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はなのあめ ― 花の雨 ―



「あっれ〜? 恋次じゃないの!」

 小洒落た可愛らしい雰囲気の店の中で、随分と似合わぬ顔をした知人を見つけた乱菊は、驚いたように声を漏らした。あんな派手な赤髪を見間違えるはずはない。どこまでが刺青なのか判別しづらい顔がぐるりとこちらを向く。軽く返された「ちわっス」との挨拶もそこそこに、乱菊は断りもなく恋次の向かいの席に相席した。

「なになに、あんた何でこんなとこにいんの?」

 文句を言うでもなくメニューをこちらに手渡してくる恋次に礼を言いつつも、乱菊の興味はすっかり手元の品書きではなく恋次に移っていた。興味津々の眼差しで、テーブルに乗り上げるかのように詰め寄る乱菊に、恋次はからかうように笑う。

「乱菊さんこそ、いつも焼酎ばっかガバ飲みしてるような人が、こんな店に何の用っスか」
「ばっかねえ! ここ居酒屋よ? 当然、お酒飲みに来たに決まってんじゃない!」
「俺もっスよ」
「ええ〜? ここ、女性隊士にいま人気のお店よ? 居酒屋だけど居酒屋っぽくなくて、お酒も飲みやすいのが多いって評判の」
「知ってます。今月の瀞霊廷通信に載ってたし」
「そうそう! だから、せっかくだし行ってみよっかな〜って思って来たらあんたがいるんだから、びっくりじゃない! しかも一人酒。何かあったの?」
「いえ、別に」

 軽く流す恋次だが、まだしっかりと素面な乱菊がその程度で逃すはずはない。

 こんな対象を女性に絞った店に男がひとりで来るなど、普通はない。檜佐木あたりならば恥ずかしくてとても入れないだろう。そこをずかずかと入って行ってしまうのが恋次という男なのだが、だからと言って目的がなければ自ら進んでこんな店に来るとも思えない。

 しつこく追求を続けていると、恋次はそんなに隠すことでもないと思ったのか、早々に乱菊の望む答えを口にした。

「や、ルキアが―――」
「朽木?」

 ついこの間、しかも目の前の男の話をしたばかりの相手の名前に、乱菊はぱちぱちと目を瞬く。

「ルキアが、乱菊さんたちと俺が飲みによく行くって聞いて、それなら俺の行きつけに自分とも行こうって誘って来たんスけど」
「? いいじゃない。それくらい行ってあげなさいよ」
「冗談! 俺らが普段行ってるようなトコなんて連れてったら、俺あとで隊長に殺されちまいます。ああ見えてすげえ心配性なんスから、あの人」
「…ああ、まあ……そうねえ…」

 乱菊ならば酒豪であるし、そうそう酔っ払いどもにどうこうされることもないが、ルキアでは勝手が違うだろう。良くも悪くも騒がしく混沌としている酔いどれの巣窟に連れて行くには、保護者があの朽木白哉というのもまずいかもしれない。

「だから、瀞霊廷通信見たとき、ここならいいかもしれねえって思って。ただ、あいつ酒なんてお上品なモンしか飲んだことねえだろうし、ここに置いてあんのがどんなのもんなのかとか気になったんで、試しに来てみたんスよ」
「ははあ〜なるほどね」

 納得した乱菊は、ひとまず視線を恋次からメニューに移す。店の内装と同様に可愛らしい品書きに、乱菊の気分も踊った。

「あら、結構豊富ね〜。恋次はどれ飲んだの?」
「まだ来たばっかなんでそんな飲んでねえっスよ。上から二つくらいです」
「え、なに、全制覇するつもり?」
「んー…飲めそうなら」

 さらりと答える恋次に、乱菊は大きく笑った。

「豪快ねえ! けど、あんた酒強いとはいえ、持つの?」
「多分。ダメそうなら別の日にまた来ます」
「やだ健気」
「からかわねえでくださいよ」

 乱菊が言いたいことを察したのか、恋次は困ったように笑う。しかし、この男がルキアのためとなると人一倍手間も時間も労力も惜しまないことを、乱菊はよく知っている。だから想像がつかないのだ。彼が、自分の隣りに、彼女以上に心を傾ける誰かを置くことが。

