かたしぐれ ― 片時雨 ―
―――このままでいいのかよ
恋次が出て行った扉を見やりながら、一護は心の中でもやもやといつまでも居座る居心地の悪さを持て余していた。
ユーハバッハとの戦いが終わってからもずっと、尸魂界が大変な状況であるということはわかっているつもりだ。何の被害も出なかった現世に戻って安穏と暮らしている自分にはわからぬ激忙と重圧の中で、みな過ごしているのだろう。一護とて、何か力になれないかと思い頻繁に尸魂界に足を運んでは、自分でも手伝えることは率先して手伝ってきたつもりだが、しかしそんなことで彼らと同じ境遇に並べるわけではない。彼らは尸魂界の住人だが、自分はあくまでも現世の人間でしかないのだから。
けれど、自分は、知っているのだ。
誰にも憚らず想いを告げられると、艱苦から解放され喜んでいた恋次と、それを受ける白哉の、いつになく穏やかな顔を。
自分がルキアに受け容れられるよりも彼らが丸く収まる方が早そうだと、そう思えるほどに、心の通じ合った二人の姿を。
それなのに、ほんとうに、このままでいいのか。
―――否。いいわけがない。
しかし、だからと言って果たして自分に何ができるだろうか。
下手に口を出せる話ではない。
それこそ、この件に関しては、きっと誰よりも白哉が悩んでいるのだろうから。
彼が恋次を大切に想っていることくらい、見ていればわかる。
―――…それにしても……恋次のやつ、遅いな……?
ぐるぐると考え込んでいたため、どれほど時間が経ったのかはあまり定かではないが、少し席を外すと言っていたわりには一向に帰って来る気配がないと一護は首を傾げる。
隊士たちの仕事の邪魔さえしなければ隊舎内は好きに歩き回ってよいと、何度目かの定例報告のときに一護は白哉から言われている。それなら恋次を探しに行ってもいいかと、一護はしばらく迷ったのちに腰を上げた。
しかし、門から執務室までの道順は覚えているが、その他の場所には行く機会がまったくなかったため未知の世界だ。霊圧感知は苦手だと唸りながら、一護は拙い技術で捉えた恋次の気配を頼りにうろうろと廊下を動き回る。
しかし一向に恋次の方向へ進むための道が見つからない。
「あれ? 一護さん?」
なんでこんなに廊下がたくさんあるんだ、と行きたい方向に辿り着けず顔をどんどんと険しくしていた一護は、不意に背後から声をかけられびくっと肩を跳ね上げた。
「え、あ、ああ……ええと、理吉、だったか?」
確か恋次によく懐いている六番隊の新米隊士だったはず、と記憶を探り当てて応えると、小柄で細身の少年はにっこりと愛想の良い笑みを浮かべて「はい」とうなずいた。よかった、どうやら合っていたらしい。
「どうしたんですか? こんなところで」
「いや、恋次を探してるんだけどよ…。たぶんあっちにいると思うんだけど、どうやって行けばいいのかわかんなくて……」
要するに完全な迷子である。ちなみに言うと執務室までの帰り道も危うい。後のことを考えずに廊下を曲がったり進んだりしていたのが悪かった。
「ああ、恋次さんなら、たぶん救護室ですね」
「救護室? え? 四番隊?」
「あ、いえ、そうじゃなくて…。えっとですね、四番隊は確かに救護詰所って呼ばれてますけど、それ以外にも、各隊は自分の隊舎に専用の救護室があるんです。軽傷ならここで治療するんですよ。初歩程度のものなら、四番隊じゃなくても治癒鬼道が使える人はそれなりにいますから」
「へえ…。あ、そういやルキアも使ってたな……」
そういえば、現世では何度かその恩恵に預かったことがある。確かグランドフィッシャーと戦ったときに腹の傷を塞いでもらったこともあったが、あのときのルキアは霊力がほとんどない状態だったというのだから、結構すごいことなのかもしれない。残念ながら鬼道の心得がまったくない一護では、その技術力を正確に測ることはできないが。
「じゃあ恋次も使えんのか?」
「あっ…えーっと……その……」
ふと思いついたままに尋ねると、途端に理吉は歯切れを悪くする。
「…ん? でもあいつ、確か前に鬼道は苦手だとか何とか……」
「そう、ですね…。恋次さんは、どちらかというと……」
虚圏で赤火砲を明かりにしようと詠唱破棄をして見事に失敗し、ルキアに馬鹿にされていたことを思い出してつぶやいた一護に、理吉は遠慮がちながらも肯定を示した。上司を悪くは言えないのだろう。しかも一応尊敬してる相手だ。
「ええと、それで、恋次さんのところに行きたいんですよね?」
「あ、ああ」
「それじゃこっちですよ。案内します」
「悪い、助かる。けど大丈夫か? 仕事の邪魔に……」
「大丈夫ですよ! ほんとすぐですから。それに、一護さんは大切なお客さんなんですから、そんなこと気にしなくていいんですよ」
「そうはいかねえよ。別にお客サマでもねえし、それに、おまえらの邪魔したら、俺があとで白哉に怒られちまうからな」
一護がおどけた調子で言うと、理吉はくすくすと笑った。朽木隊長に怒られるのは怖いですねえ、とノリよく返すものだから、そうだろう、そうだろう、と一護も一緒になって笑った。
しかし、そんな和やかな雰囲気は、恋次がいるという救護室に着いたことによって一瞬で消えてしまう。
「はあ?! 馬鹿言ってんじゃねえ!!」
ここですよ、と理吉が指した部屋の扉を開けようとした瞬間、中から聞こえてきた怒声にも似た声に、一護と理吉は揃って驚き肩を跳ね上げた。
―――れ、恋次……?
