かたしぐれ ― 片時雨 ―
それは、ある日、突然に起こった。
珍しく定時での解散が適って隊舎を出た瞬間、完全に不意を突かれ、背後に降り立った人影によって白哉の身体を浮遊感が襲う。同時に、けらけらと豪快な笑い声が響いた。嫌というほど聞き覚えのあるその声に、もはや反射で白哉は眉を顰める。しかしそんな白哉の心情などお構いなしに、声の主は先ほどまで白哉の隣りにいた副官に高らかに告げた。
「恋次! 此奴は借りて行くぞ!」
まるで猫のよう、と言うのがなるほど相応しい身のこなしで、その細腕のどこにそんな力があるのだか白哉を軽々と抱え上げたまま、瞬神の異名を持つ女は颯爽と六番隊舎を後にする。あっさりと連れ去られた白哉といえば、実に不愉快極まりない表情を惜しげもなく全面に出して、怒りも顕に拉致犯の名を叫んだ。
「夜一……ッ!!」
確かに、先日会合へ赴いた際の一件のことで頭を悩ませていたのは事実だ。隊長格にあるまじき隙が多少あったことは認めよう。自分の実力が此奴に多少なりとも負けていることも――――認めたくなどないし本人には死んでも言わぬが、まあ、致し方ない、認めよう。
しかしだからといって、この為体は認め難い屈辱であった。隊士らをすでに帰した後だったからまだ良かったものの、これが部下の前での犯行だったなら今ごろ始解どころか卍解をしていてもおかしくないような所業である。……よく考えれば副官である恋次もまた部下には違いなかろうが、あれは少々―――いやかなり特殊だ。除くことにする。それに何より、いまはそれどころではなかった。
「貴様、何の真似だ!」
「はっはっは! 相変わらず隙だらけじゃのう、白哉坊」
実に愉快そうに笑い飛ばす夜一を、白哉はもはや殺気に近い怒気を孕みながら睨めつける。
「下ろさぬか!」
「馬鹿者、せっかくの戦利品を手放す阿呆がおるわけなかろう。ちょうどよい、夕四郎への土産じゃ! 大人しくしておれ」
夕四郎、と先日顔を合わせたばかりの少年の名を出され、白哉はぐっと言葉に詰まる。しかしすぐに反論した。
「私は物ではない…! 髪紐を奪うかのように扱うな!」
「ははっ! 懐かしい話をする。髪紐か。そのようなこともあったのう。かっかと元気よく怒鳴る声を聞くのも久々じゃ」
まったくこちらの話を聞く気のない夜一の様子に、白哉はひたすらに苛立ちを溜め込む。瞬歩で抜け出してやろうと試みるが、先ほどから絶妙な妨害を受けていてそれが上手くいかない。足が地に着いていないこと、また夜一が全速力の瞬歩を絶えず行使し続けていることが大きな要因だろう。ならばと腕で夜一の身体を押しやるが、それも片手で軽く去なされてしまった。驚くことにこの女、白哉を片腕で抱えあげているのだ。なれば空いているもう片方の手で妨害されるのは必然の理であった。
「―――ちぃと話がある。付き合え」
ふと、先ほどまでの揶揄うような声音が鳴りを潜め、低く静かな声が白哉の耳朶を打つ。常とは違う違和感に、白哉もまた顰めていた眉をわずかに広げた。流石に暴挙にも程があると思ってはいたが、やはりただのちょっかいではないらしい。話があるならば真っ当に面と向かえばよいものを、そこをそうしないのがこの女が化け猫と呼ばれる所以である。しかし、だからといってこの状況が不本意であることには変わりないため、白哉は憮然とした態度は崩さずに渋々と告げた。
「……ひとまず、下ろせ」
白哉のため息を降伏の証と取ったのか、今度は笑い飛ばすことなく、夜一は意外にも素直に白哉に応じた。そして、ついて来い、と言わんばかりに白哉に背を向け再び瞬歩で駆け出す。逃げるとは思わないのか、と微塵も白哉が追って来ることを疑う様子のない夜一の行動に、白哉はやや目を瞠った。―――背丈も、幅も、もうとっくに自分は彼女を超えたのに。まだ、何もかもを見透かされている気がする。それが何ともまた腹立たしい。
