はなのあめ ― 花の雨 ―
日番谷に頼み込んで定時で上がらせてもらった乱菊は、現在、何となく威圧感の漂う六番隊の隊舎の前にいた。……何だか中から巨大な霊圧めいたものを感じるような気がするのだが、これは気のせいなのだろうか。
―――って、そんなこと考えてる場合じゃないわ
乱菊はぶんぶんと首を振ると、六番隊舎内にいた手近な隊士のひとりをつかまえて恋次の仕事が終わる時刻を尋ねた。定時の時間はすでに過ぎているが、おそらくまだ中で仕事中だろう。そうなれば私用でずかずかと乗り込んで行くわけにもいかない。なにせここの長はあの朽木白哉なのだ。
恋次に乱菊が来たことを伝えてくると請け負ってくれた隊士の帰りを待っていると、あの派手な赤髪の男がひょっこりと顔を出した。どうやら託けに留まらず呼び出してくれたらしい。
「あっ、乱菊さん!」
門に寄りかかっていた乱菊は、軽く手を挙げて恋次に応える。
「やっほ〜恋次。仕事は?」
「あー…いまちょっと…」
歯切れの悪い返事に、乱菊はぱちくりと目を瞬いた。
「なに、残業? そんなキツいの?」
「あ、いえ、俺はもう上がっていいって言われたんスけど…」
「? ならいいじゃない」
「いや、その、まだ更木隊長が……」
「更木隊長?」
六番隊には縁がなさそうな人物の名前に、乱菊の目がさらに見開かれる。そういえば、先ほどから感じる違和感というか威圧感が―――
「実は、更木隊長、仕事滞納して今日朽木隊長に怒られてたんスけど、まだ絞られながら仕事してて……あれあのままほっといて大丈夫かなあ…と」
「ははあ……上官と元上官の間であんたも苦労するわねえ」
なるほどと納得した乱菊に、恋次は何とも言えない笑みを浮かべた。しかしここまで来てそのまま引き下がるのも乱菊としては本意ではないため、自分の都合を考えながらの助言をする。
「でもまあ、朽木隊長だって鬼じゃないんだし、そこそこで解放するでしょ。あの更木隊長が知恵熱出すとも思えないし」
「前半は疑問っスけど…」
「後半はその通り、でしょ?」
「まあ…」
「それなら心配いらないわよ! どっちみち、あそこの書類仕事はほとんど弓親がやってるんだから」
「……否定できない」
「でしょお〜? てなわけで恋次、ちょっと付き合って」
「え? ……また飲みに行くんスか? あの、ちょっと俺、この前やらかしたばっかなんで酒は…」
「あーううん。今日はフツーに夕飯のお誘いよ。あたしも隊長に怒られたばっかだから、少しお酒は控えるわ〜」
本当は、先日のことをうっかり口にするわけにはいかないため迂闊に飲めないのだが、それをこんな往来で告げるわけにもいかない。乱菊は常に眉を吊り上げている日番谷の名を出し、それっぽく取り繕った。
「そっスか。それなら」
酒の誘いではないとわかると、恋次は快く了承の返事をくれた。
「ありがと。じゃあ、終わるまでここで待ってるわ」
「中で待っててもらっても大丈夫っスよ?」
「いいわよ。そんな時間かからなさそうだし」
気遣いをありがたいとは告げながらも、乱菊はそれをさらりと流す。恋次はうなずくと、支度をして来ると足早に隊舎の中に消えて行った。
「お待たせしました」
「いいえ〜」
しばらくして出てきた恋次に、乱菊はにこりと笑う。
「お店、任せてもらっちゃてもいいかしら?」
「大丈夫っスよ。辛いとこじゃなければ」
「あっはは。りょーかい」
