スイセンの毒
「わざわざお呼び立てしてすみませんね、阿散井隊長」
丁寧な所作で目の前に腰を下ろした卯ノ花に、恋次は隊長と呼ばれることに相変わらず違和感を感じながらも「いえ」と軽い笑みを浮かべて返した。
「お身体の調子はどうですか?」
「あ、はい。おかげさまで、特に問題はありません」
「そうですか。それはよかった」
ゆったりと微笑む卯ノ花の呼び出しの意図が読めず、恋次は彼女に合わせるように笑顔を浮かべて用件の切り出しを待つ。
しかし、卯ノ花の視線は恋次ではなく、やや後方へと向けられた。当然ながら、そこには恋次の副官である白哉の姿がある。
「……少々、席を外していただけますか?」
白哉はわずかに目を瞠ったが、すぐにその視線を恋次へと向けてきた。
副官に命令を下せるのは、基本的に直属の上官―――隊長格のみである。恋次が否と言えば、白哉は必ずしも卯ノ花の命令に従う必要はない。
―――やっぱり、何かあんな……
副隊長は、たとえ戦闘などの緊急時であっても、余程のこと―――それこそ隊長からの命令でもなければ、隊長のそばを離れることはない。それを敢えて促すということは、それだけ不穏な話と取って間違いないだろう。
―――俺のことバレたとか?
いま現在、心当たりはそれしかない。いまの自分の状況を言い表す言葉は生憎と見つからないが、少なくとも恋次がいま自分の居るべきでない場所にいることだけは確かだ。―――それを、卯ノ花が見抜いたのだとしたら。
―――俺への配慮、だよな……たぶん……
もちろん、恋次が敵なのか味方なのかわからないこの状況の中、仲間を少しでも遠ざけ安全を確保したいという思惑もあるのだろうが。
「………卯ノ花隊長」
「はい」
「よかったら、このまま聞かせてもらえないスか?」
「……よろしいのですか?」
恋次の意図をしっかり汲み取ったのか、すっと細めた目でこちらをじっと見つめてくる卯ノ花に、恋次は笑顔を崩さずにうなずいた。
「……わかりました。それでは……」
ほんのわずか、口元の笑みを深くし、卯ノ花は一拍置く。そして、一瞬にして穏やかな微笑みを消すと、敵を見抜くかのような眼差しとともに告げた。
「…――――あなたは、誰ですか?」
まったく予想した通りの問いに、恋次は苦笑する。
どこから判断したのかは知らないが、まったく、どこかの誰かが言っていた通り恐ろしい人である。荒くれ者どもの頂点に立つあの人がそんなことを言う意味がいまいちわからずにいたが、なるほど、とこのとき恋次は納得した。
「……阿散井恋次です、一応」
「一応、とは?」
「少なくとも俺は六番隊の隊長じゃないっスね」
白哉の前で堂々とそう言い放ち、恋次はちらりと後ろを窺い見る。しかし意外なことに、白哉の顔に思ったほどの驚きの色は見られなかった。じっとこちらを凝視してくる白哉と目が合ってしまい、恋次はすっと視線を逸らす。
「…そうですか……」
「その反応じゃ、だいたい予想通りって感じみたいですけど、なんでそう思ったのかって聞いてもいいっスか?」
「構いませんよ」
卯ノ花はあっさりとうなずき、かたん、と席を立つと、近くの棚から何やら書類を持って戻って来た。すっと差し出された紙面を覗き込んでは見るが、しかし、細かな数字やら分析表やらが並んでいるということしかわからず、恋次はすぐに顔を上げる。
「えーと……これは?」
「あなたを診察したときの霊圧の詳細分析表です。―――結論から申し上げると、あなたの霊圧は、私たち四番隊が定期的な診断によって管理している六番隊隊長のものとはわずかに一致しない部分がありました」
「へえ……まったく同じってわけじゃないんスね」
紙面に記されている内容はよくわからないが、卯ノ花の明瞭な解説によって彼女が気がついた理由を理解した恋次は、なるほどとうなずいた。
「ええ。それで、内密に涅隊長に解析を依頼したのですが、結果、あなたの霊圧の齟齬は、別人とは到底断定できる大きさではないけれど、機械の不備や偶然で片付けられる小ささでもない、というお話でした」
「色々手が早いっスね……」
もう涅隊長のところまで話が行っているらしい。被検体に、と捕まらないよう気をつけなければ、と割と本気で考える恋次に対し、卯ノ花は再度同じ言葉を口にした。
「もう一度お尋ねします。あなたは誰ですか?」
「……俺は、六番隊副隊長、阿散井恋次です」
卯ノ花が繰り返して尋ねてきた意味を的確に察して、恋次は包み隠さずに自分にとっての事実を答える。
「それでは、あなたの隊長は?」
「こっちで言う俺の副官がそうですね」
ちらりと視線をやると、今度はやや驚いたような顔をしている白哉が目に映った。
「朽木副隊長」
卯ノ花の視線が、恋次から白哉へと移される。白哉もまた、呼びかけに応えるように恋次から卯ノ花へと視線を移した。
「あなたから見て、彼は本当のことを言っていると思いますか?」
「………」
さすがに即断即答はできないといった様子で、白哉は部屋に沈黙を落とす。そりゃあそうだよなあ、とここ数日不審だらけだったであろう自分の態度を思い返して、恋次は心の中でひとりため息をついた。
しかし、その沈黙は、落とした本人である白哉によって、すぐに破られることとなる。