どうせここで雲隠れした方が後で面倒なことになるのだろう、と誰にしているのだかわからぬ言い訳をついて、白哉は負けじと地を蹴った。半ば諦めの境地に達しながら、無言で夜一を追う。
その、前を行く背が、かつて鬼事で追っていたものと重なって見えて、白哉は人知れずそっと目を細めた。
現在の彼女の立ち位置は、ひどく曖昧だ。彼女に永久除籍を通告した四十六室は藍染の手によってすでに亡く、その後慌ただしく空席は埋められたものの、彼女に対する審議は未だ一進一退を繰り返している。浦原喜助にかけられた嫌疑についてはそのすべてが冤罪だったのだから、その逃走を幇助した夜一もまた無罪であろうと、護廷隊をはじめ、四大貴族として強大な発言権を有する四楓院家と朽木家もまた強く主張を繰り返しているが、しかし一時でも罪人とされていた者を庇ったその行動は叛逆と取られても致し方ないものであるとの見解を主張する四十六室の者もおり、実にもどかしい膠着状態に陥っているのだ。
それでも、先のユーハバッハとの戦いでは浦原喜助と共に多大な功績を上げたと評価されてもいるため、終戦後、浦原喜助と共にこうして尸魂界への出入りは自由とされている。もっとも、尸魂界を訪うのはもっぱら夜一で、浦原喜助は滅多に顔を出さないのだが。
夜一について行った先は、当然ながら彼女の生家―――四楓院家だった。朽木家の当主が先触れもなく他家を訪れてはまずかろうと、攫った張本人にも関わらずぬけぬけと言う夜一に続き、白哉は裏口から招かれる。
「姉様〜〜〜ッ!!」
そして、何故か裏口で子犬のように待機していた夕四郎と対面した。夜一の姿が見えるや否やしゅばっと飛びつく夕四郎に、それをいつものことだというようにあっさりと避ける夜一。
何度かの攻防が繰り広げられた末、夜一が夕四郎の背後に周り、ひょいっとその首根っこを掴んで軽々と白哉の方へと放り投げたことによって、夕四郎が白哉に正面から飛び込む形で姉弟の恒例行事であるらしいやり取りは決着を迎えた。まさかそのまま避けて壁に激突させるわけにもいかないので、白哉は夕四郎の小さな身体を抱きとめる。
「はっ! 甘いわ!」
夜一は、弟を投げ飛ばした手で何事も無かったかのようにさらっと前髪を払うと、実に楽しそうにそう言い放った。
このやり取りだけを見ても、厳格を主とする朽木家とはまったく天と地ほどの差である。白哉が呆気に取られるのも無理はないだろう。ルキアが自分に飛びついて来る姿さえ想像できないというのに、剰えそれを投げ飛ばすなど。
「白哉様! いらっしゃいませ!」
しかし、投げ飛ばされた夕四郎といえば、特に気にした様子もなく、白哉に抱きついたような状態のまま満面の笑顔でそう告げた。体勢を戻そうともせずに、やはり子犬のように目を輝かせてこちらを見上げている夕四郎に、白哉はひとまず大事ないかと尋ねる。すると、夕四郎はきょとんとした顔になった。
「か〜ッ! 相変わらずお主は其奴に甘いのう!」
何がおかしいのだか頻りに笑っている夜一を、白哉はぎろりと睨みつける。この化け猫にそんなことをしても効果がないことなど百も承知だが、それでもそうせずにはいられないのは過去の付き合い故だろう。
それから、こんな奔放な姉を持ったせいで感覚が麻痺しているのか、自分から離れようとは考えつかないらしい夕四郎をぺりっと剥がして立たせると、白哉は実に騒々しい歓迎にため息をついた。
「何じゃ、歳上ばかりに囲まれとったからか、子どもに甘いのは」
「貴様が粗雑すぎるのだ」
「そのようなことはない。仮にも四楓院家の当主じゃぞ、このくらいでちょうどよかろう! よい鍛錬じゃ。ルキアのこともじゃが、お主はとにかく過保護に過ぎる!」
「貴様にとやかく言われる筋合いはない」
