はなのあめ ― 花の雨 ―
「あれっ? 隊長、今日は朽木隊長と合同演習の打ち合わせじゃなかったんですか〜?」
隊首会から帰って来た日番谷を見るなり、昼から酒を片手に蕎麦饅頭を咥えてすっかりだらけきっていた乱菊は目を丸くした。当然、どう見てもサボっているようにしか見えない乱菊の姿を見た日番谷の額には、早くも青筋が浮かんでいる。あちゃあ、と乱菊は心の中でつぶやいた。
「松本…てめえ……昼間っから酒とはいい度胸してんな……」
「えっ、あ、あはは〜」
「どっから出てきたその焼酎瓶…!」
「企業秘密です!」
「ふざけんな! 勝手に執務室に隠してんじゃねえ!」
ぐわっと怒鳴るなり焼酎瓶を取り上げようとする日番谷から、乱菊は持ち前の身長を活かして酒を守る。蕎麦饅頭がひとつ奪われたが仕方がない。ここは日番谷の身長が可愛らしいことに感謝せねば。言ったら殺されるが。
「そんなことより〜」
「そんなこと?!」
目を剥く日番谷を華麗に流し、乱菊は先ほどの質問を繰り返した。
「今日は隊首会のあと打ち合わせがあるから遅くなるって、この前言ってたじゃないですか〜。何でこんな早いんです?」
「てめえは俺の話を聞いてなかったのか? 俺は昨日、日時が変更になったって言ったよな?」
「えっ?! ウソ! じゃあ編成も全部し直し?! 一から?! やっだぁ〜」
「あれやったのほとんど俺だろうが!」
げんなりとした様子を隠しもしない乱菊に、すかさず日番谷が文句をつけてくる。それはまあいつも通りの光景で、乱菊は相変わらず小さい上司の怒りを聞き流しながら、どうやって上手いこと日番谷に編成の仕事を押しつけ―――もとい、任せようかと悪知恵を巡らせていた。
「てめえが期限ギリギリになっても手ェ付けなかったから、仕方なく俺がやったんだろうが…! 他所の隊にまで迷惑かけんじゃねえ」
「ええ〜そんなことないですよぉ。八番隊とか十三番隊のときはビミョーですけど、六番隊とか十二番隊のときはちゃんとやってますって! …たぶん!」
「隊長の性格見て姑息に手ぇ抜いてんじゃねえよ…」
「今回のは隊長がたまたまやってくれたんで、ラッキー!って感じで」
「ラッキーで俺の仕事を増やされたら身が持たねえんだよ…!」
「あっはっはっは〜」
これもやはりいつも通りのやり取りで、乱菊は笑いながらテーブルに残っている蕎麦饅頭に手をつける。日番谷が意趣返しのつもりで食べたのは結局ひとつだけで、盆にはまだいくつも饅頭は残っていた。ここでお盆ごと奪わずに、しかも嫌がらせにしてもひとつしか食べないから甘いのだ。そんなところが好きなのだけれど、言ったらきっとこの幼い上司は更に怒るだけだろう。
「じゃあ、朽木隊長とは話してないんですね」
「ん? ああ、まあ、演習内容の書類は貰ってきたがな」
編成は後から送るらしい、と言う日番谷に、乱菊はくるりと顔を向ける。いつの間にか己の席についているあたり本当に真面目だ。ちょっとくらい休憩しようとかいう気はないのだろうか。
今度は甘納豆もおやつに用意してあげよう、と勝手に決めて、乱菊は饅頭を片手に立ち上がった。ひょい、と机越しに日番谷の持つ書類を覗き込む。
「あら? これ恋次の字だわ」
けして汚いというわけではないが癖のある字に、ぱちぱちと乱菊は目をしばたく。大きく四方に広がる書風は、何となくあの野性味溢れる男を思い起こさせるものだ。白哉の手本そのままのようなものとはかなり掛け離れている。
「纏めたのは阿散井なんだろ」
「へえ〜意外。朽木隊長って、他所の隊に回すような書類は人に任せないで自分でやってそうなイメージありました」
「…俺が余所行きの書類をほとんどてめえに回さねえのは、てめえが期限を守らねえからだからな? 他所に迷惑をかけねえために仕方なくだからな?」
「あらやだ、いつウチの話になったんです?」
にこにこと笑顔で知らぬ振りをすると、日番谷はギロリと睨みを飛ばしてくる。しかしそんなもので怯むような乱菊ではない。
