はなのあめ ― 花の雨 ―
窓から遠慮なく射し込む光に起こされた恋次は、ぼんやりと視界に映る天井を見つめ、それがよく見慣れた六番隊舎寮のものであると知ると、ハッと覚醒して上体を起こした。
―――痛ッ…
瞬間、ずき、と頭に殴られたような鈍痛が響き、恋次は呻く。……しまった、これはもう完全に―――
―――二日酔い、だ……
乱菊に偉そうに言っておいて自分がこの様とは情けない。二日酔い防止に薬は飲んでいたはずだが、それでもこの威力となると、相当飲んでしまったようだ。やはりメニューすべてはやりすぎだったかと恋次は反省する。
のそりと、あまり頭に振動を与えないように起き上がりながら、ふと恋次はここまで帰ってきた記憶がまったくないことに気がついた。乱菊と割り勘で酒を飲むと決め、どんどんと空瓶を増やしていったあたりまでは覚えているのだが、その途中から記憶がない。これはひどい泥酔の仕方だ。果たして自分はしっかりと己の足で帰宅できたのだろうか。
―――いや、でも、乱菊さんが俺を運べるとも思えねえし…
どうやら、とりあえず帰宅はできたらしい。長く酒は嗜んでいるがここまで見事に意識が吹っ飛んでいることなど初めてで、恋次は深いため息をつく。
―――やっぱ、あれがいけなかったなあ……
ルキアから唐突な恋愛話などを振られ、うっかり動揺してしまったのがいけなかった。あまりにも予想外だったものだから、表情に出さないようにするのが精一杯だったのだ。恋次同様、ルキア自身もそういった話には関心が薄かったため、すぐに話が逸れたのは救いだった。
『恋次。貴様、惚れた相手などいないのか』
その言葉が、ひどく、耳に残っている。
惚れた相手、なんて、常日頃意識しないよう必死に振る舞っている恋次からしてみれば、これほど心に刺さる言葉もない。どうしたって意識してしまう。意識して、そして叶わないことを改めて突きつけられて、ただ心が静かに疲弊する。すぐに元に戻るには、些か想い人との距離は近すぎた。
加えて、他の誰でもないルキアに隠し事をしているという、罪悪感もある。彼女はきっと自分にそんなことはしないだろう。自分にとっての無二の相手を見つけたのなら、きっと真っ先に自分に教えてくれるのだろう。そんな光景が、簡単に想像できてしまうから、今の自分の姿が申し訳なかった。
だが、だからと言って、まさか素直に「はい居ます」などとルキアに告げるわけにもいかない。相手は彼女の兄である。
そして何より―――…五十年以上経った今なお、ただひとり妻を愛し続ける、愛情深いひと。
自分がどうこうできる人ではない。
恋次は、ぼさぼさに散らばった髪を手櫛で整え、きゅっと結わえてから、何とか洗面台まで辿り着き、顔を洗う。ひんやりとした水が肌に心地いい。少し意識のはっきりしたところで、今は何時だと恋次は部屋の時計を振り返った。
そして仰天する。
―――しょッ…正午?!
もしや壊れたのかと疑いたくなる時刻に恋次は大きく目を見開き、嘘だろ、と呆然とする。これはもう―――寝坊とか遅刻とかいうレベルの話ではない。恋次は慌てて着慣れた死覇装を引っ張り出し、自己最速記録が更新されようかというスピードで身支度を整えると、勢いよく寮を飛び出した。
「あっ、恋次さん、おはようございます」
駆け足と咎められないぎりぎりの速さで廊下を走―――歩いていた恋次は、聞き慣れた声にわずかに足を止める。思った通り小柄な少年がこちらを見上げていた。自分をそのように呼ぶのは彼だけである。
「え、ああ、おう、理吉」
逸る気持ちを抑え、なるべくいつも通りに恋次は応えた。そしてすぐに疑問に思う。ここは普通、副隊長ともあろう者がこんな時間まで何をしていたのだとか、そういう言葉が飛んでくるものなのではないのだろうか。しかし、理吉の表情に責めるような色はなく、むしろ何かを案じているような―――
「二日酔いは大丈夫なんですか?」
「いや正直全然よくねえが、そんなこと言ってる場合じゃあ……って、おまえ、なんでそんなこと知ってんだ?」
理吉のことは隊の中でも特に目をかけている自覚はあるし、贔屓をするわけではないが休憩時間なども共に過ごしたりすることの多い相手ではあるが、だからといって私生活の話をべらべらとするような間柄ではない。というか、昨晩の予定は恋次は誰にも話していない。その場で偶然鉢合わせた乱菊を除き、飲みに行ったことなど誰も知らないはずだ。
しかし、理吉はきょとんとした顔で、さも当たり前のように、さらりと爆弾めいた発言を落とした。
「え? だって、昨日朽木隊長に支えられながら帰って来たじゃないですか。驚きましたよ! 朽木隊長が誰かに肩を貸してるのなんて初めて見たので」
「…………は?」
耳が捉えた言葉に、恋次は思わず固まる。いや待て。いまなんかすごく不自然な名前が聞こえた気がする。待て待て待て。いったい、誰が、誰に、支えられていたって……?
