かたしぐれ ― 片時雨 ―
「のう京楽、お主まだ帰らんのか?」
ここは一番隊隊首室。この隊舎の主である京楽は、正面に座り先ほどから堂々と菓子を頬張る客人―――四楓院夜一にそう言われ、にっこりと笑い返した。ちなみに人型である。どうやってここまで忍び入ったのかは知らない。七緒が知ったらぎょっとしそうなものだが、そこは京楽、さすがは瞬神、だけで流していた。
「う〜ん、まだ」
「粘るのう。賭けは儂の勝ちではないのか」
にやりと笑う夜一に、いやいや、と京楽はまだ余裕の顔を崩さない。
時刻はまもなく夜のはじめ。まだ残業をする隊士らが残っていても何らおかしくはない時間帯ではあるが、八番隊時代からの付き合いである優秀な副隊長のおかげでほとんどその必要がなかった京楽は、早々に仕事を切り上げて隊首室でのんびりとしていた。
それではなぜ帰路に着かないのかというと、それは、たったいま夜一の言った「賭け」が理由である。
実は、京楽と夜一は、ちょっとした賭けをしていた。本人にバレたらそりゃあもう不機嫌に怒られるような、少々悪ふざけの入った賭けである。まあ、それができるのもすべてが丸く収まったあとだからこそなのだが、耳にすればきっとあの子は眉間に皺を寄せて文句を言うに違いない。
「しっかし、本当にあの白哉坊が、昨日の今日でプロポーズの言葉なんぞ言えると思うか? 阿呆かと思うほど奥手な奴じゃぞ?」
「や〜、案外、勢いでいけるかもしれないよ?」
そう。賭けの内容は、白哉がいつ恋次に話を切り出すか、というものだった。京楽は、白哉が久々に六番隊に出仕したその日―――つまりは恋次の非番より前にすると予想し、夜一は恋次の非番を挟んだあとにすると予想したのである。
京楽がそう予想したのには、ちょっとした理由があった。
『いやあ、それなら明日は白哉くんも忙しそうだし、時間取れなさそうかなあって。留守続きで無理させてるから、お詫びも兼ねてルキアちゃんと非番合わせてあげたいんでしょ? けど、白哉くんが無理しちゃダメだからねえ』
あの日、夜一が冗談で言った「覗き見しに行く」という言葉を大真面目に警戒していた白哉にそう告げたのは、京楽の密かな小細工だった。もちろん無理をするなという言葉に込めた気持ちは本心だが、あの場で、そして夜一の前で言うことで、白哉はその日ならば夜一の目を掻い潜れるかもしれないと多少なりとも思ったはずだ。そして、そう思ってもらうことが京楽の目的だった。
―――まあ、こんなことしてるから狸なんて呼ばれるんだけど
しかし、夜一の冗談を気にして恋次に話すのが遅れてしまっては少々かわいそうだろう。結果として賭けに利用しているとはいえ、もともとは単なる厚意から出た台詞だった。
「じゃがのう、それとこれとは話が別じゃろ。何も律儀に隊首室で待っておらんでもよいじゃろうに」
京楽の待ち人の存在を知っている夜一は、やや呆れの混じった声で言う。今回の賭けの結果を教えてくれるかもしれない人物なわけだが、確かに彼がここを訪れるかどうかは賭けの内容によって完全に決まるわけではない。もしかしたら来るかもしれない、程度のものだ。
「まあね〜。けど別に僕このあと用事もないし、それに、七緒ちゃんはまだ帰らないって言うからねえ。僕だけ先に帰るのもちょっと」
「普段仕事を押しつけてサボってばかりの奴が何を言っとるんだか」
「夜一ちゃんには言われたくない〜」
けらけらと笑いながら、京楽は夜一の広げている菓子のひとつを手に取る。夕餉はすでに済ませたあとだが、この時間は小腹が空くものだ。
「あっこれ京楽! それは儂のじゃ!」
