かたしぐれ ― 片時雨 ―
「あ、阿散井副隊長。おかえりなさい」
どたどたと騒がしい勢いで六番隊舎に駆け込んだ恋次を出迎えたのは、およそ数名ばかりの席官の面々だった。隊舎寮に戻って来たと思ったのだろう。一番隊から全速力の瞬歩でここまでやって来た恋次は、息も絶え絶えに膝に手をつきながら、すでに白哉の霊圧が隊舎内に感じられないことに遅れて気がつく。
「た、隊長は……」
「え? 朽木隊長なら、先ほど退廷されましたが……」
何ともタイミングの悪いすれ違いに、恋次はがっくりと項垂れた。小降りとはいえ雨の中そのまま駆けて来たというのに、やや遅かったようだ。あの人はちゃんと傘を差して帰っただろうかと、ため息とともに早くも思考が逸れ始める恋次に、ただならぬ様子だと思ったのか三席が控えめに告げる。
「あの、本当につい先ほど出て行かれたばかりなので、霊圧探知をすればすぐに追いつけるかと…。火急の用でしたら……」
「ッ、ほんとか?!」
ぱっと恋次が顔を上げると、三席は「はい」とうなずく。そして、傘は差して行ってくださいね、とすっかり濡れてしまっている恋次に手拭いを差し出しながら、少し困ったような顔で笑った。
恋次は慌ただしく礼を言って、自分の傘が仕舞われている執務室へと駆け足に急ぐ。しんと静まり返っている暗い部屋に足を踏み入れると、明かりをつけて、隅に置かれている傘立てを見やり、手を伸ばした。しかし、次の瞬間その手は不思議そうに止まる。
―――あれ?
なぜか留め具が外れ、膨らんだ状態のまま仕舞われている傘に、恋次は首を傾げた。一護に教えられた通りきちんと留めてあったはずだが、どうしたのだろう。勝手に外れたのだろうかと、恋次は傘を手に取り眺めてみるが、留め金が壊れているような様子はない。一応留め直してみると、留め具と留め具はしっかりと嵌った。やはり壊れてはいないようだ。ぼたん、と言うらしいこの留め具はかなり強く、自然に外れることはそうそうないと聞いていたのだが、どうなっているのだか。
―――まあ、いいか……
壊れていないならばそれでいい、というより今はそれどころではないと、恋次は疑問を頭の隅に追いやろうとしたが、ふと傘立てには自分の傘一本しか残されていないことに気がつく。
―――傘、差して行ったのか……
深い桔梗色の傘がなくなっていることから、白哉が傘を持って行ったことを知るとともに、まさか、と恋次は手元の自分の傘に視線を戻す。そこに描かれているのは、あの人を思わせる桜吹雪の柄。
―――気づいて、見た、とか……?
傘立ての中にあれば傘の柄など見えないだろうし、留め具で留めていれば桜の模様こそ見えてもこれが桜吹雪であるとはわからないだろうと、そう思って普通に過ごしていたけれど。もしやわざわざ手に取って見たのだろうか。それならば、何かの拍子に留め具が外れてしまったのだとしても納得がいく。あの人が現世の代物の仕組みをすぐに理解できるとは思えない。それに、基本的な調度品以外に執務室に置かれているものは、そのほとんどが隊長か副隊長の私物だ。それらに迂闊に他の隊員らが手を触れるとは考えにくい。
それにしても、目の前で開いたときに言及されたのなら「あんたみたいだと思ったから」と案外すんなりと答えられたかもしれないが、知らぬ内に気づかれたとなると中々に恥ずかしい。
―――つーか何で俺の傘取り出したんだあの人は……
恋次の傘は妙な素材でできた現世の代物なのだから、よもや己のものと間違えるなどということはあるまい。そもそも色がまったく違う。白哉が意図的に引き出したことは明白だ。
「………」
恋次は傘を見下ろしながら、ふと、わずかに笑った。
