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かたしぐれ ― 片時雨 ―

 
 
 まだ夢を見ているみたいだ、と言ったら、少し呆れた顔をしながらも「行くぞ」と強く返してくれた人の半歩後ろを、恋次は並んで歩く。回廊の幅が狭いとか、そういうわけじゃない。ただ、それが自分の立ち位置だと決めているだけ。

 着ている衣装が重く感じるのは、何も緊張のせいだけではないだろう。一瞬でわかる、いくらかかっているのか想像するのも怖い高級感溢れる代物にたじたじになっていたのは、つい先ほどのことだ。なんか美味そうな匂いがする、と着物の袖を嗅いでいたら、それは伽羅だと覗きに来たルキアに思いっきり叩かれた。何でも香木の最高級品……だとか、何とか。

『莫迦者! 金よりも遥かに価値の高いものなのだぞ! ああまったく、兄様もこのように価値のわからんやつに、そのようなものをお使いにならずとも……』

 嘆かわしいとわざとらしく額に手を当てていたルキアの横で、うるさいと返しながらも頬を緩ませていたのは内緒の話だ。いったいどれほどの費用がつぎ込まれているのだろうとやや恐ろしくはなったものの、それが白哉なりの想いの表し方だとわかっているから、上機嫌にならずにはいられなかった。

 そして、まさか今回この衣装に焚き染めるためだけに使用された伽羅の値段が自分の年給を遥かに上回って余りあることなど露知らず、恋次は生まれて初めて纏う上品な香りと共に、待ちきれないとばかりに白哉のところへと顔を出したのだ。

 そして、驚きに目を瞠った。

 美しさとか、上品さとか、優雅さとか。そんな言葉だけじゃ到底言い表すには足りないような、圧倒的な何か。これこそが彼がよく口にしている「格の違い」というやつだろうかと、思わず無言のままに見惚れてしまった。

 ルキアの感極まった声で、我に返り。
 珍しく率直なまま彼女を褒めた言葉に、少しだけ妬いてしまったりして。

 物は試しと同じことをねだってみたら、やはり予想通りの返事が返ってきた。まあ、自分はどう頑張ってお世辞に見てもこんな衣装が似合う顔ではないし、あれが白哉なりの精一杯の褒め言葉のつもりだったのだろうと。別にそこまで気にしてはいなかったのだが。

『……これ以上、どう近しくなれと言うのだ』

 白哉から返ってきた思わぬ言葉に、やはり頬が緩んだ。
 その想いが目に見えるたび、おかしなくらい嬉しくなる。

「……あっ、隊長。ちょっといいですか」

 回廊の分かれ道、恋次は白哉を呼び止めると、白哉が向かおうとしている方向とは違う道を指差して言った。

「寄りたいとこがあるんです」

 白哉は、恋次の言葉に首を傾げはしたものの、特に何も言うことなく爪先の向ける方向を変える。それを見た恋次は、ありがとうございます、と返し、今度は白哉の半歩前を歩き出した。

 おそらく、恋次の指差した方向が、白哉が恋次の着替えのためにと用意した部屋の方へと続いていることから、忘れ物でもしたのかと思ったのだろう。ここは白哉の邸宅だ。それ以外に恋次が向かう場所などないと、そう考えるのは自然のことである。

 だから、恋次が足を止めた場所で、白哉はやや目を見開いた。

 二人の前に見えるのは、静かに灯る蝋燭の焰と共に微笑む、かつてこの人が妻と呼んだひと。

「…なぜ……」
「前に来たことあったんで、覚えてたんです」

 藍染反乱の一件後、白哉のルキアへの想いを知った恋次は、ダメ元ながら彼に頼んだことがあった。ルキアの姉である緋真に、会わせてほしいと。意外にも、そのとき白哉はそれを了承してくれた。だから、覚えているのだ。

 軽く一礼してから部屋へと入り、恋次は白哉を振り返る。しかし、その瞳がわずかに揺れているのを見て、恋次は読みを誤ったかと不安を覚えた。

「……あの、さっき廊下に出たとき、こっちの方見てぼんやりしてたんで、来てえのかなって思ったんスけど……すいません、違いましたか…?」

 すると、さらに白哉の目が見開かれる。そして、何事か言おうと口を開いたが、しかしそれは音になることなく閉じられてしまった。恋次と同じように畳敷きを踏み、部屋に入ってから、白哉は恋次を見上げてゆっくりと息をつく。そして、ぽつりとつぶやいた。