たったいま頭の中に浮かんでいたことを、まるで覗いたかのようなタイミングで揶揄う夜一に、白哉は驚きが顔に出ないよう取り繕いつつ余計な世話だと憮然として返す。しかしそんなことで言葉を引っ込めるような相手ではない。
「獅子は千尋の谷に子を突き落とす! 大事に庇ってやることだけが優しさではないぞ、白哉坊。それではいつまで経っても雛は飛び方を覚えんではないか。敢えて戦地へ送り死線を潜らせ、己の力で己が身を守れるよう鍛え上げてやってこそ、真に護ると言えるというものじゃ!」
もっともらしい自論を吐き、どうだとばかりにこちらを見やる。それとこれとは話が別ではないかと白哉は眉間に皺を寄せたが、しかし曲げられた口から言葉が発せられることはなかった。
「ねっ、姉様……ッ!! そ、そこまで僕のことを考えてくださって……!!」
白哉が夜一に反論するよりも早く、感極まったらしい夕四郎がいまにも咽び泣きそうになりながら叫ぶ。すると、夜一は途端に面白くなさそうな顔になって言い返した。
「別にお主に限ったことを言っとるのではないわ」
ふん、と言い放す姿は実に素っ気ない。白哉を揶揄うときにはめっぽう目を輝かせるくせに、相変わらずよくわからない気まぐれ屋な性格だった。
「物にしたはいいが、瞬閧も実戦経験もまだまだ未熟じゃからのう。ま、儂をつかまえようなどとは千年早―――」
「姉様あああ!! 夕四郎は…っ、夕四郎は、嬉しいです〜〜!!!」
「…………」
まったく夜一の言葉が耳に届いていないようで、ただひたすらに感激を顕にし再び姉に抱きつこうとする夕四郎に、白哉は巻き込まれてなるものかと賢明にも傍観を決め込んだ。
「……まあ、この通り阿呆すぎるのが問題じゃがの……」
今度は白哉とは正反対の方向―――それも先ほどの数倍の距離まで夕四郎を投げ飛ばした夜一は、珍しくげんなりとした顔でつぶやく。そして、すばやく戻って来ようとする夕四郎にびしりと指を突きつけて告げた。
「ええい、もうよいからお主はさっさと務めに戻らんか! 時間までに終わらせられずとも、白哉坊は返してしまうからな!」
「ええっ?! 白哉様、帰ってしまわれるのですか?!」
「泊まらせる気でおったのか?!」
「だ、だって、姉様も今日はお泊まりになるって言ったじゃないですか! だから僕、てっきり白哉様もご一緒なのかと……」
「なぜ儂と白哉が同じ扱いなのじゃ!」
たとえ一度は追放された身とはいえ、夜一は四楓院家の前当主。己の生家に泊まることには何の不自然も不都合もない。しかし対して白哉は朽木家の現当主。そもそも、侍従らへの連絡もなしにこのようなところへやって来ること自体が相当な異常事態だというのに、夕四郎はそれをわかっていないようだ。
「せっかく今日は夜まで話せると思ったのに……いつもご飯もひとりで寂しいのに、今日は三人なんだって……楽しみで……」
ぐす、と涙目になりながら落ち込む夕四郎に、これにはさすがの夜一も困り果てた顔をする。はああ、と深いため息をついて、この悪気のまったくない純粋で抜けている弟をどうしたものかと悩んでいるようだった。
その様子を見て、白哉はふと、妹を思い出した。
あれはまだ、白哉が彼女に対する真意を告げたばかりの、少し気まずい雰囲気が流れていたときのことだったか。なぜかいつもより食事があまり進んでいないように思えると料理番から話を受け、どうしたのかと尋ねたところ、ルキアはひどく慌てたように、それでいてどこか申し訳なさそうな態度で、おそるおそると言ったのだ。
『……あ、あの、その……申し訳ありません…。……兄様とお話をするようになってから、その、勝手なことなのですが……ひとりでの食事が、急に……寂しく、思えるようになってしまって……』
そう、告げられて、はじめて気がついた。―――否、思い出した、というべきか。
