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スイセンの毒


 
「……やり直し」
「んぐっ」
「これもやり直し」
「ぐえっ」
「このような予算、通るわけがないでしょう。頭は大丈夫ですか」
「…辛辣な副隊長のせいで大丈夫じゃないです……」

 ばさっ、と呆れたような視線とともに突き返された書類の数々に、恋次はすでに音を上げそうになっていた。

 というか、言葉遣いが敬語であるだけで、言われている内容はまったくもって恋次の記憶にある隊長の白哉と変わらないのだが、これはいったいどういうことだろう。それならやっぱりこの人が隊長でいいじゃないか。

 まあ、この人が隊長になったところで、恋次の知る「朽木隊長」になるわけではないのだけれど。

 あれから五日。―――そう、あれから、もう五日も経っていた。だと言うのに、いまだ現実の恋次は目覚める気配を見せず、そろそろこの現実逃避めいた仮説にも無理が生じてきている頃合だ。恋次の胸の中には、いったいどうすればいいのかという拭い去れぬ不安ばかりが渦巻いていた。

 ここはどこだ。俺はなんでこんなところにいる。どうすれば帰れるのか。何が起きたのか。わからないことだらけだ。わからないことだらけで、発狂しそうになる。―――それでも、まだ、正気でいられるのは。

「聞いているのですか、阿散井隊長」

 この、記憶にあるよりも少しばかり若く見える「朽木副隊長」が、自分のよく知る「朽木隊長」の面影を確かに残してくれているからだった。

 ―――隊長、

 呼びたいけれど、それは、目の前にいる彼じゃない。
 記憶にあるよりも幼げな顔で、感情を押し殺し切れていない表情で、大きく丸い眼差しを向けてくる彼は、恋次の求める「朽木白哉」ではない。
 それなのに、敬語を除けば口にする言葉も、呆れたような視線も、見れば見るほど彼にそっくりで。

 安堵と同時に、苦しさが増す。

「……あ。昼飯の時間」

 わざとらしく逸らした視線の先で、時計の針が正午を過ぎていることに気がつく。恋次はこれ幸いとばかりに、白哉に向けて早口に言った。

「ちょっと外出て来ま…や、出て来るな!」
「待っ―――」

 白哉の制止する声が聞こえたが、恋次は敢えて無視をした。そのまま持ち前の勢いで隊舎の外へと飛び出すと、特に目当ての店があるわけでもないのにぶらぶらと隊舎から離れるように歩き出す。

 はあ、と深いため息をついた。

 この五日間でわかったことは三つ。

 ひとつ、これはおそらく恋次の夢ではない。
 もし本当に夢ならば、さすがにそろそろ覚めてほしい。いまなら許す。夢の中で五日間も過ごすなんて初めての体験だぞコラ。

 ふたつ、ここはおそらく恋次のよく知る時間でもない。
 記憶の混乱だと偽りさりげなく白哉との会話の最中に確認したところ、三番隊、九番隊、そして十番隊の隊長が、恋次の記憶にあるものと一致しなかった。つまりは、彼らが隊長に就任するよりも以前の時代ということになる。なるほど、白哉が若いわけである。

 みっつ、どうやら、自分は異質な存在ではないらしい。
 恋次の記憶の通りであれば、本来この時期の恋次はよくて霊術院生、悪ければまだ流魂街で燻っているはずの頃なのだ。それなのに、六番隊の隊長として誰もが恋次を受け入れている。何なんだこの世界。

 当然、こんな場所に来た原因もわからなければ、帰る方法もわからない。

 恋次は、はあ、と再びため息をついた。

「おやぁ? 随分と浮かない顔だねえ」

 どうしたものかと足りない頭を必死に悩ませていると、不意に背後から声をかけられ、恋次は傍から見れば大袈裟なまでに驚き肩を跳ね上げる。自分の拙い霊圧探知などには引っかからない大物の登場に、恋次は慌てて息を整えて振り返った。

「きょ、京楽隊長……」
「やあ、久しぶり。珍しいねえ、君が白哉くんと一緒にいないなんて。さてはまた怒らせたのかな?」
「あー……ええまあ、ちょっと」

 間違ってはいない。あまりに仕事ができなさすぎて呆れられていたのだから、まあ、怒られていたと言っても過言ではないだろう。とはいえ、隊長になった覚えもないのに急に隊長の仕事を熟せと言われても、無理なものは無理である。恋次がわかるのは副隊長の仕事までだ。

「ははは。ま、あんまり気にしなさんな。白哉くんを怒らせるなんて、そんなの僕もしょっちゅうやってるし」
「…それはそれでどうなんスかね……」

 のほほんとした京楽の励ましに、恋次は乾いた笑い声を漏らす。

 それにしても、呼び名も言葉遣いもそのままでいい相手というのはまったく本当にありがたい。白哉との会話に一々詰まっては困り果てている恋次は、こちらでも自分より先輩である京楽との遣り取りにほっと安堵の息をついた。

