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花は散りぎわ


 
 まだ朝靄の立ち籠める薄暗い早朝。間もなく日が昇るであろう頃合いを見計らって、白哉は霊圧を完全に消し屋敷を出た。たった一度だけ、マユリとともに虚と遭遇した場所まで瞬歩で急ぐ。

 ―――京楽には、悪いことをしたな……

 師を亡くし、親友を亡くしたばかりだというのに、この上白哉までもとなれば、まだ塞がる気配のなかった心の傷がよりいっそう抉られるだろう。総隊長としての役目を果たしている彼に、自分がする仕打ちは斯くも残酷なものだ。恋次を無事に返すことができればルキアは大丈夫だろうとわかっているが、京楽はそうはいかない。彼の副官が頼りだが、慰めてやってくれるだろうか。

 まだ死ぬまでに時間はあるのに、すでに走馬灯のように過去の記憶が思い出されては消えて行く感覚に、白哉は口元にわずかに自嘲を浮かべた。……恐ろしい、という感覚はあまりないけれど、惜しい、と思う感覚は確かにあって、自分は存外この生を楽しんでいたことに気がつく。

 父母は早くに亡くしたけれど、わが子に代わるように自分を育て上げてくれた祖父がいて。

 浮竹や、京楽や、―――まあ、夜一なども、よく屋敷に遊びに来て。騒々しくも、その日常は決して嫌いではなかった。

 それから、妻に出逢って。誰かを愛する喜びと、しあわせを知った。ともに過ごせた時間はあまりにも短いものだったけれど、それは確かに白哉の胸の中で息づいていた。

 その後、託された義妹を見つけて。多くの出来事を経て、いつの間にか、本当の妹のように想えるようになった。大切だった。

 そして―――副官として現れた、あの男。
 太陽のようなあたたかさで、再び私の手を引いた男。
 もう二度と、その笑顔を見ることはできないけれど。

 微笑んだ顔も、上機嫌な声も、慈しみに溢れた言葉も、そのどれをも。
 確かに、覚えている。

 嘆くことなどひとつもない。この胸の中にあるものすべて、たとえ命尽きようとも、決して色褪せることはないのだから。

 ―――おまえのもとへ逝くよ、緋真

 もう一度逢えたら、そのときは、私の話を聞いておくれ。
 おまえとはまるで似ていない、けれどふとしたときに同じように私を救ってくれる、私が愛したもうひとりの話を。

 おまえはきっと、よかったと、そう言ってくれるのだろうから。

 静かに凪いだ心で足を止めれば、そこはあのとき「阿散井恋次」を見つけた場所。流魂街の外れ、誰もいない木々の生い茂った林の中。逃げるように姿を消した相手を挑発するように、白哉は霊圧をわずかに上げた。

 すると、途端に空気が震える。

 一拍遅れて現れた影に、やはり、と白哉は心の中でつぶやいた。

「―――貴様の目的は私だろう」

 刹那、にたりと、恋次の顔をした虚が嗤う。

 心臓に寄生する虚ならば、できる限り強大な霊圧の持ち主を寄生木としたいと思うのが自然の理だろう。恋次という身体を手に入れたのにも関わらず、派手な喰いっぷりで注目を集め、わざと白哉たちの前に姿を晒したのがその決定的な証拠。―――この虚の目的は、四大貴族の血を有する白哉の身体だ。

 白哉は、マユリが解析した推論をさも知らぬ振りをして、恋次の身体を奪った虚に言い放つ。

「愚かな。私が高が副官ひとり斬れぬと思ったか」

 すらりと抜き放った千本桜に、虚はすっと目を細めた。恋次の顔をいいように使うなと、嫌悪が湧き出て意図せずして白哉は眉を顰める。

「くだらぬ。副官など、また必要ならば適当に挿げ替えれば済むこと。虚如きに後れを取るなど自業自得だ。貴様諸共葬り去ってくれる」

 自他ともに認める鉄壁の無表情を、この虚が見抜けるはずもなかった。口にする言葉には冷たさが滲み、虚を見据える瞳に躊躇いはない。副官ひとりの命如き、塵程度にも思わないような、冷酷無慈悲な死神。きっとそう見えている。

