かたしぐれ ― 片時雨 ―
―――兄、とはのう……
白哉が口にした意外な言葉に、夜一はやや目を見開いていた。もちろん問いの内容もそれなりに響くものだったが、それよりも、夜一の意識を引いたのは彼が用いた二人称についてだった。
『―――待て! 化け猫!』
すぐに頭に血をのぼらせ、木刀を振り回しながら自分を必死に追いかけてきた少年の姿が、ふと脳裏にちらつく。あのときから、いまに至るまで、この少年が自分にそのような敬称を用いたことが果たしてあっただろうか。珍しいこともあるものだ。
ここで、夜一は白哉をまたしても少年扱いしていることにはたと気がつく。癖というものはどうにも抜けない。いまやその面影も鳴りを潜め、自分よりも大きな男になったというのに。
―――何だった、か……
過去を指すその口振りからすると、どうやら白哉が気になっているのは夜一が四楓院の名を貸してやるとあっさり請け負ったことについてではなく、かつて夜一が喜助を庇い姿を消したときのことを言っているのだと推測できる。まあ、夜一が再び四楓院の名を自由に操ろうとしている、いまの状況ゆえの問いだろうが。
夜一はどっかりと再び白哉の前に胡座をかくと、次の大福に手を伸ばしながら、ふむ、と考えた。
「面白いことを聞くのう。急にどうした?」
「……急ではない。以前より、思ってはいた」
ぽつりと、そうこぼした白哉は、茶菓子に手をつけることもなくすっと目を伏せる。どうにも聞きづらそうだ。
しかし、夜一は構わずに、ばっさりと尋ね返してみた。
「なぜ捨てたのか、ということじゃろう、お主が聞きたそうにしておるのは」
「………」
図星になると黙り込むのは変わらぬ癖のようだと、夜一の知る昔と変わらない姿に少しばかりの嬉々が湧く。実直ゆえに、正論で来られるといつもぐうの音も出なくなっていた少年の姿がやはりちらついた。
ここまでの道中、後ろを追う白哉の霊圧を感じながら、密かにかつての鬼事を思い出していたのは秘密の話だ。口にすれば、もう子どもではないと忽ち白哉は怒るだろう。
しかし、あのときよりも格段に上げた速さにも、もう白哉は自然とついて来られるようになっていた。もちろん、あれが夜一の全力というわけではないが、それでもあの少年からの大きな成長だということに違いはなかった。
「お主は昔っから固いからのう、白哉坊」
「………」
すっかり言われ慣れているのか、白哉はやや憮然としながらも言い返してくることはなく、ただ静かに夜一の言葉を待っている。白哉の方が居心地の悪そうな顔をしているため、込み入った質問をされている側の夜一は却って冷静なままだった。
「簡単な話じゃ」
そう、夜一からしてみれば、実に簡単な話だった。何もかも難しく考えては雁字搦めになって身動きが取れなくなる白哉が思うような、複雑な何かなどない。
「儂はな、後悔するのが嫌なんじゃよ」
夜一は、敢えて遠回しな言い方から始めた。
「彼奴を見捨てれば、後悔するのは目に見えておった。じゃからああした。まあ、お主にすれば、それで家はどうするのだと思うわけなんじゃろうが………別に、構わなかったんじゃよ」
構わない、と断じた夜一に、白哉はやや目を見開く。図体が大きくなっても、表情を隠すことを覚えても、彼の心情は夜一には手に取るようにわかった。自分に何もかも隠せるほど、この少年はまだ歳を重ねてはいないのだ。なんとなく、それは夜一にとって嬉しいことだった。
「このあたりは方針の違いじゃろうが……お主、儂の兄弟が何人居るか知っとるか? 知らんじゃろ? 実はな、儂も知らん」
「は……?」
急に変わった話に、白哉が当惑しているのがわかる。そして、夜一があっさりと言った言葉の内容に驚いたことも相俟ってか、その声は相槌にはならなかった。
夜一はふっと笑う。
