はなのあめ ― 花の雨 ―
護廷十三隊のそれぞれの隊舎は、一見似ているように思えるが実はすべて造りが違う。隊舎というものは、その時の隊長の意向に従って日々変化を遂げるものなのだ。
たとえば、十一番隊は広い道場を新たに増設するために更木剣八が不要と断じた応接間をすっかり取り潰したり、十二番隊は技術開発局を併設するために百年以上前に浦原喜助によって大幅な改築が成されたりしている。
だが、いま現在、一角や弓親たちがひどく居心地が悪そうに息を詰まらせているのは、何も十一番隊とあまりにも違う六番隊の清潔感とか小綺麗感とか貴族の整えそうな空間だからとか、そういったわけではないことを、恋次はよくわかっていた。
なぜなら。
「……――――それで?」
もしやこの空間だけ氷河期が来てしまったのだろうかと本気で思ってしまうくらいに冷え冷えとした霊気に満ちた執務室で、ここ六番隊の長である朽木白哉はただ静かに目の前にいる男を睨めつけていた。
「これは、兄の隊が先月までに提出するよう委任されていた書類の一覧のはずだが、今月も末になると言うのになぜこれだけ未決済のものがある?」
「………いや……だから…悪かったって……」
戦闘専門部隊の異名をとる十一番隊の頂点にいるはずの男は、白哉の絶対零度の眼差しと言葉を受け、ひどく縮蹙として応えた。護廷十三隊一の体躯のよさを誇る人物のはずだが、何だか今日は妙に小さく見える。
恋次は、己の机に積み上がった書類に目を通しながらも、この状況は元部下として助け舟を出すべきかと迷った。
期限を守らず仕事を滞らせたのは更木であるため、白哉の怒りは至極もっともなものなのだが、直属の部下として白哉の恐ろしさを身に染みて知っている恋次からすれば多少なりとも更木に同情の念を抱かざるを得ない。加えて、更木には以前十一番隊で世話になった身でもある。先ほどから上司の後ろで直立不動を余儀なくされている一角や弓親もそろそろ限界だろう。
しかし、恋次が口を出すより先に動いた人物がいた。
「ちょ…更木隊長、ほんとマジで謝った方がいいですって」
やはりこの空間はあまりにも耐え難かったのか、早々に我慢の限界を迎えた一角がぼそぼそと小声で更木の脇腹をつついて言う。よく言った一角、と隣りにいる弓親も表情で訴えた。
「だから、謝ってんだろうが…!」
「そんな蚊の鳴くような声じゃなくて、もっとはっきりと…!」
「てめえ弓親喧嘩売ってんのか、誰が蚊の鳴く―――」
ぷつん、と途中で更木の声が途切れてしまったのは仕方がない。更木が声を荒らげた瞬間、ぶわっと容赦なく上がった霊圧に、更木たちは冷や汗を垂らしながらこの部屋の主を顧みた。すうっと先ほどよりも細まった目に、猛者たちは強制的に黙らされる。………これは、怖い。
恋次はため息を呑み込みながら、そうっと口を開いた。
「……あの、朽木隊長。この霊圧だとそのうちウチの隊士も外でぶっ倒れ始めそうなんで、ちょっと抑えてもらえませんか」
「………」
じろり、と白哉の視線が更木から恋次へと移される。一角や弓親は青い顔で恋次に無謀だと目で訴えていたが、しかし副隊長としてそれなりに白哉のそばにいた恋次にしてみれば、まだ多少の余裕は見せられる状況だった。
なぜなら―――…
―――更木隊長が怒られンの、これが初めてじゃねえしな…
実はこの光景、だいたい数ヶ月に一度は見られるものなのだ。目の前で何度も何度も繰り返されればさすがにそろそろ慣れる。今回は何となくいつもより怒気が強いように見受けられるが、もしかしたら先日の恋次の泥酔の一件も相俟って苛々が募っているのかもしれない。だとしたら申し訳ない限りだが、まあ、そんなこんなで、初めこそ何事かと右往左往していたが今ではすっかり外野の気分で眺められるようになっていた。
とは言え、一角や弓親は毎回この説教に巻き込まれているわけではないし、何より普段から白哉と接する機会もないため、殊更に怒気を孕んだ白哉の霊圧が冷たく感じるられるのだろう。しかし、毎日この霊圧のそばで仕事をしている恋次にしてみればこんなのはまだ全然かわいい方である。毎度説教を食らわせる白哉の方にも案外慣れというか、もはや諦めの境地に達している部分もあるのかもしれない。もちろん、そんなこと口にはしないが。
