かたしぐれ ― 片時雨 ―
ルキアの元を訪れ、一護に電話をした帰り、六番隊への帰路へついていた恋次は、唐突に懐で鳴った己の伝令神機にふと足を止めた。画面を見ると、自隊の三席からの電話だった。
『あっ、阿散井副隊長! よかった、繋がって』
通話を受けると、ほっとしたような部下の声が聞こえる。
「どうした? まだ時間は過ぎてねえはずだが……」
『あ、いえ、そうではないんです。休憩中に大変失礼しました』
「いや、構わねえよ」
このように畏まられるのはいつまで経っても慣れないなあ、と恋次は心の中でぼやく。十一番隊でも席官として人の上に立つ経験は長く詰んだが、やはり副隊長となると、周りの対応は席官のときのそれとは比べものにならない。特にあの朽木隊長の副官というのもこういった態度に拍車をかけているのだろう。変わってきたとはいえ、まだまだ生真面目でお堅い気風は根強いようだった。別にそれが悪いとは思っていないし、そういった隊だからこそ護廷隊の鏡として人気を博していることもわかっているのだが、恋次としてはもう少し気安く接してくれてもいいのになあ、と思うところであった。もっとも、恋次の中の気安いの基準は十一番隊のため、その望みが叶うことはまずないのだろうが。
「…で? どうしたんだ?」
『ええ、それが、先ほど伊勢副隊長から地獄蝶が届きまして……配分調整し直した仕事についての詳細の書類を渡したいとのことで、誰か一番隊に寄越してほしいとおっしゃっておられて…。副隊長にその許可を……』
「一番隊? それなら俺が近くだ」
『えっ?』
瀞霊廷は懺罪宮を中心として環状に広がっており、各隊舎もその地理に倣ってぐるりと配置されている。ルキアが副隊長を務める十三番隊は、護廷隊総本山たる一番隊のすぐそばに位置する場所に構えられていた。
『あの、副隊長、いまどちらに?』
「十三番隊に行った帰りだ。丁度いい、俺が寄ってく」
『本当ですか? 助かります! 申し訳ありません、本来ならば副隊長にお願いするようなことではないのですが……』
「いいから、いいから。そういうの気にすんなって言ってんだろ。忙しいのはお互いさまなんだからよ。おまえらもちゃんと休憩取っとけよ、持たねえぞ」
『はい! ありがとうございます』
電話口で何度も頭を下げている様子が目に浮かぶような応えが返ってきて、それから『失礼します』と丁寧な断りが入り通話は切れる。やはり慌ただしい。
これ以上心配をかけるわけにはいかないのでルキアにはああ言ったが、実際のところ、白哉の空いた穴を埋めるのにはまだ時間がかかりそうなのだ。にも関わらずなぜ副隊長である恋次がこのように隊舎を抜けてのんびりと休憩を取っていたかというと、それは、言ってしまえば、寄って集って部下たちに追い出されたからであった。
『副隊長! 根を詰めすぎです! このままお倒れにでもなったら私たちが困るんですよ! 今日はゆっくりと外でお食事なさってきてください! 食堂での早食いは禁止です! 副隊長に何かあったら、隊を預けてくださっている朽木隊長にも申し訳が立ちません!』
荒くれ者の集団にいただけあって、恋次は体力には自信のある根っからの叩き上げである。そのため、部下たちの心配は有難かったがそれは杞憂だと思っていたし、倒れるまで無茶をするような性格でもなかったため、笑って流していたのだが、ここぞとはがりに白哉の名を出されて結局押し切られてしまったのだ。
―――ルキアにも言われちまったしなあ……
もしかしたら、彼らもまた恋次の様子が常と違うことに気づいたのかもしれない。家族同然の付き合いである彼女ほどとはいかなくとも、何となく不調であることを嗅ぎとったのだろうか。そのように案じられる恋次本人といえば、まだまだ大丈夫だと思っているのだが。
そんなことを考えているうちに一番隊舎へと到着し、恋次は執務室へと足を向ける。さすがに他の隊舎とは違う巨大で荘厳な造りに気後れと居心地の悪さを感じつつも、長い廊下を進んでようやく辿り着いた扉の前で、恋次は控えめに戸を叩いた。
「すいません、伊勢副隊長。阿散井です」
