はなのあめ ― 花の雨 ―
護廷十三隊各隊は、月の最後の日に、隊長副隊長が揃って隊舎に残り、書類の総整理をすることが慣例となっている。重要書類などに触れられない平隊員にとってはいつも通り定時で解散する何でもない日だが、副隊長としてその後も隊舎に残って仕事をする恋次にとっては、大変重要な意味のある日だった。
そう、つまり―――誰もいなくなるのだ。この日だけは、隊舎に、自分と白哉以外には誰も。
そして、それは今日だった。
大して食べた覚えもないのに朝から重ったるい胃を擦りながら、恋次は本日何度目になるかわからぬため息をつく。…ああまったく、心臓に悪い。ガキの遠足じゃああるまいし、少しは落ち着けと何度言い聞かせてみても、心臓はまるで何体もの虚と戦った後のように早く脈打っていた。
もっと冷めた性格ならよかったのに、と恋次は腹の底に潜む激情を抑え込みながら密かに嘆く。そうすれば、たとえこれから想いを告げるとあっても、もう少し落ち着いた状態でいられただろうに。
…――――そう。恋次は、これからいわゆる告白というものをする心積りなのである。
『何も変わらぬよ』
その言葉に後押しされたと言えば聞こえはいいが、まあ、要は諦めが悪いだけだ。とは言え、それはもちろん白哉に気持ちを受け容れてほしいとかそんな大それた話ではない。
ただ、この想いを、後悔も、無かったことにも、したくないだけ。
しかし、そう腹を括ったのはいいものの、主人同様に負け犬属性な肉体はそろそろ限界値を迎えようとしていた。まだ何も始まってすらいないというのに。情けない限りである。十二番隊特製のはずの胃薬が今日はどうにも効きが悪い。
「あの……恋次さん」
「…んぁ? どうした? 理吉」
がさがさと、目当ての書類が見つからずに先ほどから机だの棚だのを物色していた恋次は、扉を叩いて入って来た理吉に遠慮がちに声をかけられ不思議そうに振り返った。
現在白哉は臨時の隊首会に赴いており、この執務室には恋次しかいない。それがわかっているから理吉がいつもより気軽に執務室に入ってくること自体はそれほどおかしなことではないのだが、妙に声のトーンが低い。
「何かあったのか?」
「いえ……」
躊躇うように視線を落とす理吉に、恋次は首を傾げる。何もないようにはとても見えなくて、無言で促すように視線を外さずにいると、やがてそろそろと理吉は口を開いた。
「…あの……恋次さん、大丈夫ですか? 何だか今日…すごく、調子悪そうに見えるんですけど……」
恋次はやや目を見開く。…そんなにわかりやすかったか。
まったく、部下に心配をかけるようでは、副隊長失格である。恋次は笑って、ぽんと理吉の頭に手を乗せると、努めて明るく言った。
「おー悪いな。実は、この前ちょっとルキアと言い合いしちまってな、謝る文句考えてたとこなんだ」
「く、朽木副隊長と…?」
恋次とルキアの仲が良いのは、何も六番隊に限らず周知の事実である。理吉の目に納得の色が宿ったところで、おう、と恋次はうなずいた。
「喧嘩長引くと何も良いことねえだろ?」
「そ、そう…ですね」
「今回はちょっと俺が悪かったからな、仕方ねえ、俺から謝ることにしたんだ。……けどなあ、アイツどうせ機嫌よくねえだろうし…って考えてたら、つい、な」
「そう、だったんですか」
「ああ。心配かけて悪かったな」
「いえ、そんな!」
理由がわかってほっとしたのか、理吉の顔にも笑みが浮かぶ。……嘘をついていることには少々罪悪感を覚えるが、まあ、言い合いをしたというのはあながち間違ってはいない。別に喧嘩はしていないが。
言い訳に使ってすまん、と恋次が心の中でルキアに謝っていると、でも、と理吉の声が聞こえて、恋次は意識をそちらへ戻す。
「恋次さんって、自分が悪くても悪くなくても、謝ることありますよね」
「…え? そうか?」
自分が悪くなかったら普通は謝らないのでは…?と首を傾げる恋次に、しかし理吉はにっこりと嬉しそうに笑って言った。
