はなのあめ ― 花の雨 ―
「……―――え……?」
白哉の口から出た言葉があまりに予想外で、恋次は思わずぽかんとする。……いま、このひとは、何と言った? 聞き間違えでなければ、返事を待て、と言ったような気がする。……待て? 何を? 何のために?
そもそも、恋次は返事を求めて想いを吐露したのではない。
ただ、膨らみ続けるこの想いに、いつか押し潰されてしまいそうで、不安で、こんな自分が彼の副官として相応しいのかわからなくなって、どうか認めてほしいと、その上で副官としてそばにいることを許してほしいと、そんな願いと共に踏み切ったのだ。
――――なのに。
「…な、んで……」
自分は、まだ、想いを告げただけだ。それ以上は、まだ何も言っていない。伝えたいことの半分も、まだ伝えてはいないのだ。
叶わずとも、ただ、あなたのそばにいさせてほしいこと。
副官として、これからも変わらず、必要とされたいこと。
ひどく贅沢で図々しいその願いを、まだ告げてすらいないというのに、まさかの言葉が白哉から返されて、恋次は困惑していた。
―――あんたの中に、誰がいるのかなんて、
そんなの、わかっているに決まってるじゃないか。
彼の、義妹に対する愛情を見れば。
彼の、欠かさずに遺影に手を合わせる姿を知っていれば。
貴族としての誇りを何よりも重んずる彼が、家の掟を破ってまで添い遂げることを望んだひとなのだ。
彼女と同じ場所に立とうなど、そんなこと、考えたこともない。立てるはずもない。烏滸がましいにも程がある。
なのに、何を、待てと。
「……返事って…何スか」
そう、思わず口から零れてしまったのも仕方なかろう。意味がわからなくて、恋次は困惑していた。
「隊長が奥さんのことをずっと想ってるのなんて、そんなの、端から知ってるんです。届かねえってことくらいわかってるんです。叶えたいなんてそんな大層なことは思っちゃいねえ、ただ―――」
先ほどまでの重く苦しい沈黙が嘘のように、勢いにまかせて言葉が飛び出てくる。纏まりもなくただ気持ちだけが先走り、それを必死に追いかけるように。
「俺は、ただ、こんな想いを抱えてても、不純でも不毛でも、それでも隊長の副官でいたくて、それを認めてほしくて、俺は―――……」
こんなとき、自分に学がないことがひどく悔やまれる。この感情を表す言葉を、自分はいくつも知らない。ぐちゃぐちゃに入り混じって、ひどく苦しくて、ただひたすらに踠くしかないこの感情の、根源は――――
「……あんたに……必要とされてえ………」
ただの部下ではなく。仕事がつなぐ関係ではなく。
代わりのいない、誰かに。
恋次は力なくうつむき、伸ばしかけた手を慌てて押し留めると、きつく拳を握り、消え入りそうな声でそう零した。
それを望むのも、贅沢というものだろう。この人の隣りにいま立っていることさえ、本来なら有り得ぬ奇跡に他ならないのだ。これ以上を、望めるはずもない。
―――ここまで、言うつもりじゃ、なかった……
つい、漏れてしまった、心の内に隠した本音。言葉だけを聞けば部下が言ってもおかしくないような文面だが、如何せんそれを吐き出した恋次の声には、誤魔化しようもないほどに切情の熱がこもっていた。
恋次はここでようやく我に返り、うつむいた顔をそろそろと上げて、ちらりと白哉を見やる。わずかに滲む驚きの色に、それはそうだろう、と恋次は思った。すっと、すぐに視線を逸らしてしまったのは、申し訳なさを感じたからか。
もっと静かに終わらせるつもりだった。想いと、願いを告げて、それを許されたのなら、それでもう、終わりのはずだった。
「……――――私は、」
ぽつり、と。不意に、白哉が口を開いたので、恋次はびくりと肩を揺らした。おそるおそるといった態で、白哉を窺い見る。索漠たる様子に見えるその眼差しは、恋次を見てはいなかった。
「幸福にならぬよう願っていた」
「…え……?」
唐突に告げられた言葉の意味を量りかねて、恋次は困惑の声を漏らす。白哉の視線は未だ恋次へは向けられておらず、かと言ってどこを見ているのかもわからない。それが、なぜか、無性に心をざわめかせた。
「……緋真のいない世界を……幸福だと、思いたくはなかった」
そう、続けられた言葉に、ああ、そうか、と恋次は思う。けれど、たとえそこに込められた真意を察することができたのだとしても、その哀しみの深さを知ることは到底できない。
思いたくなかった、と思うのと同時に。
思ってはならない、と思ったのだろう。
愛した人がいない世界に幸福を見出すことは、まるで、許し難い罪であるというように。
恋次は思わず顔を歪める。どうして、と腹の底を打つような激情がのたうった。
―――どうして、このひとは、
こんなにも、不器用な生き方ばかりを選ぶのだろう。
そんな風にしか、生きられないのだろう。
未来の幸福を縛ることでしか、過去の幸福を愛せないと、そんな一途で歪な枷を己に科して。
「――――だが、私の世界は変わった」
変わった、と。この人は言う。
その事実は少なからず身近で感じていた恋次だが、果たしてそれが白哉にとって喜ばしいことだったのかどうか、いまの話を聞いてしまうとわからなかった。
過去に寄り添いたいと願う彼の目には、どんな―――…
「兄が、ルキアが、黒崎一護が。私を変えた」
―――……俺が…?
