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かたしぐれ ― 片時雨 ―


 
 その日、白哉が六番隊に顔を出したのは、陽も随分と傾いた夕方頃だった。

 今朝の唐突な七緒の来訪もあって、恋次が何となく予想していた通り、貴族の会議とやらが長引いたのだろう。こうなることはもちろん想定済みだったため、恋次は今日の仕事を回すのに白哉の助力は端から計算に入れていない。隊士たちにもその旨は伝えて仕事をしてもらっていたため、この時刻になっての白哉の来訪は誰しも予想外のことだっただろう。

 それでも、間もなく終業に差し掛かる時間だというのにわざわざ顔を出してくれた白哉の気遣いを察せない者は、この隊にはいなかった。特に霊圧を消すこともなく普通に隊舎門を潜って現れた白哉は、あっという間に隊士たちに見つかり、わっと群がられる。そんな様子を少し後ろで眺めながら、慣れたものだなあ、と恋次はしみじみ思った。恋次を介さなければ、世間話のひとつも碌に話もできなかった頃のことが嘘のようだ。

 ―――…やっぱ、少し疲れた顔してんな

 隊士たちと言葉を交わす白哉を見やりながら、恋次は心の中でちいさなため息をひとつ漏らす。こうして自分が察することができたということは、白哉の疲労は恋次の想像を遥かに超えるものなのだろう。七緒曰くこのあとも面倒なことが控えていると言うし、今日はどうにかしてこのまま帰ってもらっ―――

「恋次」
「っえ? あ、はい?」

 遠目、というほど離れてはいないが、少し離れた場所から白哉を眺め、どう帰宅を促そうかと考えていた恋次は、唐突に名を呼ばれ我に返る。聞き慣れたはずの声なのだが、たった一日と少し顔を合わせなかっただけで、それが随分と久しぶりに感じた。

「何スか?」

 白哉が恋次の名を呼んだことにより、わらわらと群がっていた隊士たちがその意図を察したのかすっと道を空ける。白哉はそれをごく当然のように享受し、ゆったりとした動作で恋次の方へと近づいて来た。

「進捗は」
「まあ、そこそこ」
「残業続きと聞いている」
「しょうがないじゃないスか。隊長がいっつも涼しい顔して熟してる量、えらい多いんスから。俺じゃまだまだそのくらいかかっちまうんスよ」

 もともと書類仕事などは苦手な質なのだ。身体を動かしている方がよっぽど性に合っているのだが、残念ながらここ六番隊の仕事の多くは書類仕事である。それも最近は慣れてきた方だと自分では思っているのだが、それでもやはりこの人にはまだまだ遠く及ばない。

「でも、他の奴らはちゃんと帰してるんで、心配しないでください。寝不足のまま巡回なんて、危ねえ真似はさせてませんよ」
「………」

 恋次がそう弁解すると、なぜか白哉は何か言いたげな顔をしたが、しかし結局ふいと恋次から視線を外すと、そのまますたすたと隊舎の中に入って行こうとする。恋次は慌てたように白哉を呼び止めた。

「あっ、ちょっ、隊長!」
「何だ」
「何してんですか。もう終業っスよ。みんな帰ります」
「兄は残るのだろう」
「そりゃまあ…」

 まだまだ仕事は残っている。思わず反射的に肯定の返事を返すと、白哉はこれで言い負かしたとでも言いたげな顔で執務室へ向かおうとするものだから、恋次は慌てて白哉と隊舎の入口の間に身体を滑り込ませて白哉を止めた。

「や、ほんと、大丈夫ですから。今日伊勢副隊長も来て、仕事の配分は調整してくれるそうなんです。だから、隊長が負担に思うことはないんスよ」
「私に、部下に残業を押しつけて帰る愚れ者になれと」
「いやいや……ほんと今日はもう帰ってくださいって。つーか少しは休んでください。隊長、顔見れば疲れてんのが俺にだってわかりますよ。このあとも何か色々と面倒事があるんでしょう? それじゃあ身体もちませんよ」

 む、と不服そうな白哉に、恋次は畳み掛けるように言葉を継ぐ。理詰めで自分がこの人に勝てたことなど一度もない。下手に反論される前に丸め込んでしまわなければ。

「顔、出してくれてありがとうございます。おかげでみんな元気出ました。これが戦闘だったら士気が倍くらいにはなってますね」

 真面目な口振りでは到底勝ち目がないので、恋次は茶化した物言いで白哉の主張を折ろうとする。これで話は終わったとばかりに締め括ったが、しかし白哉はそう甘くはなかった。