「いいじゃない別に少しくらい。あ、結構美味しい。見たことない包装だけど、現世の?」
「そうじゃ。喜助の最近の気に入りでの」
「やっぱり現世には美味しいものがたくさんあるねえ。あ〜あ、早く阿散井くん来ないかなあ。そしたら現世の酒饅頭もらえるのに」
「何をもう勝った気でおるのじゃ京楽。まだじゃぞ。そもそも、こんな夜も遅くなってから来るなどそれこそ可能性が低い―――」
ぷつん、と途中で夜一の声が途切れたのも仕方のないこと。京楽がかすかに感じた霊圧を、彼女もまた感じ取ったのだろう。穿界門が開いたようだから、やはり現世に行っていたらしい。おそらくはあの死神代行の少年のところだろう。もうひとりの霊圧がないということは、ひとりで戻って来たのか。
「おっ、こっち来てる来てる」
瞬歩の勢いで近づいてくる霊圧に、京楽は上機嫌に笑った。対して夜一は、むう、と唸る。
「本当にやったのか? あの白哉坊が……」
「まあほら、夜一ちゃんは白哉くんと百年近く会ってなかったからねえ。昔はともかく今の白哉くんに関しては、僕の方がちょっとだけ上なんじゃない?」
「ほーお? 儂に喧嘩を売るとはいい度胸じゃの、京楽。この程度で儂よりお主の方が白哉坊のことをよく知っとるなどと豪語するのは、ちと早計すぎやせんかのう?」
「ほんと、白哉くんのことになるとすぐ熱くなるよねえ」
表情こそ余裕を崩さぬ笑顔でありながらも目がちっとも笑っていない夜一に、京楽はひょいと肩を竦める。そして、さりげなく菓子をもうひとつ頂戴しながら、京楽は待ち人を出迎えるべくうきうきと執務室へと向かった。
相変わらず広すぎて落ち着かない執務室の椅子に座って扉が叩かれるのを待つ京楽の元へ、やがて目当ての人物がやって来る。入室の許可を求める声に応えながら、京楽は自ら扉を開けて出迎えた。
「やあ。いらっしゃ〜い、阿散井くん」
歓迎の態度を隠しもしない京楽の様子に戸惑ったのか困惑の表情を浮かべる恋次を、京楽は「さ、入って入って!」と気安く手招く。視線をうろうろとさせながらもそうっと執務室に入ってきた恋次に、京楽は先ほど自分が出てきた隊首室へ続く扉を指し示しながら、相変わらず笑顔で言った。
「まあ、こんなところじゃ何だし、あっち移動しよっか」
「えっ? あの、総隊長、仕事は……」
「それならもう終わってるよぉ。うちの七緒ちゃんは優秀だからねえ。ま、気にせずゆっくりしてってよ」
「そう、なんスか」
京楽の返事にほっと息をついたのも束の間、恋次はすぐに違和感に気づいたようで、再び困惑の表情を浮かべる。なるほど、勘がいいというのは本当のようだと、あの白哉の副官を務めるだけはある感覚の鋭さに京楽は密かに笑った。
「あの、じゃあ何でまだ隊舎に……」
「ん〜? それはねえ……」
ふふ、と意味ありげに笑うと、京楽は隊首室への扉を勢いよく開ける。そして、中で相変わらず菓子を頬張っている夜一に、実に機嫌よく勝利の叫びを上げた。
「はあ〜い! 僕の勝ち〜!!」
にっこにっこと満面の笑みの京楽に対して、夜一はむうっと不満そうな顔をしている。実際、彼女はかなりの負けず嫌いだ。夜一は、話についていけていない恋次をぎろりと睨みつけると、実に悔しげに言った。
「……お主…こんな時間になって来るとは……」
「え、あの……え?」
「そんな睨んじゃ可哀想だよ〜」
隊首室に備え付けられている給湯器から、新たに増えた客人用にお茶を淹れると、京楽は夜一の正面に腰を下ろす。テーブルに湯のみを置いて、それから恋次も席に座るよう促した。慌てたような礼とともに、恋次はおそるおそるといった様子で腰を下ろす。やや緊張気味な様子を見て、京楽は笑いながら夜一の持ち込んだ菓子も勧めた。