 ―――ま、野暮よねぇ…

 興味はあるが、しかしあまり根掘り葉掘り聞くものではない。吉良のように初心な動揺が返ってくるならこちらとしても探り甲斐があるのだが、恋次にはどうにもそれがないのだ。

 本当に恋などしていないか、それともそう自覚していないか、あるいはすでに諦めているかのどれかだろう。これが純情な無自覚ならばつついてみるのも面白そうなのだが、残念なことに恋次もルキアもきっぱりはっきり否定しているし、他の相手というのも予想がつかないのだから仕方がない。

「よーし! 恋次! 半分こしましょ!」
「はい?」

 しゃきっと野次馬根性から切り替えて、乱菊はいつも通りのお酒モードに入った。にこにこと上機嫌で告げる乱菊に、恋次は首を傾げる。

「全部飲むんでしょ? あたしも色んなの飲みたいし、せっかくだから半分こずつ飲んできましょ!」
「え、いいんスか?」
「いいわよぉ〜! あたしにも得あるし! たまにはちびちび色んなお酒飲むのも楽しそうだしね〜」

 うんうんとうなずくと、恋次もぱっと顔を明るくして笑った。まだあまり飲んではいないと言っていたが、それでも多少なりとも酒が入っているせいか、心做しか表情がやわらかい。

「助かります! 割り勘でいっスか?」
「おっけ〜」

 交渉が成立すると、乱菊は「それじゃあ三つ目のやつからでいい?」とメニューを指し示して恋次に尋ねる。了解を得てから、そばにいた店員を呼び、手早く注文を済ませた。当然ながら、ここでひとつずつ注文などという可愛らしいことはせず、酒豪らしく「ここからここまでよろしく!」と一気にである。

 客を待たせないというのも女性受けを狙ったものなのか、注文した酒はすぐに卓上に届いた。行きつけの店よりもやや小ぶりな銚子に、乱菊はくすりと笑う。骨ばった男の手には似合わぬ花鳥の模様まで彫られていた。

「ていうかお猪口小さすぎ! これで飲んだ気するのかしら」

 銚子と一緒に置かれたお猪口をしげしげと眺めやり、まるで子どもの玩具か何かのようだと乱菊は驚いた。何だかんだ言って自分もこのような小綺麗な居酒屋に来るのは久々である。記憶はすっかり行きつけの居酒屋のものになっていた。

「こういうモンなんじゃないんスか? 女用なんでしょ」

 少し前から飲み始めていた恋次はそこまで驚くこともないのか、さっさと自分のお猪口に酒をつぎ、くいっと煽る。

「あんたの手の中にあると余計小さく見えるわね」
「ちょっと飲みにくいっスね」

 そう言って笑いながら、恋次は、からんと空になったお猪口を置き、空いた手で銚子を掴むと「どうぞ」と言って乱菊に酌をした。礼を言って、乱菊もぐいっと一気に酒を煽る。甘い味がした。

「あ〜銚子ごとガッといきたくなるわねぇ〜」
「やめてくださいよ。速攻で酔っ払いの完成じゃないっスか」
「どーせ潰れても運ぶのは恋次だしぃ〜」
「そうっスよ、俺が困るんです」
「あたしは困んないもーん」
「二日酔いは」
「へーきへーき!」

 ふっふっふ、と不敵な笑みを浮かべながら、乱菊はどんどんと銚子を空にしていった。恋次も同様に酒を胃に収めていく。酒の強い二人が揃って遠慮なしに煽るものだから、卓上はあっという間に空瓶だらけとなった。

「はー! これで最後!っとぉ〜」
「意外とあったっスねェ」

 半分ずつという乱菊の提案の甲斐あり、整列していたメニューの最後に記されていた酒まで辿り着いた二人は、酔いの回った顔でぷはっと一気に煽る。乱菊は上機嫌にけらけらと笑った。

