スイセンの毒
「えーと、白哉、これ頼む」
「……それが最後ですか?」
「おぉ。昼前までに終わらせろって言われたのは、これで全部」
「わかりました」
恋次から差し出された書類を受け取り、白哉は己の手元にあった書類を横に退かすと、すぐに内容を確認し始める。紙を捲ってゆくその手の速さに、恋次は何度目かの苦笑いをこぼした。……ほんとうに、なんでこっちの俺が隊長なんてやってるんだろう。副官の方が圧倒的に優秀じゃないか。
恋次の正体が露見してから五日。
白哉は、副隊長の経験しかない恋次のために、隊長格の仕事のほとんどの指導と確認に大幅な時間を割いてくれていた。それでも己の仕事はきっちりと熟しているのだから、まったく脱帽の一言である。
それにしても、こちらでは副隊長であるはずの白哉がなぜ隊長格の仕事の内容を把握しているのかと最初は疑問に思ったのだが、それに対する解答は「阿散井隊長がいつも仕事をサボっているから白哉がいつもフォローをしている」という何とも複雑なものだった。
「……ひとまず、良いでしょう」
「よっしゃ! それじゃ昼休み?!」
「……どうぞ」
五日間の猛特訓の甲斐もあって、恋次の白哉に対する態度もなかなか自然なものになってきていた。慣れるにあたって恋次が行った対策は「そもそも朽木隊長のことを名前で呼んだことなんてないのだからつまり『白哉』というのが朽木隊長の名前だと意識しなければいい所詮は『び』と『や』と『く』と『や』という音の集合体でしかないのだよしいける」というかなりの暴論だったが、おそらく多少は効果があったのだと思いたい。努力したのだ、本当に。とにかく白哉の見目が若くて助かった。まったく同じだったらさすがにこうは行かない。
恋次はわかりやすく顔に喜色をたたえ、いそいそと机上を片付けると、足元に置いておいた風呂敷を取り上げた。
恋次が椅子から立ち上がらないのを見た白哉は、意外そうな顔をする。
「……今日は外へ行かぬのか」
白哉の口調が変わったことに、恋次は上機嫌な笑みを返す。これは恋次からの頼みで、白哉に対し一切の敬語を使わないよう努力するから、代わりに仕事以外の時間では敬語を止めてくれと言ったのだ。意外にも、白哉はあまり渋らずその提案を受け入れてくれた。それだけ恋次の正体を隠すのに必死だったのかもしれないが。
「おう。今日はおまえとここで食うわ。今朝、なんか美味そうな飯屋見つけてさ、覗いたら弁当もやってるって言うから」
「……そうか」
白哉は短い応えを返してくると、すっと再び書面に視線を落とした。そのまま微動だにしなくなる白哉に、恋次は首を傾げる。
「食わねえの?」
「……私は後でよい」
「後って……けど、ずっと俺の世話で忙しいだろ? 俺が休んでるときくらいしかちゃんと休めねえじゃねえか」
「………」
違和感しかない白哉の行動に恋次が不思議そうな視線をやると、白哉はすっと視線を泳がせる。恋次でもなく、手元の書面でもないその視線の行き先は、どう頑張って解釈しても執務室の壁に打ち当たるだけだった。
その仕草は、あの人が返答に窮したときに見せるものと、よく似ていて。
―――まさか……
嫌な予感がして、恋次はじとりと白哉を凝視する。
「なあ」
「……なんだ」
「……まさか、毎日俺が外に飯食いに行ってる間、ずっと食わずに仕事してるとかねえよな? 俺の分の仕事も見なきゃいけないから、自分の分の仕事は休憩時間削ってやってるとかそんな馬鹿なことしてないよな??」
「…………」
明らかに先ほどよりも宙を彷徨った視線に、恋次はこれは決定打だと思わず顔を覆った。はああ、と深いため息が漏れる。そうさせてしまっているのが他の誰でもない自分であるため、それは余計に大きなものとなった。
「………わかった。むしろおまえが俺の仕事見ながら自分の仕事まで全部普通に熟せてると思ってた俺が馬鹿だった。ンなわけねえよな。悪い、俺のせいなのはわかってっけど、昼飯抜きはダメだ」
がたっと粗雑さの隠せない音を立てて椅子から立ち上がると、つかつかと白哉の机の前まで歩を進め、恋次は手に持っていた弁当をずいっと白哉の方へと差し出す。気圧されたようにやや身を引いた白哉の反応に、恋次は遅れて彼が貴族―――それも、四大貴族という貴族の中の頂点に位置する身分であることを思い出した。
「あ、そうか。おまえ回し食いとかダメか」
そもそも、人と同じものを同じ箸でつついて食べる、という発想自体がなさそうである。迂闊だった。この口調に慣れるために必死だったからか、本当に相手があの朽木隊長と同じ人物であるということを忘れかけていたようだ。
「じゃあ一緒に外行こうぜ。待ってろ、これいますぐ掻っ込むから」
恋次は白哉を外に連れ出すべく、手に持っていた弁当を己の方へと引き戻そうとする。しかし、その手を、なぜか白哉の細い手が止めた。