「だから言うたじゃろ、方針の違いと。どこで誰が身籠ったかなんぞ、とても把握し切れん量なのじゃ。まあ、儂と夕四郎だけは正妻の生まれじゃがな。下手な鉄砲も数打てば当たる、ではないが、それだけ子が居ればどれかひとつくらい当たりがあるじゃろうてという考えじゃ。当たりというのは刑軍の長に足る力を持った子ども……ま、この場合儂なわけだが!」
からからと笑いながらそう付け加えたが、しかし白哉の表情は曇るばかりで、夜一のように晴れた顔にはならなかった。まあ、元からあまり変わらぬ顔ではあるが、昔の血気盛んな様を見慣れた身としては、もう少し崩してもいいのに、と思ってしまう。
「お主の方は違うのう。朽木はいつも、数少ない雛に目一杯の愛情をかけて育て上げる。ま、朽木家は筆頭に立つだけあって四大貴族の中でも特に霊圧の優れた血統じゃ、それで十分じゃったんじゃろう。現にお主も、今や立派な隊長格。お主の場合は父母が居らんかったから少し実感に欠けるじゃろうが、まあ、朽木家は昔から子どもを妙に大事にする、貴族としてはちょいと変わった家じゃな」
それでも、彼は祖父に愛されていたはずだ。戦死した最愛の息子の血を引く、たったひとりの孫息子として、大切に、大切に。
でなければ、これほど掟に重きを置く男が、その掟を破り周囲の反対をすべて捩じ伏せてまで、流魂街の娘を娶ったりなどしないだろう。それほどまでに誰かを強烈に愛するということは、きっと、誰かに愛されたことがなければ成し得ないことだ。愛を知らねば、愛の贈り方を知るはずもない。
「のう、白哉。あのとき、この家で、儂の名を呼ぶ者が何人いたと思う?」
「……?」
またしても突然に変わった話に、白哉はついて来られないようだった。夜一の中ではきちんとすべてひとつに繋がっているのだが、夜一の過去などまったく知らない白哉からしてみれば、ただ困惑するだけなのだろう。……当然、わかっていて、それでも自分の過去をそこまで詳しく話す気がないだけなのだが。
「ひとりじゃ。喜助だけじゃった。ま、そのあと入ってきた砕蜂も、堅苦しいながらも直したがな。誰も彼がもが軍団長閣下と、まあ窮屈なことよ。儂は元々こういう性格じゃからなあ……ここはあまり居心地がよいとは言えなかった」
向けられる感情は、崇敬か憎しみ。
刑軍の長などやっていればいくらでも恨みは買うし、命を狙われもする。それについてはもう慣れた。そしてその強さゆえに、周りの多くは自分をまるで神か何かのように扱う。それについては、窮屈だった。
『夜一サン』
あの気安く自分を呼ぶ存在がいなかったら、自分は果たしてどうなっていただろう。
それだけ、何にも変え難いものだった。
掟を何よりも遵守し、家の名を守ることを信念とする白哉からしてみれば、とんでもないと言われそうなものだが―――…
もはや、天秤にかける価値すら、なかったのだ。
夜一にとって、四楓院という家は。その程度の価値だった。―――否、価値という言葉を当て嵌めるのも違うと思わせるような……そう、夜一にとって、四楓院家とは、あくまでも単なる場所に過ぎなかった。
薄情な当主だろう。だが、事実だった。
きっと、白哉にとって朽木家とは、亡き父母が守り続けてきた形見であり、祖父との想い出の詰まった大切な場所であり、心の底から護りたいと願うものなのだろう。他のどの家よりも厳格でありながらも、あの家には確かに、愛というものが存在していた。
そんな家で育った少年は、夜一の知る何よりも純真で、無垢で、短気で無謀な―――…不思議な存在だった。
『出たな! 化け猫!』
化け猫と叫ぶその目に浮かぶのは怒りだったが、しかしそれは、夜一の見慣れた憎しみではない。とはいえ崇敬などは微塵もなく、おそらくは好かれているわけでもなかった。だが、殺したいと思われているわけでもない。
少年から伝わるのは、ただ、超えたいと、見返してやりたいと、それだけが強烈に光っていた。爛々と光る眼差しは、これまで夜一が一度も見たことがない類いのものだった。