忘れていたのだ。語らう相手のいることの喜びを。
妻を喪った、あの日から。
それから、白哉は時間の合うときは必ずルキアと共に食事をとるようにした。面白い話のひとつもできぬ身であったが、ルキアはひどく嬉しそうだった。口下手な白哉の分までと言わんばかりに、多くを語る妹の話を聞きながらとる食事は、白哉にとって、忘れていたあたたかさを感じさせてくれる時間だった。
白哉は徐に、懐からすっと伝令神機を取り出す。電話の発信先に選んだのは、己の侍従である清家だった。
少し前までの白哉であれば、伝令神機などで侍従に連絡をするなど有り得ない話だったのだが、現世に精通している恋次やルキアからの度重なる勧めにより、いまではそれなりに重用するようになっている。
『はい。白哉様』
通話はすぐにつながった。清家か、と尋ねると、左様でございます、と応えが返ってくる。便利なものだ。
『如何なされましたか』
恭しく丁寧な問いに対し、白哉は簡潔に要件を述べた。
「今日は戻らぬ」
『………』
一瞬の沈黙が落ちる。わけを尋ねてもよいものかと、判断しあぐねているのだろう。白哉は一言だけ、付け加えるように言葉を続けた。
「四楓院家の当主より招きを受けた」
『……承知致しました』
白哉がどこにいるのかを聞くとひとまず安心したのか、清家はそれ以上詳しく追及しようとはせず、ただ理解の旨を示した。今日はルキアもまた十三番隊の三席らに招かれ食事をすると予め聞いているため、白哉の対応にも納得がいったのだろう。偶然だが幸いだった。彼女が通常通りの帰宅だったなら、今度は恋次に連絡をやって独りきりの食事にならぬよう連れ出してくれと頼む必要があっただろう。
―――つくづく私は、あの男を頼みとしているな……
何を考えていてもいつの間にか思考に現れる赤髪の男に、白哉は心の中で苦笑する。もちろん、それが派手な髪色のせいなどではないことは、誰よりもわかっているのだが。
白哉は通話を切ると、伝令神機を再び懐へとしまった。
それから、ふと横を見やると、ぽかんとした夕四郎と夜一の顔がある。揃ってこちらに向けられている視線に、白哉は居心地の悪さを感じてたじろいだ。
「………なんだ」
「いや……珍しいこともあるもんじゃのう、と」
珍しく、夜一は本心から驚きを顕にしているようだった。
「……よいのか? 朽木家の当主が、四楓院家から出仕など」
「構うな」
「しかも、夕四郎だけならともかく、よりにもよって儂が居るときにとは……あらぬ仲じゃと噂になっても知らんぞ〜?」
早くもいつもの調子を取り戻したのか、揶揄い混じりに言った夜一に、白哉は遠慮なく不快を顕にする。
「おぞましいことを言うな。そのような噂、立とうものなら根こそぎ叩き潰してくれる」
「おお怖い怖い」
冗談か何かのように白哉は切り捨てたし、からからと夜一も笑って流したが、実はこれは意外と深刻な問題だったりする。
彼女の言った通り、傍から見れば、夜一がいるときに合わせてわざわざ白哉が四楓院家を訪れたと取れなくもない。なにせ朽木家と四楓院家は四大貴族。とにかく他人の目を集めやすい。加えて、夜一はその立場ゆえに今のところ相応しいと薦められる候補者はおらず、対して条件としては最高とされる白哉もまた妻を亡くし今は独り身という状況なのだから、これでは噂の格好の餌食だろう。
「ま、案ずるな。あとで儂が砕蜂のところへでも行けば問題ないじゃろう。家人たちにも目につくよう派手に訪ねてやるわい」
「………」
確かに、白哉が夕四郎といる間に彼女が砕蜂の元へ行けば、二人の間に何もなかったことは自ずと証明される。しかし自分を崇敬する砕蜂をそのように便利に使うとは、やはり彼女は自分を慕う者に関しては対応がやや雑だ。
「あ、あの……」
