はなのあめ ― 花の雨 ―
しかし、その翌日、白哉との会話どころか迎えに来られた事実さえ綺麗さっぱり忘れていた恋次の姿を受けて、白哉はその対応に更に頭を悩ませることとなったのだ。
聞いてしまった以上知らぬ振りをするわけにもいくまいが、しかしまったく記憶のない恋次にこちらから踏み込むわけにもいかぬ。そもそもこちらの心の内はまだ整理などとんとついておらず、返事を求められても困る次第だ。旧い知己である浮竹に相談しようと足を向けるも、持病が悪化したらしい浮竹に霊力を分け与えるのに大幅に時間を使ってしまい、わざわざ向こうから悩みでもあるのかとお膳立てをされたにも関わらず結局口籠もり言い出せなかった。
そうして時間だけが過ぎてゆき、記憶がないゆえに普段と変わらぬ調子で振る舞う恋次の姿に、このままでいいものかと密かに苦慮していたところに、この男は再びあのときの言葉を自分に告げたのだ。二度目は、紛うことなき己の意志で。
―――応えぬ、わけにはいくまい
この男は、踏み出す強さを持っていたのだ。
瞳を揺らす恋次に、白哉は、その言葉を聞くのは二度目だと静かに告げる。ここで黙するのは道理に反するだろう。
「…―――じゃあ……」
わけを聞いた恋次は、呆けたような声を漏らしながら、ただただ驚きを顕にしていた。まだ理解し切れていないことがその表情から見て取れる。……無理もない。予想もしていなかったことだろう。
「………黙止していたことについては、済まぬと…」
「あっ、いやっ、そんな! 隊長が謝らねえでください! そんなの、俺が勝手に言っちまったことなんですし、そもそも迎えに来てもらったのだって、俺が……」
意図せず知り得たこととは言え、それを今の今まで沈黙してきたことは紛れもない己の意志である。白哉が潔く謝罪を口にしようとすると、途端に恋次はひどく慌てた様子でぶんぶんと両の手のひらを振った。とんでもない、と一緒に首まで振るものだからひどく忙しなく見える。その動作のために白哉の腕を掴んでいた手は自然と離されたが、置いてきぼりにされた腕には、まだ恋次の伝えた熱が残っているような気がした。
「……恋次」
「ッ、あ、はい、あの、」
名を呼んだだけで飛び上がらんほどに驚きもたつく恋次に、白哉は思わず続けようとしていた言葉を飲み込んでしまう。あまりに過剰な反応を前に、迂闊なことは言えぬと纏まっていない心がさらに困り果てて揺らぐのがわかった。
―――私は、どうすればいい……
答えは見えない。しかし応えなくてはならない。
ひどく緊張していたのか、恋次の手はわずかに震えていた。―――否、それだけではない。
『すいません、すっかり聞き逃してたみたいで…』
十番隊との合同演習の日取りは変更になったと告げたときの、恋次の反応。前日に確かに伝えたはずだが、まったく予期せぬことと驚きを顕にしていた。それが、今日のことを考え上の空だったゆえの反応だったのだとしたら、納得がいく。……よくよく見れば、そうしたわずかな不調は確かに存在していたというのに、自分はいままで気づかずにいた。
そして、そんな自分に、一種の腹立たしさにも似た気持ちを抱いていると、なんとこの男はすぐさま自分が不機嫌だと察して何事かと尋ねてきたのだ。ごく当然のように見抜かれた胸中に、白哉は驚きを隠せなかった。おそらくそれは表情にも出ていたと思う。咄嗟に更木の話を出して誤魔化したが、この男は自分の心情をいとも容易く見抜くのかと、対してこの男の何も見抜くことができなかった自分との違いに、らしくもなくひどい不甲斐なさを感じた。
それほどに見ていたのか、と思うのと同時に。
これほど見えていなかったのか、とも思わされた。
言い得ぬ感情が心を駆け巡る。
―――私は、この男と、どうなりたいのだろう。
かつて、五十年以上も前に、永久を誓った相手がいる。
そのそばを望み、持てるすべての愛を捧げ、唯一とした伴侶が。
