かたしぐれ ― 片時雨 ―
時は一年ほど前まで遡る。
年に数度あるかないかという比較的規模の大きい貴族の会合への列席を求められ、白哉は護廷隊に非番の届け出を出し会合の屋敷へと赴いていた。面倒な貴族の相手で多忙な護廷隊を空けるなど甚だ不本意だが致し方ない。
まさかこれまで届けを出した非番がすべて京楽によってこっそりと却下され、公務扱いされていることなど露知らず、白哉は正装と同等の喪服に身を包み、己の屋敷と比べると随分とこぢんまりとした廊下を歩いていた。ここには白哉の通常の霊圧すら多大な負担に感じる者がほとんどのため、現在白哉は護廷隊ならば隠密の状態に近いほど己の霊圧を消している。加えて白哉は単なる隊長格ではなく四大貴族の血筋。その霊圧は底なしの如く強大である。
足音も立てずに木目の床を進んでいた白哉は、しかしぼそぼそと聞こえてきた声と目の前に見えた人影を認めてふと足を止めた。
おそらく声の主らは、白哉の立つ廊下の角を曲がった途中に位置する場所にいると思われる。そしてそれに聞き耳を立てる影がひとつ。
「…しかし……その噂は真なのでしょうかなあ……」
「確かに、真偽は未だ定かではありませんが……しかし火のない所に煙は立たぬと言うもの……」
「では真に、朽木の御当主ともあろう御方が、副官などを色に……?」
「ですが……確か、朽木様の副官は、無骨で雲衝くばかりの男ではありませんでしたか? 花のような小姓ならばご寵愛を受けるのもわかりますが、そのような者が朽木様の色などと……些か荒唐無稽に過ぎるのでは?」
「まことに。聞けば、朽木様の副官は、流魂街上がりの野蛮で粗暴な者と聞く。しかも元はあの十一番隊の出だとか」
「十一番隊…! あの野蛮人どもの巣窟の? なんと恐ろしい……」
「しかし斯様な噂があるのも事実……」
「まさか……」
「そもそも、あのような者を副官になど取り立てられた朽木様のご意向からして既に我々には理解し難いというもの…。斯様に下賤の者に、なぜ特別にお目かけなさるのか……」
「まったくですな。御要望とあらば、我々がいくらでも美しい娘を見繕って差し上げますのに…。当然、朽木様のお美しさにはとても及びませぬが、我が娘も中々の器量良しで……」
「何をおっしゃるのです。奥方様のご逝去以来、そのような話が通った試しがございませんでしょう。睨まれるだけですぞ」
「しかし、あのような下賤の者を色にお選びになるくらいなら、娘の方がよほど……」
「そうは言っても、亡き奥方様も同じように流魂街の出ではないか。一時の戯れかと思うていたのに、奥方にお迎えなさるとおっしゃったときは、気でも触れたのかと思ったものですよ」
「こうも続けてお目にとまるのが下賤の者とは……」
「まったくですな……当代の御当主は、まこと変わったご趣味をしておられる……」
こそこそと集まっては好き放題に言っている会話を意図せずして聞くことになった白哉は、またか、と心の中でため息をついた。霊圧を消していると相手がこちらに気づかないため、度々このような会話を耳にするのが難点と言えば難点だ。
しかし白哉は、特に進んで行って睨むことも咎め立てるようなことはせず、ただ、先ほどから白哉の視線の先で角の壁に隠れるようにして気配を消し、わなわなと肩を震わせている小さな少年に近づくと、その肩をとんと軽く叩いた。
「…ッ、びゃっ……ッ?!」
少年は、振り返った先に白哉がいることに飛び上がらんばかりに驚いて、思わず声を漏らしかける。白哉はその口をぱっと手のひらで抑えると、気配はそのまま消したままでと無言で伝えながら、そっとその場を離れるよう促した。
