はなのあめ ― 花の雨 ―
「ああ、おかえり」
十三番隊に帰ってきたルキアをそう言って出迎えたのは、ここの長である浮竹だった。珍しく執務室にいる上司に、ルキアは驚いて目を見開く。
「浮竹隊長! お身体はよろしいのですか?」
「ああ、大丈夫だ。さっき少し良くなってね」
「しかし……今朝方はあれほど咳き込まれていたではありませんか。ここ数日はあまり体調が思わしくなく、ほとんど床に伏せっておられましたし…」
「はは。大丈夫だよ。それより仕事を任せてしまってすまなかったな。今日中決済のものがいくつかあっただろう」
「いっ、いえ! そんな、とんでもない! 浮竹隊長の体調の旨はきちんとお伝えしておきましたので大丈夫です。その他の、隊長格の捺印を必要とするもの以外は無事終わっておりますし、どうぞご安心ください」
「いやぁ助かるよ。副隊長にももう慣れてきたようで安心した。…まあ、ほとんど俺の尻拭いをさせている気がするけど……」
「とんでもない!」
すまないね、と困ったように笑いながらも申し訳なさそうな顔をする浮竹に、ルキアは慌てて首を横に振った。
すると、ふと、ソファーと共に置かれた休憩用のテーブルに茶器が二つ出されたままになっていることに気づき、ルキアは首を傾げる。自分が隊舎を出る前にはなかったものだ。
「浮竹隊長、もしや、どなたかお客人が…?」
中身が空であることを確認し、しかし使用した形跡はきっちりあるので、それなら洗って片付けてしまおうとルキアは茶器に手を伸ばしながら浮竹に尋ねる。
「ああ。うん、そうなんだ」
「それで起きて来られたのですか」
「うーん、まあ、そうとも言うかな。見舞いのつもりだったみたいで、そのままでいいと言われたは言われたんだけど、せっかく来てくれたんだし」
「それでまた体調を崩されたら元も子もないでしょう」
「はは……返す言葉もない。でも、今日はわざわざ霊力を分けてくれたから、午後から調子が良くなってね」
「……霊力を分ける?」
耳慣れない言葉に、ルキアは不思議そうに首を傾げた。
「ああ。朽木は知らなかったか。俺の症状はいくつか種類があるんだけど、今回のは霊力が十分になくて起こる……まあ、貧血みたいなものなんだけど、それは霊力を分けてもらうと幾分楽になるんだ」
「そうなのですか! 初めて聞きました。……ん? それならば、その貧血…のような症状のときは霊力を分ければよいのですよね? 私や三席のお二人でも…」
常日頃から浮竹の虚弱を嘆き、その健康のために苦心している二人を思い出して、ルキアはふと思いついたことを口にする。しかし、浮竹から返ってきたのは歯切れの悪い返事だった。
「あーいや……その、俺、こんな状態だけど意外と霊力は多くてね、貰うにしてもかなりの量がある相手からじゃないと、逆に相手が霊力不足で不調を引き起こすことになるからダメなんだ。あとは単純に霊圧の相性とかもあるし…」
残念ながら霊圧を持て余している更木とは相性がよくなかった、と少し残念そうに言う浮竹に、ルキアはやや肩を落とす。
「そう…なのですか。私では力不足なのですね…」
更木が話に出るということは、霊圧の基準は隊長格あたりなのだろうか。それでは確かに、まだ副隊長に就任したばかりのルキアなどでは到底浮竹の力にはなれない。
「いやっ! そんなことはないぞ! あいつはその、昔からよく世話になってるからな、もう慣れてるんだよ」
悄然としてしまったルキアに、浮竹は慌てたようにフォローの言葉を口にする。こういった優しいところが、彼の慕われる所以でもあった。
うじうじ落ち込んでいても仕方がないと、ルキアはすぐに切り替える。
「それでは、浮竹隊長とお付き合いの長い方なのですね」
基準を隊長格だと予想すると、やはり古くからの友人である京楽あたりだろうか。そんな予測を立ててみるルキアに、浮竹は少し目を見開いたあと、おかしそうに笑って言った。
「ああ、白哉だよ」
予想外の、そして誰よりも敬愛する相手の名を聞いたルキアは、びくんと肩を震わせた。過剰にも見える反応の理由のひとつには、もちろん今日十番隊で聞いてしまった話のこともある。