その心に嘘はなく、いまも尚、彼女はこの胸の中にいる。遺影に手を合わせるとき、限りない愛おしさと、喪った悲しみが、この心を支配する。色褪せることのない日々を、交わした言葉を、いまでも鮮明に覚えている。
はじめて愛したひとだった。
愛を教えてくれたひとだった。
ともに生きたいと、唯一、冀ったひとだった。
―――緋真……
それなのに、その想いを抱きながら、彼女の面影を愛しながら、なぜ、自分は答えを見い出せないのだろう。なぜ、否と断ずることを躊躇うのだろう。
疾うに離された腕に、しかしまだ熱があるような気がする。掴まれたときに、驚きとは違う何かを感じたことを、ずっと心が訴えている。その感情に名を与えてしまうことが、なぜかひどく恐ろしく感じるほどに。
自分の言葉を恟々として待っている恋次の顔は、余裕も何もなく、ひどく曇っている。視線は下を彷徨い、こちらを見ることはできていない。それが、白哉の心をも、曇らせた。
―――この男は笑っているのがよい。
ふと、そう、思った。
その笑顔の裏にあるものを、少なからず知っている。
その地位が、実力が、血の滲むような努力の結果であることも。
そうまでして目指したものが、なぜか自分であるという。
笑顔の裏で苦悩したのは、自分を想ったゆえだという。
果たしてこの男が、どれほど自分のことを知っているというのか。それは白哉にさえわからないけれど、それでも。
この男は自分を信じるのだ。
何度も。何度も。
己の見ている白哉という存在を、一途に。
斬魄刀反乱の折、たとえ本意でないとはいえ、白哉が刃を向けたとしても、この男はさも当然のように白哉のそばへと戻って来た。あのとき恋次が言い切れなかった言葉の先を、察することができぬほど鈍物であるつもりはない。
誰かに信じられる必要はないと思っていた。
ただ、己の誇りと、信念のために生きれば、それでよいと。
理解など、自分には必要ないと。
ただひとり自分を理解し得たひとは、もうこの世にいない。
だから、必要も、可能性も、ないと。
――――そう、思っていた。
「……兄の心はわかった」
白哉はようやく口を開く。沈黙を破った言葉は、思ったよりも静かに通った。心の乱れと相反するかのように。
「……だが、」
そこでわずかに口籠もるのは、いま、亡き妻に顔向けできぬ心地だからか。
なぜ、と何度己に問うても、わからない。
「……私の心に誰がいるのか、兄も知らぬわけではあるまい」
この男は知っているはずだ。自分が誰を愛したのか。その形見とも呼べる義妹と、誰よりも近しい場所にいるのだから。
「………っス」
もはや息にさえ近い、かすかな応えが返ってくる。
うつむいた顔からは、その表情を窺うことはできない。
―――…私は、
妻を…―――緋真を、忘れることはできない。彼女を愛し、ともに過ごした時間を、否定もしない。唯一彼女だけを愛すると誓った、その心に、嘘はない。
―――けれど。
うつむき顔は見えないけれど、その表情が曇り悄然としていることは、容易に想像がつく。目をひく赤髪が、頬をすべり顔を覆い隠している。恋次、と名を呼べば、やはり顔を上げた先にあるのは白哉の好きではない困ったような顔。
髪色を凌ぐほど、笑顔の目の惹く男だ。
その笑い声は大きく、他者を巻き込み空気を変える、不思議な男。
粗野だが、細やかな気遣いのできる面もあると、知っている。
その心は、仲間のために誰より砕かれることを、知っている。
その腕で、大切なものを護り抜ける強さがあることを、知っている。
自由を手に生きるその姿は、時にまぶしく、時に妬ましく、そして、時に何よりも―――羨ましく、映った。
多くを見てきた。あまりにも近くで。
この男を知ることは即ち、この男に惹かれるということ。
よい男だと、断じた先が、果たして自分にあるというのなら。
「…――――ならば、その返答は……しばし待て」
白哉は、かき集めたいっぱいの静けさを以て、そう告げた。
そうでもしなければ、情けなくも声が震えそうな気がした。