はなのあめ ― 花の雨 ―
―――ど、どう…すれば……
とりあえず茶でも入れて来いと乱菊が外に追い出され、ルキアは現在、執務室にて日番谷と二人という状況になりソファーで縮こまってしまっていた。すぐに戻って来るだろうが、しかし乱菊がいないと部屋の空気が五割増しで重く感じる。特筆するほど乱菊と親しいというわけではなかったが、しかし彼女の明るさはこの場を何とかしてくれそうな雰囲気を纏っているのだ。
―――や、やはり霊圧を消すのではなかった……
ルキアは心の中で項垂れ、猛烈な後悔の中にあった。
浮竹から任された書類を届けに十番隊へとやって来たルキアは、出迎えてくれた十番隊の隊士から、ここ数日すっかり上の空で仕事の進まない乱菊にそろそろ日番谷の雷が落ちそうだから執務室に赴くのなら気をつけた方がいいとの助言を受けて、ひとまず様子を窺おうと霊圧を消していたのだ。
隊長格である日番谷が本気になればルキアの霊圧操作など容易く見破られてしまうだろうが、無意識の範囲ならば探知されないこともある。その結果、無意識どころかすっかり乱菊の方へと意識を向けていた日番谷は扉の前まで来たルキアに気づかず、ルキアは意図せずして聞こえてくる会話の内容を知ることとなってしまったのだった。
とは言え、それならば知らなければよかったのかと問われると、是とは即答できない。知ったところで自分にどうにかできることでもないが、それでも、幼馴染の異変に気づけなかったことがルキアの心に暗い影を落としていた。
―――恋次……
どうして打ち明けてくれなかったのだ、とは、言えない。ルキアは自分の立ち位置をきちんと自覚していた。自分がもし恋次の立場だったとしても、きっと誰よりも自分には言えなかったはずだ。
一緒に笑っていたのに、話もしたのに、何も気づけなかった。
ルキアの心の中にあるのは、そんな自責の念ばかりだった。
「………朽木。落ち着け」
低く告げられた声に、ルキアはハッとする。動揺が顔に出てしまっていたのだろう、日番谷がこちらを案じるように見つめていた。
「は、はい、あの……申し訳ありません……」
「謝る必要はねえよ。おまえにとっちゃ誰より身近な奴のことだ。狼狽えて当然だろう」
「はい…。ありがとう…ございます……」
やや心を落ち着かせることができたルキアは、日番谷に頭を下げて礼を述べる。それからまた沈黙が落ちたが、その時間をルキアはひとまず冷静になるために費やすことができた。日番谷のおかげだ。
ルキアの思った通り、乱菊はすぐに戻って来た。駆け足で行って戻って来たのか、やや死覇装の襟が乱れている。しかしそんなことは構いもしないようで、乱菊は三人分のお茶を机に置くとルキアの向かいに座った。ルキアとお茶との間を何度か視線を行き来させ、それからゆっくりと口を開く。
「……最初に言っとくけどね、あたしも恋次からはっきり聞いたりしたわけじゃないのよ。だから絶対とは言えないんだけど―――」
そして話してくれた。
何があったのか。何を見たのか、聞いたのか。
きっとこうして口にすることも躊躇っただろうに、ルキアのために、その日見聞きしたことすべてを詳らかに語ってくれたのだ。偏に恋次を案ずるが故だろう。ひたすらに頭の下がる思いだった。
「………朽木以外には興味ねえって、そんなの、ほとんど決定打のようなモンじゃねえか」
巻き込まれる形でルキアと共に話を聞くことのなった日番谷は、乱菊から事のあらましを順序立てて聞き終えると、そうぽつりと零した。
「だ、か、ら、困ってるんでしょう!」
否定できる材料もなくただ確信ばかりが募ってはそりゃ心労も祟ると、乱菊はバンッと机を叩きながら日番谷に言い返す。これがこの隊の日常なのは頭では理解しているのだが、ルキアは日番谷に対する乱菊の言動に一々驚いていた。
「だが、それを聞いたところで俺たちに何かできるわけでもねえぞ」
「わかってますよ! そうじゃないんです! 問題なのは、恋次にぶっちゃけさせるかどうかって話なんですってば!」
「…そうだったか?」
乱菊の話を遡って確かめようとする日番谷に、しかし乱菊はそんな隙も与えずさらに言い募った。ルキアもその勢いには押されるしかない。
「あンの馬鹿、バレないように必死に隠してるってことは、絶対に自分のこと追い詰めてるに違いないんですから!」
「てめえに馬鹿とは阿散井も言われたくねえだろうよ」
「おだまり冬獅郎って呼ぶわよ」
「あ、ああの、ま、松本副隊長…!」
さすがにそれは、と慌ててルキアが興奮している乱菊を止めようと腰を浮かしかけたが、なぜかそれを日番谷が止めた。そして、ごくあっさりと「気にするな」と告げられる。
「いつものことだ」
「え、えええ…? そ、そうなのですか…?」
隊長を副隊長が呼び捨てにするのがいつものこととは、いったい十番隊はどうなっているのだろう、とルキアはひたすらに困惑する。
日番谷はため息と共に言った。
「…昔は俺の方が下だっただったからな。そう呼ばれてたんだよ。隊長に成り立ての頃はコイツの敬語が慣れなくて気持ち悪かったモンだ」
「失礼しちゃうわ〜」
本当にこれが日常なのだと、けろりとした乱菊の様子も見たルキアは、ひたすらに目を白黒させる。他所では考えられない光景だ。
「……ったく、てめえのせいで話が逸れただろ」
「あら。何だかんだ言って聞く気満々なんですね」
「強制終了させるぞ」
「やっだ、冗談ですってば!」