「…って、ああ! そうだ! すみません! 俺、ほんとは乱菊さんから連絡受けたとき、言われた通り六番隊で体格のいい人にこっそり迎えをお願いしようと思ってたんですけど、伝令神機で喋ってたの、たまたま朽木隊長に聞かれちゃって……止めたんですけど、自分が行くから俺たちは仕事が終わり次第上がるようにって…」
聞いてもいないのに、理吉は昨晩の出来事を早口に喋り始める。それを受け、まだ半信半疑ながらも、恋次は吹き飛んでいる昨晩の記憶が実は猛烈にまずい内容なのではないかと察し始めた。
だらだらと冷や汗が背を伝う。
俗に言う、嫌な汗だ。
恋次はさあっと真っ青になり、理吉に何事か応えるのも忘れ、それこそ疾風のような早さでその場を後にした。廊下を走ったら云々などすっかり頭から抜け落ちている。
「た…ッ―――隊長ッ!」
スパァ――ンと勢いよく扉を開けて駆け込んだ執務室では、相変わらずびっくりするほどしゃんと背筋を伸ばして机に向かう上司の姿があった。机に堆く積まれた書類はどう見てもいつもより多い。その代わり、恋次の机には一切の書類が置かれておらず、どう頑張って解釈しても白哉が恋次の分の仕事まで請け負ってくれていることは一目瞭然だった。
つい、と白哉の視線が書類から上げられる。わずかに見える迷惑そうな色に、恋次は一瞬怯んだが、しかしここで何も言わずにおくわけにはいくまいとすぐに腹を括った。何から何まで世話をかけたのは恋次の方である。
「…うるさいぞ。れん―――」
じ、と白哉が言い終わる前に、恋次は勢いよく頭を下げた。
「すッ…すんませんしたッ!!」
見事なまでな九十度の姿勢を保ちながら、恋次はどう弁解したものかと焦る脳で考える。しかしすぐに、いや、弁解も何もないのではないだろうか、と思い直した。
だって、この状況で何をどう弁解しろと言うのだ。どう考えても、何もかも恋次が悪い。
言い訳さえ一切思いつかない重苦しい沈黙の中で、ふう、と白哉が息を吐く音が聞こえた。びくり、と恋次は肩を強ばらせる。
「……兄は、私の鼓膜を壊すつもりなのか」
そうして告げられた言葉に、恋次は一瞬ぽかんとする。それからすぐに、遠回しに声が大きく喧しいと言われていることに気づき、慌てて声を小さくした。
「あ、す、すんません……」
まるで嵐の前の静けさのようだと、未だ怒気の片鱗も見えない白哉の様子に、恋次はひたすらに縮こまって冷や汗を流す。
「……具合は」
「え? あ、はい、大丈夫です…」
まるで予想外の問いかけに、恋次は一瞬首を傾げ、それから慌てたように答えた。執務に支障があるのかないのかを確かめたかったのだろう。実際のところ身体は軋むし頭痛はひどいしでちっとも大丈夫ではないのだが、これだけの失態をやらかした後に、正直にそんなことをこの人に言えるような度胸は恋次にはない。幸い眩暈は比較的はやく収まったので、椅子に座って書類を捌く分には問題ないはずだ。頭痛は……まあ気合で何とかなるだろう。
しかし、白哉はすうっと目を細めて、否と告げた。
「私は、身体の不調を尋ねたのだ」
「……へ?」
「あれだけの泥酔状態で、何も問題がないはずなかろう」
「え? あ、はい…」
すっかり見抜かれているようだった。もう本当に穴があったら入りたいとはまさにこのことだと思いながら、恋次は多少の不調を正直に吐く。すると、そうか、という簡素な返事が寄越された。
恋次は、おそるおそる尋ねてみる。
「あの……隊長……」
「何だ」
「…俺、その……隊長に何かしてない…っスよね…?」
「………」
再び落ちた沈黙に、恋次は心の中でひいっと悲鳴を上げる。しかしここで確認しないわけにはいかないと、記憶にない昨晩の自分が何もしでかしていないことをひたすらに祈りながら言葉を重ねた。
「や、ほんとあの、すいません! その……俺、途中から記憶が飛んじまっててないんスけど、さっき会った理吉が、わざわざ隊長が俺のこと迎えに行く羽目になったって聞いて……ま、まさか隊長にそんな迷惑かけてたなんて、ほんと、すみません……」
「……どこまで覚えている」
白哉から返ってきたのは、恋次の問いの答えでも叱責でもなく、およそ白哉が関心を示すとは思えない内容の問いだった。
恋次は首を傾げながらも素直に答える。
「え、と……乱菊さんと飲んでたとこまでは、とりあえず……けど、迎えとか、あとどうやって帰ってきたのかとかは、さっぱり…」
