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かたしぐれ ― 片時雨 ―



 ぱさ、と目を通していた書類を机の上に起いた白哉は、それが手元にある最後のものだったと知ると、ふっと顔を上げた。賑やかしい副官がいないため、しんと静まり返っている執務室は、やはりいつもより広く感じる。あの男の代わりに席官の部下が置いて行った卓上の茶は、まだ随分と残っているのにも関わらず、いつの間にやらすっかりと冷えてしまっていた。

 窓の方を見やれば、やはり日はすでに暮れているようで、外は部屋の明かりを吸い込むかのような深い闇に包まれている。そういえば夕刻あたりまでは雨音が騒がしかったはずだが、と白哉は椅子から立ち上がると、すっと窓辺へと近づいた。

 ―――小雨……

 白哉の記憶にあった篠突く雨は見る影もなく、外にはただ、しとしとと静かに音を吸っては地に落ちる、わずかばかりの雫が見えるだけだった。

 傘を使うか使うまいか、やや悩む塩梅だ。

 白哉は振り返って、部屋の隅に置かれた傘立てを見やる。そこには、二本の傘が大人しく収まっていた。執務室に私物を置くことができるのは隊長と副隊長のみのため、一本は白哉のもの、そしてもう一本は恋次のものである。

 白哉は傘立てに近づくと、なんとはなしに恋次の傘を手に取った。何でも一護の勧めで買ったという現世の代物らしく、その肌触りは妙に滑らかだ。あの男らしい鮮やかな朱色の下地に、染め抜きのように描かれているのは桜だろうか。何となく己の斬魄刀が思い起こされるその柄に、まさかな、とは思いつつも、白哉は部屋に誰も居ないことをいいことに少しばかり顔を綻ばせる。

 何故か傘にきゅっと巻きついている紐をわずかに引っ張り、もっとよく柄が見えるよう襞を広げて見ようとした白哉だったが、その瞬間、ぱっと傘の留め具が外れた。弾かれるように膨らんだ襞に、白哉は驚いて目を瞬く。視界に桜吹雪が散った。襞をつまみ上げてそっと広げて見れば、描かれているのはさらに己の斬魄刀の姿に近しく思える模様。まるで自惚れろと言わんばかりだ。

 白哉は慌てて元の細身の姿に戻そうと試みたが、傘に付いている紐はとても結えるほどの長さではなかった。そもそも、紐の片側は傘の表面にぴたりと貼り付けられており、これではたとえ長さが十分にあったところで結うことはできないだろう。
 何よりもまず、傘を紐で括る、という発想がなかった白哉は、なぜこのような紐が必要なのか、と首を傾げる。確かに細身にはなるようだが、斯様に傘を締めつけてはその部分が傷むのではないだろうか。

 傘を手に白哉が考え込んでいると、ふと執務室へと近づいてくる霊圧を感知して、白哉は思わず膨らんだままの傘を傘立てに押し戻した。扉の叩かれる音に、入れと入室の許可を与える。顔を覗かせたのは、六番隊の三席だった。

「朽木隊長、もう夜も遅いので、今日は……」

 以前と比べると随分と怖けることなく話しかけてくるようになったと、白哉はいまさらながらにしみじみと思う。それもこれも、あの男が六番隊の副隊長になってからだ。

 恋次が来てから、六番隊は変わった。確実に、良い方向へと。

 白哉は了解の返事を返すと、今日の分の書類はすべて終わらせたと机の上を示しながら告げる。それを受けた三席は、予想だにしなかったのか驚いたような顔になった。まさかあの量を、と絶句している様子を、白哉は不思議な心地で眺める。……考え事に耽りながら手を進めていたらいつの間にか終わっていた、とは、言わぬ方がよいだろう。それほど疲労感を感じていないため、驚かれることが不思議に感じる。

「―――残っているのは」
「朽木隊長と、あとは席官が数名のみです。もう帰り支度を始めているので、すぐに終わらせます」
「そうか」

 白哉がうなずくと、三席は机に整えられた書類と、それから冷えきってしまっていた茶を回収して、失礼します、と執務室を出ていった。再び沈黙に包まれた部屋を、白哉はゆっくりと見渡す。

 明日には、あの男が戻ってくる。さすればこの寂寥を纏ったかのような静けさも、一瞬のうちに消えて失せるのだろう。いつの間にか六番隊の雰囲気を穏やかなものに変え、そして自らが気風そのものとなっている副官に、白哉はわずかに柔らかな表情になった。
 それにしても、たった一日の非番の日が、こうも落ち着かぬとは。何とも情けない限りである。

