バレンタイン
六番隊に突然の来客の知らせが入ったのは、間もなく終業の鐘が鳴る時刻に差し掛かり、残業の必要のない本日はこれで解散、となる瞬間を隊士たちが今か今かと待ち続けていた頃のことだった。
「あの…朽木家の方が表にいらしているのですが……」
「えっ? 隊長に何か用か?」
「それが、朽木隊長の命でいらしたそうで……」
困惑の混じった騒ぎを聞きつけ、執務室から覗きに来た恋次は、伝えてくれた隊士と一緒に揃って首を傾げる。
すると、不意に、背後から声がかけられた。
「…―――来たか」
「あっ、隊長」
恋次に続いて執務室から出て来たのか、いつの間にか後ろに立っていた白哉を振り返り、恋次は尋ねる。
「いま、隊長が呼んだって聞いたんスけど…」
「ああ。通せ」
白哉はうなずき、それから、執務室へと戻るかと思った恋次の予想を裏切り、爪先を隊舎の出口へと向けた。
外へと出て行く直前、ちらりとわずかに恋次の方を振り返る。
「恋次」
「はい?」
「今日の業務は終了だ。皆を食堂へ集めろ」
「…はい?」
盛大に首を傾げた恋次だったが、しかしすぐに、食堂という場所がこの隊舎内で唯一隊士を全員を収容できる大きさの場所であることに思い至る。総合連絡などはいつもそこで行うのだ。
恋次は了解を返して、白哉とは反対の、隊士たちがまだ仕事をしているであろう方向へと爪先を向ける。
そして、隊士らに終了の声掛けをし、言われた通りに皆を食堂に集めた。……集めた、のは、いいのだが。
「……何スか? これ…」
食堂に運び込まれ積み上げられたいくつもの大箱の姿に、隊士たちとともに最後に食堂に入って来た恋次は困惑を顕にした。それは恋次に限ったことではなく、月の初めの総合連絡でもないのに食堂に集められた隊士たち一同もまったく同じ反応だ。
唯一、事の次第を把握しているであろう人に視線を向ければ、先に食堂で待っていた白哉は、実にあっさりとした口調で言った。
「兄の言っていた、ちょこれいと、だが」
「はい?」
何か発音がおかしい気がする、というのは置いておくとして、いきなり何を言っているのだこの人は、という恋次の混乱を他所に、白哉は隊士たちに向かって勝手に話し始める。
「今日の祭りについては恋次から聞き及んだが、知っての通り私は甘味を好まぬ。ゆえに、私から兄らに贈ることにした。甘さは各々好きに選ぶがよい。常日頃の兄らの働きは、此度の贈賜に値するものだ」
突然の成り行きについて行けず、ぽかん、と白哉を見つめることしかできない恋次を含めた隊士たちだったが、白哉は構わずに言いたいことを言って締め括った。
「兄らの存在には、感謝をしている。騒がしいことは好かぬが、礼を示す機会を設けること自体は悪くなかろう。今後も、風紀を乱さぬ程度であれば咎めるつもりはない。―――では、以上で本日は終了だ。受け取った者から、各自解散するように」
誰もが目の前で起きている出来事を脳内で処理し切れず、呆然としたまま固まっている中、白哉はそんな皆の様子に気づいていないのか、それとも気づいていて敢えて流しているのか、言いたいことを言い終えてしまうとひらりと羽織を翻す。
「恋次」
去り際に、扉近くに立っていた恋次をうながすように一言呼ぶと、白哉はそのままあっさりと食堂を出て行ってしまった。
「……、………え?」
すり抜けるように隣りを白哉が通ってから、果たして何秒経ったか。恋次がぽつりと口からこぼした声が引き金になったかのように、しんと静まり返っていた食堂は途端に一気に騒ぎに包まれた。
規律正しい六番隊では有り得ぬ光景である。
ようやく目の前で何が起きたのかを把握し、歓喜に震える者、手を取り合う者、まだ信じられないとおろおろする者、挙句の果てには冗談抜きで感涙に咽び頽れる者まで続出した。
―――ま、まじか……
隊士たちの大騒ぎで我に返った恋次は、せっせと大箱からチョコレートの入った包箱を取り出し隊士たちに配り始める朽木家の使用人たちの姿をまだ半分呆然としながら眺めていたが、かなり遅れて、自分が去り際の白哉に呼ばれていたことを思い出す。
近くにいた席官の部下にあとは任せると告げると、恋次はくるりと踵を返して白哉のあとを追った。
「……隊長!」
予想通り執務室の中で止まった霊圧を追いかけて、恋次は無遠慮に扉を開ける。呼びかければ、ちらりとわずかに視線が寄越された。
「やばいですよ、あっち。ガチ泣きする奴もかなりいて」
笑いながら告げると、途端に白哉の顔が不思議そうなものになる。
「…? それほど高価なものではなかろう」
「違いますよ、何言ってんですかあんた。他でもない隊長からこんなサプライズされたら、特にウチの隊の連中はそうなるに決まってんじゃないスか」
誰よりも規律に厳しいこの人のこと、こういった浮ついたイベント事は嫌いだろうと、巻き込まないようにすると決めた六番隊の不文律。