悪びれる様子のまったくない乱菊に、日番谷は再びため息をつく。それでもそれ以上の文句を言わないのは、彼女が重苦しい空気にならないようにとわざと茶化した物言いをしていることを察しているからだろうか。それほど付き合いの深くないルキアでさえ察しているのだ、日番谷が察せないわけはないだろう。
「……それで? 結局てめえはどうしたいんだ、松本」
「…別に、あたしがどうとか、そういう話でもないんですよ。ただ、この前恋次がセーブし損ねて記憶飛ばすくらい泥酔したのは何かあったからでしょうし、見てる限りそれって朽木隊長関係のことだと思うんですよ」
「だから?」
「……だから、これからも朽木隊長のこととか、恋愛事の話とか、そういうことで悩みができると、またああなる可能性が高いってことです! 気軽に誰かに相談できることでもないし、お酒に流れるのはわかるけど、あんなの何度も繰り返すモンじゃないわ。完全に悪酔いよ。あれじゃ身体より先に精神の方が参っちゃう」
畳み掛けるように訴える乱菊の話を聞きながら、ルキアはふと先日恋次と共に行った甘味処での会話を思い出した。
「恋愛…事……」
「なんだ、阿散井の泥酔に心当たりでもあんのか?」
ルキアのつぶやきを、すかさず日番谷が拾った。声に出していたつもりはなかったルキアは、慌てて首を振る。
「あ、いえ…! その……恋次の悪酔いと関係あるかはわからないのですが、先日あやつと一緒に甘味処に行ったとき、そういった類いの話を少々したな、と…」
「……それよ!」
「うえっ?」
「それしかないわ」
「早計すぎやしないか」
「そんなことありませんよ! だって、前にイヅルも一緒に飲みに行ったときは何ともなかったんですもん!」
間違いないと断ずる乱菊の反応に、ルキアは狼狽える。
―――私の……せいなのか…?
惚れた相手などいないのかと尋ねた。ほんのささやかな興味と、もしかしたら相談相手として役に立てるのではないかという仄かな期待も込めて。家族であればこそ知りたいと思ったし、相手がいるなら祝福してやりたいと思った。しかし、まさかそれがまったくの裏目に出てしまうとは。
誰よりも人情厚く、嘘や不義を何より嫌うあの男に、偽りの笑顔を浮かべさせてしまった。思えばあの質問には答えが返ってきていない。わざと話題を逸らしたのだろう。結局はっきりと嘘を言えなかった性格はあの男らしいものだ。何も知らず純粋に尋ねてくるのだから、ルキアを責めることもできなかっただろう。その時の恋次の心境は、果たしてどのようなものだっただろうか。
「……私が……恋次を苦しめたのですね……」
ぽつりと。零した言葉に、乱菊がハッとしたように狼狽えた。
「えっ、あ、違うのよ朽木! あたしそんなつもりじゃ…」
「てめえ松本…」
「隊長も睨まないでくださいよぉ!」
「…す、すみません、松本副隊長。私も、そんな…松本副隊長を責めるようなつもりでは…。つい…」
「わかってる。わかってるわよ。大丈夫」
焦りを滲ませるルキアに、乱菊は持ち前の明るさを存分に活用した笑顔を浮かべる。落ち着いて、と言われると、本当に心が落ち着いてくるから不思議だ。
「あんたは、誰よりも恋次のことを考えているもの」
「はい……ありがとうございます…」
ゆっくりと深呼吸をすると、少し心に落ち着きが戻る。
そして考えた。
―――私は、恋次のために何ができるだろう……
力になれることはないか。共に背負えはしないか。わずかでもいい、肩を預けてほしい。陳腐な言葉しか並べられないかもしれないが、それでも、何か。
「そう。結局、そこなのよね」
「えっ?」
急に告げられた、あまりにもタイミングの合いすぎた相槌に、ルキアはさっと顔を強ばらせる。これはもしや……
「…あ、あの……私、もしかしてまた声に…?」
「ん? ああ、出てたわよ」
またしても無意識に声に出してしまっていたらしく、ルキアは慌ててバッと口元を抑える。しかしすぐに、そろそろと離した。
項垂れ、視線を手元のお茶に落として、ルキアはつぶやく。
「…何が……できるでしょうか……」
「…あたしにもわからないわ」
きっぱりと言い切った乱菊に、ルキアの心に落ちた影は一層強くなった。しかし、でも、とそこから続けられた言葉に、ルキアはのろのろと顔を上げる。
「外野として許される程度のことは、言うつもりよ」
「? それは、どんな…」
「砕けてもいいから当たりに行きなさい!って」
「……随分と無責任な助言だな」
呆れたように日番谷はつぶやいたが、乱菊の表情は変わらなかった。そう言われることは、既に予測していたのかもしれない。何だか先ほどまでとは違う様子で、例えるなら、何かが吹っ切れた後のように見受けられた。
「それはあくまでおまえの価値観であって、阿散井が同じように思う理由も、そうする義務もねえんだぞ」
「わかってますよ」
日番谷の言葉を受けて、乱菊はほのかに笑った。なんだか、さみしそうにも見える、笑みだった。
「でも、伝えた方がいいことって、絶対あるんですよ」
そう言って、まるで誰かを思い出すかのように、乱菊は目を伏せる。
「……少なくとも…」
そうして、続けられた言葉は、大して静かでもなかった部屋の中にひどく重く影を落としていくような、そんな寂寥を纏ったものだった。
「あたしは、伝えればよかったと、思ってます」
彼女がその言葉に込めた意味を、ルキアが知るのは、ずっと後のことになる。二人に礼を述べ、十番隊を後にしたあとも、ルキアの胸にはその言葉がなぜかひどく印象に残っていた。