恋次は首を傾げる。
ルキアも、一護も、確かに白哉を変えたと言って過言ではない人物だ。だから彼らの名が挙がることには何の不思議もない。しかし、対して自分はどうだ。自分などが白哉に影響を与えた覚えなど何らないのだが、白哉は自分の何を見て名を挙げたのだろう。
「……その中で、私は、確かに一種の満足を得ていた。埋めようもないと信じて疑わなかった心の穴が、ゆっくりと、別の何かで埋められていることに、気づかざるを得なかった」
「………」
「―――それは、幸福であり、平穏であり、日常だった」
恋次はゆっくりと目を見開く。
―――…ああ、そうか
それは、止まっていたこの人の中の時間が、妻を亡くしたあの過去から動き出したということ。
再び回りはじめた歯車の音は。
この人には、別離の音に聞こえたのかもしれない。
過去に置き去りにされた妻から、遠く、遠く、離れてゆくように。
―――馬鹿だ
あんたは、ほんとうに、大馬鹿だ。
思わず、心の中でそんなことをつぶやいてしまう。
―――そんなことを、案じずとも。
あなたが愛したその日々は、消えるはずもないのに。
あなたが彼女に贈った愛が、褪せるはずもないのに。
追憶を腕に抱き、色褪せることを懼れるその優しさを、愛の深さを、ただ本人だけが気づいていないのだろう。
「……俺にも、忘れられない奴らがいますよ」
恋次の唐突な言葉に、白哉は訝しげな顔をする。
ふっと、恋次は笑った。
「隊長とは、ちょっと違えけど……みんな肩を寄せ合って生きてきた、家族みてえな奴らで」
ごみ溜めみたいな場所で、ごみのような生き方をしてきて。それでも心までごみくずのようにならなかったのは、彼らのおかげだ。彼らと、ルキアの。
犬吊には、彼らの墓がある。白哉からしてみれば、おそらく墓とも呼べない粗末な代物だろうが、恋次にとっては仲間の眠る大切な場所だ。
「あいつらがいなかったら、俺はきっとここにはいねえ。隊長に逢うことも、目標にすることも、それどころか死神にさえなってなかった」
死神になろう、とルキアは言った。
あの日、仲間の墓前で。
彼らの分まで、自分たちは生きねばと。
ごみ溜めの外を見ることなく逝った彼らの代わりに、自分たちは、この世界の外をこの目に映そう、と。
「あいつらがいなくなって、はじめて広がった世界もあるし、前に進めたこともあります。そりゃ、そう思えるまでそれなりに時間は必要でしたけど……いまはそう思える。だから―――」
この人に偉そうに言えるようなことなんて、まだ若輩の自分には、本当はないのだけれど。
このときばかりは、少しだけ、許してもらおう。
これだけは、どうしても、伝えたいから。
「隊長も、いいんですよ。いまが幸せでも。そんなことで、あんたの緋真さんへの想いが揺らぐはずないんスから」
恋次の言葉を受けた白哉は、彼にしては珍しく素直に驚きを顕に目を見開いていた。今日は随分と色んな表情が見られると、恋次はやや的外れな感想を抱く。まあ、まさか副官から告白されるなど思いもしていなかっただろうから、それも道理だろうが。
しかし、困ったことに、ここで沈黙が落ちてしまうのがいけない。勢いで言葉を連ねていたのは良いが、さて言い切ってみるとたった今までどうやって話していたのかを忘れる始末。そもそも、自分は先ほど想いの丈を吐き出したばかりなのだ。気まずさが後から遅れてやって来る。恋次は密かに唸った。
そんな恋次の様子がどう見えていたのかはわからないが、しばらくの沈黙ののち、白哉は呆れたように言った。
「………莫迦者。先刻傾慕を吐いたばかりの者が、亡妻に肩入れしてどうする」
恋次はその言葉に、思わずぽかんとする。
およそ白哉の口から出たとは思えぬ発言に驚きつつも、はは、と苦笑を漏らした。
