-一章- 墓守の霊は紫煙に融ける
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ふと空腹という概念を思い出し戸棚を見上げて初めて、長らくそこが空であることを知った。ぼんやりと胃のある場所に手を置くと、肌に触れるよりも先に指が向こう側へとすり抜ける。最後に食事をしたのは何時だったか、もう覚えてはいなかった。
なんだか暑そうな日差しの下、狂ったような蝉騒が鳴り響いている。
今思い返せばとうの昔に、人としての生涯を終えていたんだろうか。気が付けばだだっ広い青空を眺めながら、何をするでもなく浮かんでいた。比喩でもなく、文字通りの意味で。
燃やされた紙束のような、煤けて、脆い記憶。
わからなかった。此処が何処であるのかも、自分が何者であるのかも。母の顔すら塗り潰されて、感傷の一欠片も胸に無い。
それは〝覚えていない〟のではなくて、元から〝知らない〟物のようだった。自分という存在そのものが、茹だる風に攫われてゆくような。きっと、考えたところで仕方の無いことなのだろうけれど。
空になった脳でも案外身体の方には習慣というものが染み付いているようで、無意識の内にテーブルの上の雑巾へと手を伸ばしていた。当たり前と言えば当たり前に、透けた指先は雑巾に掠りすらしなかったが。
積もった埃も舞いすらせず、頭の端の方で、きっとこれは今回が初めてじゃないなと直感的に思った。
嫌に冷めて冷静な頭と、じんわりと自我が作り替えられていく焦燥。心臓を包み込むような気分の悪さを苛立ちに変換して、したところで、物に当たれる実体もない。中途半端。どこまでもそれでしかなかった。
やかんで湯を沸かした時の、震えた高音が脳を揺さぶっている。恐怖、と言えばいいのだろうか。しかしそれも不正解に思えて、叫び出したくなるような情動。
呼吸の仕方もわからない。知らない。そもそも自分は今酸素を取り込んで二酸化炭素を吐き出しているのか。血は、汗は。わからないのに、喉が渇いて仕方ない。
途端に閉塞感が嫌になって、半ば飛び出すように外へ、出た、とは違う、透り抜けた。なんで、扉は閉まったままなのに。どうして自分は外にいるのだろう。空気を読まない蝉の声が何もかもを蝕んでゆく。後ずさった先の、誰のものかもわからない墓石を蹴り飛ばそうとして、でも、足が、無いから――。
「はじめましてゆうれいさん。死にきれなくてこまってる?」
本当に、やわらかい声だった。
蝉時雨も青嵐も、夏の嫌なところも全て、その一言で伴奏にしてしまうような。
とくりと凪いだこの場所に、心臓とはいえなかったとしても、確かに心が残っている、という実感。
靡く髪をうざったそうに払い除けたその少女は、泣きたくなるような花の香りを纏っていた。
「……誰」
「まだきみが信用できるゆうれいかわからないから……、でも、そう、どうでもいい人たちからは〝庭師〟ってよばれてる」
「庭師」
「そう、庭師。きみは?」
「どうでもいいやつに名乗る名前は持ってないんで」
「ふふ、そっか。それならすこし話をしない?おたがいのために。きみ、記憶はある?」
フリルのついた日傘をくるりと回して、その中にある小さな青空を眺めながら、庭師は問いかけた。
少し森の奥へ入ってくるにはそれなりに適切な、タイトで動きやすそうな装い。それでも生地は上質そうなもので、どこかの貴族か何かだろうか。
それにしても一人で森へ入るには些か幼げで、取り繕うような大人びた振る舞いがどことない違和感を醸し出していた。
〝ちぐはぐ〟
なんて言葉が似合いそうな少女だった。
言語や世間に関してはまだかろうじて記憶が残っていることに気付いて、返答に口ごもった。
「別に、言う必要なくないですか?」
「きみがそれでいいと思うならそれでもいいけど……、なら、先にわたしの要件から伝えようかな」
口角を上げた上体で保たれていた表情が、その刹那、酷く苦しげに歪められる。指摘する隙もなく元に戻って一呼吸置いた後、庭師は口を開いた。
「きみの記憶にあるかはわからないけれど、この世界には〝
かくいうわたしもその一人なわけだけど……。へんでしょ、〝葩〟なのに〝庭師〟ってよばれてるんだから。
まぁ、それにもわけがあって、わたしの能力が〝葩〟と契約して保護するためのものだからなんだけど」
つらつらと並べられる聞いた事のあるようなないような話に耳を傾けながら、当たりそうな嫌な予感に口の端を下げる。
「はぁ、それで?」
「わたしと契約して、きみを保護させてほしいなって。それが要件」