声がまったく聞こえないところまで来てしまうと、少年はもういいだろうと言うように歩を止め、白哉を見上げる。そして、顔いっぱいに不満を顕にした。
「白哉様……!」
「息災のようだな…―――夕四郎殿」
四楓院家の現当主として、白哉同様この会合に参列するため屋敷を訪れていた夕四郎は、ぷう、と子どものように頬を膨らませる。顔立ちだけはあの化け猫にそっくりなのだが、中身は似ても似つかぬ純真無垢な少年で、なぜか自分を慕っているらしく顔を合わせる度に子犬のように近寄って来るのだ。白哉も白哉で、この顔で寄られてしまうとどうにも邪険にできずにいる。きらきらと目を輝かせている様子がまるで妹のようだとか、尻尾を振っているかのような姿はまるで副官のようだとか、そんなことが頭をよぎるせいもあるだろう。
「夕四郎とお呼びくださいと申し上げたではありませんか!」
「しかし、朽木家と四楓院家に明確な序列は―――」
「いいえ! 僕はまだまだ若輩者ですし、それに、白哉様はすでに立派に隊長をお勤めになる身。自分などが同等などとは烏滸がましいことです」
「………」
あの化け猫にもこれくらいの謙虚さがあったら、と白哉は思う。しかしそれを想像しようとしてみて、あまりの異様さに白哉は即刻思考を打ち消した。……あれは、ああでなければ気味が悪い。殊勝な化け猫などもはや化け猫でも何でもないではないか。
夕四郎、と要求に応えて白哉は少年の名を呼ぶ。瞬間、実に嬉しそうにパッと笑顔になる少年に、白哉は忠告の意味も込めて言った。
「あのような手合いの者、相手にすることはない」
すると、夕四郎は途端に不満そうな顔になる。ころころと変わる表情は、その種類こそ違えど、姉である夜一によく似ていた。
「なぜですか! 白哉様をあのように好き勝手に言われて……夕四郎は怒っています! なぜそれがいけないのですか」
素直に怒りを顕にするその様子は、貴族と言うよりもむしろ護廷隊の隊士たちにこそ近しく思える。それは彼の生まれ育った環境にも起因するだろう。
本来、四楓院家とは「天賜装兵番」と名のつく通り宝具を司る秘密主義の家であり、また刑軍を率いるだけあってその内情は圧倒的実力主義だ。表立って貴族らの筆頭となり模範的に振る舞うことを求められる朽木家とは、それこそ真逆の存在と言ってもいい。
それゆえ、この少年には邪気がない。貴族間で当然のように飛び交う媚びも嫉妬も駆け引きも、まるで無縁であるかのように純粋である。
しかし、先のユーハバッハとの戦闘の折、四楓院家は浦原喜助に協力する形で宝具を持ち出し、また当主自ら戦場に立って戦いに参加した―――ということになっている。実際は姉の力になりたい一心だった夕四郎個人の単独行動だったそうだが、それがきっかけとなり、戦の功労者としての呼び立てから始まって、現在ではこのような席で白哉と顔を合わせる機会も増えたというわけだ。
しかしこれでは、あまりに危うい。
以前、夜一がわざわざ自分の元を訪れ、まだ色々と抜けているから多少気にかけてやってくれと、珍しく身内心を出して頼んできただけのことはある。あの女と顔を合わせて揶揄われなかったのはあれが初めてではないかと思うほどの珍事件だった。
「思考を割く価値すらないということだ。あのようなことは日常茶飯事、一々相手にしていては切りがない」
「日常…茶飯事……」
ごく当然のことのように告げた白哉に、夕四郎は信じられないとばかりの顔をする。
こういった心根の者は、できるなら貴族の会合などという息の詰まる場に来てほしくはないのだが、しかし当主ともなればそうも言ってはいられない。先代当主である夜一が未だ永久除籍の身である以上、現当主である彼が四楓院家を支える他ないのだ。たとえ白哉が庇護しようとも、その助力には限界がある。それどころか、下手な庇護は四楓院家が朽木家の傘下にあると錯覚させてしまうことにもなりかねないため、迂闊に表立った行動を取ると、却って彼の身を危うくしてしまう可能性もあるのだ。