「……兄にも話がある。通せ」
「…話? 俺に?」

 うっかり意識を逸らされた恋次は、次の瞬間、するりと白哉の侵入を許す。……いや、彼はここの長なのだからその物言いはおかしかろうが、しかし、恋次としては彼にこれ以上仕事をさせるわけにはいかないわけで。

「隊長!」

 慌てて踵を返し、恋次は白哉を追う。こちらを見向きもせず、すたすたと廊下を進んで行く白哉に、追いついた恋次はため息混じりに零した。

「少しは頼ってくださいよ」

 こんなことを言っても、きっとこの人は聞き入れてくれないのだろうな、と心のどこかでは知りつつも、恋次は零れる言葉を止めようとはしなかった。

 それはきっと、届かないのだろうな、と思うのと同時に。
 届いてほしい、と思わずにはいられないから。

 ほんのわずか、離れていた時間が、恋次に言葉を押し出させていた。

「俺は、あんたの副官なんスから」
「………」

 ぴたり、と。

 瞬間、不意に白哉の足が止まる。まさか立ち止まるとは思わず、恋次は慌てて踏鞴を踏んだ。目の前にはすでに執務室へと続く扉が見えており、どう考えてもこんなところで立ち止まるのは明らかに不自然である。

「隊長?」

 先ほどまで恋次の言葉はどれもこれも聞く耳を持たず流していたというのに、急にどうしたのだろうか。唐突な行動を不思議に思い、恋次は首を傾げながら白哉の顔を覗き込もうとする。しかしそれよりも早く、くるりと白哉の顔が恋次へと向けられ、その視線に思わず恋次はたじろいだ。

「……兄は何か思い違いをしているようだが」
「えっ?」

 そして、実に不本意だとでも言いたげな顔で投げかけられた言葉に、恋次はさらに首を傾げた。……思い違い? いったい何のことだ?

「何が…っスか? 俺はただ、隊長はちょっとくらい周りを頼ってもいいのにって思って…。その、副隊長として俺がまだ頼りないのはわかってるんですけど、やっぱこういうときくらいは……」
「……莫迦者」

 今度は唐突に罵られ、恋次はますますわけがわからない。しかしその言葉には何故か皮肉や軽蔑といった棘はなく、むしろどちらかというと穏やかにさえ聞こえた。また、同時に呆れのようなものが混じっていたようにも思える。

 わずかに沈黙を落とした後、白哉はやや憮然とした態で告げた。

「信のない者に、何日も隊を預けるわけがなかろう」
「…は……」

 返事が、途中で途切れる。

 いやまさかと一度は脳が耳を否定し、それから疑り深く反芻して、紛うことなき現実なのかと認識すると、思わず身体が震えた。

 あっさりとした、傍から見ればいつも通りの口調で、まったくこの人は何ということを言ってくれるのか。さらりと告げられたその言葉が、果たして恋次にとってどれだけの価値を持つものなのか、きっとこの人は微塵もわかっちゃいないのだろう。

 一方の白哉は、恋次から返事がないことを怪しんだのか、ますます眉根に皺を寄せて訝しげに問うてくる。

「……私がこのあと隊を空けること、よもや知らぬわけではあるまいな」
「いや、それは聞きましたけど……」
「ならば何故そのように呆けた顔をしている」
「や、だって、隊長が急に……」
「私が何だと言うのだ」
「………」

 困ったことにこの人は、微塵も自覚がないらしい。本気で不思議に思っている様子の白哉に、よもやこの人は自分に好かれているということを忘れているのではないかと、そんな考えまで脳裏をよぎった。
 それとも、少しばかり顔を見なかっただけで、自分の方が過剰になっているのだろうか。

 たった、一日と少し。

 それなのに、白哉の姿を見た瞬間、止める間もなく胸の奥から膨らんだ想いが湧き上がってきた。本当は他の隊士たちと同じように駆け寄りたかったし、誰よりも多く声を聞きたかったし、名を呼ばれたかったのだ。しかし、白哉の顔に表れる疲労の色が恋次を我に返らせ、それから慌てて己に制御をかけて、少し離れた場所で心を落ち着けていたのは内緒の話である。

「……まあ、隊長らしいっスよね」

 恋次を悩ませるのも白哉であれば、恋次を喜ばせるのも白哉であるのだ。一護はこのままでいいのかと頻りに案じていてくれたし、自分がふつふつと感じる苦しさを紛らわせながら過ごしていることは否定できないが、それでも。

 この人の前に立つと、もう少し、このままでいてもいいかと、そんな風に思わされてしまうのだ。どうせひとりになればまた色々と考えて悶々とする羽目になるのだが、いま胸にあるこの感情も、間違いなく恋次の本心であった。

