Shredder
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放課後の彼女の匂いが嫌いだ。
なりふり構わず脳を啄くその香りが、かつてこよなく愛したものであったとしても。もう二度と、享受することは不可能だった。
十二歳、入学式の日。出席番号順に並べられた席でたまたま隣になったのが彼女だった。
俺を見るなり突然口を開いて、閉じて。何か言いかけた台詞を飲み込んだまま行われた自己紹介を、今でもよく覚えている。花弁や星屑やそよ風や、この世界にある綺麗なもの全てを絡め取ったような瞳に俺を映して、彼女ははにかんだ。
一学期も半分以上を消費した頃。休み時間にノートへ鉛筆を滑らせていると、突然彼女が俺の机に身を乗り出した。
「あ、あの!」
「うわ、え、な、なんすか……」
「やっぱり絵……すき、なの?」
「え? あ、あぁ。うん、まぁ……」
「そうなんだ……あ、あのさ、お願いがあるんだけど……」
「はい?」
「わたしに絵の描き方、おしえてくれませんか……!」
特に驚くようなことでもないが、この時の俺は自分の趣味が誰かに認められた事実にただ喜んで、何も考えずその頼みを承諾した。別に、人に教えられる腕前でもなかったのに。
彼女は思っていた以上に飲み込みが速く、日を追う事に上達していった。
それから俺達は休み時間以外でもよく行動を共にするようになって、放課後スケッチブックを手に公園へ集まったり、図書館で画集を広げて感想を言い合ったり。
出会ってから二度目の春が訪れても、何ら変わりなく関係が続いていた。
いや、変わったこともあった。俺の心にもいつの間にやら桜が吹雪くようになっていて、彼女と目を合わせづらくなったこと、とか。
「やっぱり男の子となかいいのって、周りから見たらへんなのかなぁ?」
「え?」
「また今日も茶化されたでしょ? ぐちさんとわたし、距離感おかしいーって」
「あー、まぁ、確かに、うん」
「わたしの友達も、塾で一緒の男の子と付き合いはじめたって言うし。恋とかそういうの、みんな高校生くらいになってからなのかと思ってた」
「………………××がいやなら、学校ではあんま話すのやめるとかでも、俺は全然」
「んん、あのね、わたしが言いたいのは、そうじゃなくて……」
「そうじゃないって……?」
「……わたしとぐちさんも、その、こいびと……に、なったら、ずっと一緒にいても、へんじゃないのかなぁ、って」
いつもの公園のベンチで、足元に寝そべる黒猫を画用紙に写し取りながら、彼女は頬を真っ赤に染めてそう言った。
先程までガリガリと鳴っていた鉛筆の音ももう無くなっていて、いつまで経っても黙ったままの俺を急かすように、猫がにゃあと鳴く。
少し黒くなった指先で、彼女の、同じく黒くなった手に触れた。
好意と劣等感がイコールで結ばれてしまっていることに、少し気付くのが遅かった。気付いたとして、どうにかなる問題かと言えばそうでもないが。
手を繋いで、空を描いて。順調に歩みを進めていた日々は、突如として俺に牙を剥いた。
予兆はあった。受験を控えた俺達は、将来のことも当たり前に考えるように、考えさせられるようになっていた。〝将来の夢〟と印刷されたプリントに何の躊躇いもなく〝画家〟と書いた彼女から隠すように、俺は自分のプリントを提出した。
彼女への想いが色濃く線を引く度に、彼女と俺との違いが浮き彫りになっていく。怖かった。人が人と違うことは明確で、だからこそ縁の交わりは大切なものであることはわかっている。けれどそういうことではなくて、本当に。劣っていた。俺は、彼女に。
絵は消費する画材の分だけ実力が上がる。実力に反して、センスの無さが顕著に現れる。
どこかで見た事のある構図。面白みのない塗り方。
彼女の筆が運んでいる何かが、俺には無かった。
「絵って、こんなに楽しいんだね。ぐちさんのおかげだね」