―――けど、本当に翌日だったとはねえ……
自分で賭けておいて何だが、何だがやはり信じられないような気がして、京楽は少しだけ胸に湧いた寂しさを紛らわすように夜一へと視線を移す。そして、実に明るい調子で言った。
「というわけで、夜一ちゃん、約束通り現世の酒饅頭よろしく〜」
「仕方ないのう。儂の読みが甘かったようじゃ」
賭けの戦利品の約束を取りつけた京楽は、上機嫌に隣りの恋次を顧みる。
「さて、おめでとう、阿散井くん」
「…あの、いったい……」
京楽と夜一を交互に見やり、ただただ困惑の言葉をこぼす恋次に応えたのは、京楽ではなく正面に座る夜一だった。
「何じゃ。察しの悪い奴じゃのう。白哉坊にプロポーズされたんじゃろ?」
「プロ…ッ…」
「あれ? 違うの?」
ぎょっとしたように目を見開く恋次に、夜一に続いて京楽もまた不思議に思って尋ねる。言い当てられたことに驚くにしても、もう少し嬉しそうな顔をすると思っていたのだが、どうにもその色が薄い。おかしい、と京楽は首を傾げた。
「ち、ちが、いません…けど……たぶん……」
「多分〜? 何じゃその曖昧な返事は」
夜一も同じように違和感を覚えたようで、ちらりと京楽を見やる。聞いてみろ、と言っているのはわかったので、京楽は夜一に代わり恋次に尋ねた。
「白哉くんに何て言われたんだい?」
「……やっぱり、あの……知ってるんスね」
確認のように問われ、京楽はあっさりとうなずく。
「そりゃあねえ。そう思ったから僕のところに来たんじゃないの?」
「そうなんですけど……夜一さんまでとは」
「まあ、夜一ちゃんは基本的に裏で色々やってくれてたから。白哉くんが最初に口説いたのは夜一ちゃんの方なんだけどね〜」
自分は白哉と夜一に口説かれてから事情を把握し手を貸すことになったので、彼女がどういう経緯で白哉に協力することになったのかは知らない。そのあたりを聞かれたら話し手は選手交代である。
「儂にかかれば容易いものよ」
ふっと笑い、にやりと笑う夜一の自信に満ち溢れた顔は、いまの恋次のものも比べるとひどく対極に思えた。それにしてもどうしてこんなに消沈しているのだろう、と京楽は尋ねる。
「これで晴れて両想いでしょ? どうしてそんな顔してるんだい? てっきりもっと嬉しそうな顔で来ると思ってたんだけど……」
一瞬、もしやプロポーズされたのではないのではないか、と疑ってしまうくらいに落ち込んだ顔をしている恋次は、京楽の問いを受けると、困ったように目を伏せ、視線を落としてしまう。
「それは……」
恋次が言葉を途切れさせたことにより、部屋に沈黙が落ちた。
長年の付き合いである白哉ならば口を割ってくれるのも早いのだが、京楽も夜一も、恋次との関わりはそこまで深くない。これは時間がかかるかなあ、と京楽は困って少し眉を下げる。
しかしこれでは円満に収まったと喜んで賭けに興じていた自分たちが見当違いのようではないかと、京楽は夜一と共に予想外の展開に困惑していた。まさか不器用が災いしてとんでもない勘違いをさせているのではなかろうかと、まだ知らぬ白哉の言葉を想像して京楽は心の中で唸る。……ありえる、のが、また怖い。
恋次が再び口を開いたのは、夜一がまたひとつ菓子の入った皿を空にした頃だった。
「………俺、は……隊長に、迷惑かけたんじゃないかって…。俺が、気持ちを隠さなくなったから、あの人は貴族の連中に叩かれて……それで、もしかしたら、俺を庇うために、こんな……」
「…………」
「………」
今度は京楽たちが部屋に沈黙を落とす。
―――迷惑……?