「恋次、あんた、相変わらずぜんっぜん見た目変わんないわねぇ〜! ホントに酔ってんのぉ?」
「あー…酔ってますね。なんか、視界がぼやける」
「あっはっは! 泥酔状態じゃない!」
「んん…水要るかも…」

 すみません、と近くの店員に水を頼む恋次に、乱菊はからかうように指をさす。その手にはまだしっかりと酒の入ったお猪口が握られていた。

「飲みすぎないようにするんじゃなかったの〜?」
「乱菊さんいると、いつも、つい飲みすぎんスよ!」
「あー! あたしのせいにした!」
「事実っスから!」

 届けられた水をぐいっと飲みながら、恋次はむっとしたような、けれどおかしそうな顔で、困ったように笑いながら言い返す。

「恋次〜あたしにも水〜」
「ああ、はい、待ってください、いま…」

 追加で乱菊の分も水を頼もうと手を挙げかけた恋次に、乱菊はぶんぶんと顔を横に振り、恋次の手にある水を指して言った。

「ちょっとでいいのよ! それ、あんたのちょっとちょーだい!」
「あ、ちょっと!」

 恋次が是とも否とも言う前に、乱菊はぱっと水を掻っ攫う。肩を竦める恋次を横目にぐっと水を煽り、冷たさにすうっと胸がすいてやや酔いが覚めた感覚に満足して、乱菊は「ありがと〜」と恋次に水を返した。

「は〜。でも、美味しかったけど、やっぱこう、ピリッとしたやつ、ぐいっといきたくなるわねぇ〜」
「焼酎って言ったらどっスか」
「ここも焼酎はあったけど、全然弱い!」
「あの店のおやっさん、妙に焼酎にこだわりあって、めちゃくちゃ度数の高いやつばっか揃えてんじゃないスか。無茶言わねえでくださいよ」
「なんか、美味しかったけど、物足りない」
「それは、俺も」
「でしょ?! 何でかしら」
「何スかね…」
「ちゃんと酔ってんのにねぇ」
「ちゃんとっつーか、結構、っスけど」

 乱菊と同様、水のおかげで若干酔いが覚めてきたのか、呂律がしっかりとし始める恋次に、乱菊はにやりと笑って話を振る。

「まあ、いいことって言ったら、女の子が可愛いことよね〜! やっぱり可愛いお店だけあって店員さんも可愛いわ!」
「…、そういうのって男が言うモンじゃあ…」
「だってあんた、そういうこと全然言わないんだもの! 他に誰が言うのよ! ね、誰か好みの子とかいないの? ほら、あそこの子とかどう? 目が大きくて結構美人―――」
「ええ? あー…」

 すうっと見えにくそうに目を細めた恋次は、しかしすぐに興味を失ったかのように手元の酒に視線を戻す。そのままお猪口に残っていた酒を飲み干すと、ごく当然のように言った。

「隊長の方が綺麗っスよね」
「………」 

 ごくごく自然な口調で落とされた言葉に、乱菊は、すうっと酔いが覚めていくのを感じた。決定的な何かを聞いたとか、そういうことではない。ただ、異様に引っかかる雰囲気と言うか―――さらに言ってしまえば、女のカンだ。

 素面ならば、絶対に、恋次はそんなことは言わない。いや正直乱菊とてそう思うし、あの美貌に勝てる者など果たして存在するのかどうかさえ疑わしいと思うが―――確かに思うが、そういうことではないのだ。

『綺麗っスよね』

 ただ、そう告げる表情が、声が、妙に―――

「ばっか、あんた、あんな化け物級と比べてどーすんのよ!」
「ですよねー」

 慌てたように我に返って叫んだ乱菊に、恋次はおかしそうに笑いながら最もだと応えた。一瞬にして元通りの雰囲気である。先ほどのは見間違えかと疑いたくなるくらいだ。

「…あんた、朽木隊長のこと見慣れちゃったせいで、実はめちゃくちゃ面食いになってんじゃないの?」
「え? そっスかねェ?」

 はて、と恋次は首を傾げる。

 どうやらあまり自覚はないようだが、しかし、あれだけの麗人がそばにいれば無意識のうちにハードルが上がっていてもおかしくはない。きっとそうよ、と乱菊は応えようとしたが、恋次がぽつりとつぶやく方が早かった。