「まったく……よく見ている」

 その言葉で、間違っていなかったのだとわかり、恋次はほっと胸を撫で下ろす。安堵の息をつくと、恋次は明るく言った。

「じゃあ、せっかくだし、俺も焼香させてください」
「……よいのか。おまえは…」

 遠慮がちに目を伏せ躊躇う様子を見せる白哉に、恋次は快闊に笑う。そして、さあ、とその背を押しながら、茶目っ気の含んだ声で言った。

「いいんです。それにほら、やっぱり、先輩には挨拶しとかねえと」
「先……」
「まあ、俺は後輩作る気は更々ないんスけどね」
「……当然だ莫迦者」

 置いて逝くなと、あらん限りの想いの丈と共に告げられた言葉に、恋次はうなずいたのだ。その約束を反故にするようなこと、決してあってはならない。

 遺影の正面に二人揃って横に並んで、焼香を手に取る。つんと鼻につくこの香りと共に、五十年以上も独りで生きてきたのだと思うと、この人の身に染みついた孤独の深さが迫ってくるような気がした。

 いつか、この人も自分と同じくらいに、しあわせだと思ってくれればいい。

 そんな想いを胸の内に秘めながら、恋次は焼香を落とす。

 ちらりと見やった白哉の横顔が、ひどく穏やかで落ち着いたものであることを窺い見て、恋次は人知れずほっと安堵の息をついた。

「……不快には思わぬのか」

 焼香を終えた白哉がそっと恋次の方へと視線を寄越し、やや躊躇ったのちに控えめな声で尋ねてくる。恋次はなるべく明るい調子で答えた。

「思いませんよ? 俺、緋真さんを好きになったこともひっくるめて、隊長が好きなんですもん。そりゃ、一緒にいるのにずっと緋真さんの話されたりしたら複雑ですし、まったく妬けないなんてカッコいいことは言えませんけど……」

 そばにいれば、自分を見てほしいと思うのはごく自然のことだ。どんなに高嶺の花だと手を伸ばしづらくとも、独占欲だってある。その相手が、叶わぬと知りながらも諦め切れず、ずっと想い焦がれてきたこの人ならば、余計に。

 けれど、だからと言って、その胸の中から妻の存在を消してほしいなどと、そんなことは思っていない。

「でも、緋真さんは、隊長がこんなに優しい人なんだって、俺に教えてくれた人でもあるから」

 たったひとり愛した人を、ただ一途に、深く愛し続ける姿を見たからこそ、自分はこの人に惹かれていったのだ。
 この人が妻に向ける眼差しを、もし自分も向けてもらえたら、と。そんな風に、思って。

「それに、ルキアの姉貴ってんなら、まあ俺の姉貴みたいなもんでもあるし」

 いや、こんな厳つい悪人面の弟はいらねえかな、と茶化した物言いでつぶやくと、白哉の目におかしそうな色が宿った。笑いはしないけれど笑っているように見える目に、恋次もつられるようにして笑う。

「……無欲だな」
「ンなことないですって」

 思わぬ過大評価に、恋次はまさかと首を振った。揃って立ち上がり仏壇に背を向けた白哉に、恋次はそっと手を伸ばす。そして、まだ互いに焼香の香りが残る手をしっかりと握りしめると、自信を含めた声音で告げた。

「だって、俺は、隊長の最後を貰いますから」

 思ってもみない言葉だったのか、白哉の目が驚きと共に見開かれる。

 以前ならばきっと、これほど豊かな表情は見せてくれなかった。それだけ心を許されているのだと知ると、どうしたって頬が緩んでしまう。このひとの驚いた顔ひとつで、自分はこんなにも、想われていることを知ることができるのに、与える側のこのひとはちっともそれをわかっていない。