「………そうか」
答えを確認すると、やはり白哉は簡素にそう応えた。
予想していたのとは大分違う様子だが、しかしそろそろ説教モードかと、恋次は相変わらず静かな空気の満ちる執務室でごくりと唾を飲む。
だが、ここでも白哉は恋次の予想を裏切った。
「―――恋次」
「は、はい」
こちらに向けられる瞳が冷たく見えないことが、逆に恐ろしい。普通に怒ってくれた方が何倍もマシである。まさか、もう何も期待していないから失望もしないとかそういう境地まで達してしまったのだろうか。
胸の内で不安と悲鳴を叫び続ける恋次を余所に、白哉は徐に壁に置かれた棚のひとつを指差して言った。
「着替えて来い」
「……はい?」
あまりにも予想外の言葉に、恋次はぽかんとする。予想を裏切られるのはこれで何度目だろう。たった数分―――いやまだそこまでも経っていないかもしれないが、この短時間でそろそろぽかんとし慣れてきそうな回数だ。
「そこに死覇装があるだろう」
白哉が指し示す方へと視線を移した恋次は、丁寧に油紙に包まれた見覚えのない何かが棚の上に乗っているのを認めると、ぱちぱちと目を瞬く。この執務室の中に私物を置けるのは、隊長の白哉か副隊長の恋次だけである。恋次が見覚えのない品ということは、つまりあれは白哉のものということになる。というか見るからに油紙など高級そうだ。普通、一般人はあんなもので死覇装は包まない。
「えと……これ、隊長のスか? あの、気遣いはありがたいんですけど、すいません、俺と隊長じゃ体格が…」
確かに、この前の完現術者との戦いの折にひとつ死覇装をダメにしてしまったせいで、今の恋次には替えの死覇装がない。よって今日着ているのは昨晩も着ていたもので、つまりどういうことかと言うと、とても酒臭いであろうことが予想できる。しかも昨晩の恋次は泥酔してそのまま眠ってしまい、翌日はびっくりするほどの遅刻をしたせいで、きちんと消臭もしていないのだ。恋次は鼻が馬鹿になってしまっているのかあまり感じないが、白哉にしてみれば強烈なものだろう。上品な酒は匂いまで上品なのだ。
なので、着替えてほしいというのはわかるのだが、だからと言って白哉の死覇装を借りるわけにもいかない。もちろん体格的に無理なこともあるが、何よりこの人が着ているものを一時でも借り受けるなど恋次の心が持たない。傾慕的な意味でも、貴族と庶民という身分的な意味でも。
しかし、白哉は恋次に否と告げた。
「兄にと誂えさせたものだ」
「……はい?」
聞き間違えか?と恋次は首を傾げたが、白哉はあっさりと言葉を続ける。
「替えがなかったのだろう」
「え? ええ、まあ……そういや隊長には前に言った気が…。―――って、いや、え? ま、待ってください。そ、それってまさか、隊長、わざわざ俺のを作らせたってことっスか?」
「そうだが」
白哉はごく当然のようにうなずいたが、対して恋次は困惑の一途を辿る。しかし、そんな恋次の心境など何処吹く風というように、白哉は重ねて告げた。
「兄のものだ。持って行け」
そしてさっさと着替えてこい、と言外に言い含める白哉に、恋次は困ったように眉を上げたり下げたりしながらも、そうっと棚の上に鎮座する油紙の包みを手に取った。がさがさと中を見やると、一目で普段恋次が着ているものとは違うとわかる材質で織られた黒布が顔を覗かせる。
恋次はそろそろと尋ねた。
「あの、隊長……これ俺が知ってるモンと何か違うんスけど…」
「店に売られているものは知らぬ」
「……、特注品って怖え…」
死覇装を取り扱っている店はそれほど多くない。そしてそのどれもが護廷十三隊の庇護下のもと死覇装を専門に取り扱っており、そのため閉店時間が異様に早い仕様となっている。たとえ定時に上がることができても、そこから店まで辿り着く頃には閉まっているのだ。そうなると非番の日でもなければ買いに行けない。よって、恋次はまだ替えの死覇装を入手できていなかった。
しかし、それはあくまでも恋次の不手際。替えの死覇装のためだけに非番を取るのはさすがに気が引けると先延ばしにしていたのがいけなかった。だが、平隊員ならばともかく恋次は副隊長、そう気軽に隊のスケジュールを乱すような突発的な非番など申請できない立場である。だからこそ、それもやむなしと思っていたのだが、まさかこんな展開になるとは。