「けど俺、元々隊長以外には興味ねえしなあ…」
「……え?」

 さも当然とばかりに零された、気になりすぎる言葉に、乱菊は少しどころかすっかり酔いが吹き飛ぶのを感じる。そのまま急にテーブルに突っ伏した恋次に、乱菊は困ったように手を伸ばしたり引っ込めたりを繰り返した。

 さすがに乱菊が来る前からも飲んでいたせいなのか、実は相当酔いが回っているようだ。あまり顔や態度に出ないタイプだから気がつかなかった。というより、この男がここまで酔うのも珍しい。いつもなら、帰りのことと翌日顔を合わせる厳格な上司のことを考えて、事前にブレーキをかけるのに。

「ちょ、恋次?」

 ゆさゆさと、恋次の身体を揺すってみるが、緩慢な動作で顔を上げただけで、先ほどまでの素面と見紛うような様子ではない。

「あー…くそ眠ィ…」
「あ、ちょっと、 恋次! あんた大丈夫?」
「大丈夫、っス」

 そうは言っても、深いため息をつきながら頭を抑える恋次の様子からは、どうも大丈夫なようには身請けられない。仕方がないと、乱菊は恋次に伝令神機を貸すように言った。すると、やはり恋次は素直に応じる。この時点でもうすでに大丈夫ではない。

「えーと……あ、あった、これね」

 ピッピッ、と手早く登録名簿を探り、目当ての名前を見つけると発信する。そう時を置かずして、電話は繋がった。

「あ、もしもしー? 良かった繋がって。あなた、理吉って子で合ってるかしら? あたし、十番隊副隊長の松本乱菊だけど。ん? ええ、そうそう、大丈夫合ってるわ。コレ恋次の伝令神機よ。今日はたまたま居酒屋で恋次に会ってね」

 乱菊が呼び出したのは、恋次から何度か話を聞いていたまだ新米の隊士―――理吉だった。恋次を慕い六番隊に入隊したと言っていたので、彼ならばこんな私用でもきちんと耳を傾けてくれると思ったのだ。

「でも、コイツ結構酔っ払らっちゃってて、何かこのままひとりで帰すのは不安なのよ。けど、あたしの体格じゃコイツ支えられないし……ってことで、悪いんだけど、六番隊で手の空いてる誰か寄越してもらえないかと思って」

 理吉は小柄な少年だと聞いている。彼がガタイのいい恋次を支えるのは無理だろう。六番隊はなかなか理知的で大人しめの隊士が多いと聞くが、それでも一人や二人くらい恋次と同等の体躯の者もいるはずだ。

 すると、すぐに慌てたような了解の返事が聞こえてきて、乱菊は良かったと伝令神機を片手に笑顔になる。

「ありがとう。助かるわぁ。ああ、場所ね。今月の瀞霊廷通信に載ってた女性向けの居酒屋なんだけど―――あらよく知ってるわね! そう、そこよ。それじゃあ、お願いできるかしら。お迎えが来るまではあたしもここで飲んでるから」

 これで安心だと無事回収の目処が立ったことに安堵し、伝令神機を切ると、乱菊は「すみませーん!」とさらに追加で新たな酒を注文をする。ここでただ手持ち無沙汰で待つのもつまらない。この分ならもう少し飲んでも大丈夫のはずだ。

 ―――どさくさに紛れて六番隊士の人に送ってもらうって手もあるしね〜

 とは言え、今月はすでに一度恋次に送り届けられ日番谷に大目玉を食らっているので、一応控えめにしておいた方がいいだろう、という理性も多少はある。そのため頼んだ酒は度数が比較的低めのものだったが、飲む量を抑えようとは思わないあたりが乱菊が乱菊たる所以であった。

「ぷっはーあー! うーん、一人酒ってこんなモンだったかしらね〜? 最近は色んな人誘ってばっかだったから感覚が…」

 今日も偶然とはいえ恋次と鉢合わせ、一緒に騒ぎながら飲んでいたため、周りの喧騒に対して自分だけ静かというのも違和感があるのだ。騒ごうにも先ほどまで一緒に騒いていた相手は見事に沈没中。これは意外と寂しいものだ。恋次は一向に顔を上げる気配がない。