「自覚がねえのかと思ってな。……まあ、阿散井のことは朽木も信用してんだろ。ウチと違ってな」
「最後付け加えるところが隊長らしいですね〜」
「てめえは少し自覚をしろ」
乱菊はおかしそうに笑う。
自覚をしているからこそ日番谷の言葉をのろりくらりと躱せているのだが、どうにもそうは思い至らないらしい。
「…それで、てめえはさっきっから何なんだ」
「えっ? 何がですか?」
突然放られた言葉の意味がわからず、乱菊はぱちくりと目を丸くする。とぼけるな、と日番谷は重ねて言った。
「何がじゃねえ。仕事する気もねえのに執務室にいるわ、俺が帰ってくるなり自分から書類覗き込むわ、おかしいだろうが」
「……それおかしいって言っちゃいます?」
「事実そうなんだから仕方ねえだろ…!」
自分でおかしなことを言っている自覚はあるのか、日番谷は拳を握り、肩を震わせながら、悔しそうにそう吐き出した。まあ、乱菊がすぐに休憩だと言って執務室から抜け出すのも、自分から書類に近づくことがないのも、日番谷の言う通り事実なのだから確かに仕方ないのだが。
「……また阿散井か」
「………」
「こっちに関しては誤魔化すのが下手だな」
「……別にぃ〜」
乱菊はふいっと視線を逸らしたが、それではそうだと言っているようなものだとすぐに気がついた。…驚いた、本当に誤魔化すのが下手になっている。
「そんなに気になるのか。珍しいな」
「珍しいってなんですか」
「大抵のことは傍観者で済ませるだろ、てめえは。面白がるのがてめえの特技なんじゃねえのか」
「何ですかその嫌な特技」
「嫌な自覚はあるんだな」
今度は日番谷が飄々とした態度で返してくるので、乱菊はむうっと頬を膨らませる。仕事をサボるのはお手の物なのに、何故こと恋次の恋愛話になると上手くいかないのか。まったくもって自分らしくないと乱菊は不満な顔になる。
「大方、朽木に変化があるかないか知りたくて俺を待ってたってところか」
「…そーですけど」
「不貞腐れんなよ。つーかその顔は普段から俺がしてえところなんだが」
「すればいいじゃないですか〜。誰も文句言いませんよぉ、別に」
「てめえが更にめんどくさくなるのがわかってて誰がするか。……なんでまたそんなに気になるんだ」
はあ、とため息をつきながらも乱菊の話し相手を努めようとする日番谷は、実に立派なものだと思う。まあ、このあとの仕事の効率云々を考えているのかもしれないが、そういうところが乱菊にとっては好きなところで、同時につけ込まれるところでもある。そのことに日番谷が気づくのはいつになることか。
「うーん……あたしに似てるところが、ですかね」
「似てる? おまえと阿散井が?」
どこがだ、と言いたげに、遠慮なく胡乱げな眼差しをこちらに寄越す日番谷に、乱菊はふっと笑った。
「諦め癖のあるところですかね〜」
「はあ…?」
合点のいかない様子の日番谷に、乱菊はわずかに笑い声を立てる。実際、はたから見ればそれほど似ていないのだろうから、日番谷の反応はもっともなものだろう。乱菊だって実はそこまで似ているとは思っていない。ただ、どうして気になるのかと尋ねられると、たぶん、その理由しか見当たらないのだ。
―――まあ、いいのよ、理由の方は何でも
この日番谷の様子からすると、どうやら二人の間に目に見える変化はないらしい。まあ、あの白哉がそう簡単に他人に心の内を読ませるとも思えないので、あくまでも参考までにだが。
恋次がどのような選択をするのかはわからないが、砕けてもいいから当たって来いというのは乱菊の願望であって、実際にそうなるとは限らない。恋次が自分の後悔しない道を黙秘と決めたなら、それをとやかく言える立場に乱菊はいないのだ。
それでも、確かにそこで息づいた想いを、そのまま押し込めて消してしまうのは嫌だと思うのは、やはりただのわがままだろうか。
―――だって、
あんな顔、見ちゃったら、そう思わずにはいられないじゃない。
あの居酒屋で、わざわざ迎えに来た白哉を見て、へにゃりと笑った恋次の顔が脳裏によみがえる。