プロポーズ、なんて、終始淡々と語られたものだから夜一たちから言われるまで実感がまるでなかったが、もしかしたらあの人も、今日そばにいない自分のことを少しは考えてくれていたりしたのだろうか。
まあ、たかだか傘の留め具が外れていたぐらいで、自分のことを思い出してくれていたのかも、なんて、まさかそんな都合のいいことはないと思うけれど。
恋次は傘を片手に、くるりと踵を返した。拙いながらも霊圧探知をしてみると、なるほど確かにまだ近くに白哉の霊圧を感じる。これなら瞬歩でなくともすぐに追いつけそうだと、恋次は外に出ると同時に傘を差そうとしたが、ふと、先ほどまでは強まる気配を見せていた雨が随分と弱まってきていることに気がついた。傘を下ろし、手のひらを前に差し出してみると、ぽつり、ぽつりと、かすかに濡れる感覚があるだけだ。……これはもうすぐ上がるかもしれない。
恋次はわずかな逡巡ののち、傘を隊舎の入口の隅に立てかけると、そのままダッと走り出した。傘を差して行くよう三席には言われたが、両手の空いた状態の方が当然ながら速度は速くなる。どうせもう粗方濡れてしまっているのだし、この上多少濡れたところで大差ないだろうと、恋次は元十一番隊らしい己の性格に従って夜の道を駆け始めた。
それでも、心は逸るばかりで、いまにも全力の瞬歩を使いそうになる身体を、恋次は何とか抑える。残念ながら白哉のような歩法の達人ではない自分では、これ以上連続して瞬歩を使うのは負担が大きすぎる。途中でへばってしまっては本末転倒だ。
夜気を割くように駆けながら、恋次は、ふと白哉が口にした歌を思い出した。そして、京楽から教えられた、その歌に込められた意味を。
『―――人の噂があまりに多くてうるさいから、私は生まれてはじめて、夜明けの川を渡ります』
あのときは、京楽から歌の意味を説明されても白哉の真意が読めず、何のことだかさっぱりわからないままだったが、いまなら。ようやくそこに込められた意味がわかる。
うるさい噂―――…おそらくは、自分とのことで、貴族の間で心無い言葉を多く聞いたのだろう。流魂街出身の野蛮な野良犬が、高嶺の花を欲しがっている、と。
自分のことにはまるで頓着してくれないくせに、他人のことになるとすぐに心を痛めるような、そんな優しい人だから。きっと、それが嫌で堪らなかったのだろう。
そして、生まれてはじめて、夜明けの川を―――…
『誰もしたことのないことをやってのけるっていうのは、本当にすごいことだよ』
しみじみと言った、京楽の声が、耳によみがえる。
ほんとうに、まったく、その通りだ。
こうして白哉を追いかけているいまでも、実は夢なのではないかと心のどこかで疑ってしまう。それほどに、有り得ない話だった。庶民でさえ同性の婚姻は認められていないというのに、よもや四大貴族の筆頭―――しかもその当主の身でありながら、男を伴侶に迎えようなどと。
ほんとうに、あの人は、いままで誰もしたことのないことをやろうとしている。
あの淡々と告げられた一言に、いったいどれほどの想いを込めてくれていたのか。それに気づく余裕もなく呆然とすることしかできなかった自分が恨めしい。
―――隊長
駆けるたび、ぱしゃ、と跳ねる水音がする。水溜まりを避けもせず、ただ前だけ向いて駆けてゆく恋次の草履は、すでにぐっしょりと濡れていた。それでもそんなことは気にはならないというように、恋次は足を緩めない。やがて見えてきた背に、叫び出しそうな声が喉の奥で張りついた。
「……ッ!」
深く闇に溶けそうな、桔梗色の傘。
恋次は足に力を込める。ぱしゃりと跳ねる水音にか、はたまた霊圧にか、白哉はゆっくりとこちらを振り返った。傘の影からわずかに覗く顔に、驚きの色はない。当然だ。彼の霊圧探知能力は、恋次を遥かに凌いでもまだ余りあるほどの代物なのだから。