確かに怖いは怖いが、自分が何かやらかしたわけではないしそこまで怯えることはない、と恋次はごく普通に白哉と目を合わせる。せっかく、最近は恋次を通さずとも隊士たち自身が白哉に話しかけられるようになってきているのだ。それなのに、この霊圧が外に漏れては瞬く間に逆戻りである。それはぜひとも回避したい。
恋次の言いたいことはもっともだと思ったのか、白哉はわずかな沈黙の後、反駁はせずにすっと無言で恋次から手元に視線を落とした。それと同時にふっと霊圧も元に戻る。一角と弓親は密かに安堵の息を吐いた。動作にこそしないが更木も同様だ。
「恋次」
「はい?」
この空間の中で唯一、白哉の怒気にも霊圧にも臆することなく、それどころか軽い調子で恋次は応える。向けられる奇異の目にはあいにくと気づいていない。
白哉はひらりと未決済書類のリストを揺らして言った。
「この未決済の書類の割り振りをして来い」
「ああ、はい。…ん? して来いって?」
執務室はここである。立ち上がり、白哉から書類を受け取りながら、恋次は首を傾げた。
「応接間を使え」
相変わらず必要最低限の言葉しか発しない上司だったが、しかし恋次は今回その真意を的確に察することに成功した。
なるほど、と心の中で合点する。
実際にこの溜まった仕事の大半を熟すのは十一番隊なのだから、割り振りをするに当たっては当然十一番隊の人間との話し合いが必要になる。ひとりではできない。つまり、二人は連れ出してよい、ということだろう。どうやらすでに限界値を越えている一角と弓親に対する白哉なりの配慮らしい。しかし更木を逃す気はさらさらないようで、恋次は苦笑した。霊圧を抑えることには首肯したが、どうやら説教の手を緩めるつもりはないらしい。
「……ほどほどにしてくださいね」
白哉もまた恋次に自分の意図することがきちんと伝わったことを察したのか、すっと恋次から視線を外した。
「じゃあ、一角さん。弓親さん。ちょっと付き合ってください」
恋次は白哉の許可を受けたことをそれとなく伝えながら二人を呼んだ。えっ?と驚いた顔をしている二人に、恋次はうなずいて手招きをする。みるみるうちに安堵に変わる表情に、恋次は思わず、少し笑ってしまった。
一角と弓親は、瞬歩でも使ったのかと思うくらいに素早く、恋次の立っている扉の前まで飛んで来る。最後にちらりと後ろを振り返った二人の表情は、すみません更木隊長、と語っていた。自分たちだけ助かることに多少の罪悪感はあるようだが、しかしそれでこの機会を棒に振るような馬鹿な真似はしないらしい。
「ッあーー! 助かったッ!」
応接室の扉を恋次がパタンと閉めた瞬間、一角は胸いっぱいに吸い込みながら水を得た魚のようにそう叫んだ。
「何なんだあれ! めちゃくちゃ怖え!」
「一角さんでも怖いとか思うんスね」
「馬鹿野郎! 戦闘ならンなこたァ思わねえが、あれはまったく別の話だ! 完全にこっちに非があるから喧嘩もできやしねえ!」
「はは…」
この応接室はそこまで執務室から離れていないので、そんな大声を上げたら聞こえるのではないかとも思ったが、恋次は賢明にも沈黙を守った。世の中には知らぬが仏という言葉もある。
まあ、まさか朽木隊長も他所の隊士の独り言にまでわざわざ気をとめて時間を割くほど暇でも狭量でもないだろう。それに、彼の怒りの矛先は目下更木にある。
「ていうか、一角さん、隊長と喧嘩する気があるんスか?」
言葉のあやを拾って尋ねてみると、一角はぐっと言葉に詰まった。
「………、…そらおまえ……いざとなれば……」
どうやら十一番隊の気風そのものを体現しているような性格の一角には、厳格で規律を重んじる白哉は天敵級に苦手な相手らしかった。
それにしても、と一角と恋次のやり取りを見ていた弓親がつぶやく。
「きみ、よくあの状況で普通に口挟めたよね……」
一角のように叫びこそしないものの、弓親もまた気持ちとしてはまったくの同意のようだった。
「いやあ、ルキアが絡んでなければ割と…」
あの人が過敏になるのは、一も二もなく妹のことである。ルキアの危機となると、冷静は冷静なのだが霊圧など諸々の周囲への配慮がなくなるのだ。恋次以外だと四番隊の花太郎が虚圏で経験したらしい。あれは怖い。おそらくきっと朽木家の誇り云々で怒らせるよりも怖い。視線を合わせなかったからとはいえ、それに耐えた花太郎は賞賛されるべき度胸である。