「兄様…ですか?」
「ああ。血筋が良いせいか、白哉の霊圧は尖った癖があまりなくてね、俺の身体にも負担が少ないんだ。見兼ねると今でもたまに分けてくれるんだよ」
態度は素っ気ないけどな、と茶化したように笑う浮竹に、ルキアも応えるように微笑む。彼の不器用な優しさは、ルキアもまた誰よりも知っているつもりだった。
「……ただ少し気になったのは、白哉の霊圧が不安定だったことなんだよなあ」
「…不安定?」
およそ白哉に用いられるべきではない単語に、ルキアはぱちぱちと目を瞬く。うん、と応える浮竹の表情もやや曇っていた。
「白哉みたいに霊圧の制御の上手い奴は、基本的には何かあってもほとんど霊圧の揺れを探知させてくれないんだが、霊力を貰うと何となくわかるんだよ。いつもは静かに凪いでるのに今日は妙にざわざわしていた。だから、何か悩みでもあるのかと思って聞いてみたんだが、たっぷり言い淀んだあと、何でもないと言われてしまってね……」
心から白哉を案じていることがわかる声音で、浮竹は困ったような顔でつぶやく。
「何か言いたそうにしてたし、何かあると思うんだけどなあ…」
彼の人に対しあっさりとそう言えるのは、幼少の頃より白哉を見守ってきたという浮竹ならではの特権だろう。ルキアでは、未だに兄の考えていることを言葉もなしに察することはほぼ不可能だ。
「だから、朽木。おまえもそれとなく気にかけてやってほしいんだ」
「は、はい。それは、もちろん…。しかし、私などが、兄様のお悩みのお力になどなれるでしょうか……」
幼馴染の悩みひとつ気づいてやることのできなかった自分が、よもや兄の助けになどなるだろうか。ルキアはうつむき唇を噛む。何とも情けない。
そんなルキアの様子を見た浮竹は、徐に椅子から立ち上がると、ルキアのそばまでやって来る。その音にルキアがふっと顔を上げると、浮竹の大きな手のひらがルキアの肩に置かれた。
「大丈夫。おまえの存在自体が、白哉にとっては大きな支えになっているよ」
「そ、そんなことは…」
「本当だって。おまえはもっと自信を持っていいんだぞ」
「いえ…しかし……私が兄様に支えていただくことは多々あっても、とてもその逆ができるとは…」
励ましてくれる浮竹の言葉を、とても有難くは思うが、けれど実際に白哉の助けになったことなどまだ一度もないルキアには自信がない。
自分に何ができるだろう。
いつだって、守られるばかりで。
「そんなことはないさ。今日だって、白哉は頻りにおまえのことを気にしていたよ」
「え…?」
弾かれるように顔を上げると、浮竹のやわらかな顔が目に映った。
「副隊長としてはもう慣れたのかとか、急な昇進で仕事に追われてはいないかとか、ちゃんと毎日笑って過ごせているのかとか……まあ本人に直接聞けばいいのにと思うことを、たくさん聞かれたよ」
「兄…様が……」
やはり、自分には何も見えていなかったのだ。
近づけたような気がしていた。あれからもう随分と経つ。双殛の丘で、兄の心のうちを知ってから、もう、随分と。
日常の些細なことを話す機会が増えて、食事を一緒にとる回数も増えて、守られていることをひしひしと感じるようになって。その心のあたたかさと共に、いつしか自分も、兄のことを理解できているのだと、そう思い始めていた。
見えない優しさが、心遣いが、まだこんなにある。
知らないところで、まだ、こんなにも、兄は自分を案じてくれている。
また、自分は気づけなかった。
「相変わらず、不器用だろう?」
そう言って微笑む浮竹の顔は、誰かを包み込むようなあたたかさがあって、そばにいるだけで安心をもらえるような気がする。
だがら、兄はここに来たのだろう。きっとルキアと同じく、この顔が好きなのだ。もし本当に悩みがあったとして、たとえそれを打ち明けることはなくても、この人のそばは安心できるから。
いつか、自分もそうなりたい、と思う。浮竹と同じなどと贅沢なことは言わないが、いつか自分も、兄にとって安心できるような場所に。