おそらくは自分が目当てなのだろうと足を止め、ただ不思議そうに傘を傾けこちらを見やる白哉のその腕を、恋次は勢いのままに掴んだ。―――細い、腕だった。
白哉の顔がここでようやく驚きに染まるのを見下ろしながら、恋次は駆け足のせいで荒くなった息を整えようと、何度も呼吸を繰り返す。言いたいことがありすぎて纏まらないということを差し引いても、すぐには言葉が押し出せる状態ではなかった。
「……どうした、恋次」
驚きも束の間、いつも通りの淡々とした声で尋ねてくる白哉に、動揺の色は見られない。無言で己の傘を恋次の方へと傾けてくる仕草に気遣いを感じる。離せと言われないことをいいことにぎゅっと腕を握り込みながら、恋次はまだ整わない息のまま、隊長、と彼を呼んだ。
まず、何を言うべきなのか、と頭がぐるぐると回る。勢い任せに追いかけて来たはいいものの、何をどう言おうか、そのあたりはまったく考えていなかった。生じてしまった沈黙を何とか壊そうと頭を悩ませていると、白哉の方から驚きの言葉が飛び出てくる。
「今日は非番だろう。何か急ぎか」
それはまるで、非番なのに何か急ぎの仕事でも持ってきたのか、と聞いているかのようで。―――否、ようで、ではない。おそらく白哉はまったくその通りの意味で言っている。思わず、驚きと呆れのままに恋次は口を滑らせてしまった。
「あんた、馬鹿なんじゃないスか」
飛び出た言葉にすぐに後悔するが、もう後の祭りである。……それに、実際そう思ったことは事実であるし、もうこの際少しくらい言ってもいいのではないかという気になってきた。
「……どういう意味だ」
案の定、意味がわからないと訝しげに眉を顰める白哉に、はああ、と恋次は大きなため息をつく。ああ、心臓がうるさい。どう考えもこの人のせいだ。
「―――ほんとに、俺でいいんですか」
うつむいて、余裕のない顔でそう告げれば、白哉はやや目を見開き、ようやく恋次が何のためにここまで追ってきたのかを察したようだった。
「…京楽さんと……それと、夜一さんから、話聞いたんです。隊長がどう想ってくれてたのかとか、何をしたのかとか、全部」
「………」
話を聞いたと言われ、白哉は複雑な顔になる。
いつも、何も言わずに知らないところで心を砕く人だから、今回のこともきっと、恋次には何も言わないつもりだったのだろう。どれほど反対されたとか、どれほど苦労したのだとか。
そういうものは、全部。
―――言ってくれない人だ
苦労など何もしていないと、そんなものは知らないと言わんばかりの涼しげな顔で、しかしその裏では誰よりも茨の道を進んでいるというのに。
「……いいんですか。俺なんて選んで」
あの言葉の意味を、充分に理解したつもりだ。それならば、すぐにでもうなずけばいいのに、どうしても最後の一歩を踏み出す前に踏鞴を踏んでしまう。信じられないという気持ちが先立って、確かめるような真似をしてしまう。
「―――おまえこそ、私など選んで後悔せぬか」
予想だにしないまさかの応えが返ってきて、恋次は大きく目を見開いた。情けなくも一瞬で硬直した四肢を見下ろし、それから、実によく似た言葉を近来向けられたことがあることに気がつく。
『……私に縛られることとなっても、後悔せぬか』
あのとき。確かに、この人は、そう言った。京楽たちの話では、なんと一年も前から始まっていたという貴族との攻防の最中、この人でも不安になったのだろうか。恋次の向ける想いが、果たしてどれほどのものであるのかと。
「私の隣りなど、楽しい場所ではないぞ」
視線を逸らし、ぽつりと告げる白哉の身体が、何故だかいつもより妙に小さく頼りなく見えて、恋次は思わずぐっと白哉の腕を引く。そして、驚く白哉に構わず、その肢体を己の腕の中にすっかりと収めると、溢れそうな想いのままにきつく抱きしめた。
「隊長」