一護と理吉は顔を見合わせ、迂闊に入らない方がいいかもしれないと思い、そうっと扉をわずかに開けて中を覗き込む。中には恋次と、それから負傷したのか包帯の巻かれた隊士が何人かいた。何やら顔が慌てた様子だ。
「し、しかし、戦闘で負った傷でもないのに、労災申請なんて……」
「そ、そうですよ。我々の仕事は瓦礫の撤去でしたし……」
「馬鹿野郎、二十五地区で崩落事故が起きたのはもう耳に入ってんだ。立派な対象だろうが。さっさと四番隊行って治してもらって来い! それからテメーら全員、明日と明後日は絶対仕事来んじゃねえぞ、完璧に治してから来い」
「そんな、そこまでしていただくわけには! それでは業務に支障が出ます!ほとんどの者が利き腕は無事ですし、巡回以外なら……」
「あ? 俺が高が班ひとつ抜けたぐらいで隊が回らなくなるような仕事の割り振りするわけねーだろ。おまえらの治りが遅くなった方が効率悪いんだよ。いいから四の五の言わずに四番隊行って大人しく寝てろ! あと労災適応休暇の申請書類書いとけよ! 有給なんか使ったらぶん殴るからな!」
副隊長命令!と譲る気のまったくない様子の恋次から、何となく事情を察した一護はちらりと理吉へと視線を移す。案の定、少し困ったような、しかし同時に、おかしそうな笑みを浮かべていた。
「……なあ、あれ、つまり怪我してんだから仕事は気にせずしっかり休めってことだよな。言い方乱暴だけど」
「はは…。相変わらず派手ですね。恋次さん、こういうときいつも勝手に有給申請通すと怒るんですよ。仕事で怪我したのに有給を使うなんておかしい、有給は羽を伸ばすときに使えって」
「…ふうん」
意外と現世の社会と似たような仕組みなんだな、と思いながら、一護は恋次が上司という立場にいることに今更ながら違和感を覚える。と、理吉とひそひと喋っていたところ、急に目の前の扉が開いた。
顔を上げると、恋次とばっちり目が合う。
「何してんだよ、一護」
「なんだ、バレてたのか」
「さすがにここまで近くて気づかねえほど馬鹿じゃねえよ」
緊迫した戦闘時ならばともかく、気を抜いている普段の生活の中では未だに死神になる前の癖が抜けず、身体さえ見つからなければ隠れられるとどこかで思ってしまう傾向にある一護は、それもそうだと思い出したように頭を掻く。
そんな一護の様子を見た恋次は、一護が何を考えていたのか察したのかやや肩を竦めると、一護の横に立つ理吉に視線を外した。
「理吉。ちょうどよかった。ちょっと頼まれてくれるか」
「はい。何でしょう」
「いま隊舎に残ってる班はいくつある?」
「えーと……二班、三班、六班、九班の四つです。あと少ししたら五班が巡回から戻って来ると思うので、六班は交代で出て行きます」
「よし。それじゃあ、瓦礫撤去は四班の代わりに九班を回す。崩落事故が起きてるから調査で十二番隊が来てるかもしれねえが、そん時は向こうの指示に従うよう伝えてくれ。向こうには俺から地獄蝶を飛ばしとく」
「わかりました」
「九班がやってた書類は二班と三班、それから帰って来たら五班にも順次割り振るが、手続きが五段階以上ある面倒なやつはやらなくていい。内容把握して引き継ぐだけで時間食うからな。後で俺がやるからそのままにしとけ。それから―――」
「………」
てきぱきと指示を出していく恋次を、一護は不思議なものを見るかのような眼差しで眺めていた。
普段話しているときにはあまり感じないが、こうして見ると彼は自分よりも何十年と長く生きた『大人』なのだということを思い知らされる。人の上に立ち、采配を振るうことに慣れたその様子は、一護がいつも一緒にくだらぬ言い合いをしては笑いあっている恋次の姿とはかけ離れていて、一護は何となくもの寂しいような気分になった。
そんな一護の様子に気づいたのかどうかはわからないが、理吉に指示を出し終えてしまうと、恋次は再び一護に視線を戻し、そして不思議そうに首を傾げた。
「? なんだよ?」
「…いや、別に」
やはり多少は顔に出ていたらしい。
一護が何でもないと視線を逸らすと、恋次は何となく気にしている様子は残しつつも話を戻した。
「一護、オメーは先に執務室戻っててくれ。待たせっぱなしで悪ィな。地獄蝶飛ばしたら俺もすぐ戻っから」
「ああ、気にすんな。…って、執務室どっちだ…」
「は? なんだよ迷子か」
「うるせえよ」
一護がむくれて言い返すと、恋次はさも馬鹿にしたような顔でおかしそうに笑った。そんな様子は一護もよく見知ったもので、一護は少しだけ安心する。
「……あっ」