それに、と白哉は心の中で付け加える。
先ほど会話をしていたのは、声も霊圧も、白哉の記憶の中に別段残っていない者たちだった。それはつまり、彼らが上級貴族ですらないということを意味している。白哉からすれば取るに足らぬ者たちだ。相手にするのも馬鹿馬鹿しい。
「で、でも、あの人たち、白哉様の副隊長のことまで…。姉様に会いに行ったときに何度かお会いしていますが、あの人だって、ちょっと顔は怖いけど優しくて立派な人です! それなのに……あんな風に言われて、白哉様は怒ったりしないんですか?」
「………」
夜一に会いに行っているということは当主でありながら密かに現世に行っているのかとか、そこで恋次にも会っているのかとか、色々と引っかかる言葉はあったが、しかしそれを咎める権利は白哉にはない。姉を強く慕う彼からしてみれば、会いたいと思うのも当然のことだろう。
それにしても何故かあれには妙に盲信的な信者がいると、二番隊の隊長も含めて思い出して解せぬと白哉は心の中でつぶやく。それから、あの化け猫に思考を割いていても単なる時間の無駄だと、さっさと眼下の夕四郎に意識を戻した。
とはいえ、叱られた子犬のような目でこちらを見上げてくる様子を見てしまうと、ぴしゃりと建前だけを冷たく吐き捨てるのも憚られる。本心を口にせぬのが貴族の間では常識だが、この少年にそれを汲み取る能力があるとも思えない。
そもそも、貴族云々を抜きにしたとしても、白哉の言葉の裏を的確に察することができる者などそれこそ皆無に等しいのだ。それを夕四郎に求めるのは酷というものだろう。浮竹や京楽のように幼少より自分を見てきて理解が深いわけでも、恋次のように四六時中自分と共にいるわけでもないのだ。……まだ長いとは言えない付き合いを考えると、あの男の見抜く力はやや異常だとは思うが。
白哉は、今やほとんど無意識の境地で抑えている自身の心の蓋をわずかに開けると、自分にしては驚くほど素直に、飾らぬ言葉を口にした。
「―――己の副官を愚弄され、腹を立てぬ者などおらぬ」
先ほどまでの淡々としたものとは違う、憤りの込められた声音に、夕四郎は驚いたように目を見開く。それから、慌てたように視線を下げると、口早に謝罪の言葉を口にした。
「そ、そう…ですよね。すみません。一番怒っているのは、白哉様ですよね……なのに僕は何も考えずに……」
「兄が謝る必要はない」
しゅん、と項垂れてしまった夕四郎に、白哉は内心困ってしまって、どうしたものかと頭を捻る。
『隊長無口っスからねえ。ほとんど表情に出ないのはもうしょうがないとしても、もうちょっとこう、気持ちを言葉にしたらどうっスか?』
以前、もう少し隊士らと距離を縮めてみたらどうかと提案してきた恋次に、私にどうせよと言うのだと憮然として返した結果、実に気安く返ってきた答えがふと頭をよぎる。うるさい、と白哉はここにはいない副官に対し理不尽な言葉を吐いて頭の中から追い払った。……大体、しょうがないとは何だ、しょうがないとは。それが上官に対する物言いか、と思ったが、しかしそれを許しているのが己自身であることに気づいてしまえば何も言えない。
恋次に侵食されかけていた思考を引き摺り戻し、白哉は少し考えてから、努めて穏やかな声で告げた。
「……私は、多くの者の模範でなければならぬ存在だ。あのような者に感情を顕にはできぬ。故に―――…私は、兄の怒りに感謝する」
「え…?」