消えないのだ、あの顔が。ずっと、頭の中から。
―――ねえ、恋次
夢だと思い込んでいたから、あんな顔をしたんでしょう。
心底嬉しそうな、気の抜けた笑顔。
―――馬鹿ね
その顔を、誰にも見られてはならないと、いったいどれほど気を張り詰めて過ごしてきたのだろう。
最愛の人の、一番近くで。
「……い、…おい、松本」
「……はい?」
ハッとして、乱菊は目の前で腕を組む日番谷を見下ろす。完全に意識が別の方向へ行ってしまっていたらしい。
「……その様子じゃあ、俺の話、聞いてなかったな?」
「あ、ええ。すいません、何も」
悪びれる様子のまったくない乱菊の返事に、日番谷はため息をつきながら言った。付き合いの長さゆえにそのあたりの切り替えも早い。
「てめえが何を阿散井に感じてんのかは知らねえが、てめえがいくら思い悩んだところで何も変わらねえだろ。決めるのは阿散井だ」
「……わかってますよう」
「わかってねえから何度も言ってんだ」
日番谷が指差す先には、乱菊の机にどっさりと溜まった書類の山。普段からサボって終わらないくせに、悶々と思い悩んでいるせいで更に進んでいない。
「いつまでも上の空でいねえで仕事しろ仕事」
「だって…」
「だってじゃねえ。……別に、朽木以外にも相手はたくさんいるだろ。振られたところで世界の終わりってわけじゃねえ」
「…ほんとうに? ほんとうに、隊長、そう思います?」
「………」
乱菊がずいっと身を乗り出し、大真面目な顔で再度尋ねると、返ってきたのは沈黙だった。つまり、否定だ。乱菊に喝を入れるために口からついて出たでまかせのようだが、そんなもので元気になるならとっくになっている。
だって、と乱菊は独り言のように零した。
「……―――知ってるんですよ、あたし」
離れない。あの顔が。
ひどく嬉しそうな、あの微笑みが。
「あいつ、あんな顔でも気さくだし、付き合いも良いけど、」
その口から零れる想いの大きさと、名の少なさ。
それを、いつの間にか、知っていた。
「本当に大切なものは、片手ほどしかないってこと」
家族のような幼馴染。それを救ってくれた友人。
そして―――全身全霊でその背を追いかける、孤高のひと。
それだけだ。
それだけあれば、それでもう、満足なのだ。
自分も少し、似ていると思う。
似ているからこそ、気づいたのかもしれないが。
自分をおいて逝った馬鹿な幼馴染。流魂街で見つけた天賦の子ども―――いまでは自分の上司だが。それから、まあ、思い返せば色々と世話になったあのセクハラ元上司も数えてやろうか。指を折りながら、乱菊は笑う。
突然の失踪にわけがあったことも、いまは現世で元気にやっていることも、息子だという一護から聞いて知っている。そもそも、あの男が理由もなく自分たちの前から姿を消すとは、自分も日番谷も思っていなかったのだ。信じていたと言うのは悔しいから、けして言わないけれど。
折られた指の少なさを見て、自分の世界も案外狭いものだと乱菊は心の中で独り言ちる。
そう、これだけだ。
―――これだけで、じゅうぶん、だったのに。
それなのに。
たった、それだけの望みが、叶わない。
―――あたしの心のほとんどを、勝手に占めておいて、いきなりいなくなるんじゃないわよ
いまはもういない男に向かって、乱菊は何度目になるかわからぬ文句を垂れる。返ってこないことも、届かないことも、わかっているけれど、それでも。
言わずにはいられない。せめて、心の中では。
あんまりにも唐突な『さようなら』。
それがどうか、恋次には訪れないようにと、乱菊は祈る。
―――やっぱりあたしたち、どこか似てるのかもしれないわね、恋次
私たちはお互いに、ほんとうに小さな世界を望んだだけ。
小さな世界で、ささやかな願いを抱いただけ。
とうとう、乱菊の願いは、叶わなかったけれど。――――否。叶わなかったからこそ、余計に。
どうか、彼の願いは叶ってほしいと、そんな、虚しい夢を見るのだった。