「はい。何と言うか……相手を立てるために、って感じで」
「…ンなことあったか…?」
まったく覚えがないと恋次は不思議そうな顔を崩さなかったが、理吉は構わず「はい」とうなずいてさらに言い募る。
「俺、恋次さんのそういうところも尊敬してるんです」
「お、おう…?」
覚えのないことに尊敬を向けられてもちょっと困ってしまうというか、何だか騙しているような気分で申し訳ない気がしてくるのだが、純粋に向けられる好意を無下にはできない。それにまあ、嬉しくないわけでもない。
「ありがとな」
素直に礼を言うと、理吉はやはり嬉しそうに笑った。
この少年が自分の何を見てそんなに慕ってくれているのかはわからないが、くすぐったいような、こそばゆいような、不思議な気持ちだった。
そこでようやく、そういえば、と恋次は執務室にやって来た理吉に用件を尋ねる。すると、理吉も本来の用事を思い出したのか、捌き終わったものを確認してほしいのだと纏められた書類の束を差し出した。
「それじゃあ、俺はこれで」
「おう」
とりあえず、見つかる気配がないので捜し物はあとにするとして、先に理吉が持って来たものを片付けてしまおうと恋次は椅子に腰掛ける。しかし、あっこれ俺の苦手な金融書類だ……とげんなりしたところで、恋次はふっと外から感じた霊圧にぴくっと反応した。……良かった。普段から霊圧探知は非常に不得手なのだが、ある特定の人物に関しては察知が早いことに今回は救われた。これで心を落ち着かせる余裕が持てる。
しばらくして、キィ――…と扉を開けて執務室に入って来たここの主に、恋次はできる限り軽く聞こえる調子で言った。
「おかえんなさい、隊長。お疲れ様です」
「ああ」
隊首会から戻った白哉は、ちらりとこちらを見やるといつも通りに短い応えを返し、すっと己の席につく。たったそれだけなのに、なぜかまったく違う部屋になったかのような雰囲気が漂った。
まあそれも慣れたものと、恋次は構わず口を開く。大丈夫大丈夫。平常心、平常心。
「あ、そうだ、ちょうど良かった。あの、隊長。俺が昨日ここに置いといたはずの書類、どこ行ったか知ってたりしません?」
まあ知ってるわけないよなあ、とわかりきっている質問をわざわざしたのは、これから切り出す本題の前に緊張を解しておこうと思ったためだ。こう、会話の流れを作っておくというか。
しかし、返ってきたのは予想外の答えだった。
「……十番隊との合同演習の件か」
「あっそれですそれです! せっかく編成組み終わってたのに、どこ探してもなくて……って、あれ? なんで隊長が知ってんですか?」
「………」
聞いておいて何だそれは、とでも言いたげな眼差しで沈黙を落とした白哉に、恋次はそうっと首を竦める。…だって、まさか本当に知ってるとは思わなかったのだ。ただの会話の糸口のつもりだったのに。
「……私は昨夜、兄に『合同演習の日取りが変更になったゆえ編成はし直す』と言ったはずだが」
「えっ?! マジすか?!」
聞いた覚えがないと、恋次は思わずガタッと椅子から立ち上がる。まさかとは思うが、聞き逃したのか。確かに、昨日は今日のことを考えていて若干上の空だったと思うが……
「……じゃ、編成書類は…」
「十番隊に回した」
「えっ? 組み直すんでしょう?」
「演習内容に変更はない。隊員の編成は後日送る」
「ああ、なるほど…。はあ…まさか一からやり直しとは……」
とりあえず自分のミスだったらしい。椅子に座り直しながら、恋次はため息をついた。
「すいません、すっかり聞き逃してたみたいで…」
今からこんな調子でどうする、と恋次は額に手を当て、心の中で己を叱咤する。しかし、謝罪に対して白哉からの返事がないことを不思議に思い、恋次はすぐに顔を上げることになった。口数が極端に少ないため多く誤解されやすいが、彼は謝罪や礼などにはきちんと反応を返してくれる人である。
そして、初めてまともに見た白哉の顔が、いつもよりほんのわずか口元が引き結ばれているように見えて、恋次は不思議そうに首を傾げながら尋ねてみた。