「端から敵うなんて思っちゃいませんよ。緋真さん以外があんたを口説き落とせるなんて、そんな馬鹿みてえなこと思ってねえし」
「……落とそうとは思わぬのか」
しかし、ぽつりと零された言葉に、恋次はぎょっと目を見開く。白哉が何を思ってそのような発言をしたのかさっぱりわからず、みっともなくひどく慌てた。
「ちょっ…何なんスかあんた、俺のこと煽って楽しいっスか? 揶揄うんでもそういうこと言うのやめてくださいよ……ったく、本気で口説きますよ」
がしがしと頭を掻いてため息を吐きつつ、居心地の悪さゆえに思わず滑った口を恋次は慌てて閉じる。……いま、もしかしなくとも、自分はとんでもないことを口走ったのでは―――
しかし、それに対する白哉の応えの方が、何百倍もとんでもなかった。
「―――構わぬ」
「…………………は?」
聞き間違いか、とあまりの信じ難さに恋次の脳が即座に独断する。数秒後、確かに耳に届いていた言葉を反芻して、いやいやいや、と再度否定に走った。
「……あの……隊長…? いま何て言いました…?」
「……構わぬ、と」
「………意味わかって言ってます? 俺たったいま隊長のこと好きだって言いましたよね? これ何回も言われるんスよ? 人目を憚らずあっちこっちで」
「……兄は私を馬鹿にしているのか」
「し…、してませんけど……」
確かに先ほど、馬鹿だなあとは思ったが、それとこれとは話が違う。まさか心を読んだわけではあるまいとそれこそ馬鹿なことを考えていると、白哉は何だか不本意そうにも見える顔で、さらには珍しく歯切れの悪い様子で恋次に告げた。
「…―――それが、不快ではないゆえ、構わぬ、と申したのだ」
それは、目を見開く、などという次元の話ではなかった。
いままで生きてきて、これほど驚いたことがあるかと言うくらいの衝撃を受けた恋次は、もはや言葉を漏らすことすらも忘れてその場に固まる。
返事は待て、と告げた白哉の言葉を思い出した。
つまり、それは―――…是か否か、決めかねているということ。
決めかねるだけの、余地があるということ。
―――うそ、だろ……
拗らせすぎて夢でも見ているのではないか、と恋次は呆然とした心地のまま瞬きだけを繰り返す。ヒュッと止まった息が吹き返すまでしばらくかかった。
何とも言えない沈黙が落ちる。
しかし、ぐるぐると纏まる気配の見えない思考の中で、ふと思いついた疑問を恋次がそのまま口にしたことにより、その沈黙は壊された。
「……く…、口説くって、具体的には…どこまで……?」
「………」
盲点だったのか、白哉は戸惑ったように瞳を揺らしたあと、生来の生真面目な性格のせいか律儀に考え込む素振りを見せる。大真面目な顔で、しかし考えているのは恋次の放ったおかしな問いの答えだと思うと、何だか笑ってしまいそうになった。
信じられない事態に直面したせいか、ふわふわと妙に身体が軽く感じるような不思議な心地の中で、ぽつり、ぽつりと、とうの昔に封じ込めたはずの願望が顔を覗かせ始める。叶わないことなんてわかりきっていると、そう鎖をかけて心の奥底に無理やり沈めた願いたちが、ここにいると声を上げようとしていた。
隊長、と恋次は静かな声でそうっと白哉を呼ぶ。
「………抱きしめてもいいですか?」
―――言ってみた。
ふつふつと心に沸き起こる、願いのひとつを。
言った瞬間、いや、これはない、と我に返った恋次だったが、冗談ですと誤魔化せる雰囲気でもなく心の中で唸る。何を血迷った、数秒前の俺。好きでもない野郎に抱きつかれて嬉しい男がいるものか。阿呆。
これは怒られるなあ、と恋次は白哉の霊圧が上がることも予想して首を竦めたが、予想に反し白哉の反応は静かなものだった。そりゃあ、表情はびっくりしたように変わっていたが、しかしそこには戸惑いの色が強く、怒りや呆れといった感情はどうしたことか見受けられなかったのだ。霊圧の変化もない。