顔に似合わず彼は大の甘党であり、反対に辛味は苦手としている。もちろん知っている乱菊は、おかしそうに笑った。
「あと乱菊さん、これ」
「ん? なに?」
並んで歩き始めた乱菊に、恋次はすっと封筒を差し出した。宛名も何も書いていないことから手紙ではないだろうと推測はできたが、それ以上はわからず乱菊は首を傾げる。
恋次は申し訳なさそうに言った。
「この前の飲み代です。あんな状態じゃ、多分俺払えてないっスよね? 記憶吹っ飛んでてあやふやなんスけど、一応全種類飲んだ分と、迷惑料……」
「あー、いいのよ。それは」
困ったような、微妙な笑みを浮かべた乱菊に、今度は恋次が首を傾げる。恋次にしてみれば、至極真っ当な対応をしたつもりなのだろうから当然だろう。乱菊は、ぽりぽりと頬を掻きながら言いにくそうに告げた。
「朽木隊長からもう貰ってるから」
「………は?」
「…あっ。記憶飛んでるって言ったっけ? もしかして、誰に迎えに来てもらったとか、全然覚えてない感じなの?」
先ほど恋次が言っていた言葉を思い出し、乱菊は口元に手を当てて尋ねる。
「えっ…と……覚えてはないんですけど、隊長のことは理吉から…。てか飲み代、マジで隊長が払ったんスか?」
「机にポンって置いてったわよ。向こう一ヶ月は優に飲み代に困らないくらいの見当違いな金額」
「………」
いっそ死にたいと顔に書いたまま見事に固まる恋次に、乱菊は不思議に思って尋ねた。
「ていうか、朽木隊長から何も聞いてないの?」
「や、それが、まったく…」
「お金…は執着しなさそうだから聞いてないのもわかるけど…。理吉から聞いたってことは、あんた迎えに来てもらったことも聞いてないってことよね? 本人から何の説明もなく、覚えのないことでこってり絞られたってこと?」
記憶が飛んだ人間に一から説明するのが面倒になったのかもしれないが、それはちょっとかわいそうなのではないかと乱菊が思っていると、恋次はおずおずと否定の言葉らしきものを口にした。
「いや、それが……。俺も、どんな特大の雷が落ちるだろうって、ほんと生きた心地がしなかったんスけど…」
歯切れの悪い様子に、そんなに酷い目に遭ったのかと乱菊は沈黙の中で思う。しかしそれにしては文脈がおかしい気がするが気のせいだろうか。
「……程度は弁えるようにって、それだけしか言われなかったんスよね…」
「………え? …たったそれだけ? 一言?」
あまりに予想外な話に、乱菊は大きく目を見開く。それを受けた張本人の恋次も、同様の心境のようだった。
「はい…。なぜか、それだけで…」
「うっそぉ! え、だって朽木隊長、あんたのこと迎えに来たとき、めちゃくちゃ霊圧冷え冷えとさせてたから、あたしてっきり……」
「え、そうなんスか?」
「そうよ! 久しぶりに肝が冷えたんだから!」
自分に向けられたわけでもないのに、すうっと細められたあの眼差しは今でも忘れられない。しかし、その後の、大目に見てやってほしいとの乱菊の言葉に対する返事の妙な穏やかさも一緒に思い出して、乱菊は張り上げた声を静める。……そういえば。
―――もしかして、あたしが恋次に何か悩みがあるんじゃないかって言ったから、怒らなかった…とか……?
何らかの悩みを抱えているせいで飲み過ぎ、あのような泥酔状態になったのだと、乱菊の言った言葉通りにそう考えて、そんな状態の恋次を叱るのは忍びないと忠告に留めたのだとしたら。
―――……結構…愛されてたりする……?