「…? なんか、隊長、不機嫌っスね?」
「……いや…」
白哉はやや驚いたようにも見える反応をし、しかしすぐに無表情に戻って、言葉では恋次の問いを否定した。だが、恋次がその言葉をまるっきり信じていない様子を感じ取ったのか、しばらくするとぽつりと口を開く。
「…更木が……」
「へ? 更木隊長? 」
予想外の名前に、恋次はぱちくりと目をしばたく。
「あの男が、合同演習をするなら自分とやれと、うるさくてな…」
「…ああ…なるほど……隊長目当てで……」
合同演習となれば、合法的に白哉と剣を合わせる機会が得られると考えたのだろう。納得した恋次に対し、白哉は非常に迷惑そうな顔である。どうにもこうにも、この人は更木と相性が悪い。正直な話、元更木隊として少なからず彼に似たところを持つと自覚している自分が、今に至るまで白哉の副官を務められていることが未だに信じられないくらいだ。
「なんかすいません…」
「……なぜ兄が謝る」
「いやあ、その……一応元上官だし、他人事じゃないっていうか…」
精神が異様なまでに堅固にできているこの人には、嫌味だの挑発だのは普段から大して効力を発揮しないのだが、しかし唯一更木だけは例外のようで、彼に喧嘩を売られると白哉は途端に不機嫌を顕にする。そればかりか割とすぐ忍耐の限界を迎えるため、一触即発の雰囲気を醸し出すのは何も珍しいことではない。虚圏では十刃との戦闘に乗じてやり合ったとか何とか。実は元々そんなに気が長い質ではないらしいとは、この人を幼少よりよく知る浮竹と京楽の弁だ。
「兄は私の副官だ。あの男に代わる謝罪は必要なかろう」
ぴくり。思わず過剰に反応しかける己を慌てて律した恋次は、気づかれぬようにとすかさずいつも通りの笑みを浮かべる。――――『私の副官』。白哉にとってはただの事実を述べたに過ぎないその言葉が、困ったことに、誰より彼の口から零れたせいでこんなにも嬉しい。
「ははは…。いや、ほんと、来たばっかの時は浮きまくってて大変でしたけどね。隊風も全然合ってねえって、一角さんたちにも笑われたもんスよ」
ちなみに今でも飲み会で言われていたりする。一度でも更木隊に所属した者は例えどこへ行こうが死ぬまで更木隊だと言われる言葉通り、十一番隊で頻繁に催される飲み会には恋次のような元隊士もしょっちゅう招きがかかるのだ。要は大人数でどんちゃん騒ぎがしたいだけなのだが、予定が合えば恋次はそちらに赴くようにしている。一角たちに会えるのは嬉しいし、粗雑さと人情味がごちゃ混ぜになっているあの独特の空気は嫌いではない。
そんなわけで、毎回大量に消費される酒のせいでもあるのだが、揃って『椿だぞ椿! ぎゃははは! 頭の色しか合ってねえじゃねえか!』などと揶揄われるのは日常茶飯事なのである。もちろん悪意はない。ここはそういう気風の連中が集まるところなのだ。恋次もそれがわかっているため、同じく酔っ払いながら「白い椿もありますけどねー」などと軽口で返すのが恒例だ。
しかし、恋次が冗談のつもり―――というより、こちらの動揺を悟られないよう慌てて口にしたどうでもいい話を振られた白哉は、実に生真面目にその話題を拾い上げて、教え諭すような口振りで恋次に言った。
「……隊風とは、隊長や副隊長が自ら作るものだ。上が変われば隊も変わる。ここには、兄を目指して入隊してきた者もいるだろう」
「え? あ、ああ、理吉っスか」
まさか掘り下げられるとは思っていなかった恋次は、唐突な話の流れに戸惑いながらうなずく。
ことある事に憧れだの尊敬だのと恋次に向けて口にする彼は、恋次にとって未知の存在だ。そういった言葉は、やはり目の前にいる上司のような人物が受けるものなのではないだろうか、と思ってしまう。嬉しいのだがあまり実感がない。
「それだけではないが―――…兄は既にこの隊そのものだ。合う合わないではない」
「………」
およそ白哉の口から出たものとは思えぬ言葉に、恋次は思わず固まる。……何が起きているんだ?