自分は叱られたのではないかと、困惑した顔になる夕四郎に、やはりどこか妹の姿を重ね見ながら白哉は言葉を続けた。
「私の分まで兄が怒る故、私は平静でいられる。故に、感謝する」
夕四郎はしばらくぽかんとした顔で白哉を見やっていたが、やがてその言葉の意味を理解すると、その褐色の頬にゆっくりと喜色を讃えた。自然と緩んだのか弓のように口の端を持ち上げる夕四郎に、白哉もわずかに目元を和らげる。
「やっぱり、白哉様はお優しいです」
ふふ、と実に嬉しそうに告げる夕四郎に、白哉は唐突な言葉に面食った。しかし、白哉の反応に構わず、夕四郎は独り言のように続ける。
「姉様の言う通りだ」
「……待て。彼奴に吹き込まれた」
聞き捨てならない人物の名に、白哉は反射的に眉間に皺を刻む。あの女が絡むと、とにかく碌なことにならないというのは白哉の経験談だ。何より彼女自身が面白がっているから始末に負えない。
しかし、そんな白哉の胸中など知らない夕四郎は、実に快活な笑顔で言った。
「姉様はよく、白哉様の話をされるんですよ。いなくなる前も、また顔を見せてくれるようになってからも…。それはもう楽しそうに」
「………」
大方、揶揄い甲斐のある玩具を見つけて楽しんでいるのだろうと、白哉はげんなりした気持ちを隠しながら夕四郎の話を聞く。姉がどうだろうとも弟に罪はない。
「追放されてなかったら瞬閧も教えたかったのにって、僕との修行中に残念そうに言ってました」
「……その術は、隠密機動の総司令官が伝承してきた秘技であろう」
「そうなんですけど……でも絶対覚えられそうだし役に立つからって。いまでも機会があればって言ってます。こっそりウチに来てもらえれば、たぶん姉様のことだから、喜んで教えに来ると思いますよ」
「………」
あっさりと軽い言葉で秘技を他家に漏らそうとしているらしい夜一の言動に、相変わらず奔放で理解に苦しむと白哉は心の中でため息をつく。十中八九、自分ができて白哉ができないことをにやにやと眺めて楽しみたいだけだと思うが。
「……隊長羽織を消し飛ばすわけにはゆかぬ。遠慮しよう」
瞬閧とは、使用に際して両肩と背を覆う布が弾け飛ぶ術だと聞く。今更あの化け猫に師事する気など微塵もないという理由を除いても、白哉とは相容れぬ術であることには変わりなかった。
「ええ〜!」
心底残念そうな顔の夕四郎に、少しでも白哉が受ける可能性があると思っていたのかと白哉の方が意外に思う。……弟である自分に普通に接しているからといって、その姉である夜一とも良好な関係であるとは限らぬだろう、と思っていると、夕四郎は残念そうに言った。
「姉様、きっと喜ばれるのに……」
なぜあの女を喜ばせなければならない、と白哉は心の中で憮然としたが、それを夕四郎にぶつけるほど大人気なくはない。何と言って諦めさせようかと考えていると、未練を引き摺るように夕四郎はぽつりと言った。
「だって、姉様、白哉様のことが大好きなんですよ。僕もよくお話を聞いていて、それで白哉様に憧れたんです。姉様がこんなに熱心に褒める人って、どんな人なんだろうって…。僕はあんまり器用じゃないし、飲み込みも遅いので……」
「………」
この少年が自分を妙に慕ってくる理由は、そういうことだったらしい。あの化け猫が自分にどのような感情を抱いているのかなど知る由もないが、しかし少なくとも夕四郎が思っているような可愛らしい純粋な好意ではないとは断言できる。会えばやたら挑発を繰り返してくる姿は、まったくいつ思い出しても腹立たしいものだ。
しかし、ここで敢えて指摘はしないが、不器用や遅いというのはあくまでも彼が基準を己の姉にしているから出てくる言葉であって、夜一の教えにより短期間で瞬閧を使い熟すに至った夕四郎の実力はあの浦原喜助も認める相当なものである。