そんな自分にも他人にも厳しいこの人のことが好きで集った者が、この六番隊の面々なわけだれけど、それでもやはり、一度はこういった行事を一緒に楽しんでみたいと思う者も多くいただろう。
それを、まあ、何という突飛な壊し方か。
―――いや、でも、俺が言ってなかったのもあるか
重要なことを言い忘れていたと、恋次はいまさらながらに気づく。―――この祭りは、もっぱら女性から男性へ贈り物をする日なのだ、ということを。
もちろん、これがきっと良い効果になるであろうことは容易く予想できるので、わざわざそんなことを伝える必要はないと思うが。
問題があるとしたら、後日、他所の隊長格たちまで白哉と同じようなことをねだられないかどうかということくらいだ。
―――日番谷隊長とか真っ先に乱菊さんに集られそうだよな…
本来なら贈る側のはずの乱菊が、歳下の上司にチョコをねだる姿が簡単に想像できてしまって、恋次は白哉に気づかれぬ程度に窃笑する。部下たちがこの出来事を他所に自慢しないでいるわけがないので、有り得る未来だ。
しっかりと見たわけではないが、見るからに高級そうなチョコを隊士全員分箱買いだなんて、そう簡単に真似できる芸当ではない。そもそも、この人が用意するものが恋次たちから見て高価でないことなど有り得ないのだ。
「ありがとうございます、隊長」
「……兄にはまだ渡しておらぬぞ」
「え? ああ、あとで俺も貰いに行きますよ。それで、何スか? 出てくとき俺のこと呼んだでしょう」
「………」
この人からの贈り物ならば、たとえチョコだろうが毒だろうが絶対に食べてやろう、と強い決意を恋次が胸に秘めながら応えていることなど知らぬであろう白哉は、しかし恋次の返事を聞くと何故か黙り込んでしまう。
恋次が不思議に思っていると、白哉はどこか呆れたような口調で、ため息とともに言った。
「……兄は、私が恋人と部下を同列に扱うと思っているのか」
「えっ…」
「ルキアをあのように説き伏せていた割に、兄も私のことをあまり理解していないらしい」
「え、いや、あの…」
思わぬ言葉が白哉から飛び出て来て、恋次は目を丸くする。―――恋人、なんて、気恥ずかしさが先に立つのか、この人が普段口にすることなんてほとんどないのに。
よくよく見れば、こちらを振り返った白哉の手の中には、見慣れぬ装飾の箱が収まっている。―――自分を呼んだのは、これを渡そうと思ってのことだったのか。
食堂に運び込まれた大箱の中に揃えられていたものとはまったく違うそれを、わざわざ自分のためだけに白哉が用意してくれたのだと思うと、自然と恋次の顔に熱が集まった。
言葉に詰まってしまった恋次に、白哉は無言で手に持った箱を押しつけてくる。態度こそ素っ気ないものだったが、その心の内を読めないほど恋次が鈍いはずはなく、頬は緩むばかりだった。
「開けてもいいっスか?」
顔を覗き込むようにして尋ねると、小さな首肯がひとつ返ってくる。ふいと背けられた視線にすら、彼が向けてくれる想いの深さを感じて、恋次はすっかり満面の笑みになりながら箱を彩る紐を解く。
中に入っているのは苦手なチョコレートだろうが、いまならばそれさえも気にせず食べることができそうな気がした。
しかし、そんな恋次の予想は何故か外れる。
「わ…」
開けた瞬間、鼻をくすぐったのは、予想していた甘ったるい香りではなく、どこか涼やかにも思える上品で控えめな香り。
視界に広がったのは、自身の髪色を思わせる真紅に染まった美しい花弁だった。
ルキアの作ったもののように、花弁をチョコレートが象っているわけではない。正真正銘、本物の花弁である。
「…花……?」
予想外のものを目にして、恋次はぱちくりと頻りに目を瞬く。自分とは縁遠い雅やかな美しさに素人ながら感嘆を覚えつつも、すぐにハッとしたように白哉の方を見やった。
自分がこの人に教えたのは、今日は大切な人にチョコレートという甘い菓子を渡す日なのだということだけ。現に、白哉は先ほど部下たちにはきちんとチョコレートを用意した。それなのに、恋次に対してだけチョコレートではないなど、明らかに不自然だ。何より恋次は常日頃から甘味好きを公言している。
「……ルキアに、何か、聞きました?」
おそるおそる尋ねてみると、ほんのわずか、白哉の瞳が揺れた。
恋次には、それで十分だった。
「あーもう……あいつ余計なことを……」
どこで白哉の行動を知ったのだか知らないが、きっと恋次に贈るならチョコレートは止めた方がいいとわざわざ進言したのだろう。高潔なこの人に、あまり犬吊での話は知られたくないという気持ちは、ルキアとて自分と同じだろうに。
「…そうではない。ルキアには、私から問うたのだ。兄は、ちょこれいととやらが嫌いなのではないか、と」
「え…」
しかし、ため息をついていたところに白哉は予想外の言葉を返してきて、恋次は驚きにやや目を見開く。……ルキアから、じゃないのか?