面倒だな、と思うと同時に、断られる気なんてさらさらないような庭師の態度が気に食わなかった。余裕そうに微笑んで、神なんてのが本当にいるのだとしたら、こんな顔をしていそうだなと考えてしまうような、癪に障る表情。
「しませんけど。お引き取り願えます?」
「……外堀を埋めるみたいで申し訳ないけど、きみ、わたしと契約しないとしねなくなるよ。これから先ずっと」
「はぁ?」
死ぬ、ではなく、死ねない。庭師の言葉を脳内で繰り返す。
「〝葩〟は契約無しで能力を使いつづけると力の負荷にたえられなくて身体がこわれていくの。きみの能力はたぶん〝透明化〟。
能力をつかう、つかわないのオンオフを学ばずにできるようになる人間なんてそうそういないから、案の定きみは能力を使いすぎた。
わたしが、もっと……ううん、なんでもない」
庭師が言うに〝透明化〟とは、自分を含めた対象を文字通り透明にする能力らしい。
負荷による症状には五つの段階があり、初めに身体が下半身から徐々に透けていく。次に、物体に触れることが不可能になる。
「きみは今三つ目かな。記憶が薄れていってるでしょ?その次の第四段階で声が周囲に届かなくなる。きみは今わたしと会話できてるからまだ大丈夫。最後に実体が消えて、世界から無かったことになる。自我は保ったまま、ね」
自分と関わったことのある人間から、その記憶が消え、自分自身すら物事を記憶できなくなる。見えなくとも、聞こえなくとも、確かにそこに人が存在し、何も分からなくとも、死にきれないまま漂い続ける。
「生きているのかしんでいるのかの定義はわたしの仕事じゃないけど、そんなのはもうおばけと変わらないんじゃない?」
「お前と契約したらどうなんの」
「そうね、きみが死をむかえられる契約がひとつだけある」
何度目かもわからない深い溜息を吐きながら、庭師が地面に模様を描く様子を眺めていた。
半径三、四メートルほどの円の中に、知らない文字のようなものと、知らない花の絵が重ねられていく。
完成したのかと思えば悩ましげに鞄の中から古びた本を取り出して、栞の挟まった頁と自分の描いたものとを見比べて線を足したり消したり。
十数分後、ようやく庭師は満足気に本を仕舞い、手に持った日傘を見遣った。
「傘もっててくれない?」
「持てねーよ」
「あ、そっか」
一種の煽りか、無意識か、煩わしげに日傘の持ち手を木の枝に掛けると、庭師はこちらを向いた。
「それじゃあこの円の中に入って、契約をはじめよっか」
ほとんど無いような足で円へ一歩踏み入れると、膝が吸い寄せられるようにかくんと曲がる。腹の立つことに庭師を見上げることしか出来ず、そうすることが正しいかのように身体が動かない。
庭師は鞄から大きめの巾着を取り出すと、袋の口を開けて逆さまにひっくり返した。
――ふわり、と花弁が舞う。
濃い桃色や、白、紫といった色彩がはらはらと落ちてゆく様は華美と言うに相応しく、何処か質素に、寂寥を積もらせていた。
先程香ったものの正体はこれかと納得すると同時に、庭師は袋を放り投げる。
そして空気を食むように静かに息を吸うと、いつの間にか手に持っていたナイフで、腕を切った。
喉から音が出るよりも先に、滴り落ちた血液が花弁を焦がし、煙を上げる。漂う紫煙は線の上を駆け、量を増し、青空すら覆い隠した。
――〝花煙草の契約〟は、互いの呼吸を結び付けることで成り立つ久遠の誓い。きみを殺す、死の約束。
そう告げた彼女の言葉通り、紫煙が喉を割いて体内に潜り込む。酸素を包み込んで、吐息を掠め取りながら暴れ回っていた。
汚染と、侵食。不確かだった肉体が、この世に縛り付けられていくのがわかる。
庭師が詠うように何かを囁くと、視界を染めていた灰色が奔流となって唇の隙間へ吸い込まれて消えた。
ひゅうひゅうと咳き込む庭師の瞳からは、煙が滲みたのか大粒の雨が降っていて、同じように激しく噎せながら、地に広がる染みを眺めていた。
数分、数十分、どれくらいかはわからないが、呼吸が落ち着いた頃、庭師は涙を拭って落ちたままの巾着を拾うと此方に手を差し出す。
「帰ろっか、箱庭に」
その手を掴むことはせず、また浮かんで、今朝よりもはっきりと澄んだ頭で夕焼けを見た。
だからといって身体は透けたままで、影が伸びることもないけれど。それでも幾分かましに思えて、諦めて先を歩く彼女の後ろへ並ぶ。
「そういえば、名前。教えてよ。もうどうでもいい同士じゃないでしょ?」
「……みどり」
「わたしは#××#ね。よろしく」
それ以降は言葉もなかったが、居心地が悪いわけでもなかった。
蝉も静寂に身を寄せて、風は重く緩やかに沈む。
何かが変わったような、何も変わらなかったような、どちらとも言えない何かが遺っていた。
「あ、傘忘れてきちゃった」
彼女がそんなことを言うまでは。