ここで、ひとり置いてきぼりにされていた夕四郎がおずおずと声を上げた。白哉と夜一の両方の視線が一気に自分に向くと、ぴくっと身体を跳ねさせる。
そんな様子を見た夜一は、呆れたようにため息をつくと、バシンッと勢いよく弟の背を叩いた。
「馬鹿もん! せっかく、お主のために白哉坊が今日は泊まると言っておるのだ、さっさと務めを終わらせて来んか!」
夜一が明確に言葉にすると、夕四郎は大きく目を見開き、それからぱあっと顔を輝かせる。先ほどまで浮かべていた涙はどこへやら、満面の笑みで「はいっ!」と応えた。
それから、ぐるん、と頭ごと白哉の方へと向き直り、尻尾があれば間違いなく千切れんばかりに振っていることだろうと思わせる様子で、喜びを隠しもせずに言った。
「白哉様! ありがとうございますっ!」
「いや……」
白哉が何事か応えるよりも早く、夕四郎は「では失礼します!」と告げると、それこそまさに風の如くと言うのが相応しい勢いで廊下の彼方へと去って行った。どうやら四楓院家では屋敷内での日常的な瞬歩の使用が当然のようだ。
「まったく、騒がしいやつじゃのう」
「……貴様が言うな」
誰よりも騒がしいではないかと白哉が言外に告げると、夜一はやはり大仰な笑い声を立てた。
ついて来い、と我が物顔で廊下を進む夜一に、反発する必要もないので白哉は黙って従う。そもそもは、自分がこんなところへ連れて来られたのは、彼女が何やら自分に話があると言うからなのだ。
「あら、夜一さ……えっ?! あ、あの、そちらの方は…ッ!!」
しかし、裏口からは入ったものの、こうも堂々と廊下を闊歩していては、人に見られるのは時間の問題だ。さっそく行き合った女中が慌てたような眼差しを白哉に向けるのを、夜一は実に軽い調子で取り成した。
「ああ、よいよい、気にするな。夕四郎が招いたのじゃ。個人的な付き合いじゃから、あまり広めるでないぞ。彼奴が来るまでの間、儂が適当に繋ぎをすることになっての。ま、とりあえず、四ノ間に茶と菓子を頼む」
甘くないやつもな!と付け加えるあたり、面白くはないがきちんと白哉のことを心得ている。
普段の夜一であれば、とびきりに甘いやつを、と悪戯心に言い出してもおかしくはなかったが、そうしないということは、どうやらそれだけ彼女の言う話とやらが真面目なものらしい。
そう長く歩くこともなく通された畳敷きの部屋に、白哉と夜一は向き合うようにして座ると、互いに顔を見合わせた。
「……四ノ間、か」
「何じゃ、気になるのか?」
にやりと笑った夜一に、白哉はあっさりと告げる。
「隠語だろう。四楓院家の名からか」
「ほほう、さすがじゃな」
「白々しい。このような派手な人避けの結界に、私が気づかぬと思っていたわけでもあるまい。並の霊圧では入ることは疎か近づけもせぬ」
「ま、誂え向きじゃろう? なあに、案ずるな。席官程度の者では、たとえ扉の前に立ったとしても、中の会話は聞こえはせん」
そんな部屋に招いてまで、夜一がしたい話のとはいったい何なのか。当然のことながら良い予感はせず、白哉はわずかに眉根を寄せた。
「……話とは、何だ」
遠回しにしても仕方がないと、白哉は直球で尋ねる。まさかとは思うが、この化け猫がどう切り出そうかと悩んででもいたのか、そうしなければこの妙に間の長い沈黙が続きそうな気がしたからだ。
どっかりと白哉の前で胡座をかいた姿勢の夜一は、己の膝に肘をつきながら、ふう、と息をひとつ吐くと、静かに口を開いた。
「――――お主、恋次とはどうするつもりじゃ?」
瞬間、白哉の瞳が揺れるのを、見逃す夜一ではない。見開かれた目に、つられるようにして変わった表情も、見抜けないような相手ではなかった。
「な……」
思わず絶句する白哉に、夜一は当然の如く告げる。
「もう随分と前から、お気楽な貴族連中の耳にも入っとるのだぞ。儂の耳に入らぬわけがなかろう」