 はあ、と恋次はちいさなため息をつく。

「あんたといると、何でも好きになっちまって、困る」

 思わずこぼれた言葉に、不意をつかれたのか白哉は驚いたような顔をした。それを見た恋次はハッと我に返り、あっ、と声を漏らして、慌てて口を押さえる。やってしまった、と心中で唸った。

 最近の白哉の多忙さを知っている恋次は、意図的にこうした言葉を彼に向けることを控えていたのだ。気持ちを表すこと自体はまったく控えていないが、ただ明確な言葉を使うことを避けていた。単なる気休めにしかならないだろうが、目紛しい忙しさの中で自分の方にまで余計な気を遣わずに済むようにと、まったく知らぬ世界で戦う白哉に対して恋次ができる、精一杯の気遣いのつもりだった。

「……何やら、久方ぶりに聞いたような気がするな」

 ぽつりと。白哉がそうこぼす。やはり気づかれてはいたのかと、恋次は少し気恥ずかしくなって頭を掻いた。

「言うの、抑えてるだけです。いま、隊長は俺なんかに構ってられる余裕はないでしょう。……あんま、隊長の負担にはなりたくないから……」

 できるならば、自分もこの人と一緒に戦いたい。副官として、この人を支えたい。けれど、それが叶うのはあくまでも護廷隊での話だ。貴族の世界など恋次は踏み入る術すらない。だから、こんなちっぽけなことしか自分にはできない。しかも、そのちっぽけな気遣いさえ勘づかれているようでは、まったく情けないにも程がある話である。

 そうは言っても、もう先ほどこぼしてしまった言葉は元には戻らないのだし、このまま燻る想いをひとりで宥めるのも不甲斐ないことに無理がありそうなので、恋次は勢いに便乗するかのように言葉を続けた。

「これ言うと、ちゃんと仕事しろって怒られそうっスけど……俺、いつだって隊長のことばっかり考えてますよ」
「………」

 返されたのは沈黙だったが、構わなかった。この想いを隠さずにいてよいと、そう言ってくれたこの人に、こうして嘘偽りのない心を伝えることができる。それが嬉しかった。

 しかし、まったくの無反応というか、立ち止まったまま一向に動く気配もないことには流石に違和感を覚えて、恋次は不思議に思い、そうっと白哉の顔を覗き込む。そして、やや目を見開いた。

 それと同時に、何故かぱっと恋次から顔を背けた白哉は、恋次を置いてあっという間に執務室の前まで歩を進めると、その扉に手をかける。

「あっ、隊長!」

 恋次は、慌てて白哉が扉を閉める前にその背を追いかける。その胸中は、たったいま見た白哉の表情に対する困惑で溢れていた。

 見間違えでなければ、その顔は、どこか……――――安堵のようなものを、含んでいたように見えたのだ。
 ぱたん、と恋次が執務室の扉を閉めると、白哉はこちらに背を向けたまま、ぽつりと恋次の名を呼んだ。

「………恋次」
「はい?」
「あれから、何年経った」

 唐突な問いかけに、恋次はその意味を量りかねてきょとんとする。あれから、とは、どういう意味だろうか。

 しかし、ほどなくして、恋次は白哉の言いたいことを察した。

「…ああ! 俺が告白してからですか? えーと……三年?くらいですかね」

 先ほど恋次が白哉に零した言葉から、自分が彼に想いを告げたときのことを指しているのだろうと推測したのだ。そして、どうやらそれは合っていたようだった。そうか、とつぶやく白哉の声には、何やら覇気がない。

 あれから、白哉の方からこの件に関する話を振られるのは初めてである。返事は待てと言われたはいいが、その後のユーハバッハの襲来により、尸魂界は兎に角てんやわんやで、そんなことに係っている場合ではなかったのだ。

 だからこそ、恋次もまたこの件について悩む暇がなかったのだが、それも少し前までのこと。護廷隊はすでに落ち着き始めていた。

 そうして、色々と考える余裕ができてきてしまっていたところに、これである。正直、恋次の心臓にはかなり悪い。

「どうしたんスか急に」

 どっ、どっ、と急速に増してゆく己の心拍を宥めながら、恋次は表向きは何でもない風を装って尋ねる。

「………兄は……」
「はい?」
「まだ、あれから……変わらぬか」

 白哉の問いの意図がわからず、恋次は一瞬、戸惑いを見せた。

 変わらないか。それは、あんたに向ける心のことか。

「……変わらねえわけ、ないじゃないスか」

 何を当然のことを、と言外に込めた声で、恋次は応える。すると刹那、ぴくりと、わずかに白哉の肩が揺れた気がした。

「……あン時はまだ、何とか、自分で自分を抑えられてた。隊長にバレないように、気持ちを隠せてた。けど、今は―――…」

 いま思い返してみれば、あのときの自分がまるで嘘のようだ。隠し通せる、なんて、思い込んでいただなんて。

「隊長がちょっと居ねえだけで、すぐ気持ちが膨らんじまって、抑えが上手くできなくなってて……さっきみたいに、隊長に気持ちを吐かなきゃ、しゃんとしてられないくらい、俺は……」