「――――事実であると、考えます」
「…!」
思わず身体ごとぱっと後ろを振り返った恋次だったが、白哉は恋次の驚愕の視線などまるで視界に入っていないかのように、卯ノ花に述べた。
「彼の部下への対応は、私に対するものを除き、私の知る阿散井隊長本人のものとまったく相違ありません」
「あなたに対するものを除き、という点は?」
「彼の言う通り、私と彼の立場が反対であるとすれば、その反応は却って話の信憑性を高めるものであると考えます」
「…なるほど。わかりました」
卯ノ花はその答えに満足したのか、うなずきをひとつ返すと白哉から視線を外し、そして再び恋次の方へと目を向けた。
「……あの、やっぱり、ここ違う世界とかそういう話なんスかね…?」
「それは断定できません」
恋次のおそるおそるとした問いに対し、卯ノ花は容赦なくばっさりとそう言い切った。しかし、はやくも心が折れそうになっている恋次に、ですが、と卯ノ花は言葉を続ける。
「先日、阿散井隊長が―――いえ、おそらくあなたではない方ですが、彼が討伐したという虚の記録に、少々気になる点がありました」
「気になる点?」
「ええ。その虚は―――…どうやら、時空間を歪める能力を持っていたようなのです。まだ未確定ではあるのですが」
「時空間を……歪める…?」
「細かな話は割愛して簡単に言うと、断界のような世界と世界を隔てて無数に存在する時空間を、己の霊力を使って操ることができる、ということです」
「な…ッ、ンなことできるんスか?!」
思わず腰を浮かしかけた恋次を、卯ノ花はやんわりと手で制する。
「あくまでも仮定ですよ、阿散井隊長。そして、気になる点というのが、その虚討伐の記録なのですが……発見したときにはすでに、手傷を負っていた、と書かれていたのです」
「…? それが何か?」
「今回の虚は、少なくとも
「…………」
卯ノ花の言いたいことが次第に飲み込めてきて、恋次は黙り込む。白哉も同様だった。
「そこで、お尋ねします。阿散井隊長」
ああ、なんだか、すごく嫌な予感がする。けれど、ここで聞かないわけにもいかない。
曇らせた顔で向き合った恋次に、卯ノ花は率直に告げた。
「あなたは、こちらへとやって来る直前、あなたの世界で、
投げかけられた問いに、恋次は必死に記憶を手繰る。こちらで目覚めてからずっと、直前まであちらで自分が何をしていたのかいまいち思い出せずにいたのだが、このときになってようやく、ぼんやりと思い出し始める。
そして、恋次はゆっくりと目を見開いた。
「…………戦った」
ぽつりと。
欠けていた何かを埋めるように、恋次はつぶやく。
「戦い、ました。たぶん、
「待ってください。頭が二つ?」
恋次が何気なく告げた虚の特徴を聞くや否や、卯ノ花の顔が険しくなる。恋次は不思議に思いつつもうなずいた。
「え? あ、はい。二つでした。変だなって思ったんで、覚えてます。それで……頭潰そうとしたんスけど、意外と素早くて避けられて……腹のあたりに一撃入れたかな……」
「…腹部に……?」
卯ノ花は、普段の穏やかな様子をすっかりと引っ込めていて、今度は何事か考え込むように顎に手を当てる。
「そのとき、あなたは負傷しませんでしたか?」
「負傷ってほどじゃねえけど……まあ、一応、しましたよ。つっても、顔にちょっとかすり傷が付いただけっスけど」
「顔に、かすり傷……?」
意外なことに、恋次のその話に反応したのは卯ノ花ではなかった。やや後ろから聞こえた声に、恋次は白哉を振り返る。
「かすり傷がどうかしたんス……じゃない、どうかしたのか?」
「………阿散井隊長も、例の虚討伐からの帰還の際、右頬にひとつかすり傷を付けていた」
「あ、そうそう、ちょうど俺も右の……」
自分の右頬に手を当てうなずいたところで、恋次はようやく異変に気がついた。白哉の険しい表情に比例するように、顔に困惑の色を浮かべる。
「……え? なんかおかしくね?」
くるりと卯ノ花を振り返ると、彼女もまた同様の表情だった。しばらくの沈黙が落ちる。とりあえず何かおかしい、ということしか理解できていない自分ではこの沈黙を壊す術を持たず、恋次は居心地の悪い空気の中でうろうろと意味もなく視線を動かしていた。
「……―――阿散井隊長」
「あっ、はい」
威圧を纏った声音に、思わず恋次は肩を跳ね上げ視線を戻す。卯ノ花は、恋次とはっきりと目を合わせて静かに告げた。
「これはまだ仮説に過ぎませんが、おそらく、あなたが仕留め損ねた虚がこちらへと逃げ込み、それをこちらの阿散井隊長が討伐した、ということになるのでしょう。……しかし、阿散井隊長の報告書に、虚の頭が二つあったなどという記述はありませんでした。よって―――」
ごくり、と。
卯ノ花がひどく嫌な間を挟んで言葉を溜めたため、恋次は思わず唾を飲み込む。
ああまったくなんでこんなことに、とずっと心の中に抱えていた答えのない疑問にわずかな手がかりを提示したのは、戦闘専門部隊の頂点に座する男がかつて恐ろしいと称した、救護隊総責任者の実に静かな声音だった。
「―――今回の件の原因と思われる虚は、まだあなたから逃げ続けている、ということです」