「ん? どうした? 恋次」
「やっべえ、隊長にも地獄蝶送るの忘れてた」
「白哉に?」
「ああ。伝令神機じゃ応答なかったし、送ろうと思ってたのにすっかり頭から抜け落ちてたぜ…。十二番隊の方と合わせて送らねえと」
恋次は慌てたように救護室の扉を開けたが、しかし駆け出す寸前の足を止めてぐるりと理吉を振り返って言った。
「理吉! そこの迷子、執務室まで届けといてくれ! 頼むな!」
「あ、はい」
「誰が迷子だコラ!」
一護は猛然と抗議を上げたが、しかし恋次は一護の言葉などまったく聞かず、理吉がうなずいたのを見届けると一瞬で廊下を去って行った。
「行っちゃいましたねえ」
「あの野郎あとで覚えてろよ…」
図星とはいえ、それを他人―――しかも恋次から揶揄うようにわざと言われるとやはり腹が立つ。先ほど恋次のいつも通りの態度にほっとしたばかりだというのにもうこんな気分になるとは。まったく、あの男はわかっていてやっているんだかいないんだか。
「悪いな理吉。帰りまで世話になって」
「いえ!」
廊下を並んで歩きながらそう言った一護に対し、理吉は嫌な顔ひとつせずに愛想よくにこやかに笑って首を振った。恋次と話せたことが理由なのか、先ほどよりもやや上機嫌に見える。そういえば副隊長って偉いんだったかと、一護がつい忘れがちになる彼らの立場を思い出していると、理吉は一護と並んで歩きながらぽつりと零した。
「……でも、本当によかった。恋次さんが残ってくれて」
「残る?」
「はい」
「何に?」
「六番隊にですよ」
尋ね返してみても意味がわからず、どういうことだと一護が首を傾げていると、理吉は丁寧な説明を寄越してくれた。
「実は、恋次さん、総隊長から直々にお声がかかっていたんですよ。八番隊の隊長になってくれないかって」
「八番隊って、確か…」
「はい。以前、総隊長が隊長を務めていらっしゃった隊です。そこの後任に恋次さんを、という話でした」
「へえ…」
あの恋次を隊長にねえ、と一護は心の中でやや失礼なことを考える。何となく、隊長というと居住まい正しい白哉や前総隊長の爺さんのような冷静沈着でそれなりに威厳のある人物が務めるイメージがあったため、どうにも激情型で特攻気質な恋次が隊長というのが想像つかない。
しかし、確かに言われてみれば、恋次は霊王宮にて修行を修めた貴重な実力者であるのだ。自分は現世に暮らす人間であるから例外としても、同じように修行を修めたルキアもまた亡き浮竹の跡を継ぐべく日夜励んでいるし、白哉はすでに隊長を務めて久しい身である。恋次に声がかかるのももっともなものなのかもしれない。
「だから俺、もしかしたら恋次さんは隊長になって、六番隊からいなくなっちゃうんじゃないかって…」
あれだけ白哉に執着している姿を見れば、そんなことはないだろうと簡単に笑い飛ばせそうなものだが、一護はあくまで人間である。死神たちが属するこの組織の仕組みをほとんど知らない。察するに、現世で言うところの軍隊のようなものだろうとは思っているが、それならば上からの命令には逆らえないなどの厳しい上下関係があるとも推測できる。組織としても貴重な人材を副隊長のままにしておくのは惜しいのかもしれないということを考えれば、なるほど確かに、恋次からしてみれば非常に断り難い話であるのかもしれなかった。
「でも、恋次さん、きっぱり断ってきたそうで」
そう告げる理吉の顔は、ひどく嬉しそうに緩んでいた。彼は恋次に憧れて六番隊に来たそうだから、それも道理だろう。
「ほっとしました」
「……そっか」
理吉と、それから恋次の去っていった方向を眺めながら、本当に慕われているのだなあ、と一護はしみじみと思った。果たして恋次は、ここまで慕われていることにちゃんと気づいているのだろうか。話に聞いていたよりも数倍は熱烈な様子に、一護は何だか微笑ましく思って笑う。
しかし、日番谷や乱菊、京楽や七緒などを見ている一護からしてみると、そこまで絶対的な力の上下関係があるようには見えないのだが、やはり恋次の選択はそれほどに難しいものだったのだろうかと、少し不思議に思う。ただ、前一番隊や二番隊などは上官と部下の関係が殊更に厳しいと聞いてはいるため、やはり一護と関わりの深い面々が特別なのだろうかと思った。そう考えると、もしかすると実は一護の思っている以上に白哉は恋次に甘いのかもしれない。
なればこそ、尚のこと、二人を結ぶ感情がどうかあたたかく優しいもので在り続けるようにと、一護は執務室で見た恋次の浮かべた困ったような顔を思い出して、強く願ったのだった。