しかしこれはあくまでも乱菊の想像だ。考えるのは自由だが迂闊に口にはできない。相手が恋次ならば尚更だ。
「……乱菊さん?」
「えっ? なに?」
急に呼びかけられ、乱菊はぱちくりと目を瞬いて顔を上げる。不思議そうな顔をしている恋次と顔が合った。
「いや、急に黙ったんで…」
「あ、ああ、ごめんなさい。ちょっと……お店までの道思い出してて」
「え、忘れたんスか?」
「ううん、大丈夫。こっちで合ってるわ」
「そっスか」
恋次はそれ以上は不審に思わなかったようで、軽くうなずくと、乱菊と肩を並べて素直について来る。恋次と乱菊の歩幅が同じなわけがないので、自然と合わせているのだ。こういう気遣いは小柄なルキアとよく過ごしているからだろうかと、乱菊はふっと密かに笑った。
「さ、着いたわよ」
「…何かでけぇ」
ぐっと見上げるほどの大きさの料亭に、恋次は驚いたようにつぶやいた。もっとこぢんまりとした所を想像していたのだろう。確かに少し大きい店だが、実は意外と懐に優しい。まあ、乱菊が今回敢えてここを選んだのはそれが理由ではないが。
「いい雰囲気でしょ? あたしのお気に入りの店なの。最近はあんまり来てなかったけど。さ、入って入って!」
恋次を手招き、乱菊はさっさと暖簾をくぐる。乱菊の顔を認め、ぱっと笑顔になったここの店主に、ひらひらと手を振りながら笑顔で言った。
「店長久しぶり〜!急に来て悪いんだけど、奥の個室って空いてるかしら?」
「えッ個室?!」
「や〜乱菊ちゃん! 久しぶり! 元気そうだねえ! いまちょうど一番奥のところが空いてるよ。いつも通りまけといてあげるから、自由に使っとくれ」
隣りで恋次がぎょっとしたように乱菊を見やったが、乱菊は店主が快諾してくれたのを見ると、上機嫌に礼を言って恋次の腕を掴んだ。
そう。乱菊の目的はこれ。この店には個室があるのだ。
「さ、行くわよ恋次。大丈夫、ここの店長とは顔馴染みだから、個室料金はいつもまけてもらってるの。遠慮しないで入った入った!」
「は、はあ…」
まだ困惑している恋次をほぼ無理やり個室へ押し込み、これがおすすめだ、あれも食べようなど、一緒に注文を済ませてしまってから、さてどう切り出そうかと乱菊は気づかれぬくらいに小さく息を吐いた。
「あの……乱菊さん、急に個室なんて、どうしたんスか?」
「ん? ああ、ちょっとね……話したいことがあって」
野暮なのもお節介なのもわかってはいるのだが、しかし、知ってしまった以上このまま見て見ぬふりもできまいと、こうして二人になったのはいいのだが、いざ口を開こうとすると何から言えばいいのかわからなくなってくる。
乱菊は大きくため息をついた。
「ッあー! やっぱりこういうのってお酒入ってないと言いづらいわぁ」
「? よくわかんねえっスけど、俺が飲めねえだけで、乱菊さんは別に飲んでもらって大丈夫っスよ?」
「ばっか、ダメに決まってんじゃない。口が滑ってうっかりあんたのこと外で言っちゃったらどうすんの」
「……俺のこと?」
首を傾げる恋次に、乱菊はうなずく。ああ、ついうっかり反射的に返してしまった、とも思ったが、ずっとだんまりを通すわけにもいかないだろう。よしこれだ。これを糸口にしよう。
そして、なるべくさらりと、自然に聞こえるように、いつも通りの声で言った。
「あんた、朽木隊長のこと好きなんでしょ」
「…ッ?!」
瞬間。乱菊の予想通り、恋次は表情筋の限界に挑戦したかのような驚愕を顕にし、思わずといった様子でガタッと席を揺らした。あまりに驚いたのか言葉を失っているのが傍目からでもはっきりわかる。
「…え……えっ……?」
「ああ、言っとくけど、ちゃんとそういう意味でよ」
「な、なん…っ」
「なんでとか、わかったこと聞くんじゃないわよ? あんた、この前あたしと飲んで記憶飛ばすくらい泥酔したんだから」
「…!」
話がややこしくなる前にスパッとそう答え、乱菊は再びため息をついた。
こちとら好きで気づいてしまったわけではないし、何ならこの件のせいでずっと頭を悩ませっぱなしだし、とりあえず勝手に知ってしまったことに関しては不問にしてほしいところだ。
そして、できれば、これから乱菊が告げるお節介も。
「……別に、知ったからどうこうとか、そういうんじゃないから、そこは安心しなさい。あたしだって、からかっていいことと悪いことの区別くらいつくわよ」
