんですけど、ちょっと聞いて否定してもらってもいいっスかね、そしたら頭冷えると思うんで」
「…………」
沈黙を勝手に了解と見なして、恋次はおそるおそる尋ねてみる。
「……その、赤って、俺のこと言ってます?」
「………なぜこのようなときだけ頭を使うのだ莫迦者」
恋次が言い当てたことに目を見開き、それから誤魔化すこともなく一気に紅を潮する白哉に、恋次は自分で言いながらも信じられないとばかりに驚愕を顕にする。そして、抑える間もなく胸の内から湧き上がった、むずむずとした言いようのない感情を持て余した。
それは、己の誕生花を自分に例えて、その花が赤く染まる様に、白哉は恋次の面影を見ていたということで、つまりは―――…
赤く染まった姿が、まるで、恋次に心を染められた、自分のようだと。
だから、赤く染まる季節が終わり、冬になって枯れてしまっても、その姿は自分の想いの投影のようで、抜くことができなかった。抜いてしまえば、己が胸の内に秘める想いさえも、諦めなくてはならないような気がしたのだろうか。
にも関わらず、急に、今日にも片付けると言ったのは。
―――その想いが……叶った、から。
その答えに行きついてしまえば、当然、何もせず突っ立ったままでいることなんてできなくて。
恋次は、徐に白哉の細い腕を掴むと、力任せにぐっと引く。突然のことに体勢を崩した白哉は、いとも簡単に恋次の方へと倒れ込んできた。
普段の白哉ならば、たとえ不意を突かれようとも、戦士としてこのように体勢を崩すようなことは絶対にない。それだけ心を許されているのだ、と実感せざるを得ない姿に、恋次は心の中で暴れ回るはじめての感情を宥めるように、先ほど離したばかりの白哉の身体を再びきつく抱きしめた。
―――ああ、
「…よかった……」
枯れる前に、届いて、よかった。
思わずこぼれてしまった言葉に、白哉が息を詰める気配がした。
「こんなに、嬉しいことって、あるんスね」
いままでだって、確かに幸せだった。何かが欠けているなんて、そんなことは思ったこともなかった。
けれど、いまは。
ぬるま湯の中にいるかのような、ぼんやりとした幸せなんかじゃない、身体中を駆け巡るように叫びを上げるこの感情が、そうだと言うのなら。―――これが、彼らが言っていた『しあわせ』というやつなのだろう。
気を抜けば涙がこぼれてしまいそうなほど、目もくらむような『しあわせ』に、声が震えてしまうのが抑えられない。
ほんとうに嬉しいとき、人は、涙が出そうになるのか。
そんな、新たな発見も胸に宿し。
離さないと言わんばかりにつよく白哉を抱き竦めながら、恋次は笑う。隊長、と愛しい人を呼べば、腕の中に閉じ込めた肩がわずかに揺れた。
「俺、ずっと馬鹿でいいです」
「……そうか」
その言葉の意味を、聡いこの人ならすぐに理解しただろう。
『―――愚かな、ことではないのか』
あのとき告げられた言葉に隠されていたのは、叶うはずもないと押し隠された、こんなにも深くあたたかな想い。
それが自分に向けられていた奇跡を、腕の中のぬくもりとともに改めて恋次が噛みしめていると、不意に、ぽつりと、くぐもった声が聞こえた。
「……悪くはない、やもしれぬな」
その応えに、恋次は目を見開き、それから勢いのままにぱっと腕を離す。ばっちりと合わせた顔は、ひどく穏やかなものだった。抱きしめられているのだから見られることはないだろうと油断でもしていたのか。それは、恋次がいままで見てきた中で、もっとも彼の感情が乗せられた優しい顔だった。
恋次の突然の行動に驚いたのか、慌てて表情を消してしまった白哉に、恋次は喜びを隠しもしない笑顔で告げる。
「隊長。部屋、戻りません? 一緒に」
「……どちらの」
調子に乗るなと怒られることも覚悟していたが、白哉は意外にも拒絶の意思は見せず、ただ恋次の言っている行き先について尋ねてくる。
「そりゃ、まあ、俺の方が近いから、そっちかな。戻りましょうよ、俺そろそろ寒いです。んで、一緒に寝直しましょ」
「は?」
ぽかんとした様子の白哉に構わず、恋次は自分よりも白くて細い手をぱっと掴むと、意気揚々と雪の庭を戻り始めた。
