スイセンの毒
何かに引っ張り上げられるようにして、まだ重い瞼を持ち上げた恋次は、窓から射し込む眩しいほどの陽射しに目を細めた。ぼんやりと真っ白な天井を見上げ、妙に無機質な様相だと不思議に思う。これではまるで、四番隊の救護病棟のような―――…
「…ッ!!」
瞬間、意識がはっきりと覚醒し、恋次は勢い任せに飛び起きる。掛けられていた真っ白な布団が音を立てて捲れ上がるが、そんなことは気にもならなかった。それより何より優先すべきは、すぐ横に感じる霊圧である。恋次は、自分が寝かされていた寝台の横で、やや椅子から腰を浮かし、驚いたような顔をこちらに向けている人物を凝視した。
「…――――恋次…?」
当然のように口にされた言葉に、恋次は大きく目を見開く。
よく知った顔。よく知った声。よく知った眼差し。よく知った表情。そして――――よく知った、羽織。
背の字など、見るまでもなく。
「…―――たい、ちょう……?」
恋次が求めてやまなかった、六番隊隊長の『朽木白哉』が、そこにいた。
たどたどしくこぼれ落ちた恋次の言葉を聞いた白哉は、彼にしては異様なほど大きく、そして深く、息を吐く。そこに込められていたのは、紛うことなき安堵の色。
「……隊長、なんスか…? ほんとうに……?」
まだ信じられない想いで白哉を見つめていると、白哉は訝しげな声で問うてきた。
「……私が、他の誰に見えるというのだ」
「そ、それは……」
「よもや記憶が混濁しているのではあるまいな―――…恋次」
「…ッ、!!」
まただ。また、当然のように、この人は。
名を―――…
「恋次?」
思わず、震える手を己のそれで掴んだ恋次に、何か異変でもあるのかと白哉は眉をひそめて椅子を立ち上がる。
「恋次、どうした」
触れそうな距離まで近づいて、恋次の顔を覗き込もうと身を屈めた白哉に、恋次は思わず手を伸ばした。寝台で上体を起こしただけの恋次は、白哉の腰を引き寄せる形で、彼の腹あたりに顔をうずめる。まるで、子どもが大人に縋りつくかのように。
当然、白哉からは驚いたような声が上がった。
「恋次っ? 何を、」
「―――名前、を」
おかしな行動だと、自分でもわかっている。相手は上官だ。憧れで、目標で、近いようで遠い人。間違っても、こんなことをしていいような相手ではない。
けれど、どうしても、いまだけは離したくなくて、ここにいることを確かめたくて、恋次は喉に閊える言葉を無理やりに押し出す。
「名前を、呼んで、ください」
身体の震えが止まらない。―――恐ろしいのだ。この人が、幻のように消えてしまうことが。夢だったと、またあちらで目覚めることが。
「――――恋次」
恋次の様子が尋常ではないと察したのか、白哉はわずかな沈黙を落とすと、恋次の要求に応える。
静かな声。聞き慣れた音。
「もっ、と、」
「恋次」
「もっと、」
「恋次。―――恋次」
不意に、すっと白い腕が伸ばされ、なぜか優しく頭を抱き込まれる。そして、結われていない赤い髪を、まるであやすように撫でられた。その手のひらの心地良さに、ゆっくりと、身体の震えが収まってくるのを感じる。
「恋次。……恋次、……恋次」
そうして、何度も、何度も、何度も。
白哉は何も言わず、何も問わず、ただ恋次が求めるがままに、ずっと名を呼び続けてくれた。
過呼吸のように激しかった息が、次第に整ってきて。
どこかへ走り出して行ってしまいそうなほど、うるさく叫び続けていた心臓が、徐々に落ち着きを取り戻すと。
恋次はようやく正気を取り戻し、そして、気が動転していたでは済まされない己の痴態に、穴があったら入りたいと愕然とした。
「……恋次?」
馬鹿力のままにしがみついていた白哉から、恋次がそうっと腕に込めていた力を抜くと、白哉は不思議そうな声を頭上から落としてくる。その声は予想外にも穏やかなもので、先ほどからずっと恋次の頭を撫でている手のひらと同じくらいに、優しいあたたかさを含んでいた。
「……あ…、の………」
何からどう弁解すれば良いのかわからず、恋次は口ごもる。しかし、とにかく何を置いてもまずはこの言葉だろうと、恋次は勢いよく白哉から離れ、居住まいを正すと、ばっと頭を下げ―――ようと、した。