「………」
誤魔化すのは早々に諦めたのか、恋次が乱菊の言葉を遮る様子はない。まあ、ほとんど記憶は飛んでしまったらしいし、自分が乱菊に何を言ったのかも忘れているのだろうから、きっと決定的な言葉を吐いてしまったのだろうと思い込んでいるのだろう。乱菊がそのあたりを詳しく言わないせいでもあるが。
「ただ、知っちゃったもんはしょうがないし、あたしがどんなに悩んだって仕方ないから、それなら言いたいことは言っちゃおうと思ってね」
「言いたい…こと……?」
「そう」
うなずいて、ちいさなため息と共に、乱菊は告げる。
「…―――あんた、窮屈そうよ。…とっても」
まったくもって余計なお世話だと、そう言われてもいい。ただ、思ったことは言ってしまおうと、 乱菊は恋次が口を挟む前に言葉を次いだ。
「苦しいとか辛いとか、そういうこと、酔ったあんたが言ったわけじゃないわ。……ただね、記憶飛ばすくらい酔ってる時にしか、朽木隊長に向かってあんな風に……嬉しそうに笑えないんだと思うと、あたしにはすごく窮屈に見えるのよ……」
からん、と傾けた水が、氷の音色を奏でる。それが随分と悲しそうな音に聞こえて、乱菊は、自分をそうさせる狐のような男の面影を、ひどく虚しい想いで追い払った。
「言わないの?」
ここで、初めて、恋次が反応した。
大きく目を見開いて、乱菊より一回りも二回りも大きな体躯を縮こまらせ、頼りなさげな声を押し出す。
「い…ッ、言えるわけ…ない、じゃないっスか……」
痛々しい声。ほら、ごらんなさい、こんなに苦しそうなことってないわ。喉までで出かかった言葉を、乱菊は呑み込む。
ああ、自分はこの目が嫌いなんだ、と乱菊は思った。
すでに諦めてしまっている目。
手を伸ばすことをやめてしまった姿。
そう。それは、まるで―――自分のようだったから。
「……そうかしら」
乱菊の口が開かれる度に、困り果てた顔をした恋次の肩が揺れる。ずっと秘めておくはずだった想いをいつの間にか知られてしまったのだ、厄介だろう。こうなると、もうこの話はしない方が彼のためのような気がしてくる。
悄然と項垂れるその姿に、追い打ちをかけたいわけではない。
……ただ、思うのだ。
あの男を思い出す度に。
狐のような男だったと、人にはよく語るくせに。その糸目を、よく揶揄っていたはずなのに。ふと思い出すその姿は、いつも自分に背を向けた、遠く思える三の字ばかりだった。
どうして、いつも自分が思い出すのは、あの男の後ろ姿ばかりなのだろう。どうして、まだ優しく笑ってくれていた時の顔を、すぐに思い出してやれないのだろう。
「……ねえ、恋次。あたしの話を、聞いてくれる?」
あたし、あんたから何か聞き出したいわけじゃないのよ。
ただ、伝えたくて来たの。
乱菊はふっと瞼を落とす。脳裏に銀髪の幼馴染が浮かんだ。胡散臭い顔をしているはずなのに、どうしてか優しく見えるように笑って、乱菊、とこちらを呼ぶ姿を覚えている。そう、自分は、そんなあいつが―――…
「あたしね、好きな奴がいたのよ」
「…え……?」
急に変わった話に、恋次が困惑しているのがわかる。
意図したことではないとは言え、勝手に彼の胸中を知ってしまったのだから、こちらも少し腹の底を見せなければ不公平というものだろうと、乱菊は笑う。今なら、少しだけ素直にあの男のことを語れる気がした。
「たぶん、すごく、好きだった。小さい頃からずーっと一緒にいてね…。だから、これからも……ずっと一緒にいられると、思ってた。いきなり消えても、また見つければ、それで大丈夫だと思ってたわ」
行き先も告げずにふらっとどこかへ行ってしまうのは彼の悪い癖だったが、それでも、自分が追いかけて、見つければいいと思っていた。見つけられる場所に、彼はいてくれたから。
「ほんとうにいなくなるなんて、考えもしなかった」
ふらっといなくなっても、また乱菊のところへ顔を見せてくれたから。
だから、大丈夫だと、そう思っていたのだ。
―――馬鹿みたいだわ
結局、ほんとうの心なんて何も語らぬまま。
ほんのわずかだって、何も遺さずに。
もうどうやっても追いつけないところへ、ひとりで逝ってしまった。
「………伝えればよかったと思うの」