「……なんで?」
心底不思議に思って尋ねると、白哉はごく当然のように答えた。
「兄は、今朝、贈り物を私のせいだ、と言っていただろう。甘味を好む兄がそのような言い方をしていたことに、引っかかっていた」
「…ああ…、なるほど…よく見てますね……」
そういえばそんなことを言ったような気もする。
なるほど、チョコレートが好きであれば、隊長のせい、なんて言葉は確かに使わないだろう。自分でも無意識のうちに使っていた言葉を指摘され、恋次はぐうの音も出せずに降参の白旗を上げる。
しかし、そんな恋次に、白哉はぽつりと新たに言葉をこぼした。
「……それに、もともと、ルキアから話を聞かずとも、兄にはちょこれいとを渡すつもりはなかった」
「えっ、なんでっスか。それはちょっと凹む…」
驚きの告白に、恋次は誰の目にも明らかに消沈する。すると、白哉は実に言いにくそうな様子で、ぼそぼそとさらに言葉を付け加えた。
「……同じものを、すでにいくつも貰っておっただろう。その中には、手ずから拵えたものも多いと聞く。だが……私は菓子など作れぬし、かといって値の張るものを買い与えたところで兄が喜ばぬことは知っている。なれば、同じ菓子を贈っても、他のものに埋もれるだけであろう」
「ちょっ、何言ってんスか、あんたから貰ったモンを他のに埋もれさすなんて、ンな馬鹿なこと俺がするわけ……」
何とも見当外れのことを言っている白哉に恋次は慌てて待ったをかけたが、そのすぐあとに、ふと思い至って手元の箱に収まる花束を見やる。
「…え、それじゃあ、この花…束?って、隊長が作ったんスか?」
手に収まるほどの箱の中で、嫌味ない華やかさを醸し出しながら調和の取れた美しさを魅せるそれは、雅なものなど見慣れぬ素人の恋次であっても素晴らしいと感じさせてくれる一品だ。
きっとその道の腕利きの職人でもいて、その人物に特注で依頼したのだろうと、そう思っていたのに。
「………華道の心得なら持ち合わせがあった故」
すっかり背けられてしまった顔から、小さな、小さな声が返される。
瞬間、恋次の胸の奥から、抑えきれない愛しさが溢れ出た。
つまり、みんなが手作りの菓子を恋次に渡しているのを見て、自分も渡そうと思ったのはいいけれど、菓子なんて作れないから。
だからといって、どんなに高価なものでも市販品では、手作りのものには勝てないような気がして。
手作り、という言葉が当て嵌るようなものをわざわざ考えて。
この美しい花を、贈ってくれたのだ。
自分のことだけを考えながら、きっと、丁寧な手つきで、優しく、想いの丈を込めるように作られたのであろう、この箱詰めの花束を。
「―――すごい、綺麗です。俺、こういうの見る目はあんまないっスけど、ほんとに綺麗だと思います。隊長こんなの作れるんスね。やっぱすげえ」
「……そうか」
改めてしげしげと手元の花束を見下ろしながら、率直な感嘆を告げると、白哉は簡素な応えとともに安堵したような顔になる。
その、自分にだけは無防備に見せてくれる表情に、また愛おしさが募った。
「…隊長。今日は、俺んトコに泊まってくれません?」
ほんの少しわがままを言っても、今日ならば許されるだろうかと、恋次は白哉の耳元にそっと顔を近づけ、ねだるように告げる。その言葉に恋次が含ませた意味を白哉が察せぬはずはなく、ぴくり、と眼下で肩が揺れた。
ちらり、と寄越される視線とともに、髪からわずかに覗く耳が赤に染まる。そして、恋次から離れるようにして無言で返された踵が扉の先の廊下を隊舎の出口とは反対の方向へと向けられたことに、恋次は満面の笑みを浮かべた。その先にあるのは、六番隊の副官室―――恋次の自宅である。
花詰めの箱の蓋を大切に閉じ、しっかりと抱え直してから、恋次は弾んだ足取りでそのあとを追った。