「すッ、すいませんでし―――ッうわあっ?!」
それが不発に終わったのは、なぜかぐんっと腕に重みを感じたのと同時に、今度は白哉が恋次の方へと倒れ込んで来たからであった。恋次は慌てて白哉を抱きとめ、それから、互いの腕が何やら紐のようなもので繋がっていることに遅れて気がつく。
「あああっ、す、すいません隊長ッ!!」
「………よい」
どうやら二人の腕を繋いでいるこの紐のようなもののせいで、白哉から勢いよく離れた恋次に引き摺られるようにして白哉は体勢を崩したようだ。謝る案件が二つに増えてしまったことに恋次は青ざめるが、白哉は霊圧を上げることもせず、口調も静かなままだった。
「あの……何スか、これ」
恋次がおそるおそる自分と白哉を繋ぐ紐を摘んでみると、ほのかにあたたかい温度が伝わってきた。確かに感触はある、のだが、どうにもうっすらとした印象で本当にそこにあるのかどうか疑わしく思えてくる。腕に何か嵌められている感覚もないため、今の今までまったく気づかなかったのだ。
「……恋次。観察するのは構わぬが、私が起きてからにしろ」
「えっ? あっ、すいません!」
恋次が摘んでいるせいでさらに長さが制限され、白哉が起きるに起きられぬ状態になっていたことに指摘されて初めて気がつき、恋次はまたしても慌てて謝ることとなった。
ぱっと妙な紐から手を離すと、白哉は紐を気にしながらゆっくりと体勢を元に戻す。それと同時に膝の上にあった体温がなくなってしまって、恋次は、部屋はきちんとあたたかいはずなのに、ほんの少し寒いような気がした。
「……それは、霊力の移譲装置だ。浦原喜助に無理を言い、急遽用意してもらった」
「移譲? なんで?」
恋次が首を傾げると、白哉は呆れたような口調で言った。
「……兄は、十日も意識が戻らなかったのだぞ」
「へえっ?!」
なんだってそんなことに、と一瞬は驚いたものの、恋次はすぐにその数字に覚えがあることに気づく。―――そう、それは、恋次が「あちら」で過ごした日数ときっかり一致するのだ。
時間は同じように流れていたのか、と思うのと同時に、こちらでは『阿散井隊長』は現れなかったのだな、と少しだけ残念に思う。もし彼と会った人物がいたら、どんな様子だったのか聞こうと思ったのに。
ちらりと白哉を見やると、なぜか先ほどまでの穏やかな様子が鳴りを潜め、眉間にひとつシワの増えた顔で淡々と告げられる。
「加えて、一刻ほど前に突然、急激な霊圧消費が起きて危険な状態だと虎徹勇音から連絡を受けて…。この装置で私の霊力を兄に流し続け、先ほどようやく容体を安定させたところだったのだ」
「そ、そうだったんスか…。あの、なんかすいません、ほんとすげえ迷惑かけたみたいで……」
恋次は悄然とうつむき、まったく情けないと自嘲する。……ほんとうに、どうしたら『阿散井隊長』のように、あちらの白哉にあそこまで言わせられるような男になれるのだろう。自分では、相変わらず隊長に迷惑をかけっぱなしのだめな副官だ。
「ていうか、流し続けたって、どんくらい……」
「概ね一刻ほど。今も流し続けている」
「えっ、ちょ、それ隊長は大丈夫なんスか?!」
「大事ない」
「…隊長のその言葉はすげー信用に欠けるんスけど……」
「四大貴族の血だ、案ずるな」
あっさりと告げられた言葉に、ようやく恋次は納得する。―――そうだ、この人の霊圧は、恋次などとは比べものにもならない強大なもの。おそらく、恋次ひとりに分け与えたところで差し障りはないのだろう。
ひとまずほっと息をついたところで、恋次はふと寝台の横のテーブルに、控えめに置かれた花瓶を目にとめる。―――否、正確には、花瓶の中で鮮やかに咲く、陽のひかりを集めたような黄色の花を。
「…あれ……その花……」
恋次がのそりと鈍く感じる腕を持ち上げ花を指差すと、なぜか白哉の顔がやや驚きに染まった。すっと気まずげに逸らされた視線に恋次は首を傾げるが、せっかく教えてもらったので、構わずその花の名を言い当ててみる。
「水仙、っスよね、確か」
「………よく、知っているな」
「いやあ、正直ついこの間までは全然知らなかったんスけど、びゃ…向こうの隊長が教えてくれて」
「……向こう?」