まさかこれほど早く受け取りに来るとは思っていないだろうが、それでも呼び出したのは向こうなのだし執務室にはいるはずだろうと、昼の休憩をとっくに過ぎた現在の時刻も踏まえた考えは当たっていたようで、中からは七緒の霊圧が感じられる。
しかし、一番隊舎に入ったときからずっと、恋次は七緒のそばにもうひとり見知った霊圧を感じていて、不思議に思い首を傾げていた。こんなところにいるはずのない人のものだが、自分の拙い霊圧探知のせいだろうと片付けるにはこの人の霊圧は大きすぎる。
そんな恋次の声に応じて扉を開いたのは、予想していた小柄な女性の影ではなく、恋次よりもさらに大柄な男だった。どうやら自分の探知は合っていたらしいと驚きつつも、反射的に数歩下がった恋次に、ここ一番隊の主はにこやかに笑う。
「やあ、阿散井くん。いらっしゃ〜い」
「…総隊長?」
「はーい。久しぶりだね。どしたの? 君がこんなとこ来るなんて」
ひらひらと手を振る男の肩には、あの派手な女物の着物が羽織られており、その姿は紛れもなく護廷十三隊の総隊長―――京楽春水だった。
今日から護廷隊を不在にすると聞いていた京楽がいることへの困惑が先立ち、恋次は言葉を詰まらせる。
「や、それは……」
「私がお呼び立てしたんです。例の六番隊の件で。まさかいらっしゃるのが阿散井さんだとは思いませんでしたが」
京楽の質問に答えたのは、彼の後ろから顔を出した七緒だった。
「ああ、それは、俺がたまたま一番近くにいたんで」
「そうでしたか。ありがとうございます。さ、どうぞ。ああ、総隊長はさっさとお戻りください。あとは私ひとりで大丈夫ですので」
「ええ〜! そーんなつれないこと言わないでよ七緒ちゅわ〜ん! せっかく阿散井くんも来たんだし、ちょっと混ぜてく―――」
「結構です。阿散井さんにご迷惑なのではやく戻ってください。ただでさえ総隊長の不在で諸々の業務が滞っているというのに、これ以上私の仕事を増やされてはたまったものではありません」
「……あの、さっきっから気になってたんスけど……なんで総隊長がいるんスか? 確か今日からしばらく朽木隊長と一緒に留守にするって……」
相変わらずの二人のやり取りを、もはや慣れの混じった視線で眺めつつ、恋次は疑問を口にした。
くるりと七緒が恋次に視線を移す。
「実は、どうしても総隊長に今日中に決済を済ませていただかなくてはならない書類がいくつかありまして、昼の時間だけこちらに戻って来ていただくよう、あらかじめお願いしていたんです」
「そうそう。朽木隊長はそりゃもう向こうからの拘束が激しいんだけど、僕だとそこまで厳しくないからね。いやあ、総隊長って結構大変なんですよ〜あはは〜みたいな感じで言っとけば向こうも強くは言えないし」
「そうだったんスか……」
なるほどと納得するのと同時に、やはり自分の想像以上の重圧の中にいるらしい白哉のことが気にかかり、恋次はそっと京楽に尋ねる。
「あの、隊長の様子……大丈夫っスか? なんか昨日も疲れた顔してたのに結局残業してもらっちまってて、多分かなりキツいと思うんスけど……」
すると、京楽はなぜか驚いたような、ぽかんとした表情になった。……と思ったら、次の瞬間には何がおかしいのだか吹き出すものだから、恋次の方こそ驚いて目をしばたく。そんな恋次の表情を見た京楽は、ますますおかしそうに笑みを深くしながら言った。
「いや、ごめんよ。揃って似たようなこと言ってるもんだから、ちょっとおかしくてね」
「…似たようなこと?」
誰に?と首を傾げた恋次に、そうそう、と京楽はうなずく。
「朽木隊長もね、昨日君が派手な隈を作ってたからって、今朝からずっと心配しててね〜」
「隊長が……」
やはり気づかれていたのだと、恥ずかしいやら情けないやらで恋次はぐっと口をゆがませるが、同時に、白哉が自分が気にかけてくれていたのだということへの喜びがじわりと胸に湧き起こる。
やはり、敵わないな、と思った。
と、ここで、恋次は今日ルキアの元を訪れた理由を思い出す。そして、一護が電話口で言っていた言葉も。
「…あっ」
「ん? どーしたの?」
不思議そうに首を傾げる京楽に、恋次は早口に尋ねた。