「……ほんとうに元気ないね? 大丈夫かい?」
「えっ? あ、はい、大丈夫です…」

 唐突に放られた問いに、恋次は驚きつつもうなずく。

 確かに、京楽とは白哉の副官として話す機会は多くあったが、かと言って親しいと呼べるほどの付き合いはない。それなのに、こうもあっさりと胸中を見抜かれるとは。やはり年の功は伊達ではない。―――いや、もしかしたらこのよくわからない世界では親しい部類に入る付き合いだったのかもしれないが。

 そんなことを考えて、恋次が状況も忘れて素直に感心を抱いていると、次の瞬間、ゆらりと見知った霊圧が背後に立った。

「……――――阿散井隊長……」
「…おう……」

 そんな気配を極限まで隠して瞬歩で追って来なくても、と霊圧探知が大の苦手である恋次は自分の不得手を棚に上げて思ったが、とてもとてもそんなことを言えるような雰囲気ではなかった。恋次の記憶にあるより現在の白哉は若いのだから、放つ圧も少しやわらかくても良さそうなものを、悲しいかなすっかり背後に隊長羽織を羽織ったあの人が見えるほどの一致ぶりである。

「……追いかけて来るんだ…」
「―――当然」
「やり直しは昼飯食った後でもバチは当たらないと思うんですけど」
「…、そうではなく……」

 またしても思わず敬語になってしまったが、この返しならば茶化した物言いのように取ってもらえるだろうか。恋次が静かに冷や汗めいたものを背にかいていることなど露知らぬ白哉は、何が不服なのか険しい顔を崩そうとしない。

 そこへ、白哉が何事か応えるよりもはやく、そばにいた京楽が実に不思議そうな顔で口を挟んだ。

「君たちほんとにどうしたの?」

 京楽の発した問いの意味を理解するのが一拍遅れた恋次に代わり、その意味を的確に察した白哉がため息混じりに答える。

「……どうやら、先日の虚討伐の際に頭を打ち、脳震盪を起こしたらしいのだ。記憶の混乱が見られると。それ以外には異常がないそうだが」
「えっ! 阿散井隊長が?」
「でなければ、あの人一倍喧しく騒々しい男が、このように大人しいはずがなかろう」
「そんなにひどいの?」
「……己が隊長であることを失念し、私を隊長呼ばわりした挙句、仕事が悉く熟せぬ程度には。あまつさえ私を『朽木副隊長』などと呼ぶ始末―――」
「ええっ?!」

 京楽はここで一番の大声を上げて、大袈裟なまでに驚きを顕にしたが、恋次の意識はまったく違う方向へと向けられていた。

 バッと白哉の方へと視線を向ける。そして、相変わらず訝しげな眼差しばかり向けてくる白哉に、持ち前の大きな声で叫んだ。

「なんだよ! 京楽隊長にはタメなんじゃねえか! それじゃあ俺にもタメでよくねえ?!」
「…………」

 思わず、と言うのが正しい、口先からぽろっとこぼれてしまった言葉に、白哉と京楽は揃ってぽかんとする。ああ、やっぱり若いんだなあ、とその表情の変化に恋次がしみじみと実感していると、次の瞬間、呆れたように白哉に睨みつけられた。しかしその瞳に宿るのは、絶対零度を思わせるような冷眼ではない。

「―――仮にも隊長が、自ら規律を乱すな!」

 もっともではあるのだがやや理不尽にも思えるお怒りとともに告げられた、久方ぶりの聞き慣れた白哉の口調に、恋次は思わず目を見開き、それからほんの少しばかり息をつく。抱える問題はまだ何ひとつとして解決していないというのに、それだけで、何となく心に安心感が生まれた。

 それにしてもこの人が感情も顕に叫ぶとは、なかなか見られない光景である。そんなくだらないことを考えていた恋次と、腹立たしげに恋次を睨めつけていた白哉は、その場にいた京楽が軽快に叩いた手のひらの音に視線を互いから京楽へと移す。

「まあ、とりあえず、みんなでご飯でも行こっか」

 そうして強制連行された店が、恋次にとってはとんでもなく分不相応な料亭で必死に辞退しなければならない羽目になるなどもちろんそのときは露知らず、恋次は流されるまま、曖昧に京楽の言葉にうなずいた。迂闊なことである。仮にも上級貴族と四大貴族が揃っていながら、恋次の知る大衆向けの店に向かうという選択肢があるはずがないのに。

 当然ながら、恋次にとってその日は色々な意味で忘れられない体験をした日となった。


 虚との戦闘中に頭を打った、という恋次の口から出任せの台詞を真に受けた白哉に頼まれ診察を請け負った卯ノ花から、急遽呼び出しの通達を受け取ったのは、その翌日のことだった。

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