「………」
言われてみればもっとも……と思いたくはないが、相手は隠密機動の元総司令官だ。どこから得ているのだか知らないが、その情報網は誰よりも広く緻密である。確かにそう考えれば、彼女が知らぬはずだと思う方が不自然であった。その点については納得する。しかし……
「……なぜ、そのような話をする」
夜一が、わざわざ自分を四楓院家にまで引き入れて、こんな大仰な結界の張られた部屋を使ってまで、そんな話を切り出す意味がわからない。
ひどく訝しげに眉を顰めて問うた白哉に対し、夜一はやはりあっさりと、先ほどまでの躊躇うかのような空気はどこへ行ったのか、簡単な調子で言った。
「なに、困っておるなら、手を貸してやろうと思うてな」
「……意味がわからぬ」
確かに困ってはいるし夜一にみすみす拉致された原因の一端を担う案件ではあるが、しかし、これはあくまでも白哉の問題。噂を聞いただけの夜一が、いったい何に手を貸そうと言うのだろうか。
「わからぬか?」
一方、夜一は不敵な笑みを浮かべていた。相変わらず自信満々といったその顔に、白哉は何かひどく自分に腹立たしさにも似た感情を抱く。
自分と同じ立場に生まれながら、その責を求められながら、それでもなお己は自由だと言い放ち、自らの心の思うがままに振る舞うその様が……――――ひどく、妬ましく思えたのかもしれない。
この胸に宿る想いのひとつさえ、自分は叶えられぬというのに。
わずかに目を伏せた白哉に、夜一は実に愉快そうな声で、それこそ堂々と、何に臆するわけでもなく言い放った。
「戦うのなら、四楓院の名ごと貸してやると言っておるのだ」
「…!」
その言葉の意味を、白哉は瞬時に理解してしまった。理解できてしまうほど、自分の中にその選択肢は捨て難いものとして存在していたのだ。しかし白哉は、すぐに、否、と心の中で否定する。有り得ない、と思った。―――緋真のときとは、またわけが違うのだ。
「そもそも、お主、一度は己の力だけでやってのけておるではないか。そう考えれば二度目など、実に簡単なことじゃ」
「馬鹿を申すな。緋真のときとは……」
「何が違う? 同じことじゃろ。男が男の情人を持つなど、貴族の中では何らおかしなことでもない。むしろ常識の範疇じゃ」
「それはあくまでも妾の代わりであろう」
「妾が正妻になることもなくはないぞ」
「……夜一。恋次は男で、私も男だ。男と女の話とはわけが違う」
わかりきったことを、と白哉は静かにため息をつく。
「……私は当主だ。後胤を必ず期待される。故に、緋真は妥協された。だが……恋次は違う。そもそも、どのような貴族であれ男が男を正式に伴侶として迎えた事例など一切ない。それが当主ともなれば……」
「当主か。なるほどのう、確かに、男で男を伴侶に迎えた貴族なぞおらぬし、当主がそのようなことをした前例もないな。嫁取りのときとは話が違うと、まあお主の言い分もわからなくはない」
ふむ、と夜一はわずかに肯定の意を覗かせたが、しかしそれは、次いで現れた凄絶な笑みによって一瞬で掻き消えてしまった。
「―――ならば当主なぞやめてやれ」
「な…っ?!」
並の実力しか持たぬ者なら、その眼差しだけで失神するのではないかと思わせるほどの凄みを帯びた夜一を、白哉は驚愕の眼差しで見返す。
「お主が心で恋次を選んでおる時点で、お主の後胤などこの先どうあっても生まれる余地はないわ。そんなものを勝手に期待し押しつけてくる奴らには、構うことはない、そう言い放ってしまえばよかろう。それで、奴らが当主としてのお主を手放すかどうか、試してみればよい」
「正気か…?!」
「当然じゃ。相変わらずお主は自分の価値がわかっておらんの、白哉坊。霊王宮にまで行った実力者を、奴らが容易に手放したいと思うはずがなかろう。お主が当主の座から降りれば、貴族連中は護廷隊との繋がりをも完全に失う。大損害じゃ」