ともすると震えそうな声で、恋次は白哉を呼ぶ。その肩に顔をうずめながら、聞いてください、と乞うように告げた。伝わってくる確かな熱のあたたかさに、安堵と、そして切なさに似た何かがこみ上げてきて、恋次は慌てて目頭に力を入れる。いま、自分がここにいることが、やはり信じられない想いだった。
聞く側に徹しようとしてくれているのか、白哉は黙ったまま、恋次の好きなようにさせている。
「―――隊長は、俺に、生きる意味をくれたんです」
恋次は、自分でも驚くほどぽろりと、ずっと心の奥に押し込めたままにしていた感情を言葉にして吐き出した。何から言えばいいのかわからなかったが、ただ、この胸にある想いの何もかもを伝えたいと―――そう思って。
「流魂街にいた頃は……何のために生きてるのかわからなかった。死んでもまだ、ここで生きてることの、何の意味があるんだって。俺たちは何のために、ここへ来たんだろうって。―――ずっと、わからなかった」
それでも、あの頃の自分たちにとっては、あのごみ溜めみたいな場所だけが世界のすべてで。殴られて殴り返して、人を騙して、傷つけて。生きるためには何でもした。そうやって、ただ漠然と、生きる甲斐も意味も理由もないまま、苦しさを誤魔化すように必死に息をしていた。
そんな、あの頃の自分が命を捨てずに生きられたのは、同じような仲間がいたからだ。一緒にくだらないことで笑いあって、苦しいことなんて蹴り飛ばしてやろうと、そんな風に子どもながらに思っていた。あの頃の自分は、魚が一匹跳ねただけで、仲間が川に尻もちをついただけで、腹がはち切れそうなくらいに笑っていた。それくらいしか、あの世界にはなかったから。
それなのに、世界はそんなささやかな温もりさえも、容赦なく自分から取り上げていった。ひとり、またひとりと、仲間がいなくなってゆくのを、いったいどんな顔で見送ればよかったのだろうか。生まれてきたことに、いったい、どんな意味があったのだろう。仲間の墓標に向かい想うのは、そんなことばかりだった。死神になろう、と言った彼女がいなければ、自分はとうに生きてはいなかったかもしれない。共に生きてくれた唯一の家族。何があっても彼女のことは護ろうと、そのとき心に決めた。……程なくして互いの間に入った亀裂は、その決意をも踏みにじるものであったけれど。
「ルキアとまた昔みたいな関係に戻ろうって、そう思って強くなるためにがむしゃらにやってたときは、確かに目的はあったけど……すげえ、苦しかった」
なぜあのとき手を離してしまったのかと、ずっと後悔のうちにいながら生き続けるのは、もしかしたら、あの腐れた街で暮らしていくよりも辛かったかもしれない。一角や、弓親など、十一番隊の多くの仲間に支えられて来なければ、きっと、どこかで心が折れてしまっていただろう。
「でもいまは違う。ルキアや、一護や……仲間やダチがいて、何より―――…あんたがいる」
ぐっ、と、思わず抱きしめる腕に力が籠もる。それでも、白哉は何も言わなかった。離せ、とも、苦しい、とも。
彼がいまどんな顔をしているのか、それは見えない。恋次が、ひどく情けないことになっているであろう自分の顔を、彼に見せないようにしているからだった。
「隊長と一緒にいる時間が、目指しているいまが、俺、すげえ楽しいんです。いまが一番しあわせなんです。あんたがそう思わせてくれた。生きる意味も、楽しさも、嬉しさも。生きていたいって思えるようになったのも、ぜんぶ。隊長のおかげなんです」
ほんとうに、いつの間にか。生きる苦しさがなくなっていた。きれいに消えてしまっていた。あれだけ自分を雁字搦めにしていた鎖が、この身を蝕んでいた惨苦が―――いつの間にか、溶けるように。