何の話をしているのだと訝しげな顔をする白哉に、しかし恋次は説明は後回しにして、不思議な偶然に首を傾げながら尋ねた。
「もしかして、隊長の好きな花とかなんスか?」
「…いや」
「あれっ、違うんスか。一緒だったからてっきり……」
「……先ほどから一体何と比べている」
「え? だから向こうの……いや、それはいいんスけど…」
説明すると面倒で長くなりそう―――というより、信じてもらえるかも怪しい妙な体験だったので、これは話すべきなのかどうか迷うところだった。恋次と入れ替わるようにして『阿散井隊長』がこちらに来ていたならば説明にも信憑性が出るのだが、どうやら自分は十日間ずっと昏睡状態だったらしいので、その線はないだろう。
「それじゃ、隊長の好きな花って?」
「………桔梗、だが」
とりあえず話を逸らそう、と振った話題に、白哉はやや面食らったような顔になるも、特に嫌そうな顔はせず戸惑い混じりに答えてくれた。
恋次は告げられた花の名を復唱する。
「…キキョー……」
「その様子では知らぬな」
「あはは。あとで調べときます」
軽い調子で笑って流すと、白哉はどうしたのかすっと瞼を伏せると、疲れの隠しきれていない様子で呆れたようにため息をついた。
「……まったく……十日も昏睡状態だったかと思えば、目覚めて始めにするのが花の話とは……」
「なんか、コイツ呑気すぎて信じられない、みたいな言い草っスね……否定はしませんけど……」
「事実であろう」
ばっさりと容赦なく返され、恋次は苦笑した。
そして、迷いない口調で言い返す。
「隊長がいるからです」
あんたがいれば、もう何も怖くない。
あんたさえいれば、おれは、笑えるんだ。
気が抜けたのか、恋次はゆっくりと大きな息を吐くと、自分へ霊力を送ってくれているのだという紐で結ばれた白哉の手をそっと取る。両手で包み込むようにして、己の額を白哉の手の甲につけると、うつむいたままつぶやきをこぼした。
「………戻って来れて……ほんとに良かった……」
「…―――どこから」
恋次の言葉を聞き逃すことなく拾い、静かに尋ねてくる白哉に、恋次はゆっくりと顔を上げる。そして、おかしそうに笑うと、自分の体験したこの十日の出来事について、ぽつぽつと話し始めた。
なんとなく、この人には、知っていてほしいような気がしたのだ。
自分が隊長で、隊長が副隊長だった、と言ったときには、白哉の眉間のシワがものすごいことになったけれど。
「大丈夫です! 向こうの隊長も、向こうの俺のこと『いつもサボってばかりで迷惑しかかけられた覚えがないし、戦闘はともかく仕事に関しては無能もいいところだ』って言ってましたから!」
「…それはそれでどうなのだ……」
そんな呆れた返しを受けたりもしながら。
「―――それで、まあ、あっちの隊長の手助けもあって、なんとか虚は倒せたんスけど。つーかもう六杖光牢の詠唱破棄してんスよ、向こうの隊長。あの若さでホントえげつねえ」
「……なるほど。ならば、兄の霊圧が先ほど急激に消費されたのは、時刻の合致を考えるとその虚との戦闘が原因か」
あのとき存分に力を発揮してもこうして何事もなく恋次が無事で済んでいるのは、おそらくこちらの白哉が霊力を分けてくれたからだ、ということも、会話の最中に推測が立った。
ほんとうに、まったく、世話をかけっぱなしだ。
それでも、出来得る手立ては惜しまず尽くし、こうしてそばに付いて心配してくれていたのだと、そう思うと、どうしても喜びが湧かずにはいられない。
十日間あちらで一緒に過ごした『白哉』との時間を語り終えると、恋次は、白哉をまっすぐに見つめる。そして、隊長、と呼びかけると、心の底から安心した声で、恋次は穏やかに告げた。
「これからも、ずっと、俺の隊長でいてくださいね」
それを受けた白哉は、わずかに目を見開き。
「………ならば、おまえも私の副官としての役目を果たせ。次、十日も昏睡するようなことがあれば、そのときは許さぬぞ」
ふいっと視線を逸らして、一見すると素っ気なくも聞こえる口調で恋次に告げた、その耳が、わずかに赤いのを認めて、恋次は頬を緩ませる。
自分はずっとこの人を求めていたのだ、と改めて感じながら。
はい、と恋次は力強い声で応えた。