まだまだ駆け引きが下手じゃのう、と夜一は笑う。信じられない、と絶句している白哉に対し、あまりにも余裕の溢れた様子だった。
「ま、もちろん、きちんと小細工はするがな。それで上手くいけば、当主云々の喧嘩は売らずとも良いが。そのひとつめが儂……というより、この四楓院家の名じゃ。当主が夕四郎になったとはいえ、まだまだ儂の力は衰えてはおらぬ。家の名を貸す程度のこと、お易い御用じゃ」
「四楓院家は四大貴族だぞ、そのように軽々と貸せる名では……」
「儂を誰だと思っておる。この儂が貸してやると言うのだから、黙ってありがたく借りておればよいのじゃ! まったくお固いやつじゃのう!」
びしり!と目の前に指を突きつけられ、白哉はやや仰け反るようにして反論を封じられる。相変わらず夜一は不敵な笑みを浮かべていた。
「なに、この家には、まだ儂を崇拝する輩がごまんと居るのじゃ。砕蜂なぞ目ではないくらいにの。案ずることはない」
「…………なぜ、そこまでする」
まかり間違っても、自分と夜一の関係は良好なものとは言えないはずだ。彼女としては面白がっているのかもしれないが、たとえそうであったとしても、白哉のために四大貴族と名高い家の名まで引っ張り出してくるなどはっきり言って正気の沙汰ではない。いったい彼女に何の得があるというのか。
白哉が困惑を極める中、夜一は実にあっさりと言う。
「ん? なあに、たまには弟の頼みも聞いてやらんと、姉としては……おっと、これは秘密にするよう言われとったんじゃった」
「………」
わざとらしく零された名に、白哉は驚きと、それからひどく戸惑いも覚えた。……気にしないようにと言った白哉の言葉に、夕四郎はうなずいていたはずだ。そもそもは白哉に向けられた矛先。彼には一切関係のないことである。それなのに、ずっと気にしていたのか。姉を頼るほどに。
「さて、ともかく、これでまず二つじゃな。朽木と四楓院。四大貴族の二大巨頭が雁首揃えれば、攻撃力には申し分なしじゃ。あとは地盤固めじゃな。奴らを丸め込んでぐうの音も出せんようにしてやらねばならん。そこでもうひとつ―――…」
白哉が黙ったのを好機とばかりにぺらぺらと話し始めた夜一だったが、その声はすぐに途切れる。近づいてくる霊圧に、白哉もまた意識をそちらへ向けた。
「おお、茶と菓子が来たようじゃの」
まるで世間話でもしていたかのように気楽な様子で、夜一はいそいそと立ち上がる。
その背を目で追いながら、白哉は昔を想った。
友を助けるため、彼女が、迷わずすべてを捨てて消えた日を。
当主とは、家を守るべく与えられた絶対の役目のはず。重責に押し潰されそうになっても、あらゆる自由を奪われても、その束縛を心底厭わしいと思っても。私情のすべてを飲み込み、務めを果たさなければならぬ立場のはず。
白哉は祖父からそう教えられてきたし、その言葉が間違っているとも、思ってはいなかった。朽木家の当主は、すべての死神の模範でなければならない。掟を守り、あらゆる死神を導く立場でなければならない。それを疑ったことはなかったし、己の生きてきた道が、道理に反していたとも思ってはいない。
―――けれど。
彼女は、自由だった。どんなときでも。
それが、白哉にはどうしようもなく――――…
「夜一」
茶と菓子を受け取り、ぱたりと満足そうに戸を閉める姿を見やりながら、白哉は静かに名を呼ぶ。不思議そうに振り返った夜一の口には、すでに大福がひとつ、あっという間に飲み込まれていった。
「…――――兄にとって……四楓院家とは、何だったのだ」
彼女は自由だった。どんなときでも。自由で、奔放で、迷いなかった。それが、時折、白哉にはどうしようもなく――――
羨ましく、思えたのだ。