「……心のどこかで、ずっと、死んでもいいって思ってた。戦って死ぬなら、それで本望だって。家族の手ひとつ取ってやれねえ、あんたに追いつけもしねえ、こんな苦しさから解放されるなら、別に、死んだっていいって」
あのときいた十一番隊は、更木の下で戦って死ぬことを本望とするような、そんな連中ばかりだったから。自分の鬱悶としたそれとはまったく違ったけれど、そのせいでそれほど目立たず過ごせてしまっていたと思う。
六番隊に来て、冗談抜きで、恋次の世界は変わった。ただ、それは決して十一番隊が悪かったとか、そんな話ではない。むしろ、恋次の気質は十一番隊の気風にこそよく肌に合っていた。それでも、あそこに戻りたいとは思わない。自分の居場所は間違いなくここ―――六番隊だ。そう、思わせてくれたのは。
「あんたがそれを変えてくれたんです。俺を救ってくれたんです。あんたと一緒にいたい、隣りでずっと歩いていきたい、そう思わせてくれたのは、他の誰でもない――――隊長なんです」
この人を超えたいと思った。この人に追いつきたいと。隣りを歩きたい、必要とされたい、護れるほどに強くなりたい。そして、いつしか―――…美しさに一片の曇りもないこの人の、その心が、欲しい、と。
知らない感情だった。自分にそんな感情があるなんて、知らなかった。たったひとりの一挙一動が気になって、何かあるたびに喜んだり、落ち込んだり、苦しかったり。忙しくて目が回りそうだった。それでも、そのそばにいられることがどうしようもなく嬉しくて、叶わないことなんて知っていると人知れず苦しさを抱えながらも、ずっと――――…
誰よりも、この人が好きで、好きで、たまらない。
恋次は、ゆっくりと白哉の肩先から顔を上げると、そっとその身体を放した。名残惜しく離れた腕の中から、白哉がぐっと顔を上げてこちらを見やる。その眼差しの強さから逃げるかのようにわずかにうつむき、恋次は早口に言った。
「……俺は、何も持ってません。それでも、俺でいいんスか」
嘘がつけない人だと、知っている。己の信念に反するようなことは、決してできない人であることも。だから、夜一の言った通り、確かに彼の行動は紛れもない彼の意思に相違なく、疑う余地などないのだろう。
―――けれど。
それでも、何故この人が自分を選んでくれたのかは、どうしてもわからないままなのだ。
「あんたの言った通り、俺はただの野良犬だ。あんたにやれるものなんて、俺は何ひとつ持っちゃいない。それどころか、あんたの重荷にしかなれねえ。それでも、俺でいいんスか。俺なんかで、隊長は、ほんとうにいいんですか」
この人の前では、いつも、格好がつかない。そんな自分がいつも情けなくて嫌になるけれど、それでも自分を偽る気にはなれなくて、結局、ただ思うがままに言葉を吐くだけになってしまう。
そんな自分を、どうして。
「…………居場所を――――…」
「え?」
長く落ちた沈黙は、無骨な恋次のものとは違う、透き通った声によって壊された。けれど、いつも凛として揺らぐことなどないはずのその声が、いまは何故かひどく震えているように聞こえる。
「―――居場所を、くれ」
不意に、ぐっと、傘の柄を握っていない方の手で白哉が恋次の死覇装の襟を掴んだ。まるで縋っているかのようにも見えるその仕草に、恋次は大きく目を見開く。
「私の、息つく、場所であってくれ」
うつむいた白哉の顔には射干玉の髪がかかり、彼の表情を隠してしまっていたが、それでも白哉がどれほどの想いを込めてその言葉を吐いたのか、それがわからぬ恋次ではなかった。手を伸ばせば触れられるのではないかと思うほど熱の籠った声と言葉に、恋次は思わず心を震わせる。
見開いた目から見える光景を疑う暇もないほど、ようやく行き場を見つけた激情が我が身を駆け巡った。
―――俺は、