む、と唇をややきつめに引き結んで悩ましげに眉根を寄せた白哉に、いっそ莫迦者と叱責された方が気が楽だと恋次は冷や汗でもかきそうな心地だ。後悔先に立たずとはまったく誰が言った言葉か、素晴らしい先人の教えである。
やがて、白哉はつと顔を上げ、恋次の目をはっきりと見返した。その眼差しの強さに、恋次は思わずたじろぐ。
「―――――いいだろう」
そして、告げられた言葉に、二度たじろいだ。
「………冗談、だったりします?」
「そう聞こえるか」
前言撤回。この人に限ってそれはない。しかもこんな状況で。ですよねえ、と零さなかっただけ褒めてほしいものだ。
「……手ェ触れた瞬間に白雷とか飛んで来ません?」
「……兄は私を何だと思っているのだ」
「そりゃあ…、……俺みたいなのが触っちゃいけねえ人?」
「………」
本心を述べると、白哉は何が気に入らないのか途端に不機嫌そうな顔になった。俺も結構この人の表情読めるようになってきたよなあ、としみじみ思うが、いまはそれどころではない。
どうやらこの人は本気で言っているらしい。
「………あの……じゃあ、ほんとに……いいんスか…?」
「……二度は言わぬ」
ふい、と視線を逸らす白哉に、恋次はいまになってじわじわと実感が湧いてくる。
触れてもいい、と言う。
誰よりも美しいこのひとが、自分に、その許しを与えると。
そろそろと、畏れにも似た感情を抱きながら、恋次は手を伸ばす。風に吹かれれば他愛なく折れてしまいそうな、儚い花に触れるかのように。
自分よりも一回りは小さく華奢な身体は、おそるおそるとした恋次の心を裏切るかのように、あっさりと腕の中に収まった。力任せに抱けば、次の瞬間にはふっと消えてしまいそうで、恋次はそうっと腕に力を込める。
夢ではないか、と思った。
あまりに切情を胸に溜め込んだものだから、願望が幻覚となって現れたのではないか、と。
けれど、手のひらから、腕から、胸から、頬から。全身から、白哉のぬくもりが伝わってくる。幻ではないと伝えるように。
肩に顔をうずめ、吸い込んだ息からは、嗅いだことのない薫りがした。静謐な、爽やかな、けれど甘い、不思議な薫り。心が落ち着くような、しかし反対に掻き立てられもするような、はじめて出逢う薫りだった。
そういえば、どこかで聞いたことがある。……そうだ、ルキアだ。確か彼女が言っていた。貴族の服には、何やら香というものが薫き染められているのだとか、何とか。お上品なことだとそのときは興味もなく聞き流していたが、それは、こんなにも脳髄に響くものだったのか。何だかくらくらするようだ。
色々と名前も聞いた気がするが、思い出せない。そもそも興味がなかったのがいけない。ただ、彼の名前に似た―――そう、確か白と名のつくものがあったような気がするのだが……―――所詮は曖昧な記憶だった。
―――ああ、でも、違うな……
香とやらを嗅いだことはないけれど、きっとこれは、香の薫りだけではない。溶けあって自分の脳を揺らすこの薫りは、衣ではなく白哉から立ち上るもの。紛うことなき、このひとの薫りだ。
だから、きっとこんなにも、心が揺れる。
―――…なんて、
幸福の内にいるのだろう。自分は。
心の鎖も、箍も、何もかもが吹き飛びそうだ。
恋次はゆっくりと瞼を閉ざす。おそるおそると力を込めずにいた両の腕に力を込めて、どこにもいかないでくれと冀うように、ぐっと白哉の身体を己に引き寄せた。びくり、とわずかに揺れるも、何も言わずそれを受け入れる白哉に、恋次は、それだけですべてが満たされるような気がした。
渇愛を咆える獣の牙が、融かされてゆく。
きっと、これ以上の幸福はなかった。