『――――恋次』

 ようやく、告げた。
 受け取るばかりだった想いを、ようやく、ひとつだけ。

 自分は、彼と同じく男で、四大貴族の当主で、多くの柵に囚われた身だ。自由に生きるあの男とは対極に位置するような、そんな存在。
 それでも、おまえは私を望んでくれるかと――――そう続くはずだった言葉をあのとき飲み込んだのは、あの男が自分を抱きすくめて告げた言葉があったからだった。

『色んな言い訳並べ立てて、何したいんスかあんた。言っときますけど、隊長が何をどう言おうが、俺があんたを好きな事実は何も変わらないんスよ』

 そう、一寸の迷いもなく、あの男が言ったから。
 白哉はようやく、胸の内に抱えた一言を告げることができたのだった。

 あのときの恋次の驚いた顔を、いまもはっきりと覚えている。おそらく頭の処理が追いついていないのであろう呆然とした様子に、白哉は逸る心に気づかれぬよう淡々とわけを話すと、そそくさとその場を後にしたのだった。

 元より、あの場で返事を急かす気などなかった。

 ―――急ぎはせぬ

 自分は、あの男を三年もの間待たせたのだ。その倍でも、さらにその倍でも。どれほどの時間が経とうとも、構わない。これ以降は何も言うまいと、白哉は心に決める。明日、あの男が出仕して来たら、普段通りに振る舞えばいい。無理に意識させてぎこちなくなる方が、よっぽど心が休まらないというものだ。

 白哉は己の机へそっと手を置き、ふと目を伏せた。部屋に満ちる静けさを、小雨のかすかな音が壊している。

 静かに降る雨は好きだと、そう言っていたひとの面影が思い出された。花が綺麗に咲くからと、花のように咲むひとの顔が。

『―――白哉様』

 この耳に残る声を、生涯忘れることはないだろう。
 たとえ誰かの愛を知り、再び誰かを愛したこの身であろうとも。

 きっと笑って自分を許してしまうのであろう彼女の笑顔が容易に想像できてしまって、白哉は苦艱の捨てきれぬ笑みを浮かべる。

 あなたを妻に迎えたのは。
 せめて、私があなたを愛した証を贈りたかったから。
 私に与えるばかりのあなたに。
 わずかでも、応えたいと思ったから。

 けれど、そのせいで、あなたは疲弊していった。
 あなたと共に生きたいと、そのそばにいさせてほしいと、そう私が願ったばかりに。

 繰り返すだろうか。彼女のように。
 かたちがなくとも、そばにはいられるであろう彼に、それ以上を望むのは。

 ―――けれど、私は……

 妻を亡くし、二度と愛を抱くことはないだろうと思っていたこの心に、けれどするりと入ってきた男の声が耳に響く。

『隊長』

 向けられる笑顔も、言葉も、ぬくもりも。
 そのどれもが、直向きで、素直で、まっすぐだった。

『好きです』

 雪を溶かす陽射しのように。
 花を慈しむ雨のように。

 心を満たす、そんな言葉たちを、自分はあの男のように容易に口にすることができない。

 だから、せめて、と。

 せめて、言葉を口にできぬこの性格を補えるだけのものを、自分もまた、あの男に返したいと。

 そう、思ったのだ。

 己の抱える想いの丈は、決して、おまえに劣るものではないと。
 口にするのが不得手だとて、それだけは、わかってほしい、と。

 たいそう勝手なものだが、そう、祈るかのように。

 白哉は、再び誰もいなくなった静かな部屋で、そっと息を吐く。祈る、など柄でもないが、いまの心地を表すのならば、きっとそんなところだろう。想いの通じ合う幸福を知っているからこそ、余計に、それを強く欲するのだ。

 ふと、雨の音が強まっていることに気がつく。外を見やると、先ほどよりも多くの雫が降っていて、音を吸い込んでいた姿が嘘のように自鳴していた。ああ、傘が要るな、と白哉はぼんやりと思う。時雨れる音のせいか、妙な時雨心地が沸き起こった。喜びや安堵だけではない感情が、胸を突く。