「僕も、姉様の跡を継いでみて、初めてその重さがわかったので……肩書きなんて関係なしに付き合えた白哉様は、姉様にとって本当に大切な存在なんだなあと改めて思いました。僕、白哉様のことを話している時の姉様の顔、とっても好きなんです」
「………そうか……」
果たしてこの少年は本当にあの化け猫と血を分けた姉弟なのかと、何度目かの問いが頭の中を巡りながら、白哉は一言だけそう返した。姉に対して多大な補正がかかっているのはもはや仕方がないことだろうが、その盲信ゆえに自分にも憧れを抱いているというのはどうにも居心地が悪い。しかし、ここまで純粋に来られると、ひとつ反論するにも多大な労力を要する。まさかこれも夜一が面白がってわざと仕組んだ悪戯ではないかと勘繰りたくなる心地だ。そうでなければ、あの女が自分を褒めるなどという現象が起きるはずがない。辻褄は合う。
「あっ、でも、僕が白哉様に憧れてるのは、それだけじゃないですから! 朽木家の当主をご立派に務め上げながら、護廷隊の隊長もお務めになるなんて、本当にかっこよくて…! 僕じゃまだまだ当主のお役目だってままならないのに、白哉様はすごいなって」
「……そうか」
心でも読んだのかというタイミングでの言葉に白哉はやや驚きつつも、彼のことだからまったくの偶然だろうと気には留めずそのまま流す。まだ年若い少年のまっすぐな尊敬や憧憬、あるいは強烈な好意とも言える感情は、白哉からするとどう扱ってよいものかととにかく困り果てる類いのものなのだが、かつて自分が祖父へと向けていた感情もこのようなものだっただろうかと思うと少し懐かしい気持ちにもなる。
「あと僕、姉様より綺麗な人なんて初めて見ました!」
「……………」
悪気なし、下心なし、むしろ心の底から褒辞のつもりであろう台詞。しかし白哉にしてみれば決して喜ばしくは思えぬ台詞だ。と言うよりも、女より綺麗だと言われて喜ぶ男の方が少ないだろう…。白哉は思わず沈黙を落とす。
日に焼けぬ肌も、背丈こそあるが細い腕も、別段自分が望んだものではない。病弱な父の血を色濃く継いだ見目だそうなので、男らしく見えないのはそのせいだろう。……男らしくない、という点については、自分に限らず―――否、むしろ夕四郎にこそ言えることだと思うが。初見で彼が男だと見抜ける者の方が少ないのではないだろうか。
夭折した父の面影を残した容姿であることについては不満などない。しかし、至るところで女の如き、あるいはそれ以上と言われても、喜ぶ男がどこにいるだろうか。加えて、頻りに白哉にそのように告げるのは腹に一物も二物も抱えたくだらぬ貴族ばかりなのだから、次第に世辞の言葉自体を煩わしく嫌悪するようになっても致し方ないことであろう。もちろん、夕四郎にそのような思惑がないことは、重々承知しているのだが。
「夕四郎」
よりにもよって貴族の犇めく屋敷の廊下で、人目を憚らず会話するなど柄にもなく不用心なことをしている、ということを思い出した白哉は、そろそろ移動した方がよいだろうと夕四郎に声をかける。霊圧で誰がどこにいるのかは把握できるため、自分たちの声の聞こえる範囲に誰もいないことはわかっているが、それでもこの屋敷の中にいる以上確実に安全だと呼べる場所は無きに等しいのだ。
「先に広間へ。私は後から行く」
「え? なぜですか?」
きょとんと首を傾げる夕四郎は、自分の発言が如何に力を持つのか、またこの場でそれを聞かれることがどれほど危ういことなのかということをまったく理解していない顔で白哉を見上げる。
「揃って赴くと癒着と取る者もいるだろう。我らは四大貴族。振る舞いひとつで万の憶測を呼ぶ」
「……そう、なんですか…」