「あの、総隊長。総隊長って、和歌とか詳しいっスか?」
「和歌?」
予想外の言葉だったのか京楽までもが驚いた反応をするものだから、そんなに似合わないだろうか……と恋次は密かに項垂れる。とはいえ、自分に教養がないのは確かだし、実際あの人が口にしたのでなければ興味も覚えなかっただろうと思うと致し方ないことなのかもしれないが。
「そりゃあ、人並みには知ってると思うけど…。どうしたんだい?」
「その、ちょっと知りたい歌があって…。一回聞いただけなんであやふやなんスけど、調べられねえかな、と……」
「ふうん…。それじゃ、とりあえずわかる箇所だけでいいから、どんな歌だったか教えてくれるかい?」
「あ、はい! ありがとうございます」
快く了承してくれた京楽に、恋次はパッと笑顔になり礼を述べる。それから、一護たち告げた内容と同じことを繰り返した。
「俺がわかったのは三つだけで……『他人事』と『茂み』と……あと『東風』って言葉だけなんスけど……」
「ひとごと、しげみ……それに、こち………」
ふむ、と京楽は考え込む。
しばらくの沈黙が落ちた。黙って見ていてくれている七緒の厚意に甘えつつ、恋次はどきどきと彼の反応を待つ。
「………うん。阿散井くん、ちょっと似てると思う歌がひとつあるんだけど、聞いてみて同じかどうか判断してくれるかな」
「あっ、はい!」
思ったよりもずっと早く、それも希望の見える答えを返され、恋次は慌ててうなずく。
それじゃあ、と京楽は口を開いた。
「……ひとごとを、しげみこちたみ、おのがよに……」
「…ッ! そっ、それです!」
「あれ? 早いね?」
一瞬で反応した恋次に、京楽はぱちくりと目をしばたいた。
「けど、やっぱりこれだったのか〜。まあ、ひとごと、なんて言葉から始まる歌、他にそう無いしねえ。そこそこ有名だし、わかりやすかったけど」
「そ、そうなんスか? けど一護のやつ、調べてみたけど出て来なかったって……」
「一護くん? ……ああ、なるほど。それは多分、字を間違えてるんじゃないかな。ひとごとって、阿散井くんたち、他人の事の方だと思ってない?」
「えっ?! 違うんスか?!」
「違うよぉ。この場合、ひとごとって言うのは、他人の言葉、人に言葉って書く方の『人言』だよ。この歌を全部詠むと……」
くすくすと立てていた笑い声を引っ込め、京楽はにやりと艶笑を浮かべる。先ほどまでの快闊な口調は鳴りを潜め、ぞくっとするほど艶めいた声で歌を口遊んだ。
「…―――人言を 繁み言痛み 己が世に いまだ渡らぬ 朝川渡る……」
瞬間、七緒が横でぎょっとしたように目を見開いたのを横目に、こいつはすごいと恋次は苦笑した。これほどの色香を振りまけるのであれば、なるほど女好きの浮き名を絶えず流しているというのに彼に惚れる女性が後を絶たないわけだと納得する。男の自分でも背筋を這い上がる何かを感じたのだ、これが面食いの女性ならば一溜りもないだろう。
―――いや、面食いっつーなら、俺の方か……
何せ、尸魂界一の美貌の持ち主に惚れているのだから、実は相当な面食いなのかもしれない。そういえば乱菊にもそう言われたことがあったような。
「総隊長ッ!」
京楽の醸し出していた独特の雰囲気は、七緒の一喝によって綺麗に霧散した。むず痒さから解放され、恋次は気持ち肩を回す。
「そういった声はお出しにならないようにと申し上げたはずですが!」
「えっ? あ、ごめん…?」
京楽は、唐突に怒られたことに困惑をいっぱいに顔に出しつつ、しかしわからないながらも自分に非がありそうだと思ったのか七緒に謝罪を口にする。
七緒はそんな京楽に構わず、バッと恋次に視線を向けた。
「阿散井さん、どこか身体に異変はありませんか」
「は? 異変?」
「はい。主に心臓など」
「いや別にないっスけど……」
「そうですか。ご無事で何よりです。さすが朽木隊長を見慣れているだけはありますね。総隊長ではビクともしないようで安心しました」
何の話かわからないままに胸を撫で下ろされ、恋次はひたすらに首を傾げていたが、七緒よりもその隣りの京楽の様子の方が気になって聞く機会を逸してしまった。