「隊長の最初を全部貰ったのが緋真さんで、最後を全部貰うのが俺です」

 それは、あのとき白哉と交わした約束を、必ず守るという誓いでもある。

 決してひとり置いて逝きはしないと、いつまでもともに生きてゆくと―――そう、この人自身に誓う言葉に、他ならなかった。

「……まあ、俺、緋真さんほど隊長に何かやれるモン持ってるわけじゃねえし、最初と比べると隊長より俺の方がめっちゃ取り分多いんですけどね」

 そう言ってにかっと笑うと、恋次は白哉の手を離す。そして、そろそろ行かないと待たせるかな、とそのまま回廊へと出た足を、何故かぐっと引かれた袖が止めた。見ると、白哉がわずかに恋次の袖を摘んでいる。

「―――そのようなことはない」

 恋次に続いて回廊へと出た白哉は、そっと掴んでいた袖を離すと、静かに告げた。その顔は妙に優しげで、恋次の心臓が驚いたように跳ねる。そして、告げられた言葉の意味を考えて、またひとつうるさい鼓動を恋次に伝えてきた。

「……恋次」
「はい」
「少し屈め」

 いつもならば自分との身長差を恨めしげに見上げるはずが、そんな様子が微塵もない穏やかな調子に、恋次は首を傾げながらも言う通りにする。

 確か、婿に来いと言われたときは頭ごと抱き込まれて、その返事をしたときはやり返すように口づけをされた。さて今度は何だろうか、と思っていた恋次の顔に、白哉の綺麗な顔が近づけられる。後者か、と恋次は思わず目を閉じたが、白哉はすっと口元を過ぎ、その唇を恋次の耳へと寄せた。

「……――――愛している」

 白く細い手を己の唇を隠すように添え、優しい吐息とともに耳元で告げられた一言に、恋次は驚愕のあまり固まった。

 硬直なんて生易しいものじゃない、縛道に例えても足りない。まるで脳の中の何もかもが砕け散ったかのような、例える言葉の方が役不足なほどの衝撃。

 極限まで見開いた目をやっとの思いで動かせば、恋次の顔のすぐ隣りで、白哉はなんとその美貌に静かに黙笑を浮かべていた。数百年後にでも見れたらいいな、なんて、それこそ幻か何かのように思っていた微笑み。それが、いま、目の前にある。他の誰でもない――――恋次しかいない、いま、ここで。

 ―――なんて、

 綺麗な言葉だろう。なんて綺麗な微笑みだろう。その言葉に乗せられた想いも、向けられた微笑みの価値も、痛いほどよく伝わってきて。自分ではまだ、ありふれた陳腐な言葉や、重みのない笑顔しか扱うことができぬ未熟さと拙さを、恋次は痛感する。

 この世に存在する何よりも美しいと、そうはっきりと断言してもまだ余りある美しさを纏った白哉は、ゆっくりと顔を離すと、硬直したままの恋次に実に挑戦的に告げた。

「――――生涯ただ一度と決めた言葉を、再び私に言わせたのだ。……代償は高くつくぞ」

 その言葉に、恋次はやはり大きく目を見開いて。
 そして、泣きそうにゆがむ顔を抑えて、くしゃりと笑った。

 はい、と応えるのが精一杯の自分が情けなく思えて仕方がないが、白哉はそれで満足したようで、すっと恋次に背を向ける。皆の待つ客間へと爪先を向けた白哉の背を見やりながら、恋次は密かに決意した。

 いつか、あなたの隣りで、誰にも文句を言わせぬくらいに、立派な男になったら。
 そのときは、今日と同じ言葉を、あなたに返そう。

 あなたがその言葉に乗せた重みを、自分もまた、乗せることができるくらいに、立派になったら。

 再び、恋次は白哉の半歩後ろを歩く。その手には、白哉と同じく、椿の描かれた扇がしっかりと握られていた。六番隊を象徴する隊花であり、同時に互いの色を示すような、二人を繋ぐのにこれ以上ないほど相応しい花。
 しかし、同じ扇にそれぞれ描かれた、白と赤の椿の花に込められたもうひとつの意味を、このときの恋次は知らなかった。

 花言葉、というのは、何もひとつではないのだと。
 そう、恋次が知るのは、もう少しあとのことになる。

 隊花にと掲げられた言葉は『高潔な理性』。
 そして、この席を祝うために誂えられた、この椿たちに密やかに込められた言葉は――――…



 『 常にあなたを愛します 』

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