面白かった。興味が尽きなかった。
好かれてはいない。だが、おそらくは嫌われてもいない。もちろん、聞けばあの少年は高らかに嫌いだと告げただろうが、夜一からして見ればそんなものは可愛いものだ。本当に自分を忌み嫌う者がどのような目をしているのか、夜一は嫌というほど知っている。
綺麗だった。数え切れぬほどの感情のすべてを綯い交ぜにしてもなお、矛盾など存在しないかのように振る舞い、決して光を失うことなく輝く瞳が。怒りだけでなく、嫌悪だけでなく、憎しみでも崇敬でもない、その初めて見る不思議な感情たちをもっと見てみたくて、夜一は頻りに少年をつついた。
その両価的な眼差しが、夜一にはどうしようもなく心地よかったのだ。
『そら! ついて来い白哉坊!』
瞬歩を促し、白打を鍛え、四楓院家の歩法を教えた。あの事件がなければ、おそらくは瞬閧さえも、教えることを躊躇わなかった。超えてやると息巻く少年との駆け引きは、あの窮屈な家の束縛を忘れさせてくれるくらいに―――楽しかったのだ。
喜助とはまったく違う意味で、白哉もまた、自分に四楓院の名を見なかった。
「まあ、とどのつまり、儂にとってはその程度にしかなり得ん場所じゃったということじゃ。ま、利用できるときは利用するがの」
「………そうか」
夜一が口を閉じたことによって生まれた沈黙を、白哉の静かな声が壊す。それから、嫌っていたわけではないのか、と、ぽつりとこぼした。
安堵を含んだかのようなその言葉に、夜一はふとあることを思い出す。
それは、夜一の処遇を巡って議論が繰り広げられていると教えられた、確かユーハバッハとの戦いが終結してからまだ間もない頃だったか。
夕四郎は夜一の処遇に対し納得していなかったし、白哉に言った通りこの四楓院家にはまだ夜一を崇拝する者が大勢いる。彼らが騒ぎを起こすのも無理はなかったが、しかし、一度下された判決―――それも永久除籍という罪状を取り消すというのは、四十六室にとっては前代未聞の話。たとえ四十六室の面々がすべて代替わりしたあとだからといって、容易にうなずける話ではない。当然、話し合いの余地など無きに等しい状態だ。
故に、不可能だろう、と思っていた。
夜一との顔見知りも多い護廷十三隊も四楓院家の援護に回ったと聞いたときも、おそらくは変わらぬだろうと。
新たに総隊長の座についた京楽はかつての同胞だ。力になりたいと思ってくれたのだろうが、しかし護廷十三隊が四十六室にかけられる圧力など残念ながら高が知れている。あくまでも護廷十三隊は四十六室の傘下の組織という位置づけでしかないのが現状だ。四大貴族である四楓院家は四十六室の影響下にない独立した組織ではあるが、しかしそれでも今回の話は身内の贔屓と取られてしまっても致し方ないもの。発言権はないに等しかった。
すべて予想の範疇。何も驚くことはない。夕四郎は地団駄を踏んで悔しがっていたが、夜一にしてみればごく当然の成り行きだろうと嘆くこともなかった。そもそも、それを覚悟の上で、自分は彼を助ける道を選んだのだから。
まあ、そうは言っても夕四郎はたったひとりの同母弟―――常日頃、表面ではあのようなことを言ってはいるが、それなりに情はある。二度と会えない、とまではいかずとも滅多に会ってやれないのは少し思うところもあったが、せいぜいその程度でしかなかった。泣き叫ぶことではない。わかりきったことだろうと、夜一は夕四郎をせっせと宥めていた。何も疑いはしなかった。
四十六室が、夜一の尸魂界への出入りを完全に自由とすると、発表するまでは。
あれだけ梃子でも動かぬ姿勢を崩さなかった四十六室が、急に、いったい何故、と四楓院家は仰天したし、夜一もまた、さすがに驚きを禁じ得なかった。まさか京楽が何かしたのかと護廷十三隊に尋ねてみたが、返ってきたのは夜一たちとまったく同じ困惑の反応。わけがわからなかった。