 しかし、その賑やかさが売りでもあるはずの居酒屋で、ぴたりと一斉に音が消えるという摩訶不思議な現象が起きたのは、乱菊が一人酒を煽り始めてから十数分経った頃だった。

 酔った頭ながらさすがに不自然さを感じ取り、何が起きたのかと不思議そうに店内を見渡した乱菊は、もれなく他の席の客たちと同様、沈黙を余儀なくされることとなる。

 ―――…え……?

 からん、と入口の鈴を鳴らして入って来たのは、けして―――けっして、こんな場所にいるはずのない人物。

 誰もが重苦しい沈黙に耐えている中、その人物はすっと乱菊と目を合わせた。すると、目的の人物を見つけたかのように、こちらに歩を進める。さあっと客たちが示し合わせたかのように身を引き道を作っていることに、果たしてこの孤高の貴族は気づいているのだろうか。

「え、と……え…? あの……朽木…隊長……?」

 そう。現れたのは、四大貴族の筆頭と名高い朽木家の当主にして六番隊の隊長―――朽木白哉だったのである。

 これは乱菊でなくとも息が止まる。まるで彼の周りだけ違う空間のようだ。居酒屋にあまりにも似合っていない。というか意味がわからなさすぎて怖い。なんでこんな場所に。

 白哉は、つい、と乱菊の向かいでテーブルに突っ伏し眠っている男を目にとめると、すうっと目を細めた。おかしい。このあたりだけ空気が冷たく感じる。これはもしや白哉の霊圧のせいかと乱菊がだらだらと冷や汗をかきそうな勢いで困惑していると、白哉はいつも通りの淡々とした口調で言った。

「―――それの迎えに」
「……へっ? …あ、ああ、迎え……なるほ―――えっ?!」

 なるほどとうなずいて納得しかけた乱菊は、いやいや!と慌てて脳内で待ったをかける。

 確かに迎えは頼んだ。自分では恋次を支えて歩けないから、六番隊の中で、誰か恋次と同等の体躯を持つ人物を迎えに寄越してほしいと、そう、確かに言った。それは事実だ。乱菊が帰らずにここにいたのも、恋次を無事に迎えの人に引き渡すためである。

 しかし。

 ―――朽木隊長を迎えに寄越せなんて言ってないわよォ?!

 何がどうなって白哉が迎えに来ることになったのかは恐ろしくて聞けもしないが、どうやらあの理吉という少年、とんでもないことをやらかしてくれたようだ。これが日番谷ならば乱菊も十番隊の面子も慣れたもの、特に動じることもないのだが、相手はあの朽木白哉である。同じ他所の隊長でも京楽あたりなら乱菊も遠慮なくズバズバと言えるのだが、いくら何でもさすがにこれは相手が悪い。

 しかし、来てしまったものは仕方がない。それに、副隊長のため自らこんな慣れない場所まで足を運んだのだと思えば、大層優しいことではないか。上司と部下の仲が良好なようで何よりである。

 ―――…上司と部下……ねえ……

 ふと、先ほどの恋次のつぶやきが脳裏を掠めるが、乱菊は素早くそれを記憶の片隅へと追いやった。兎にも角にも、この状況を何とかしないことには酒も美味くないし、というか味がしないし、何より乱菊自身も帰れない。

「ほら、恋次! そろそろ起きなさい! お迎え来たわよ!」

 そのお迎えが誰であるのかは、とてもとても口にできない。自分で見ればわかることだ。どうして乱菊が言ってやる必要があるだろうか。否、ない。

 驚いて飛び上がるか、それとも意識が混濁していて誰だか判別できないか、さて反応はどちらだろうか。乱菊のやや乱暴な揺さぶりに起こされた恋次は、のっそりとした動作で頭を持ち上げる。ふいっと顔を上げて、乱菊と、そしてその横に立つ己の上司の姿を目にとめた。