 もう一度、愛されたいと、願ってしまった。
 もう一度、愛したいと、望んでしまった。
 もう一度―――…誰かの隣りにいたいと、思ってしまった。

 それを罪だとは、誰も言わない。
 誰も―――…そしておそらくはきっと、彼女さえも。

 前に進むと決めた。しあわせを恐れぬようにしようと。追憶だけを抱くのは、もう、止めにすると。

 それでも。

 ―――緋真

 あなたを愛したことを、私は忘れない。
 あなたが与えてくれたもの、あなたが教えてくれたこと、そして、あなたが私とともに生きてくれた時間――――そのすべてを、私は、決して……

 ――――忘れは、しない。

 たとえ、どれほどの時が経とうとも、誰と添うことになっても。あのときあなたがくれた愛の一片たりとて、忘れはしない。それだけは、どうか―――…

 ―――緋真……

 いつだって鮮明に思い出せる優しげな微笑みの彼女に、白哉は誓いを立てるときのような厳かな心地で告げた。

 おまえとの約束を過たぬよう、私を諫めることを躊躇わぬ確かな者を後添いとしよう。
 おまえとは似通わぬが、けれど私を捉える赤の持ち主を。

『隊長』

 瞼の裏に思い描けば、自然と口元がほころんだ。いつの間にかこんなにも自分を捉えていた男の姿に、愛おしさが募る。

 ―――恋次

 あの男の目が好きだ。
 何を前にしても、怯まぬ信念を宿した目が。

 あの男の手が好きだ。
 その心のように、あたたかさを灯した手が。

 あの男の声が好きだ。
 心を雄弁に語る、優しさに溢れた声が。

 あの男の言葉が好きだ。
 いつだって、まっすぐに、向けられる言葉が。

 あの男の笑顔が好きだ。
 屈託なく、太陽のように―――笑う姿が。

 いくらだって溢れてくるこの想いを、けれど自分は上手く伝えてやることができずにいる。当たり前のように想いを言葉にのせて差し出してくる恋次が、ほんの少し妬ましく思えてしまうほどに。

 あれから、ずっと。

 毎日、毎日、飽きもせず、想いを口にしてきた恋次が、自分に贈った言葉の数々は、果たしてどれほどのものとなっているだろう。自分が一生かかって伝えられる言葉の数よりも、それは遥かに多い気がして、白哉はわずかに低沈する。

 返せるのだろうか、と静かにため息をついた白哉は、ここでようやく、自分が妙に感傷的になっていることに気がつく。……嫁入り前の生娘ではあるまいし、まったく何を取り留めなく考え込んでいるのだか。

 これ以上、自分にできることはない。あとはただ、待つしかないのだ。やがて成るように成るだろう。

 手早く帰り支度を整えて、白哉は傘立てに差してあった自分の傘を手に取る。紺桔梗のそれは、白哉の好む桔梗の花を思わせる色合いだ。紙は幾度も張り替えたが、柄の部分はあのときからずっと変わらない。かつて、傘を持つ己の手に添えられた、小さくはかない手を思い出して、白哉はそっと目を伏せる。

『…―――いつまでも……』

 けして幻聴などではなく、彼女がいつか口にしたこともある声が、耳の奥で響く。

『貴方のしあわせを、願っております、白哉様――――…』

 そういうひとだった。

 そう、はるか昔に言われていたのに、気づくのが遅くなってしまった。己の心を支えるのが精一杯で、ただ幸福を恐れる自らの苦悩しか、目に映らなかった。

 それを気づかせてくれたのは、あの男だ。
 陽射しのような、笑顔のまぶしい男。

 その言葉に、ぬくもりに、熱に、安堵を覚えて。
 いつしか、救われていた。

 誰に見せるわけでもない、かすかな微笑が白哉の口元を彩る。これほど自分の心を捉えているなど、あの男は知らないのだろう。こんなにも自分の心を占めていることなど、きっと、想像もしていないのだろう。

 ―――返したい

 与えられた想いを、優しさを、あたたかさを。
 いままで、自分は与えられるばかりで、ずっと返せずにいた。

 だから、はやく、返したい。
 不格好でも、不器用でも、少しでも。

 明日、顔を合わせたら何と言ってみようかと、白哉は柄にもなくひとり静かに胸を躍らせる。こんな性格ゆえ、上手く言葉として形にできるかどうかはわからないが、取り留めもなくそんなことを考えてみると、少しだけ―――夜が明けるのが、待ち遠しく思えるような気がした。

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