「駄目っスか? 俺ら今日は非番じゃないっスか。別に朝だらっとしてても誰も怒りませんよ。つーかこんな時間、まだ誰も起きてねえだろうし」
離せと言うこともなく、ただ恋次に引かれるまま歩を進めていた白哉は、突然の展開についていけないのか落ち着かなげに視線を彷徨わせる。……まあ、四大貴族の当主ともなれば、誰かと一緒に寝転がるという経験すらほとんどないのだろう。もしかして、仕事が多忙だからとかそんな理由で、夜中起こすのも忍びないと奥さんとも別々に寝てたりしたのかもしれない。この人なら有り得ると言えてしまうのがまた困ったところだ。
いそいそと部屋に戻った恋次は、上着も足袋も手早く脱ぎ去って、再び夜着だけになると我先にと布団の中に潜り込む。そして、そんな恋次をやや困惑したように見下ろしていた白哉を、はやくと手招きした。
「は〜〜最高の抱き枕ゲット〜〜」
おそるおそるといった様子で布団の端に腰を下ろした白哉の腕を掴み、恋次は遠慮なく布団の中に引き摺り込む。同じ敷布に転がり抱きしめたところで、夢のような心地のまま、恋次は楽しげに笑ってそう言った。
「私を抱き枕呼ばわりするか」
「じゃ湯たんぽ」
「変わらぬわ。そもそも、体温ならばおまえの方が高―――」
「じゃあ隊長が俺のこと湯たんぽにしてくれていいんで〜」
「いつ私がそのようなものが必要だと言った」
「抱き枕の方がいいっスか?」
「いらぬ。このような大きな抱き枕」
返ってくる返事こそ素っ気ないが、しかし白哉は突き放すこともせず、恋次の腕の中に大人しく収まっている。それだけで、嬉しさから頬が緩んだ。
「えー? でも抱き枕って、確か大きい方がしがみつき易くて安眠効果高いって聞いたような」
「…そうなのか」
「らしいですよ?」
「……ならば、おまえは安眠できぬのではないか?」
「えっ? なんで?」
唐突な言葉に本気で首を傾げた恋次は、しかしその一拍後、白哉の言いたいことを察して、思わず大きな笑い声を立ててしまった。くすくす、なんて可愛いものじゃない。本当に遠慮のない、部屋中に響くような大声だ。
「あっはっは!」
突然のことに驚き目を見開くも、すぐにむっと唇を尖らせる白哉の横で、恋次は目尻に涙が浮かぶほど盛大に笑い転げた。
どうやら、抱き枕だと、そう言った恋次の言葉を真に受けたらしい。
大笑の衝動が収まってくると、恋次はすっかり拗ねてしまったように見える白哉に、まだ笑いの余韻の残る声で言った。
「訂正します。抱き枕でも、湯たんぽでもなく、隊長がいいです」
「……抱き心地は保証せぬぞ」
「何言ってんスか。最高ですよ」
ぎゅっと抱き竦める腕に力を込めれば、白哉は呆れたようなため息をひとつ漏らす。そして、驚くことに、そっと恋次を真似るように腕を伸ばしてきた。自分の背に回った優しい手のひらのぬくもりに、恋次は思わず目を見開く。当然、予想外のことに身体もわずかに強ばった。
「……なんだ」
胸に顔をうずめていて恋次の顔など見えないはずなのに、まるでこちらの表情が見えているかのように、白哉は何か文句でもあるかと言わんばかりの声を寄越してくる。恋次は、今度は腹を抱えるような大笑ではなく、口の端を持ち上げるだけの穏やかな笑みを浮かべて言った。
「隊長。ちょっと早いんスけど、先に言ってもいいですか?」
何を、と尋ねる声が返ってこないということは、いまの恋次の言葉だけで続く言葉を察したのだろう。相変わらず頭の回転の早い人だ。
「誕生日、おめでとうございます」
ささやくようにして、一日早い抜け駆けの祝いの言葉を贈れば、恋次の背を抱く細い腕にわずかに力がこもった。その感覚が心地よくて、はやくも眠気に誘われながら、それから、と恋次は言葉を続ける。
「ありがとうございます。…―――生まれてきてくれて」
ぴくりと跳ねた身体をもう一度しっかりと抱き直し、満足げに微笑むと、恋次はやってきた微睡みの気配にゆったりと身を委ねた。眠気の誘うままに、重く感じる瞼を落とす。
その瞼に、そっとやわらかな感触が触れたことには、残念ながら気づかなかった。
「―――――…」
* * *
コキア
『私はあなたに打ち明ける』
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