「……そのようなことはない」
「いや、無理しなくていいって」
「兄にできて、私にはできぬとでも?」
「いやそんなことは言ってねえ!」
まったく、プライドの高さはちっとも変わらないようである。再びあの人の面影がちらちらとする中、恋次は物は試しと弁当を机の上に置いてみる。すると、おそるおそるといった様子で、白哉は弁当を手に取ると、恋次の弁当に刺さっていた箸を丁寧に引き抜いた。その動作さえ優雅と言うのが相応しい所作で、恋次は自分と白哉の育ちの差を改めてしみじみと感じる。
「…しかし……なぜ米の上に肉が乗っておるのだ」
「えっ、そこから?」
不思議そうに弁当の中身を眺めてつぶやく白哉に、恋次は思わずぽろっと言葉をこぼしてしまう。案の定、白哉の眉間にシワができた。
「馬鹿に―――」
「してないしてない! いやこれは、まあ、庶民には割と一般的なスタイルと言うか何と言うか。美味いしあと上に乗せると嵩張らないし」
「……なるほど。しかし米が変色しているが」
「なにぃ?! タレの染みた米の美味さを知らない?! いやそれ人生損してるぜ! いますぐ食ってみろ!! そしたらわかるから!」
白哉は急に叫び始めた恋次の勢いに押されるように身体を引いたが、やがてそっと箸でタレの染み込んだ米を持ち上げると、半信半疑といった様子で口の中に運んだ。……どうでもいいのだが、一口の大きさが小さすぎやしないだろうか。こんな調子じゃ食べ終わるまで何時間かかるのだか知れない。
もぐもぐと随分お上品な咀嚼を終え、咽下し終わると、白哉は静かに箸を置いて恋次を見上げる。そして、ぽつりとつぶやくように言った。
「……悪くは、ない」
「よしよし、美味いってことだな」
「…誰もそこまでは―――」
「言葉の裏を読むのは朽木隊長で慣れてんだよな〜」
「…ッ……」
図星を突かれると黙り込む癖はまったくあの人と同じで、恋次はニッと歯を見せて笑った。けれど、まさかこれだけで昼食を済ませたとは認められないので、やはり外には連れ出そうと恋次は残りを片付けてしまうべく弁当を手に取る。白哉が箸を置いたということは、悪くはないしそこそこ美味いとは感じたが、やはり馴染みのない味でそれ以上食べようとは思わなかったのだろう。それか、もしかしたら甘ダレだったのがいけなかったのかもしれない。彼の好物は辛味だ。
白哉の十倍ほどはありそうな一口を何度か繰り返し、あっという間に容器を空にした恋次は、そのまま外へ何か食べに行こうと白哉を促す。一度こうなると絶対に譲らない性格であることは白哉もわかっているのだろう、不服そうな顔ではあったが、恋次の手招きに応えるように席を立った。
それに満足して視線を扉の方へと向けた恋次は、ふと、窓際に見覚えのない色が鎮座しているのを認め、踏み出そうとしていた足を止める。
「……あれ?」
窓辺など、普段は雨が降っているかどうかの確認くらいでしかあまり目を向けないのだが、いつの間にか窓台に置かれていた花瓶の中で咲く目に鮮やかな黄色の色彩に、思わず目を奪われた。
花を愛でるような雅な趣味は生憎と持ち合わせていないが、ただ単純に、陽射しを吸い込んだかのような色合いは綺麗だと思った。
「あー…、ええと、なんだっけ、この花」
「―――水仙、だ」
ちらりと横目で恋次の指差す花を見やった白哉は、なぜか先ほどよりも小さな声でぽつりと答える。
「ああ! そうそう! 確かそんな名前だった。おまえが飾ったのか?」
「……花瓶が、余っていた故」
「へえ。さすが、気が利くなあ。俺じゃこういう風流みたいなのはさっぱりだ。……けど、なんか、こいつ元気ないな…?」
近寄ってまじまじと見つめてみると、なぜかもう花びらや葉の先は萎れてしまっている。貴族の教養としていくらでも良いものを見てきたのであろう白哉ならば、恋次でさえ気づくような萎れに気づかぬはずはない。つまりは、敢えてこの花を選んだのだろう。しかしその理由がわからず恋次が首を傾げていると、白哉はあっさりと言った。
「花盛りを過ぎたものだからな」
「え、じゃあもう枯れそうなの選んできたってことか? なんで?」
「……花にとっては、地に咲く方が良いに決まっておろう」
ぼそりと、視線を恋次から逸らしながら告げられた言葉に、なるほど、と恋次は納得する。……若く瑞々しい花を摘むのは心が痛むということか。
―――やっぱり、朽木隊長なんだよな
端々に見えるわかりにくい優しさひとつ取っても。
安心なのか、苦しさなのか、複雑に綯い交ぜになったよくわからない感情が胸に沸き起こり、恋次はすっと白哉から視線を逸らす。
忙しげに扉が叩かれたのは、その直後だった。
「――――阿散井隊長! 朽木副隊長! 卯ノ花隊長からの緊急の通達が先ほど地獄蝶にて届きました!!」
入室の許可を得て入ってきた隊士の、慌ただしい声が部屋に響いた。