そして、四十六室の発表に遅れて伝わった事実に、夜一はさらに仰天することとなる。
―――朽木家が、四楓院家の全面的擁護を宣言した。四楓院夜一の無罪およびすべての権利、権限の回復を求める所存である、と。
朽木家は、四大貴族の中でもその筆頭に位置する。あらゆる死神の模範であることを求められるが故に、滅多なことでは中立の立場から動かない。そのため、裏を返せば、この家が一度動いたが最後、ある意味では天賜兵装番の異名を取る四楓院家よりも厄介で扱いにくい相手なのである。
故に、たとえ四十六室といえど、朽木家を無視することなどできない。加えて四楓院家とは違い身内沙汰の話をしているわけでもないのだから、とても追い返すに足る理由もないだろう。さらには、朽木家の現当主は零番隊直々に霊王宮にまで招かれた歴代屈指の実力者。四十六室からしてみれば、機嫌を損ねればどのようなことになるかわかったものではない、恐ろしい相手だった。
―――そう。あの白哉が、夜一のために動いたのである。
『ねっ…姉様……ッ!! 白哉様が…っ、白哉様が、姉様を……!!』
形振り構わず号泣しながら抱きついてきた夕四郎の姿は、いまでもはっきりと覚えている。元より密かに白哉に憧れ慕ってはいた夕四郎だったが、この件を境に、その感情は爆発的な勢いで崇拝へと昇華したのだ。
これを受けたとき、夜一は驚きで声が出なくなったのを覚えている。自分がそのような状態になるなど滅多にないことだ。
なぜ、と思った。白哉がそこまでする理由がない。そもそも良好とは言い難い関係であったし、夜一が彼の前より姿を消してからすでに百年以上が経っている。それからは、再会とは名ばかりの数しか顔を合わせてはいないはずだ。彼からして見れば、とっくに風化した関係だろう。朽木家を動かすということがどれほど重い意味を持つのか、それは白哉自身が誰よりも知っているはずだ。たかが夜一の処遇ひとつに動かしていい名ではない。それなのに、なぜ、と。
『…………なぜ、そこまでする』
まったく、それはこちらの台詞だった。先に動いて驚かせたのは、そちらの方だというのに。
今日に至るまで白哉の真意を尋ねる機会がなかったのだが、しかし、こうして目の前にしてみると、彼が自分の行動について微塵もおかしなことだとは思っていないこと、夜一に恩を着せる気もなく、それどころか四楓院の名を貸してやろうと言う夜一の行動を訝しむのだから、自分が夜一にとってどれほど大きなことをしたのかをまったく自覚していないことがわかってしまった。貸しひとつだ、と言われた方がまだ納得がいくのに、白哉は何も言わない。まるでそれが、自分のするべき当然の選択であったかのように。
―――礼じゃよ、白哉坊
夕四郎の名を出して誤魔化した答えを、夜一は心の中でつぶやく。
自由を求めた自分に、再び、自由をくれたこと。夜一、と自分の名を呼ぶことで、四楓院の呪縛を忘れさせてくれた少年が、今度は、家族に会う自由を与えてくれたこと。その、すべてに対する、ささやかな礼だ。
そんなこと、決して、言葉にはしないけれど。
たとえば、ここで夜一が尋ねたとしても、朽木家の名を動かした理由をきっとおそらくは語らぬ、白哉のように。
嫌っていたわけではないのか、と安堵を含んだ息をついたのは、自分が夜一にした行動が、却って夜一の負担になったのではないかと案じた故だろうか。まったく何と不器用な坊だろう、と夜一は笑った。
「………何を笑っている」
すっかり表情に出ていたのか、訝しげな白哉の声がする。あれからすっかり大人びたその秀麗な顔と、目を吊り上げてばかりいた子どもの愛々しい顔が重なって見えて、夜一はさらに笑みを深くしながら答えた。
「いや? まったく、いくつになっても可愛い坊じゃと、思っておっただけよ」
「……喧嘩を売っているのか」