 ぱちぱち、と目を瞬く。

「あ、れ……隊長?」

 そして、乱菊の予想のどちらとも違った反応をした。きょとんとしたような顔で白哉を見上げ、不思議そうに首を傾げている。なぜ彼がこんなところにいるのか理解できない、といった様子だろうか。乱菊にもわからない。

「―――意識はあるようだな」

 白哉がぽつりとこぼした言葉に、乱菊はハッとした。そうだ。恋次の反応をまじまじと観察している場合ではない。可及的速やかにこの酔っ払いを白哉に任せ、自分はさっさとこの場を逃れなければ。

 ―――いや…ちょっと待って……ほんとにこの酔っ払い、朽木隊長に任せちゃっていいのかしら…

 生粋の貴族である白哉が酔いどれの扱いに慣れているとは思えない。というより、むしろ店に充満する酒のにおいに眉を顰めていてもおかしくな…―――いや本当に顰めていた。わずかだが表情に出ている。常日頃からほとんど変化を見せない鉄壁の無表情を崩しているということは、それだけここが耐え難い空間ということか。

「あの……あたしも一緒に連れてった方がいいですかね?」

 もし、酔った勢いで恋次が途轍もない失言でもしでかしたら、それが後でどう響くかわからない。まさか高が酔っ払いの言葉を真に受けて仕事に影響が出るような人物ではないとは思うが、それでも、あとで恋次が苦労するかもしれないと思うと見て見ぬふりはできなかった。

 乱菊が白哉を窺い見ると、白哉は顰めた眉を少し戻し、それから、やはり感情の見えにくい淡々とした声で答えた。

「―――いや」

 自分から言っておいて何だが、その一言に乱菊は密かに胸を撫で下ろす。白哉が断ったのならば仕方がないと、そう自分に言い訳ができてしまうからだった。

「行くぞ。恋次」

 白哉は徐に恋次の二の腕を掴むと、立ち上がるよう促す。見たところそこまで強くは引いていないようだが、あの白哉が躊躇いもなく手を差し出したことに乱菊は若干驚きを隠せなかった。

「んん……隊長、なんでいるんスか? なんか、急な仕事っスか? すんません、俺今日早く上がっちまって…」
「仕事ではない」

 酔っ払いの質問に律儀に答えながら、白哉は何とか恋次を立ち上がらせることに成功する。しかし、その足元はふらつき、とてもまっすぐ歩けそうには見えなかった。迎えを呼んだ乱菊の判断は正しかったことになる。相手は兎も角。相手はさておき。

 立ち上がることには成功したものの、しかし恋次はすぐにふらつき、その拍子に白哉に思いっきり突っ込んでしまった。乱菊は声にならない悲鳴を心の中で上げる。

 もちろん、いくら女顔負けの美貌と白皙を誇る麗人とは言え、白哉も歴とした男である。恋次と比べれば華奢な痩躯だが実は身長も体格もそこそこにあり、そう簡単に押し潰されることはない。きちんと恋次を支え切っていたが、乱菊の心配ごとはそんなところにはなかった。繰り返すが、相手はあの朽木白哉である。さしもの乱菊も、平素は豪胆と称される肝がひたすらに冷える思いだった。

「うお…う、とっ、と……すいません、隊長」
「……もうよい。そのまま掴まっていろ」

 すっかり千鳥足となっている恋次の様子に、白哉は何かを諦めたのか、寄りかかった恋次を突き放そうとはせず、逆に恋次の腕を己の肩に回した。屋敷何個分かという高価な装飾具が酔っ払いの腕の下敷きとなって埋もれる。

「うー…」

 白哉の肩に顔をうずめる形となった恋次は、言葉にならない呻きのような音を上げ、それから、締まりのない顔でへにゃりと笑った。

「ふ、ふ……」
「…何を笑っている」
「や…すげえ夢だなあ、と。何スかこれ。隊長が近え」

 どうやら恋次は、今の状況を夢か何かだと思っているようである。白哉の登場というまったく予想外の出来事に直面して酔いなど吹っ飛んでしまった乱菊は、未だ酔いの中にいる恋次を羨ましげに見やった。