聞きたいことがたくさんあった。教えてほしいことがたくさんあった。でも、それ以上に―――
―――伝えたいことが、たくさん、あったのだ。
伝えればよかった。
何も語らない男に、けれど自分は、恐れず伝えればよかった。
たとえ、突き放されるのだとしても、それでも。
伝えていれば、きっと―――…
―――こんなに胸は痛くならなかったわ
今でもどこかで泣いている。あのとき流し切れなかった涙が、行き場を失って心の中で。
最期にわずか、微笑んだあの男の、面影を悼んで。
「……言いたかったこと、全部あたしの中に残ったままで、ずっと重いのよ。馬鹿やったなあ…って、後悔してる。あの馬鹿が何考えてたのかなんてわからないけど、でもね……」
彼は自分を殺さなかった。
彼は藍染に倒された。
彼は、最期に…――――笑った。自分を見て。
だから、きっと、何も変わってはいなかったのだ。
ただ、乱菊が手を伸ばさなかったから。
何も見えていなかっただけで。
「やっぱり、言って後悔することより、言わないで後悔したときの方が、もっと、ずっと……後からしんどいのよ」
ふっと、乱菊は笑う。
笑えるようになるまで、随分かかった。
前に進む足を踏み出すまで、随分と。
「少なくとも、あたしはね」
初めて会ったとき―――差し伸べられた手を取ったとき、この手を信じて、一緒に生きようと、そう決めたはずなのに。
いつからか、手を伸ばすことを躊躇った。
言葉を紡ぐことを躊躇った。
それを、心から―――後悔している。
だから。
「あんたは、後悔の少ない方を選びなさい。恋次。同じ後悔するなら、少ない方が絶対にいいでしょ?」
後悔しない方なんて、そんな夢みたいなことは言わないから。
「乱菊さん…」
恋次が何か言いたげに口を開きかけたが、乱菊はそれさえも遮るようにパンッと大きく手のひらを叩いた。びくっと肩を揺らす恋次ににやりと笑い、乱菊はあえて明るい声で告げる。
「さて! それじゃ、お節介はこれでおしまい。あたしが言いたかったのはそれだけよ。あとはフツーに楽しんで食べましょ!」
「えっ? ちょ、あの……乱菊さん?」
「ん? 何よ〜奢ってほしいの? 仕方ないわねえ〜」
「言ってないです言ってないです! 何なんスか乱菊さん! 変わりすぎでしょ?!」
「あらやだ。いつまでもしおらしいあたしなんて気持ち悪いでしょ?」
先ほどまでのしんみりとした空気はどこへやら、けらけらと笑う乱菊に、恋次は追いついて来られないのか目を白黒とさせている。
「ここの料理、美味しいのよ」
「……そっスか」
「特に甘だれが絶品でね〜。きっとあんたも気に入るわよ! さっき頼んだしそろそろ来るんじゃないかしら」
「あの、乱菊さん」
「んー?」
料理はまだかと腰を浮かして暖簾を退け、ひょいっと顔を出して外を窺っていた乱菊は、恋次の呼びかけに振り返る。
「…大丈夫ですか?」
そっと、躊躇いがちに告げられた言葉に、乱菊はやや目を見開いた。どうやら逆に気遣われてしまったようだと、ふっと笑う。
「大丈夫よ」
「……」
「…何よその疑いの目は。ていうか、あんたがあたしのこと慰めてどーすんの。ホントに大丈夫だから、あんたは自分のこと考えてなさい」
「……そっスか」
「そうよ」
うなずいて、乱菊は、まだ何か言いたそうな恋次を黙らせる。
彼が自分のことで頭を悩ませる必要はない。
しかし、恋次はそこで口を閉ざしはしなかった。
「乱菊さん」
「はいはい今度は何かしらー?」
まだ諦めないのかと、乱菊は茶化しながら答える。困った、いったい何を言いたいのだろう。この話をこれ以上引き摺る気はないのに。
言いたいことは言った。伝えたいことはもう伝えた。これで自分の後悔は、もししたとしても少ないものになるはずだ。
「―――ありがとうございます」
すっと下げられた頭に、乱菊は驚く。
そうか、と察した。
慰めようとか、元気づけようとか、そういうことではなく。
彼が伝えたかったのは、自分のためにと腹を割って話をしてくれた乱菊への、純粋なお礼。
―――そういうとこ、嫌いじゃないわ
そして、そういうところがあるから、自分は彼を気に入っているのだろう。見てくれとは随分と違うその中身を。
「……うん」
できるなら、後悔なんてしないで済めばいいのにと、そう、思った。