あんたにやれるものなんて、何ひとつ、持っちゃいない。……そう、思って、いたのに。
あんたは、俺の中に、それを見つけてくれるのか。
欲しいと、言ってくれるのか。
恋次は、名残惜しくも離した手を再び白哉へと伸ばす。そして、先ほどまでとは比べものにならないほどに強く、強く―――…その肢体を抱きしめた。強引なまでに引き寄せた反動で、桔梗色の傘が音を立てて地に落ちる。
雨は、降りそそがなかった。
「……――――好きです、隊長。あんたが好きです。俺は―――」
溢れる。堰を切って、止め処なく。
この想いを止める術を、恋次は知らなかった。
「――――おれは、あんたと、生きていきたい……」
この腕の中にあるぬくもりを、離したくないと、切に想う。
誰にも渡したくない。隣りにいてほしい。隣りにいさせてほしい。この命ある限り―――否。願わくば、命尽きても、その心の中に……ずっと。
「…―――恋次」
静かに自分を呼ぶ声が、くぐもって胸の中から聞こえる。恋次は腕を緩めて己の胸板から白哉を解放し、こちらを見上げる澄んだ瞳と目を合わせた。吸い込まれそうになるほどに深い色に染まる瞳に、鮮烈な赤が映っている。他の誰でもない、自分だけを見ているのだ、と理解すると共に、頬に熱が集まった。
「……一度しか、言わぬぞ」
一瞬、わずかに逸らした視線を、白哉は再び恋次へと向ける。何かを伝えようと強く心に決めたとき、この人は、必ずまっすぐに相手の目を見るのだ。いつだって毅然としたその強さに、ただ、憧れた。
「――――何処へも行くな。私の傍にいろ」
「…ッ!」
あまりにも率直に告げられた言葉に、恋次は固まる。
そんな恋次に、白哉はそっと手を伸ばし、とくとくと確かに心臓の脈打つ左胸―――そこに、まるで恋次が生きていることを確かめるかのように触れて、ぎゅっと拳を握った。
「…………頼む……」
先ほどまでとは打って変わって弱々しく聞こえた声に、恋次はハッと我に返る。そして、考えるよりも先に、恋次は護るかのように己の片手のひらで白哉の拳を覆い包むと、しっかりと握りしめた。
確かにここに居ると、そう、伝えるように。
「……おまえは、私を置いて……何処へも逝くな………」
―――ああ、このひとは。
恋次は大きく目を見開くと、思わずもうひとつの手を伸ばして白哉の頬を捉える。そして、その唇に、そっと己のそれを重ね合わせた。一瞬にして何かの箍が外れたかのような、それは実に衝動的なものと言ってもよかった。驚いた拍子に白哉はわずかに身を引いたが、恋次は構わずに、口づけたまま白哉を己の方へと引き寄せる。
確かに伝わる優しい熱に、涙が滲みそうだった。
―――どれほど望んでくれたのだろう。
再び喪うやもしれぬ恐怖を全身で感じながら、それでもなお、このひとは己の身を恋次の元へと縛ろうとしている。
妻を喪った哀しみを、その胸に痛いほどに刻みながら、同じ哀しみを背負うことになるやもしれぬ代価を払ってまで、自分に応えようと。
「―――隊長」
触れただけの、けれど泣きそうなほどに熱をもった唇を離すと、恋次は静かな声で白哉を呼ぶ。これほどに目を見開いているのは初めてではないかと思うほど驚愕を顕にしている白哉の両肩を掴み、恋次は力強い声音で告げた。
「俺は、絶対に、あんたを独りにはしない。隊長が望んでくれるなら、俺は、たとえどんな戦場からだって必ず帰ってきます」
この人の強さに憧れた。
いつも毅然と上げられた顔も、多くを背負って伸ばされた背も、何を前にしても怯むことのない堅固な心も。
そのすべてに、ただ、強烈に憧れた。
――――けれど、同時に。
この人に近づけば、近づくほど。
不器用で繊細な優しさや、わかりにくい気遣いや、誰かを護りたいと願うくせに自分のことはちっとも大事にしてくれない、そんな面を知って。