途端に顰められる顔は、やはりあの頃の面影を纏っている。とはいえ、どんなに睨みつけたところで夜一にはまったく効果はない。白哉もそれはわかっているのか、すぐに諦めたように視線を落とした。
しかし、それにしてもいつもより諦めが早かったような気がする。もしや夜一の口調からいつもの揶揄ではないと察したのだろうか。まさか、とは思いつつも、常より妙に大人しい素振りの白哉の様子に夜一はやや違和感を覚える。もう少し騒がれると思ったのだが。
―――まあ、やはり昔と何も変わらぬ、というわけではないんじゃろうなあ……
どんな風に成長するのだろう、と思ってはいたが、しかしいざ目の前にしてみると、やはり少し前さみしいような気もする。別に近くにいたわけではないのだが、なんとなく、遠ざかったような気分というか。
『朽木家に、新たに男子が生まれたそうでございますよ。なんでも、それは素晴らしい霊圧を秘めておられるとか』
いつか告げられた、蒼純の息子の話。もう随分と昔の話だ。夜一自身も、まだ幼いという領分を出切らぬ頃の話。それだけでは特に興味も湧かなかったが、続けられた言葉には否応なしに意識を向けざるを得なかった。
『いずれ許嫁となるやもしれぬ御方。お心に留めて置かれませ』
貴族の娘に、相手を自由に選ぶ権利などない。それは、たとえ実力が物を言う四楓院家であっても、決して例外ではなかった。女の身で当主の座まで上り詰め、多くの権力をその手中に収めた夜一は、相当の異端児なのだ。その頃はまさか、夜一がそれほどの実力者になるとは誰も予想していなかったことだろう。
朽木家と、四楓院家。なるほどこれ以上ないほどの良縁である。ごく当たり前の流れだった。それから夜一が白哉に顔を合わせたのは随分と後になってのことだったが、その可能性は十分に考えておけと、あれこれ言われたものだ。その頃にはすでに当主として実力を知らしめていたため、表向きは控えめな進言、という形だったが。
どうせ喜助以外の者など誰も同じようなものだろうと、畏まられてばかりで窮屈な連中の顔を思い浮かべながら白哉と対峙したわけだが、その予想は見事なまでに裏切られた。
『この…ッ、化け猫ッ! 貴様などに朽木家次期当主たる私が劣るものか! 表に出ろ!! その細腕吹き飛ばしてくれる!』
怒声に罵声にまったく忙しいことだと、夜一は顔にこそ出さなかったものの相当に驚いていた。もちろん初っ端からそのような態度だったわけではなく、初見は如何にもお固そうで育ちのよい少年、という印象だった。しかし、夜一がいつもの調子で揶揄えば、取り繕われていた平静の仮面はあっという間に剥がれ、以降は顔を合わせるだけで途端に目を吊り上げ顔を真っ赤にして怒鳴るようになり、それから二人の鬼事が始まったのだ。
意外だったのは、それを銀嶺が咎めなかったことだ。仮にも夜一は四楓院家の当主、朽木家としてもそれなりの礼を尽くさねばならぬ立場というものがあるはずだが、しかし銀嶺は、当主である自身はともかく、白哉の態度に関してはまったくの自由にさせていた。四楓院家では考えられぬ様子だ。もちろん、互いに護廷隊隊長格としての付き合いがあり、夜一の性格を把握しているが故の行動ではあるだろうが、それにしたって夜一にしてみれば意外極まりない行動だ。そんな銀嶺の行動がまた、白哉の態度に拍車をかけていた。
そして、夜一は確かに、それを楽しんでいた。
この少年が相手なら悪くはないかもしれない、と思っていたことは確かだ。もちろん、まだ青い少年だった白哉に恋情など微塵も湧くはずもなかったし、成長した姿を目の前にした今だって、別にそんな気持ちは一切ない。自分が尸魂界を離れている間に妻を娶ったことや、しかもそれが恋愛婚だと知ったときには驚いたものだが、素直に良かったと思えた。恋次とのことだって、またそのように想える相手を彼が見つけられたことに、心の底から安堵している。