恋次の言うその「迷惑」というのは、果たして何を指して言った言葉なのか。京楽は考え込む。よもや白哉が恋次のために意に染まぬ話を取りつけたなどと思っているわけではなかろうかと不安に思いつつも、いや、と京楽はすぐに自分自身でその考えを否定した。
―――たぶん、そういうことじゃないな……
彼の顔に喜びの色が見出せないのは予想外のことだったが、あれだけ白哉と共に時間を過ごしているのだ、そこまで理解が遅くはないだろう。おそらくは、どうにも実感がなくて困惑が先立ってしまっている、というところだろうか。
―――難儀な二人だねえ……
京楽は心の中でため息をつく。すると、時を同じくして大きなため息が聞こえてきて、京楽はうっかり態度に出てしまったのかと一瞬慌てたが、しかしすぐにその視線を夜一の方へと向けた。はああ、と大仰に吐かれた息が部屋に霧散する。その犯人は、やはり夜一だった。思わず出てしまったらしい。しかしまあ、思わず手のひらで顔を覆った夜一の気持ちは、わからなくもなかった。
「―――馬鹿じゃろ……」
夜一のつぶやきに、京楽は心の中で同意を示す。
しかし、顔を上げれば恋次の気落ちした顔が目に入り、彼にとっては真剣なことなのだと察した。幼少の頃より白哉を見てきた自分たちとは違うのだ。それに、当事者になると途端に色んなものが見えなくなってしまったりもする。
ひとまず、京楽は確認を込めて尋ねた。
「……つまり、阿散井くんは、自分が白哉くんに負担をかけたんじゃないかって、それが気になってどうしても素直に喜べないってこと?」
「………………はい」
たっぷりの間を挟んで、恋次は伏せた目はそのままに、実に居た堪れない様子でうなずく。砕けた付き合いがあるわけではない自分たちに胸の内を打ち明けるのは、彼にとって中々に勇気のいることだったのだろうと推測はできた。それでも言葉を押し出したのは、誰かが彼の背を押したが故なのだろうか。
「阿呆か。人が人と付き合っていくのに、負担がかからん関係なぞあるわけがなかろう」
京楽は何と言ったものかと考え込んだが、京楽が何かを言うよりも先に、夜一が呆れたような口調でばっさりと恋次に告げた。びっくりしたように目をしばたく恋次を横目に、これは少し黙って見ていよう、と京楽は開きかけていた口をすっと閉じる。
「お主とて、白哉坊に迷惑をかけられたことくらい、いくらでもあるじゃろう。あの性格じゃからのう、理解するだけでも随分と難解なはずじゃ」
「えっ、いや、そんな…ことは……」
無い、とは断言できない雰囲気の恋次に、京楽はこっそりと笑う。本気で悩み落ち込んでいる恋次の前でそれは不謹慎だとは思ったが、白哉が何を思い行動したのかを知っている身としては、それがまったくのお門違いであるということを知っている。笑うくらいは許してほしいところだ。
「他人を完全に理解することなぞ不可能、ならば負担をかけることもあれば、かかることもあるのが道理というものじゃ。儂は昔、喜助を助けたが、あの男はそのせいで儂が失くしたものをうじうじといつまでも気にしておったか?」
「…!」
「………」
かつて、友人を助けるために彼女がした選択は、彼女に多くのものを失わせた。それを止められなかった者のひとりである京楽は、そっと目を伏せる。それでも彼女がまったくそれを気に留めることもなく、こうして再び尸魂界の面々とも良好な関係を築いていることに、どれだけ救われた心地になることだろうか。
「まあ、彼奴のことじゃから、多少気にしてはおるのじゃろうが、それでも喜助と儂は対等じゃ。恩義と負い目を履き違えるような阿呆ではない。もし、負い目を感じて儂の言いなりになるようなことがあれば、儂は容赦なく彼奴をぶん殴ってやるわ」
からからと笑う剛毅な夜一に、恋次は呆気に取られたような顔をしている。そんな二人を眺めながら、ここまで黙って聞いていた京楽は、そうだね、と穏やかな間の手を入れた。そのまま、すっと恋次に視線を向ける。
「君の知る白哉くんは、自分の道を曲げるような人だったかな?」