辛くはないのか、と思うようになった。
憧れた強さは、彼の並々ならぬ努力が生み出しているものだと知り、そして同時に、彼が心を休めることのできる場所が、いまはもう無いのだということを知った。
―――だからこそ。
もっと、自分に見せてほしいと思った。その心のうちを。強く在るためにと押し隠した、彼が「弱さ」と呼ぶ面も。そして、どうか自分にも、ともに背負わせてほしい、と。そう思うようになった。
この人が弱さを曝け出せるくらいに、強くなろうと。
「だから、信じてください。頼ってください。寄りかかってください。副官としても、家族としても―――俺に、あんたを支えさせてください」
恋次はそう言って両手を離し、白哉からわずか半歩離れると、そのそばに横たわる桔梗色の傘を拾った。どこも汚れた様子はなさそうだと見て確認すると、それをすっと白哉の方へと差し出す。そして、はにかみ混じりに笑って言った。
「俺で、いいですか。隊長」
恋次の表情からようやく不安が消え、それに代わるように確信と安堵が宿ったことを見抜いたのか、そう言われた白哉もまた、ふっと表情をやわらかくする。……少なくとも、恋次には、そう見えた。
すっと、傘に伸ばされた細く白い手が、恋次の日に焼けた無骨なそれに添えられる。傘を受け取るだけなら必要ないその仕草が、是の言葉であることくらい、いまの恋次には容易くわかることだった。
「……このような往来で、というのはどうかと思うがな」
恋次から受け取った傘へと視線を落としながら、先ほどまでの殊勝な様子はどこへ行ったのか、白哉はすぐにいつもの調子に戻ってそうつぶやきをこぼす。そんな様子に、恋次は笑って言い返した。ほっと気が抜けたのは、どうやら自分だけではないらしい。
「隊長だって、プロポーズ執務室だったじゃないスか」
「……そちらではない」
「ん? ……ああ! なるほど」
恋次が、すぐに理解したことを態度で示すと、白哉は居た堪れないのかすっと視線を逸らしてしまう。―――つまり、こんな往来で口づけするとは何事だ、と言いたいのだろう。
「大丈夫っスよ、誰もいませんって」
「……そんなことはわかっている」
だろうな、と恋次は自分で言っておきながら心の中でうなずく。霊圧探知をすれば、周りに人がいるかどうかを知ることなどこの人にとっては容易いことだろう。
「そうではなく……仮にも隊の規律を預かる身として、このようなところで―――」
「こんなとこじゃなければしてもいいんスか?」
「……調子に乗るな莫迦者」
それでも否定はしないあたり、この人も自分に甘いなあ、と恋次は余裕のできた心で思う。信じられないと目を曇らせ、いままでずっと気づかずにいたことに、いま、ようやく気づけるようになったらしい。言葉こそ軽い様子を装っているが、うっかり気を抜けば、目もくらむようなしあわせに涙でもこぼれてしまいそうな心地だった。
ただでさえ心の内を言葉にすることがほとんどないこの人にあそこまで言われては、調子に乗るなという方が無理な話である。
「……隊長の、おかげですよ。こんな調子乗れるの」
「…………」
ありがとうございます、と恋次が告げると、白哉はやや面食らったような顔になり、やがて恋次から視線を外した。怒るに怒れなくなってしまったのか、それ以上は何も言わなかった。
空を見上げた白哉は、ぽつりとつぶやく。
「……雨が、上がったな」
「ああ、そっスね」
白哉が傘を閉じるのを見ながら、それじゃあ、と恋次は別れの言葉を告げる。また明日、と、いつものやり取りのはずなのに何だか妙にこそばゆい気持ちになりながら踵を返そうとした恋次に、白哉の不思議そうな声が待ったをかけた。
「どこへ行く」
「は? え、どこって……六番隊舎ですけど……」
