はなのあめ ― 花の雨 ―
「それじゃあ、恋次さん、お疲れ様でした。お先に失礼します」
「おう」
ぺこりと頭を下げる理吉に、恋次は軽く手を挙げて応えた。定時の鐘と共に、ぞろぞろと隊士が出て行く。
ここから先隊舎に残るのは、隊長と副隊長のみだ。
もっとも、今日が宿直の十三番隊には、隊士がみな残っているだろうが。六番隊の宿直が今日じゃなくてよかったと、恋次は心底そう思った。
隊士たちを全員見送り、恋次は執務室へと戻る。机に積まれた書類の量は、普段よりやや少ないくらいか。平素から仕事をきちんと熟して回している六番隊だからこその量だった。これが十一番隊ではそうはいかない。
あそこは隊長も副隊長もてんで役に立たないからと例外的に弓親がその役目を押しつけら―――担っているのだが、翌日まで徹夜することなどざらで、その不機嫌たるやまさに触らぬ神に祟りなしという具合なのだ。ちなみに六席だったときは一角と共に恋次も巻き込まれたこともある。あれはそう何度も経験したいものではない。十一番隊が普段いかに書類仕事をせず滞納しているのかということをまざまざと思い知らされる光景だった。
恋次が部屋に入ってきても、白哉は一瞥しただけですぐに書類に視線を戻す。そんな沈黙の空間にも意外と慣れたものだ。はじめはあまりに慣れなくて息が詰まったものだが、今では当たり前のように馴染んでいる。声をかければ返してくれることがわかっているからか、以前のような居心地の悪さもない。…もしかしたら惚れた弱みというやつなのかもしれないが。
―――惚れた、ねえ…
ルキアの叱咤激励を受けてから、今まで過剰なまでに避けてきた言葉たちを、ごく自然に使えるようになっていることに恋次は気づく。それが良いことなのか悪いことなのかは、わからないが。
いつから惚れていたのだと聞かれても、さあ、としか答えようがない。いつの間にか、ふとしたときに、好きだなあ、と思うことが増えていったのだ。目で追うのはいつものことだと言っても、その視線が、綺麗に伸ばされた背すじだけではなく、書類をめくる手や、細められた眼差しや、言葉を紡ぐ口に向けられるようになったのは、いつの頃からか。考えてみても、やはりわからない。わからないが、ただ、その事実だけは、紛れもないものであった。
一枚、二枚、三枚……徐々に書類が減っていく。手をつければそりゃあ仕事は減っていくわけだが、これが終わったあとのことを考えると心穏やかではいられない。机から書類が消えるより、恋次の心臓が爆発する方が先なのではないかとさえ思う。ああ、そういう意味では、最高に居心地が悪いかもしれない。
「…―――恋次」
「ッ、はい」
唐突に名を呼ばれ、返事に少し息が詰まった。恋次は慌てて呼吸を整える。いかんいかん、平常心平常心。まったく、これではいつ白哉に訝しげに問いただされるかわからない。
それでも、事務的なやり取りしかしていないのに、白哉の声を聞くたび心臓が五回ほど多く脈打つ。いつの間にか、この淡々とした声も好きになっていた。表情が滅多なことでは変わらない分、まだ変化の見られる声からその心中を量ろうと耳を傾けていた結果だろうか。
笑った顔が見てみたいなあ、なんて、まあそんな大それた願いを未だ捨てられずに持っていたりもするのだが、しかしそんな奇跡はあと何百年後になろうかという具合である。かつて双殛の丘で、ルキアは自分に『済まぬ』と告げた兄がわずかに微笑んだような気がしたと言っていたが、ルキアでさえそれならば自分などは永遠に彼の人の笑みなど見ることはできないのかもしれない。
一生に一度の奇跡でも訪れないものかとくだらないことを考えていたら、いつの間にか手元の書類はなくなっていた。確認のためすっかり白哉の元へと送られた書類を眺めやり、恋次は不安になる。……確かにあれを片付けたのは自分のはずだが、見事なまでに内容がちっとも頭に残っていない。大丈夫だろうか。正直何か聞かれてもそつなく答えられる気がしない。