「……い…いいえ……」
そうだろうとも、と京楽は微笑む。
並々ならぬ誇りと、揺るがぬ信念と、そして、満ち満ちる愛情と。多くのものを抱えながら、そのどれをも何より大切にする子だ。己の四肢には頓着してくれないくせに、どれかひとつだって切り捨てられずに抱え込んでしまう。
多くを背負うが故に、多くを望むことを許されない子だ。
そんな子が、またひとつ。
望んでくれたのは。
「……君がするべきことは、白哉くんに負担をかけたんじゃないかと、あれこれ悩むことじゃあない。まずは、白哉くんが何を念って行動したのかを、知ることからだね」
「……はい」
「そのために来たんでしょ?」
「…はい」
京楽はうなずくと、夜一の方を見やる。いくらでも話してやろうと口の端を持ち上げる夜一に、京楽もまた同じように笑った。
「それじゃあ、不器用で口下手な白哉くんに代わって、ちょっと僕たちが話をしようかな」
こうして前途ある若者を導くのも老次の務め、なんて台詞は少々くさいだろうが、このぐらいの手助けはしてもいいだろう。笑顔が多いに越したことはない。それに何より、不器用なあの子の想いは知っているから。浮竹の代わり、なんて大層なつもりはないが、それでも、昔から見守ってきた仲である。滅多に笑顔を見せてくれなくなった可愛い少年の微笑みがまた見たいなあ、なんて、先日の酒の席での椿事が忘れられない下心もあったりするが、まあ、それはひとまず置いておくとして。
ゆったりとした語り口調で話し始めた京楽の声に、恋次が一所懸命に耳を欹てているのがわかる。会合の席での詳細は夜一も知らぬところであるから、彼女もまた面白そうな顔をしながら黙って京楽の話を聞いていた。茶を啜る音と、菓子をつまむ音だけが京楽の声に絡みながら、ゆっくりと時間が過ぎてゆく。途中からは夜一も話し手へと転じて、京楽を口説くに至るまでの経緯もごく丁寧に語られた。そんなことが、と聞き手に回った京楽も何度か目を見開く。
そうして、お互いが知っていることを話し終える頃には、月は随分と高い位置にいた。
「………総隊長、夜一さん」
しばらくの沈黙が落ちたのち、恋次はすっと顔を上げ、京楽たちをまっすぐに見やる。話の最中には終始驚きを繰り返していたが、いまの顔には、驚きと言うよりも何か別のものが見て取れた。何よりも、ここを訪れたときにはうろうろと落ち着きなく彷徨っていた視線が、いまはしっかりと京楽たちを捉えている。
「ありがとうございました」
深々と頭を下げる恋次に、いえいえ、と京楽は笑った。きっともう大丈夫だろう、と安堵が胸に広がる。亡き師に比べればまだまだなのだろうが、これでもそれなりに生きている、顔を見ればある程度を察することはできた。
最後に一押し、と京楽は付け加えるように告げる。
「白哉くんなら、まだ残業中だと思うよ」
ぱっと弾かれるように目を見開く恋次に、行っておいで、と告げるように京楽はうなずいた。そして、夜一からも何か一言、と促すように視線を移すと、それを受けた夜一はふっと笑う。
「恋次」
名を呼ばれた恋次が自分の方を向くのを認め、夜一はにやりと笑って口を開いた。
「まあ、お主はここぞというとき、とにかくヘタレじゃからのう、迷惑がどうの、負担がどうの、うじうじと色々考えがちじゃろうが……」
「………」
一見しただけではとても激励には聞こえない物言いに、京楽はこっそりと苦笑する。……まあ、彼女らしいと言えば、彼女らしいのだろうが。
「儂も、白哉も、たとえどんなことをしたとしても、それは間違いなく己の意思でしたことじゃ。己で決め、己が望んだことに、相違はない」
夜一の言葉を聞きながら、京楽は、強いなあ、と思った。
彼女を崇める者は、いまでも決して少なくない。それは、彼女の強い生き方であったり、言葉であったり、彼女の持つ多くのものに惹かれるが故だろう。今回の騒動で、改めて夜一が各方面にあたえる影響力の大きさを痛感した京楽は、その言葉に心の中で密かに賞賛を贈った。