 あれからまた色々なことがあった。恐怖を覚え、安堵を覚え、そして、それらはすべて、恋次の想いを育てていった。大きく、深く、果てしなく。

「あのときより、もっと、ずっと、隊長が好きですよ」

 告げる勇気を持ったことで、また新たに見えたものがあった。
 自分の想いを許容した白哉は、少しずつ、今まで恋次が知らなかった顔を見せてくれるようになっていったと思う。

 だから、あれから、もっと。

「……応えが、ないのに、か」

 黙って恋次の言葉を聞いていた白哉が、静かに問うてくる。

「だって、保留なんでしょう?」

 恋次は笑った。こんなに自分の内情を吐露したのは、告白をしたあのとき以来かもしれなかった。何となくこのまま吐き出してしまった方がいいような気がして、それに、と恋次は言葉を続ける。

「俺には隊長しかいないんです。応えがあるないの話じゃない。隊長が俺を振ろうが、たとえ嫌おうが……―――おれには、きっと一生、あんたしかいないんだ」

 ゆっくりと、白哉がこちらを振り返る。その顔は驚きに似た色に染まっており、珍しく瞳を不安定に彷徨わせながら、白哉はちいさく問いかけてきた。

「……私に縛られることとなっても、後悔せぬか」

 何をいまさら、と恋次はもはや呆れに似た感情を抱く。

 これほど言葉に尽くしてみても、どうやらまだこの人を納得させるには足りないらしい。

「しませんよ。ンなもん。むしろ、こんなこと言ったせいで、俺が隊長を縛っちまってるんじゃないかって……そういう不安はありますけど」

 恋次は徐に白哉に近づくと、そろりと、丁寧な手つきでその白い手を取った。やはり自分よりも低い温度を感じる。あのときと同じだ。そして、また同じように、白哉は何も言わなかった。

「……それでも、隊長が好きです。静かな声も、不器用な言葉も、優しくなる顔も、誰かを護る手も。あんたが見せてくれる全部が好きです」

 もしかしたら、この人は、返事をしようとしているのかもしれない。
 たとえ貴族界が忙しなくとも、落ち着き始めた護廷隊を見て、いま、恋次がどう思っているのかを察して。

『あれから、何年経った』

 長く生きている自分と、まだ若輩である恋次では、肌で感じる時の流れが違うのだろうということを、思い出して。
 恋次のために、答えを出そうとしているのかもしれない。

 ―――そのときは。

 告げられた答えが、もし、否であったとしても。

 あなたの前で、傷ついたりはして見せない。
 あなたの傍を、離れたりなどしない。

 たとえ、この想いが受け容れられることがなくとも。
 たとえ、抱く想いがあなたとは違えども。

 自分は最期まで、このひとの副官で在ると誓ったのだから。

「………ひとごとを……」

 長く、長く、落ちた沈黙が、不意に、あまりにもちいさな声に壊される。気を張り詰めていなければ聞き逃してしまったであろうその声を、至近距離にいた恋次はわずかに捉えることに成功し、ゆっくりと顔を上げた。

「……しげみ……こちたみ………」
「………隊長?」

 聞き慣れない言葉に、恋次は困惑して白哉を呼ぶ。すると、はっとしたように白哉は言葉を途切れさせてしまった。

「えと……あの、歌…とかっスか? 何の……」
「………いや……」

 何でもない、と告げて、白哉はそのまま押し黙る。
 当然ながら、流魂街育ちの恋次には教養などまったく以て持ち合わせがない。それゆえ、白哉が言いかけていた真意がわからず、沈黙を壊して聞き出す術をひたすら模索していたところ、唐突に執務室の扉が控えめに叩かれた。恋次はびくっと肩を跳ね上げる。

 恋次たちを取り巻いていた、何とも言い難い独特の雰囲気は、一瞬で霧散した。恋次は慌てたようにぱっと白哉の手を離す。切り替えの素早い白哉は、先ほどまでの声音とはまったく違う厳格な調子で「入れ」と告げた。

 白哉から入室の許可を受けて「失礼します」と顔を覗かせた隊士に、実に理不尽極まりない気持ちを抱きながらも、それを押し隠して白哉と並び仕事の話を請け負った恋次に、あの言葉の真意を確かめる機会はとうとう来なかった。

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