「にしたってあれは精神にくるよ。美しいものは好きだけど、あれはちょっと凄絶すぎて何度も拝みたいもんじゃないね…」
「基準そこスか」
「そこだよ」
「普段見る分には眼福っスよ? 乱菊さんも目の保養って言ってますし」
「いやほら彼女は……肝がね…特に据わってるから……」
「そういうもんスかねー?」
はて、と首を傾げる恋次に、一角はげんなりとした声でつぶやいた。
「おまえホントよく平気だな…」
「まあ、毎日一緒に居りゃそれなりに慣れますよ」
「嘘だろ。てめえいつの間にそんな図太くなったんだ」
「いや、怖えときは怖えっスよ」
恋次とて、ついこの間恐ろしい体験をしたばかりである。もう少しで心臓が止まるのではないかというほどの痴態を曝してしまったのだが、いま思い返してみても本当によく無事に済んだものだと思う。本来なら自分も更木と同様、今日のような雷を食らってもおかしくないはずなのに。
「たとえば?」
「え? あー……んん、そっスね……この前、俺うっかり居酒屋で潰れちまって、朽木隊長に迎えに来てもらったらしいんですよ。記憶は全部飛んじまっててないんスけど、それを翌日部下から知らされたときの俺の心境と言ったら……マジで心臓が止まるんじゃねえかと…」
「……………」
当然ながら、恋次の言葉を受けた二人は唖然とし、部屋に嫌な沈黙を落とした。
「………馬鹿なの?」
「……信じられねえが、もしそれが仮に事実だったとして、おまえ、次の日よく無事だったな…?」
「そりゃもう特大の雷だったろうね…」
顔を引き攣らせる二人を見やりながら、まあ普通はそう思うよなあ、と恋次は自分自身でも未だに首を傾げながら否と告げる。
「いやあそれが……俺もびくびくしながら隊長んとこ行ったんスけど、結局、これからは飲みすぎるなって一言注意されただけで…」
むしろ、わざわざ恋次のためにと新調された死覇装を充てがわれるなど、親切を受けこそすれ雷など落ちなかったのだ。まったくもって謎である。
「いやいや待てよ、今回朽木隊長があンだけキレてんの何でだか知ってるか? 更木隊長が、ただでさえ仕事滞納してんのにしこたま酒飲んでサボってたせいでさらに仕事溜め込んだせいなんだぞ?」
「そうそう。珍しく気に入った酒を見つけたとかで…」
「え? そうなんスか?」
意外な話に恋次は目を見開く。酒のせいであれだけ迷惑をかけたのにあの反応だったから、てっきり―――…
「俺、隊長はそういうのには寛容なのかと…」
「ばっか、あの性格で酒に寛容なわけないだろ、三欲に入るのに。むしろ酒なんて一番目の敵にしてそうじゃないか、怠惰の象徴!とか言って」
「いや、まあ、そうなんスけど、実際……」
怒られなかったのだ、ほとんど。
そう言いかけて口ごもる恋次に、一角はため息混じりに言った。
「それはあれだろ、酒じゃなくておまえに寛容なだけだろ、阿散井」
「………はあ?」
「まあ普通に考えたらそうだよね」
うなずく弓親に、恋次はさらに首を傾げる。いやいやいや、と頭のどこか冷静な部分が一角の言葉を笑い飛ばしていた。
「部下だからって贔屓するような人じゃねえっスよ、あの人は」
「でも、部下って言ってもきみは副隊長だろう? 朽木隊長だって、やっぱり他の連中とは違う目できみのこと見てるんじゃない? ちょっとくらいお酒で失敗しても、見逃してあげるくらいには」
「そんなタイプじゃないですって」
「そうかなあ」
「そっちと一緒にしないでくださいよ」
「そりゃ、ウチの隊長と副隊長は特殊な例だと思うけど……それを考えたって、きみは朽木隊長にとって特別な位置にいると思うけどね、阿散井」
思った以上に食いついた弓親に、この人は曖昧な返事じゃ終わらないんだよなあ、と恋次は困ったような顔で頭を掻く。予想外の言葉に驚いたせいか、心臓がわずかに早鐘を打っていた。
深呼吸、深呼吸、と恋次はうるさい心を鎮める。
「そんなことよりも、さっさとこれ片付けちまいましょう」
ひらりと、溜まりに溜まった仕事たちのリストを振って、恋次は弓親を促す。一角にも視線を向けると、彼もまた弓親同様に何か言いたそうにしていたが、結局そのまま黙って仕事へと頭を切り替えてくれた。
恋次への来客の知らせがあるまで、その後は何事もなく時間は過ぎていった。