「……僕の声って、そんな人体に悪影響を及ぼすようなものだと思われてるの…?」
「総隊長は黙っていてください」
にべもなくぴしゃりと言われ、京楽はさらにしゅんとする。俗に言う色気がすごいからだと思いますよ、とフォローを入れるべきかどうか恋次は迷ったが、それよりも気になることがあってこれまた機会を逸してしまった。
その、無事に歌がわかったのはいいのだが、それで結局、この歌はどんな意味の込められたものなのだろうか。尋ねるタイミングを量りかねて、恋次は視線を上げたり下げたりを繰り返す。
そんな恋次の様子を目にとめたのか、七緒に何やら説教を食らっていた京楽は早々に恋次の方へと視線を移して言った。
「それで、この歌だけどね」
「あっ、はい」
「先に意味だけ言うと、これは……『人の噂があまりに多くてうるさいから、私は生まれてはじめて、夜明けの川を渡ります』……と、なるんだけど」
「……。…はあ……?」
「その顔はさっぱりわからないって顔だ」
「………すいません」
潔く認めて頭を下げると、京楽はおかしそうに笑った。
「いーのいーの、いまどきの若い子はそれで。結構古い歌だし、こんなの耳にする機会もないでしょ。えーと、確かこれ、当時の皇女さま……皇太子の奥さんが詠んだ歌だったかな」
「女の人の歌なんスか」
「そうだよ。彼女には地位も権力も申し分ない立派な旦那さんがいたわけなんだけど、やっぱり心っていうのは制御が効かないものでね、別の男に恋をしちゃうわけ。ま、貴族間の結婚なんて全部政略婚だろうし、無理もないかもねえ」
「………」
貴族のことはわからないが、やはり今も昔も大変なのだなあ、と恋次は話を聞きながらぼんやりと思った。
「で、二人の間柄は段々と噂で広まっていって、二人はどうしても逢いづらくなっちゃってね。そこで皇女さまは、身分の低い男からは自分を訪ね難いだろうって、自分から男に逢いに行ったんだよ。昔じゃ女性から男の元を訪れるなんて有り得ない話だ。それも皇女さまなんて位の高い人なら尚更ね」
「へえ…。すごい人なんスね」
「いやあ〜ほんとに。そんな風に想われたら男もますます惚れちゃうよね〜! 誰もしたことのないことをやってのけるっていうのは、本当にすごいことだよ。夜明けの川を渡るなんて、当時の女性は誰もやったことがなかったんだから」
ふふふ、と機嫌よさげに笑うと、京楽は茶目っ気たっぷりの視線を恋次に向ける。
「それで、こんな情熱的な歌を調べていたなんて、いったいどうしたのかな? それはそれは素敵な人に贈られた歌だったり?」
「えっ、いや、そんなんじゃ……」
急に話が自分のことになり、恋次は慌てる。
そりゃあ確かに想い人だが、あの人がどういう意図でこの歌をつぶやいたのかはわからないし、そもそもあれが恋次に向けられたものだったのかどうかも定かではない。あの音量では思わず口から零れてしまったという認識が正しいのだろう。贈られただなんて、とてもとてもそんなご大層な話ではない。
恋次がどう答えたものかと困っていると、きらきらとした顔の京楽とは対照的に、呆れたような七緒の声がばっさりとその場の空気を両断した。
「総隊長。野暮ですよ」
「え〜」
「え〜、じゃありません! 人様の事情に面白半分でずかずかと踏み込むものではありません! それより、はやく戻られないと本当に遅れますよ!」
「七緒ちゃんのケチ」
「ケチで結構。さっさとしてください」
「………別に、面白半分じゃないんだけどなあ……」
「? 何かおっしゃいましたか」
「いーや、別にぃ」
ぽんぽんと交わされる会話をすっかり蚊帳の外になった気分で眺めながら、ひとまず助かったと恋次はほっと息をつく。京楽は唇を尖らせぶちぶちと文句を言いながらも、七緒の言う通り貴族の会議に戻るのか執務室の扉に手をかけた。
「じゃあねえ、阿散井くん」
「あっ、はい! ありがとうございました」
慌てて頭を下げた恋次の耳に、ぱたん、と扉の閉まる音が届く。
京楽の霊圧が離れてゆくのを感じながら、恋次はひとまず頭を切り替え、ここへ来た本来の用件を済ませるべく顔を上げて七緒の方を振り返った。