ただ、権力やら金やら女やら、そんなものを際限なく求める強欲な輩よりもずっとよい相手ではないか、と。そう思っていただけだ。少し惜しいな、と思うのは、別に白哉に特別な情があるわけではない。自分は彼のように純粋に相手を愛する術など知らぬから、そんな損得勘定のような考え方しかできないのだ。
白哉は、きっと一生、それを知ることはないだろうけれど。まさか夜一が自分の許嫁候補に上がっていたなどとは、考えもつかぬだろう。夜一とて、その話を聞いたときは、儂に紫の上を育てる光源氏にでもなれというのか、と呆れたものだ。
―――別に、儂は光源氏の阿呆のような気分ではなかったんじゃが……
いつの間にか、妻を得ていて。
いつの間にか、誰かを愛し。
そして、そのために心を痛ませる、その姿に。
あの少年が成長した喜びと、そして同時に、わずかばかりの寂しさが。
静かに胸の中にあった。
―――何とも、育てていた雀が飛んでいってしまったかのような心地じゃのう……
それこそ紫の上ではあるまいし、と夜一は苦笑する。犬君が雀を逃がしてしまったの、と彼女は嘆いていたが、伏籠など本来は在ってはならないのだ。
「のう、白哉」
呼びかけると、すでに不機嫌そうな表情を消した白哉が顔を上げる。切り替えが早くなったものだと、夜一は笑った。
「生きる者は本来、等しく自由であるべきじゃと思わんか」
「………」
またわけのわからん話を、と白哉が腹の底で思っているのが、その表情からわかる。すっかり逸れたように思える話を戻してやろうとしているのに、まだまだ若いのう、と夜一は心の中で揶揄った。この少年が夜一の心の内を読めるようになる日は、果たして来るのか。来るとしても、それを近くさせるつもりはない。
「お主は自由じゃ。白哉坊。儂のように何もかも捨てる選択ができんからといって、それは揺らいだりはせん」
瞬間、白哉の表情が変わる。心を抑え、感情を殺す術を教え込まれたからか、何より彼の表情を変えるのは、昔から光を失わぬその真っ直ぐな瞳だ。
夜一は、その瞳が好きだった。
「大切なものは全部抱えておれ。抱えてしっかり護ればよい。それがお主の誇りじゃろう。じゃが、それはお主の束縛になるべきものではない。護りたいものが多いことと、自由を奪われることはまた別の話じゃからの」
白哉がゆっくりと目を見開いてゆくのを眺めながら、夜一は不敵な笑みで言い放つ。不器用で、一途で、頑固で無垢な少年を捕らえる鎖を、こんなものは己がつくりだした幻覚に過ぎないと、砕き散らすかのように。
「たまには好き勝手にやってみい。己ひとりでは手に余るというなら周りを頼れ。頼って甘えて巻き込めばよい。それを責める者など居るものか。もし居ったなら、そやつは世間知らずの大阿呆じゃ。放っておけ。ひとりで何でもできる者など、この世にただひとりとて居らんのじゃからな」
ほれ、と夜一は喋りながら白哉に向かって大福を放り投げる。いつの間にか、それが最後のひとつとなっていた。
「お主が本当に望むなら、必ず手を貸してやる」
「………」
反射的に大福を受け取った白哉は、驚きからゆっくりと、何かを考えるような顔へと表情を変える。
夜一は、すっかり空になってしまった大福の皿から隣りの米菓の入った皿へと視線を移し、白哉が手をつけないのをいいことに煎餅やら霰餅やらを次々と口に入れながら、黙って白哉の反応を待った。
「………夜一」
大福を手に持ったまま固まっていた白哉は、しばらくすると、視線を手元の大福から夜一へと移してその名を呼ぶ。
「何じゃ」
「……京楽に、協力を仰ぎたい」
意外な名に、夜一もまた菓子を食べる手を止め、すっと顔を上げた。
「ほう? それはまたどうして」
「総隊長の肩書きを借り受けたいのだ」
「…ほほう?」
断っておくが、先ほど言った意外というのは、白哉の口から出てきたのが意外という意味であって、夜一の頭にその名がなかったというわけではない。