よもや自分が六番隊舎寮の副隊長室を住処としていることを知らぬわけではあるまいと、恋次は質問の意味がわからずひたすらに首を傾げる。
そんな恋次に、白哉は実にあっさりと告げた。
「私の屋敷の方が近いだろう」
「……え?」
ようやく心を落ち着けたばかりだというのに、新たに投下された爆弾に恋次の心臓は再び跳ね上がる。……これは、その、つまり、泊まって行けと―――そういう意味で、いいのだろうか。
表情筋をいっぱいに使ってぎょっとして見せた顔の恋次に、その反応をどう取ったのか白哉はふいと視線を逸らしながら付け加える。
「……嫌なら構わぬが」
「ンなわけないでしょう?!」
慌ててぶんぶんと首を振る恋次に、そうか、と白哉はこれまたあっさりとした返事を返してくる。……もしかして、からかわれたのだろうか。
「いや、でもあの、出仕するとき見られたりしたら、困るんじゃあ……」
「これから婿に来る身でいまさら何を言っている」
呆れたように告げられた言葉に、恋次はハッとした。……ああ、そうだ。そうだった。白哉が自分に告げたあの一言を思い出して、恋次は思わず頬が緩む。
ほんとうに、この人の隣りに立てるのだ。
誰に憚ることなく、堂々と。
しあわせというものは、どうやら際限がないらしい。心のあらゆる場所を埋め尽くすかのように波打つ充足の波は、あのときからまたさらに広がって、恋次の心をあたたかく満たしていった。
「…あっ、そうだ、隊長」
「何だ」
「ちょっと傘貸してくれませんか」
幻のようなしあわせついでに、もうひとつ、夢の中で思い描いた願い事を叶えても罰は当たらないだろうと、恋次は白哉に頼んでみる。白哉は訝しげな顔はしつつも、すんなりと手に持っていた傘を恋次に差し出してきた。
桔梗色の傘を受け取った恋次は、もう雨の降っていない空にそれをぱっと開く。そして、それを白哉の上に翳すと、自分もまたそのすぐ横に入った。すっぽりと揃って傘の下に収まった様子に笑みを浮かべ、白哉の方を見やる。
「相傘。やってみたかったんです、こうやって並んで歩くの」
片肩は互いに少しはみ出てしまっているが、もう雨は降っていないのだし、構わないだろう。子どものように目を輝かせる恋次に、白哉はやや呆れの混じった顔をするも、好きなようにさせてくれていた。
「恋次」
「はい?」
上機嫌に歩きだそうとしたところを呼び止められ、恋次は不思議に思って白哉を顧みる。
「少し、こちらに傾けろ」
「? 別にもう雨降ってないっスよ?」
白哉のよくわからない注文に首を傾げつつも、特に断る理由もないので、恋次は言われた通り傘を傾けようとふっと視線を上にやる。
―――その、次の瞬間。
恋次は、ぐいっと唐突に頭を引かれる感覚に思わず体勢を崩しかけた。それでも転ばずに済んだのは、恋次の両頬に添えられた白い手と、受け止めるように重ねられた唇のおかげだった。
「ッた…っ…?!」
これ以上ないほどに目を見開いたまま、恋次は一瞬で離れた白哉を驚愕の眼差しで見やる。いつも通りの澄ました顔を見ると、幻覚でも見たのではないかと疑いたくなったが、しかし確かに、唇には感触が残っていた。
「……こ…、こんなとこでは、しないんじゃなかったんスか」
「おまえはするのだろう」
しれっと返して、白哉はすたすたと歩き出す。恋次は慌てて傘を持ち直し、白哉の横に並ぶと、そうっとその横顔を覗き見た。一見無表情を装ってはいるが、髪の隙間から覗く耳がわずかに赤い。そんなことにも気づけるようになった。恋次は思わず頬を緩める。
いままで信じられずにいたはずのこの人からの想いを、いまはこんなにも近しく感じられる。それも、自分が思っていたよりも、ずっと強く。
だって、ほんとうは、ここから彼の屋敷まで、まだ六番隊舎の倍ほどの距離があるのだから。