しかし、白哉から寄越されたのは必要最低限の確認事項だけで、とりあえず不備なく答えることができた恋次は、それがつまり仕事の終了を意味するということにはたと気がつく。……いかん、本格的に胃が痛くなってきた。
「え、と……それで全部っスか? 隊長」
「―――ああ」
すべてに目を通し終わったらしい白哉から、静かに肯の返事が返ってきたことにより、恋次の心臓は一層うるさくなる。ほんと頼むから静まってくれ。
かたん、と音を立てて椅子から立ち上がった白哉は、たったいま纏め終わった書類を順に棚にしまっていく。恋次も手伝おうと自然と腰を上げ、それからいつもは気にしないようにしている距離の近さに緊張しながらも、これ以上挙動不審にならぬよう黙々と役目を熟した。
さて、と言うように白哉がこちらを振り返る。
「兄の話を聞こう」
「……っ」
はい、とすぐに応えられないあたり、やはり自分は弱い。
心臓は限界値などとっくに超えていた。
「……茶でも入れるか」
「…ッ、あ、いえ、」
おそらく気を遣ってくれたのだろう言葉に、恋次は慌てて首を振る。そんな腰を落ち着けて話すような話ではない、というよりむしろどこかの勢いで吐き出さねば永遠にタイミングを見失うような内容だ。
恋次は、すっと目の前から移動しかけた白哉を留めようと、思わずその細腕を掴んでしまった。ひやりとした感覚が伝わってくる。果たしてそれは、白哉の体温が低いのか、それとも自分の体温が熱いのか。
やらかした、と思った。
不躾な真似に白哉が何と言うかと瞬時に冷や汗をかいた恋次だが、しかし白哉から怒りの言葉は飛び出て来ず、おずおずと顔を上げた恋次の目に映ったのはやや驚いたように恋次の無骨な手を見やる白哉の姿だった。……そこに、嫌悪の色は見えなかった。少なくとも、恋次の目には。
ええいままよ、と恋次は腹を括る。ここで機を逸すれば、何故だか、言えなくなってしまいそうな気がした。
「―――隊長」
ゆっくりと、白哉の目が恋次を捉える。
離せと言わずにいてくれる、その優しさに甘えるように、恋次は言葉を押し出した。
「好きです」
常より鉄壁を誇る白哉の表情が、崩れてゆく。その目が見開かれることなど、わかっていたことだ。何も驚きはしない。
このまま、世界が止まってしまえばいいと思った。
その先がないことを知りながら、それでも告げずにはいられなかった我儘を、許してほしいと願いながら。
「……好きです、隊長。…どうしようもなく―――…」
うつむいて、声を絞り出すようにして、告げる。
顔が見えなくなった。見るのが怖いのだ。
あなたは優しい。それを知っている。不器用で、わかりにくくて、胸に秘めるばかりで言葉にしない、そんな優しさを、知っている。
変わらずにいたいと、そんな願いさえも、あなたは許してくれそうな気がして。こうして想いを吐露する弱さを、どうか許してほしいと卑怯な願いを抱く。
「……―――そうか」
静かな声が、耳を打った。
それは、想像していたよりも、変わらぬいつもの声で、恋次は思わず訝しむ。男に…―――それもよりにもよって副官に、懸想しているなどと告げられたというのに、その声はあまりに変化に乏しくはないか。たとえそれが、感情を極限まで内に押し込めたような、朽木白哉であったとしても。
緩慢な動作で顔を上げた恋次は、瞬間、白哉と目が合いびくりと身体を硬直させた。……それは、つまり、白哉がまっすぐに恋次を見ていたということ。
「……それが、兄の選択か」
「…え……?」
ぽつりと。零されたようにも聞こえたその言葉に、恋次は違和感を覚える。なんだ、この、感じは。まるで、白哉が、すでに自分の想いを知っていたかのような―――…
「………隊…長……?」
すっと伏せられた眼差しを追うように、恋次は白哉を見つめる。追い縋るような恋次の視線を受けた白哉は、やがてゆっくりと瞼を上げる。その瞳に映っていたのは、恋次が想像していた驚きでも、困惑でもなかった―――…