誂えさせたと言っていたし、まさか天下の大貴族が一般の店に赴くとも思えないので、特注品であること自体は予想がついていたが、しかしここまではっきりと違うと素直に腰が引ける。ずっしりと感じる重みから何から違う気がするのは、きっと気のせいではないのだろう。
「隊長」
「…何だ」
早く持って行けと言わんばかりの眼差しを恋次に向けた白哉だが、恋次の表情がいつもとは違う神妙なものであると知ると、わずかに眉間の皺を広げた―――ように、見えた。
「なんで……こんなことしてくれるんスか?」
思わず、ぐっと死覇装を握る手に力が入ってしまったのも仕方がないだろう。
白哉にとっては恋次はただの部下かもしれないが、恋次にとって白哉はただの上司ではない。強烈な憧れであり、目標であり―――密かな想い人なのだ。
そして、そんなただの部下のために、朽木家の当主である白哉がわざわざ特注してまで死覇装を誂えてやる必要はないはずだった。恋次の服のサイズを調べるだけでもそれなりに面倒だっただろうに。
恋次にしてみれば困惑の至りで至極もっともな問いかけだったのだが、対して白哉はやや呆れたようにため息をついた。何を言う、とさも当然のように告げる。
「こう頻繁に酒のにおいをさせられては敵わぬ」
「え? ああ、なるほど…」
拍子抜けした気分で、恋次は呆けた顔になった。
己の名誉のため断っておくが、恋次はけしてそこまで過剰な飲酒中毒者ではない。嫌いではないため誘われれば断りはしないが、自分から進んで一人酒に興じるほどの酒好きでもない。今回続けて二度も白哉に眉を顰めさせたのは、たまたま乱菊との飲みのあとにルキアから誘いを受けたからだった。
しかし、それが白哉には過剰に映ったらしい。あるいは、居酒屋という場に行けばまず間違いなく死覇装に染み付く安酒の匂いがそれだけ耐え難かったのか。私室で庭を肴に高級酒を嗜むのとはわけが違う。
「それは……はい、すいません」
「……飲むなとは言わぬが程度は弁えよ」
「いやもうほんッとに、すいませんでした。気をつけます」
「わかればよい」
ひたすら平身低頭しながら恋次がうなずくと、白哉は言うべきことはすべて言い終えたとでもいうように、すっと手元の書類に視線を落とした。恋次が執務室に駆け込んで来る前の姿勢にすっかり戻った白哉に、恋次はぽかんとする。
「え? あの、隊長、それだけ……? 説教は…?」
「……今したが」
「えっ?! 今の?! ただの注意じゃないスか」
どんな特大の雷が落ちるのだろうと先ほどから恟々としていた恋次は、あっさりと話を終わらせた白哉に、信じられないと目を見張る。話に聞く限り散々に迷惑をかけられたはずなのに、これはいったいどういうことなのだろう。
酔いどれの迎えに行く羽目になるわ、翌日は午後まで起きて来ないわ、どちらか一方でも選んだ副隊長を後悔しそうな案件である。何せ恋次の上官は天下の大貴族にして厳格を絵に書いたような人物、朽木白哉。それをこうもあっさりと流されると逆に怖い。後で何か起こるのではないだろうか。
「……兄は、躾の必要な幼童ではなかろう」
「………」
つまり、子どもではないのだから一々声を荒らげて叱る必要はないだろう、ということか。しかし、想像するに昨晩の恋次は腹を立ててもおかしくない醜態っぷりだったはずだが、その分の怒りはどこへやったのだろう。
「や、それは、そうっスけど……でも今日の遅刻とか…」
「今日は急ぎの書類はない」
「え? はあ…?」
「遅れたのなら取り返せ」
「…! ……はい!」
恋次が抜けていた穴はまだそれほど大きくはないと、さり気なく言葉を添えて告げる白哉に、恋次はようやく強ばった表情筋を緩ませて笑みを浮かべた。失望されていないという安堵と、ささかな気遣いに喜びを覚えて。
恋次は、しゃきりと背を伸ばし、貰い受けた死覇装をしっかりと両腕で大切に抱えて、白哉に向かい一礼する。失礼します、と手短に告げ、着替えるため足早に執務室を退室した。
がさがさと、恋次の歩く動きにつられて鳴る油紙の音さえ、なんだか穏やかに聞こえる。温度などないはずの死覇装が、妙にあたたかいような気がした。二日酔いで重ったるい身体が、ふわふわとした感覚にすり変わる。
ああ、好きだなあ、と改めて思った。