にやりと、夜一の口元に笑みが浮かぶ。
「白哉坊。お主、何だかんだ言ってしっかり考えておるではないか」
「……実行する気はなかった」
「する気になったなら何よりじゃ。もしや、儂が考えておったこととお主が考えておったことは、同じやもしれんな」
朽木家と四楓院家。これで攻撃力としては申し分なし。あと必要なのは地盤固め―――つまりは相手を言いくるめるだけの理由だ。そのためにもうひとつ、夜一が必要だと考えていたのが、まさに白哉が口にした人物の協力だった。
「それでは作戦会議と行こうかの。なに、夜はこれからじゃ」
ばくっと最後の煎餅を腹に収めながら、夜一はからからと笑う。それから、未だに大福を持ったままの白哉に首を傾げた。
「ん? 食わんのか?」
「……甘いものは好かぬと知っているだろう」
それでも律儀に手に収めたままなのはどういうわけなのか、言っていることとやっていることの矛盾に夜一は笑う。それから、白哉の誤解を解いてやろうと、煎餅を飲み込み口を開いた。
「知っとるわ。じゃからそれは―――」
しかし、それは、急速に近づいてくる霊圧によって途切れることとなる。隠密機動にあるまじき、足音を消しもしない派手な接近に、途端に夜一の顔がげんなりとした。
「……来おったようじゃの。騒がしいやつが」
別に嫌っているわけではないのだが、少々暑苦しいというか鬱陶しいというか―――とりあえず面倒だと思うことが多いのだ。阿呆すぎて嫌味も通じないので撃退方法もない。
「姉様っ! 白哉様! お待たせしました!」
スパァ――ンと元気よく障子を開け放ち登場した夕四郎に、夜一はいつも通り嬉しくなさそうな顔で出迎える。
「待っとらんぞ〜別に。せっかく白哉坊といい感じゃったのに、むしろお主が来おったせいで雰囲気が台無しじゃ」
「息をするように嘘をつくな、夜一」
「嘘なぞ言っとらんぞ? 儂に惚れ直したじゃろ? うん?」
「……誰が」
むっとしたように顔を顰めるものの、完全にすっぱりとは切り捨てられなかったのかわずかな間が生じている。甘えるのに慣れていない不器用な子どもだから、手を差し伸べられたことに戸惑いながらも、ほっと安堵を感じたのだろう。これだから嫌われていないとわかってついつい調子に乗ってしまうのだと、夜一は心の中でこっそりと笑った。
「まあ、よいわ。面倒じゃ、もう夕餉もここで良いかの。夕四郎、お主も今日は終わりじゃろう、ちょっとその辺で誰か掴まえて言ってこい」
「はい! 夕餉ですね! すぐ頼んで来ます!」
きびきびとした様子で使用人を探しに再び廊下へと飛び出して行った夕四郎を目で追い、白哉は夜一に非難の籠った眼差しを向ける。
「……当主を使い走りにするな」
「当主より前に儂の弟じゃ」
夜一は気にもせずに、すっかりと空になった皿たちを見渡して、満足そうに息をついた。やはり菓子だとやや食べ足りない気分になるが、まあ、これから食事になることだし、これでひとまず満足しておこう。
夜一が顔を上げると、白哉は手にある大福を持て余し、どうしろと言うのだとばかりに夜一を見やっていた。そういえば夕四郎のせいで言いそびれたと、夜一は大福を指差しながらおかしそうに告げる。
「白哉坊。それは塩大福じゃ。しょっぱくて美味いぞ」
その言葉に白哉はぱちりと目を瞬いたものの、今度は、間もなく夕餉だというのに食べろと言うのか、とでも言いたげな顔をするものだから、なんとも少食な思考に夜一は肩を竦めた。なまじ理解が深いゆえにその目を見れば考えていることが手に取るようにわかるのがいけない。夜一は、仕方がない、と言わんばかりの顔をして、白哉の手からひょいっと大福を掠め取る。
そして、白哉が当然のごとく予想したであろう展開を裏切るかのように、その大福を己ではなく目の前の口の中に突っ込んだ。