またしても貴族界の嫌な現実を目の当たりにし、夕四郎は顔を曇らせる。それでも、それを嫌だと投げ出せないことは彼も充分にわかっているだろう。だから、ここで無知だと彼を責める必要はない。
白哉は、項垂れた夕四郎に静かに告げた。
「―――慣れる必要はない。ただ、心得るだけで構わぬ」
慣れた、と言ってしまえば、確かに自分は慣れているのかもしれない。生まれたときからこの身を置いてきた世界だ、否が応でもそこで生きる術を身につけさせられる。
しかし、それでは心中を支配する嫌悪感はなくなったかと問われれば、それは否である。
慣れとはそのものに動じなくなることであるが、くだらぬと取り合わぬだけで白哉の心には不快も嫌厭もはっきりと湧く。そして、それこそが、己が道を過たぬための標だった。
『―――よいか、白哉』
耳の奥に、いまは懐かしい声がよみがえる。
戦死した息子に代わるように、己を育て上げた人の声が。
『その嫌悪は、おまえが正しくあるための標だ。慣れるでないぞ。嫌悪を感じておる間は、おまえは間違ってはおらぬ。そう、心得よ』
まったくの祖父の受け売りとなってしまったが、かつてそう告げられた自分がいまこのように当主としての務めを果たしているように、彼がこれから歩む道の標にもなればよい。そう思った。
激励の意味も込めた白哉の言葉を受けた夕四郎は、はっと驚いたような表情になり、それから勢いよく顔を上げる。
「―――はいっ!」
その顔は明るく笑みに満ちており、先ほどまでの情けないと己を責めるかのような表情は綺麗さっぱり消えていた。どうやら多少なりとも力になれたようだと、白哉は密かに安堵の息をつく。
それではお先に、と丁寧に白哉に頭を下げた夕四郎は、顔を上げると満面の笑みのまま白哉に言った。
「白哉様! 今度、お忍びでもいいのでウチに遊びに来てください! 僕、白哉様から色んなお話を聞きたいです!」
話し手としては致命的なまでに向かないだろうと自覚のある白哉だったが、しかし、期待に添えぬとしても、誘いを無下にすることもないだろう。是の意を込めてうなずくと、夕四郎はパッと喜びを顕にし、それでは!と子どものように無邪気に笑うと、ぶんぶんと大仰に手を振りながら駆け出しそうな勢いでその場を去って行った。
その姿を見送りながら、白哉は人知れず息をつく。そして、誰もいなくなった廊下で、しかし周囲から隠すように背けた顔を、ゆっくりと不快げに顰めた。
思い起こされるのは、先ほどの下卑びた会話。
『聞けば、御当主さまの副官は、流魂街上がりの野蛮で粗暴な者と聞く。しかも元はあの十一番隊の出だとか』
『そもそも、あのような者を副官になど取り立てられた御当主さまのご意向からすでに我々には理解し難いというもの…。斯様に下賤の者に、なぜ特別にお目かけなさるのか……』
『そうは言っても、亡き奥方様も同じように流魂街の出ではないか。一時の戯れかと思うていたのに、奥方にお迎えなさるとおっしゃったときは、気でも触れたのかと思ったものですよ』
『こうも続けてお目にとまるのが下賤の者とは……』
貴様らが恋次の、そして緋真の何を知っている、と白哉は心中で吐き捨てる。その眼差しは絶対零度の如く冷え冷えとしていた。
このようなところ、とても夕四郎には見せられない。先達として彼を導くのもまた己の役目には違いなかろうが、しかし、どこの者とも知れぬ輩がこそこそと吐いた言葉程度に揺らぐ自分がよく言えたものだと、滑稽さに自嘲したい気分だった。それでも白哉が夕四郎の前で夷然としていたのは、このような心無い言葉の数々を耳にするのが、これが初めてではなかったからである。