「それだけは、疑うでないぞ」
「…ッ、はい」
思わず、といった様子で背筋を伸ばす恋次を、夜一は満足そうに見やり、もう言うことはないと視線を逸らした。自然と、恋次の視線は京楽へと向けられる。とはいえ自分は彼女ほど直球に言葉を伝えるような性格ではないから、京楽は、ただ穏やかに笑って言った。
「白哉くんをよろしく頼むよ」
「――――はい」
はっきりと返された返事に京楽もまた満足し、ゆっくりと立ち上がると、隊首室の扉を開ける。それから恋次を手招いた。京楽の意図を察した恋次はハッとしたように素早く立ち上がる。そして、京楽と夜一が見送る中、隊首室を、そして執務室を、慌ただしく後にした。
「……行っちゃったねえ」
「そうじゃのう」
「夜一ちゃん、この後どうする?」
「お主のせいで現世にとんぼ返りじゃが?」
酒饅頭を買いに、とわざとらしく言う夜一に、そっかあ、と京楽は笑う。
「残念、せっかく飲みに誘おうと思ったのに」
「泣き酒なぞ御免じゃぞ」
送り出したはいいものの、寂しいのだろう、と暗に言われた京楽は、ぱちくりと目をしばたく。なるほど確かに、浮竹あたりならば『俺の白哉が……ッ!!』と頽れるくらいはしたかもしれない。ちなみに奥さんのときは本当にやった。もちろん心から祝福する気持ちも本心であるため本人たちの前こそ避けたものの、あのときは宥めるのが大変だった。元柳斎と京楽の二人がかりで、よしよしと泣き酒に付き合ってあげたのだ。いまでは懐かしい想い出である。
「え〜〜ん、僕の大事な息子があ〜〜」
ノリよく両手を目元に上げて泣き真似をして見せると、夜一はおかしそうに笑いながらも、くわっと目を見開き不機嫌を装って言った。
「ええい、喧しい。わざとらしい三文芝居じゃな」
「そりゃ残念」
「七緒を待っとるんじゃなかったのか」
「ん〜? だってもう終わったみたいだし。まったくそっちこそわざとらしいなあ、夜一ちゃんが気づいてないわけないでしょ。出ておいでよ、七緒ちゃん」
一見すると誰もいない空間に、しかし京楽は確信を持って声をかける。すると、隊首室の扉の横から、京楽の言った通りすっと七緒が姿を現した。鬼道まで使うとは中々本気の隠形だが、京楽からすればまだまだ可愛いものである。その顔には、なぜここに夜一様が、とはっきり書いてあった。じとりと睨めつけられた京楽は、さあ、と肩を竦める。そんな二人の無言のやり取りに気づいたのかどうかはわからないが、夜一は実にタイミングよく口を開いた。
「京楽。儂ももう行く」
「そう? それじゃあ、またね。お饅頭楽しみにしてるよ〜」
「とびきりを用意してやる。期待してよいぞ」
夜一はにやりと笑うと、ではな、と言い残してさっとその場から姿を消す。七緒はそのあとを目で追おうとしたようだが、あえなく失敗したようだった。どうやら一番隊の警備の見直しは不可能のようだ。
「……なぜ言ってくださらなかったのですか」
「え? 夜一ちゃんのこと? 大丈夫だよ、別にそんなピリピリしなくても。もっと気楽に―――」
「そうではありません」
相変わらず冗談を冗談として受け取ってくれず、ばっさりと切り捨てる七緒に、京楽は困ったように笑う。
霊圧捕捉がまだ苦手だという恋次は誤魔化せたとしても、七緒の実力はまだ遠く京楽や夜一には及ばない。彼女がいつから話を聞いていたのかなど、自分や夜一にしてみれば気づかぬ方がおかしいというもの。
―――まあ、結構聞かれてたからなあ…
彼女がやって来たのは話の後半に入ったあたりだったが、それでも話の内容を推測するには十分すぎるほどだった。
大したことはない、と詳細を話さずにいたことが、彼女にとっては非常に不満らしい。
「………だって、ほんとうに大したことないんだよ」
不服そうな顔の七緒に、京楽はぽつりとこぼす。―――そう。ほんとうに、大したことではないのだ。事情があって隊を数日空けたいと言ったとき、彼女に告げた言葉に嘘はない。
「惚れた相手と一緒になりたいなんて、そんなの、当たり前のことじゃない」