「案外、俺に霊力を分けてくれたのも、副隊長のおまえに負担ばっかりかけないようにしようと思ったからだったりしてな」
そう、茶目っ気たっぷりに笑って言った浮竹に、ルキアは仰天してぶんぶんと首を振った。とんでもない。
「ま、まさか! それは偏に浮竹隊長を思ってのことに違いありません。兄様は浮竹隊長のことをとても大切に思っておられますし、信頼されています」
「んー……まあ、おまえを預けてもらえるくらいには、な?」
どうあってもルキアを元気づける方向に話を持っていく浮竹隊長の手腕は、ある意味相当すごいのではないかとルキアは若干ズレた感想を抱く。そう言われて心のどこかでは喜んでしまっている自分も現金なものだ。
「あいつは言葉にはしないけど、よく見ると意外と行動は素直なんだ。妹を俺たちの隊へ入れたいって言ってきたときは、海燕も喜んでたなあ」
「海燕殿が…」
懐かしく、大切に胸の内にしまわれた上官の名に、ルキアはパッと反応する。彼は兄の名をあまり口にしなかったように思えるが、やはり浮竹の副官を務めていただけあって護廷十三隊の同僚以上の関わりがあったのだろうか。
「ああ。会えば口論ばっかりしてた気もするが、あいつは白哉のことを買ってたし、心配してもいたよ。生きづらそうだって。まあ素直じゃなくて何となく喧嘩腰だったけど…。そんなだから、白哉からはたまに『化け猫その二』って言われてたな」
「ば、化け猫…?」
とても猫が似合う容姿には思えないが、とルキアは海燕の姿を脳裏に思い浮かべながら首を捻る。
浮竹は、そんなルキアが何を考えているのかお見通しのようで、聞くよりも先に意味を話してくれた。
「化け猫って言うのは、四楓院夜一のことだよ」
「よ、夜一殿ですか? 確かによく猫の姿をしておられますが…」
「ああ。もう百年以上前になるけど、昔あいつもよく白哉をからかっては遊んでてなあ…。これ言うと白哉が怒るからほんとは内緒なんだが、白哉が瞬歩の達人なのは小さい時から夜一とよく鬼事をしてたせいでもあるんだよ。…まあ、鬼事って言うか、夜一が挑発して白哉が怒って、そのまま逃げた夜一を白哉が追いかける…って感じなんだけど…」
「…兄様が……鬼事……」
あの冷静沈着そのものの兄が、夜一の挑発に乗って鬼事に興じるなどまったくもって想像がつかなかったが、過去を思い出しているのか懐かしそうに目を細めている浮竹の様子を見るに、冗談か何かではないようだ。
信じ難いと表情に出てしまっていたのか、ルキアを見やった浮竹は、ぽつりと言葉を付け加えるように零す。
「いまは、白哉のやつ、すっかり落ち着いちゃったからなあ…」
昔懐かしい様子がもう見られないというのは少し寂しいものがあると、まるで息子の話をする父親のような顔で言うものだから、うっかりルキアは浮竹が誰の話をしているのか考え直しかけてしまった。
そして、すっかり話が逸れていることにも気がつく。いつの間にか兄の昔話になっていたが、これは自分が聞いてもよかったものなのだろうか。いや、その、どんなことでも兄について知ることができるのは、素直に嬉しいのだが。
「あっ、もうこんな時間か」
すっかり過去へと意識を飛ばしていた浮竹は、壁に掛かった時計の示す針がすでに業務終了時刻を大幅に過ぎていることに気がつき、慌てたようにルキアを顧みる。
「すまん朽木。引き止めてしまったな」
「いえ! 私の方こそ、お引き止めして申し訳ありませんでした。貴重なお話を聞けてとても楽しかったです」
「そうか。それなら、白哉の目を盗んでまた教えてあげるよ」
ふふ、といたずらっぽく笑う浮竹にうなずき、ルキアは一礼する。
「白哉によろしく伝えてくれ。本当に助かったと」
「はい」
手を振る浮竹に笑顔で応えて、ルキアは執務室を後にした。隊舎を出る前に、食器棚のある給湯室へと向かう。きっと気のせいなのだろうが、かちゃかちゃと鳴る茶器からは、わずかに兄の霊圧を感じられるように思えた。
十番隊からの帰路、ひどく落ち込んでいた心が、ほんの少し軽くなったような気がした。