「―――散れ、千本桜」

 始解を命じれば、千本桜はいつものように素直に花弁を散らした。これから主が何をするのか知っているというのに、殊勝なことだ。最後に白哉が謝らねばならないのは、きっと千本桜に対してだろう。

 わざとゆっくりと襲わせた千の刃を、虚は瞬歩で避ける。どうやら恋次の身体能力をそのまま操れるようだが、しかし腰の斬魄刀には手をかけないところを見るに、彼の魂の具現である蛇尾丸までは扱えないようだ。

 見ているのだろうな、と白哉はちらりと蛇尾丸に視線をやる。きっと、すべてが終わったら、目覚めた主に事実を包み隠さず伝えてしまうのだろう。恋次には何も知らないままでいてほしいという願いと、しかしそれがどう足掻いても不可能だろうという論理的な思考が同時に頭を支配して、白哉はひとつため息をつく。

 頭を振り、白哉は千本桜を一気に散らした。

 四方から襲う刃の花弁に、わずかに虚の動きが止まる。その隙を逃さずに、白哉は虚に肉薄した。斬魄刀の柄を持つ手とは反対の手の指先が、虚の―――恋次の身体に突き出される。

 白哉の指が、恋次の鎖骨あたりを打ったのと同時に、白哉は己の胸に異変を感じた。まるで心臓を鷲掴みにされたような感覚に、思わず冷や汗とともに笑みが浮かぶ。――――成功、だ。

 虚などが、死神の扱う鬼道の詳細を知るはずもない。本当に白哉が恋次を殺したのだと思ったのだろう。一瞬にして寄生木の霊圧が感じ取れなくなったのだから、そう思うのも無理はない。―――それこそが、白伏の真髄である。

 意識が呑み込まれる前に、白哉は千本桜を刀身へと戻す。それと同時に、あらかじめ己の心臓に仕込んでおいた鬼道を発動させた。―――いわゆる、封印鬼道と呼ばれるものである。ただし、それは涅が提案したような、永久封印を可能にするような大掛かりなものではない。これは単に、縛道系に類する、ただ相手をその場に縫い止めるためのものだ。しかし、白哉にはそれで十分だった。

 ―――すまぬ、千本桜

 まさか主にその刃を突き立てることになろうとは、想像もしていなかっただろう。向きを返し、自らの心臓に当てた鋒を見下ろしながら、白哉はここまで支え続けてくれた己の半身へ謝罪を口にする。

 そして、思い起こされるのは、恋次の姿。

 この刃で己の心臓を貫けば、すべてが終わる。―――そうすれば、もう二度と、逢うことはできない。

 柄を握る手に力を込めたとき、ふと、白哉は己の頬を濡らすものの存在に気がついた。―――それが、涙であると、理解したとき、溢れんばかりの激情が湧き起こる。それは、白哉の胸の内で奔流となって荒れ狂った。

 ―――…なぜ、

 そばにいることができなかったのだろう。

 自分が望んだことは、それほど、願ってはならないことだっただろうか。
 ただ、愛した者とともに生きること、それだけを望んだのに。
 たったそれだけのことを、なぜ、自分は許されなかったのだろう。

 ―――すまぬ、恋次

 置いて逝かれる悲しみを痛いほどに知りながら、それでも、同じ苦しみをおまえに与える私を、どうか恨んでくれ。
 おまえのいない世界でなお生きる未来を拒んだ、私の弱さを嗤ってくれ。

 涙に濡れた瞳の上から、そっと瞼を下ろすと、白哉は今度こそ、躊躇うことなく己の心臓を貫いた。身体の内から、響くように虚の断末魔が聞こえる。仕留めたぞ、とぶっきらぼうに白哉に告げたのは、きっと千本桜だろう。

 白哉は、遠のく意識の中で、流した涙を掻き消すように、ゆっくりと満足げな笑みを口元に浮かべた。

 ともに生きる未来は、またしても叶わなかった。

 ――――それでも。

 この命と引き換えにすることも惜しくはない存在に出逢えたこと、それはまさに、幸福と呼んでなんの支障もない奇跡であったのだろうから。

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