違和感しかない雰囲気に恋次はひたすらに首を傾げる。先ほどまで確かに不機嫌だったはずだが、何故だか心做しか空気が穏やかにも感じる。いや気のせいなのかもしれないが。しかし、まさか『なんか今日の隊長、俺に優しすぎて怖いんですけど何かあったんスか』などと聞けるわけもない。
「え、あの……隊長、今日はどうしたんスか…?」
とりあえず、非常に色んなところを端折って尋ねてみると、白哉は怪訝そうな顔をした。……自覚がないらしい。
「更木隊長に絡まれて不機嫌だったんじゃあ…?」
「私が上機嫌に見えるのか、恋次」
「……隊長が上機嫌だったら明日あたり隕石でも落ちそうっスね」
鉄壁の無表情を誇る彼にそんな言葉を用いる日が果たして来るのかどうか、甚だ疑問である。そもそも、まず上機嫌という言葉がこの人に似合わなさすぎる。
「や〜何でもないです! ありがとうございました」
「…なぜ礼を言う」
「いいんスよ。なんか元気出たんで」
「……そうか」
それ以上は突っ込んで聞こうとしない白哉に、恋次は「はい」と笑って応える。無自覚ならばそれでいい。わざわざ懇切丁寧に、俺こう言われて嬉しかったんですけど、などと説明する必要はない。竦み上がるような説教ならともかく、嬉しい言葉をもらったのだ。ちょっと得した、くらいの気分でいいのだろう。
「―――あの、隊長」
今を逃せば、きっとこれ以上に上手く言える機会はないと、恋次は気持ちを切り替え、意を決して白哉を呼ぶ。どうか吐いた息の長さには気づかないでほしい。書類に移しかけていた視線を再び恋次の方へと戻した白哉に、恋次は早口にならぬよう気をつけながら用件を告げた。
「ちょっと……話したいことがあるんスけど、今日仕事終わったら少しだけ時間もらえませんか」
わずかに沈黙が落ち、恋次は密かに唾を飲み込む。白哉と会話する時にはこれがいつも通りの間なのだが、しかし今回に限っては異様に長く感じられた。
「……構わぬ。客間を手配させよう」
「えっ?」
是の答えにほっと息をついたのも束の間、伝令神機を取り出そうと懐に手を伸ばした白哉を、恋次は慌てて止めた。
「あっ、ちょ、違いますよ隊長! あの、隊長ん家にお邪魔するつもりとか、そんなんじゃなくて、ただ帰る前にちょっと話聞いてほしいだけで」
「…そんなものでよいのか」
いま言わないということは仕事に関することではないのだろう、とすっかり見抜いているであろう白哉の問いに、恋次は小さくうなずく。
「いいんです。その……すげー、個人的なことなんで」
「……そうか」
白哉から了承の返事を受けると、恋次は礼を言って頭を下げる。先ほどの穏やかな言葉を向けられる資格を、これから自分は捨てるのかもしれないが、いまさら立ち止まるという選択肢はない。
ただ、どうか、と。信ずる神など居らぬくせに、無性に誰かに祈りたくなるこの気持ちは、どうしようもないものなのだった。