 そして気づく。

 白哉を見やる、恋次の眼差しが、ひどく、優しげで。
 そして、ひどく、嬉しそうであるということに。

 熱を孕んだかのような瞳は、どうしたって、ただの上司に向けるそれとは違っていて。

『綺麗っスよね』

 その言葉は、世間一般が彼に抱く、ごく当たり前の感想ではなく。
 ただ、愛おしさの溢れた、恋次の心。

 くすくすと笑う恋次の声が、いつもより嬉しそうに聞こえた。

『けど、俺、元々隊長以外には興味ねえしなあ…』

 あのときの言葉は、やはり。

 彼が女性に目を向けないのも、恋愛話に困ったような顔をするのも、すべて。

 ―――ああ、そうなの

 そういう、ことなのだ。

 乱菊が、すとんと胸に落ちた目の前の光景をぼんやりと眺めやっていると、ゆっくりと白哉の視線がすっとこちらへ向けられた。乱菊はハッと我に返る。そして慌てた。恋次はもう押し付けたし、他に何かあっただろうか。

 白哉は乱菊を見下ろすと、相変わらずちっとも感情の読ませない声音で、簡素に告げた。

「世話をかけた」
「え? ああ、いえ……」

 何を言われるかと思えば、と身構えていた乱菊はふっと安堵に肩の力を抜く。曖昧ながらも乱菊の返事を受けた白哉は、ぽん、と空いているもう片方の手でテーブルに金子を置いた。恋次の代わりに支払うつもりらしい。

 ―――えっ…と……これ受け取っちゃっていいのかしら…

 しかし白哉は、これで用は済んだとばかりに、恋次に肩を貸しながらくるりと踵を返してしまったので、乱菊はテーブルに置かれたお金を返す機会を失った。

「…あ! あの、朽木隊長!」

 たったいま思い出したかのように、弾くような声で呼び止められた白哉は、首だけで乱菊を振り返る。乱菊は、お節介とは思いつつも白哉に告げた。

「恋次、いつもはこんなになるまで飲まないんですよ。あたしと違って、ちゃんと仕事のこと考えてて。だから、今日そんな風になったのは、何か悩みというか……聞いてないんであたしにもわかりませんけど、とりあえず、何かあったんだと思います。だから、ちょっと大目に見てやってください」
「………」

 返ってきた重みのある沈黙に、乱菊はやはり余計なことだったかと若干の後悔の念を抱く。無表情では顔からも何を考えているのか読めない。

 しかし、しばらくして返ってきた返事は、乱菊が予想していたよりも幾分やわらかに聞こえる声だった。

「……考慮しよう」

 そう言って、今度こそ本当に扉を開けて出て行った白哉を見送り、乱菊はどっと疲れた気分で長く息を吐く。なんだかいつもの五倍仕事をしたような心地である。これは飲み直さなければ明日まで引き摺りそうだと、乱菊はまだ気まずい沈黙が支配する店の中で大きく店員を呼んだ。

 割り勘する相手がほぼ潰れた状態なのでどうなるかと思ったが、何とも親切なことに白哉が代わりにお代を置いていってくれたので、払えなくなる心配はないだろう。乱菊はテーブルに置かれた金子を手に取る。そして悲鳴を上げた。

「えっ、ちょ、やだ! これいくらあるのよ?!」

 軽く一ヶ月は飲み代に困らなさそうな金額に、乱菊は仰天してひたすらに目を見開く。おそるおそるテーブルに置き直し、それから大きくため息をついた。なんだかさらに疲れた気分である。飲み代が手に入ったのは嬉しいが、素直に喜びづらい。

 こうなれば、もうさっさと酔ってしまうに限る。

 乱菊は、復活した店員が持ってきてくれた酒をお猪口に注ぎ、その香りを楽しんだ。そう、本来自分はこのためにこの店に来たのだ。アクシデントはあったが予定通り楽しむことにしよう。

 それにしても、とお猪口を覗き込みながら乱菊はつぶやく。

「…難儀な相手に惚れたものねぇ」

 夢だと信じ込んでいた恋次の綻んだ顔を思い出して、乱菊はもう一度大きくため息をついた。

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