あれはいつの頃からだったか。どこから聞きつけたのだか知らないが、恋次と白哉の仲に対し、貴族界であることないこと噂が頻繁に飛び交うようになった。護廷隊の面々と違い、恋次のことを直接は知らない貴族らは、手に入れた書面上の情報だけで好き放題に言ってくれる。そのほとんどが、流魂街出身の恋次に対する誹謗や蔑如だった。
白哉は四大貴族の一角、朽木家の当主だ。迂闊なことを言えば、たとえ上級貴族とて無事では済まない。また、白哉を中傷するよりも、媚びを売った方が彼らには遥かに利益があるのだ。それゆえに、中傷の矛先は遍く恋次へと向かう。
中傷の矛先が自分であるのならば、たとえどんな言葉を吐かれようが、それは白哉にとってどうでもよいことだった。しかし白哉はその地位ゆえに、ただひたすらに媚びを売られる立場にしかなり得ない。そして、攻撃しても何ら心配はないと蔑視される恋次に、悪意は集中するのだ。その、なんと悔しいことか。
―――私のせいだ。
白哉は心の中で呻いた。
私が、是とも否とも、断じずにいるから。
だから、あの男が謂れない中傷を受けるのだ。
ほんとうは、懐深く、あたたかな、何にも変え難い男であるのに。
あの男へ向けられる心無い言葉を聞く度に、心の中で、ひどく苛立ったように咆哮を上げる獣がいる。
それならば、掴まれたこの手を離せばいい。
あの男を、再び自由の空に放してやればいい。
元来、あの男は自由なのだ。
自分とは違う。
たとえ、すぐには空を見上げられずとも。
いつか、その雄々しい翼を支えるのに相応しい止り木を見つけるだろう。
―――わかっている。
わかって、いるのだ。そんなことは。
自分が、あの男に返せるものなど何も持っていないこと。
それどころか、悪意の渦中に放り込むだけだということ。
煌びやかに見える肩書きの内は、おぞましく醜い闇しかないことも、それが決してあの陽射しのような男には相容れぬものであることも。
わかっているのに、それなのに、どうしても。
それができぬ、わけは。
―――…離したく、ない
あの男の熱を、ぬくもりを、言葉を。
その存在の、何もかもを、手放すことを恐れている。
認めてしまえば、それは実に単純で、しかし何よりも厄介なものだった。心を覆う靄が晴れてゆくかのように、いつの間にか、それは白哉の中で確かに形を成していた。
そのそばを心地よいと、感じた瞬間から。
その熱に安堵した、瞬間から。
きっと、答えは決まっていたのだ。
しかし、白哉は、自らの中に根を張るその感情のあまりの恐ろしさに愕然としてしまう。
―――繰り返してしまう。
『…白哉様……』
はかなく散った、彼女のように。
穢れなく生まれた心を、このような闇に晒してはいけないのに。
彼らが生きるには、この場所は、穢れすぎている。
―――望んではいけない。
たとえ、互いの想いが等しくとも。
再びそれを望むということは、何より、恋次を傷つける。
『好きです、隊長』
その声を、いまでも鮮明に覚えている。
告げたことはないけれど、この心を震わせたその音を。
『すみません……―――好きです。あんたが、好きです』
けれど、その想いを、受け入れたのなら。
苦しむのは、傷つくのは―――…誰よりもあの男なのだ。
もう随分と前からわかっていたはずの答えと、しかしそれを許さぬ己の立場が、同時に迫ってくる。もう何度も何度も繰り返すこの葛藤に、終わりなどない。恋次から与えられるばかりの言葉に、想いに、心地良さと同時に苦しさを感じるようになったのは、いつの頃からだったか。気づけばもうどれほどの月日が経っているか。応えることも、突き放すことも、何もできない自分が恨めしい。
しんと静かな誰もいない廊下の端で、白哉はただひたすらに、滅多に崩さぬ顔を歪めていた。