はなのあめ ― 花の雨 ―
―――不思議だ。
恋次の腕の中で、白哉はふと思った。
自分を包む、このぬくもりが。
背に回る、ひどく大きな手のひらが。
あたたかさに目を細め、そういえば、と懐古する。
父にも、母にも、そして祖父にも。
抱きしめられた記憶はない。
妻の緋真をやわく抱きしめたことはあれど。
控えめな妻が、自らこの肢体を抱きしめることはなかった。
それを悲しいとも、物足りないとも、感じたことはなかったけれど。それは、一度たりとも経験がなかったゆえの、無知だったのかもしれない。
―――そう。思えば、自分は。
抱きしめたことはあれど、抱きしめられたことは―――なかったのだ。
背を駆け上がる違和感とともに、ざわざわと心が揺れ動く。落ち着くような、反対に落ち着かぬような、未知の感覚の名を、しかし白哉は確かに知っていた。けれど、それに名を与えることを、ひどく躊躇う。与えてしまえば、何かが決定的に変わってしまうような気がした。
しかし、心というのは正直で、白哉はそれを持て余す。答えを遠ざけようとすればするほど、相反するがごとく心は惹かれてゆくようだった。
はじめて抱きしめられた。
はじめて包まれるぬくもりを知った。
それは、こんなにも―――……
――――心地よい、ものだったのか。
死覇装に薫き染められた、白檀の薫りが掻き消されてゆく。白哉の鼻を通るのは、恋次の纏う彼の男の香りばかりだ。顔に迫る胸板から、苛烈なまでに感じるこの男の香りに、白哉はひどく落ち着かない心地になった。
『いいんですよ。いまが幸せでも』
先ほどの、恋次の言葉が脳裏によみがえる。
―――私は……
誰かに、許されたかったのかもしれない。
前に進んでもいいと。
いまは亡き妻の代わりに、誰かに。
―――前に進んだ、その先には、
この男がいるのだろうか。
変わらずあの笑顔で、当然のように、私のそばに。
「……――――恋次」
互いに顔の見えぬ今の状態ならば、あるいは言えるのではないかと、白哉はそっと口を開く。
ぴくり、と。白哉の呼び声に反応するように、かすかに恋次の身体が揺れたのがわかった。
「……私は、この場所に安堵する」
静かに息を継ぐたび、えも言われぬ香りが胸を満たす。
とくとくと、力強い心臓の音が聞こえる。
「おまえがそばにいることを、安らぎと思う」
自分を抱く腕が、戦慄くように震えた。
きつく抱きしめられていた力が、驚きのせいかわずかに緩む。
己の肩からゆっくりと緩慢な動作で顔を上げた恋次を、白哉はすっと見上げた。驚きに見開かれた瞳と視線が交わる。何とはなしに、白哉はそっと目を伏せた。この男の赤が何だかまぶしい。
「それが、おまえと同じ心なのか、それはわからぬが……」
妻を忘れたことは片時もない。あの嫋やかな微笑みを、やわらかな声を、いまも確かに愛している。今も、明日も、その先もずっと。
自分がこの男に向けるのは、亡き妻に贈ったような感情ではない。だからこそわからない。自分がこの男に抱いている想いが、果たして、同じような愛おしさであるのか否かが―――…
驚いたように目を見開いたまま固まっていた恋次は、くしゃりと顔をゆがめ、そして―――…
―――そして、笑った。
ひどく、嬉しそうに。
まるで、泣き出しそうに。
「――――充分です」
とん、と肩に重みがかかる。
先ほどまでとはどこか違う、抱きしめると言うよりも、まるで縋るかのような仕草で、恋次は白哉の肩に顔をうずめる。
震えた腕が、もう一度この身に伸ばされた。
「…―――――ありがとう、ございます」
その言葉と共に、零れ落ちていった涙が、ぱたり、と白哉の手を濡らした。下げおろしたままの手を、白哉はぴくりと動かす。
ゆっくりと視線を動かせば、顔を覆う赤の影に微笑みが見えた。しずくが恋次の頬を伝ってゆく。雨よりもあたたかく、吐息よりもつめたいそれは、白哉の手を静かに流れ落ちていった。
涙は流さぬ男だった。
まるで、それは弱さの象徴であると言うかのように。
そして、その考えは白哉も同じく思うところで、だからこそ、白哉は自分の胸に沸き起こった感情に驚いた。
涙と共に笑っているその姿は、ひどく―――…
――――愛おしく、思えた。
白哉は、そっと、恋次の大きな背に腕を回す。
激情を秘めた腕で強くこの身をかき抱く恋次の力に比べれば、それは添えると言った方が正しいような、そんなかすかな力だったが、驚きに固まる恋次の身体を包むように触れると、白哉は静かに瞼を閉じた。
ゆっくりと、ぬくもりが白哉の手のひらを染めてゆく。
腕から、胸から、頬から、吐息から。この男の熱が染み込んでゆく。身体を融り、心を包み、まるでひとつに熔けあうように。
その熱を、確かに、心地よいと思った。