彼女が絵の楽しさを覚える度に、そうだろうと誇らしくなる気持ちと、もしかすると彼女は、俺のキャンバスに〝楽しんで描いた〟という形跡が無いことに気付いてしまうんじゃないかと。もう、気付いているんじゃないかと、酷く不安になった。
絵は、俺が俺という一人の人間である為に必要で。けれど彼女を見ていると、言いようのない焦りが胸を埋めつくして、脳を枯らす。
勉強を理由に絵が描けないという状況を作り上げるのは簡単で、誰も何も気に留めることはなかったし、俺もそれに心底安心していた。そうしていれば、これは長めのスランプなのだと思い込むことも容易だったから。
「ぐちさんはえらいなぁ……わたし、勉強しなきゃなのに絵描くのやめらんないもん」
そう言う彼女は頬をゆるりと持ち上げて、ノートの隅にシャーペンで蝶を描いていた。
「…………ぐちさん? ……ぐちさん、なんか最近元気ないし、顔色もよくないよ。勉強も大事だけど、たまにはゆっくり寝て、絵描いて、肩の力抜いていいんじゃないかな」
「……ごめん、今日もう帰るわ」
「え、あ、ま、まって……! 心配だしわたしも一緒に帰るよ」
「いいよ、一人で帰るから」
「ぐちさん……?」
散らかった文具や教科書を乱雑に鞄へ投げ込んで、戸惑う彼女を振り返ることも無く外へ出る。
胃の奥から迫り上がるような吐き気。じわりと滲む嫌な汗を拭うことすら億劫で、只思考を止めて帰路を急いだ。
「ごめん、わたしが脳天気なこと言っちゃったから、ぐちさんのこと嫌な気分にさせたんだよね。ごめんなさい。ちゃんと、謝らないとって」
翌日、学校を休んで惰眠を貪っていると突然インターホンが鳴って、扉を開けた先に居た彼女は赤くなった目を隠すように俯いていた。
無事受験は終わって、彼女と同じだった第一希望にも合格した。
入学式までの休みの間、恐らく必然的に、俺は道を踏み間違えた。
もう絵を描かない理由がない。絵を、
その日はたまたま居るはずだった両親が出かけていて、その時点で彼女を帰すべきだったのかもしれない。
以前、彼女のことを描きたいと思ったことがあった。彼女が座っている場所から右にある机の鍵付きの引き出し。実際、そこに入っている一冊のスケッチブックは彼女で埋め尽くされている。
人間としての自分の形を見出す前の、形成途中の心臓を、捻じ曲げるように。無許可で彼女を描くという行為の背徳感。それでいて、本物の彼女とは何もかもが違うという嫌悪感。
劣等感と好意はイコールなのだ。どれだけ彼女に劣ったとしても、その分彼女は俺の中の世間から隔絶され、心臓を握り潰す。
好きだから、知りたいのに。
好きだから、大切にしたいのに。
好きだから、嫌いにはなれないのに。
すき、なのに。
彼女は悉く神聖で、俺はどうしようもない屑だった。
「わたし、ぐちさんのことも、ぐちさんの描く絵もだいすき」
そう笑う彼女の、輝かしいのなんのって。
気付いたら、なんてものでもない。はっきりと意識して、彼女を殴った。蹴った。
彼女のやわらかい心臓を、汚い靴底で踏み潰した。
舌を通り過ぎていった言葉は、どれもきっと醜悪だった。
けれど彼女の手のひらは一切穢れない純白で、俺には傷一つ付けることすらできない、正しく天からの贈り物。
その日から、筆は俺を拒絶した。
俺がどれだけ彼女から感情を奪って、汚しても、彼女が創る世界は何ら変わりなく美しかった。
仮にも恋人であることに間違いはないが、それが贔屓目になってはくれず、彼女は数々の賞に名を連ねた。
いっそのこと倦厭してはくれないかとさえ、身勝手にも、そう思った。俺が離れていけばそれで済むことであるはずなのに。
「ぐちさんがもう絵をすきじゃなくっても、わたしの心臓はあなたの筆で描かれてるんだよ」
彼女は天罰だ。背を撫でる、決して暖かくない手のひらから
彼女のことが好きなはず、絵を描くことが、好きなはず。
なのにどうして、彼女の笑顔が懐かしむ物になっていくから。
いくらナイフを握っても、自らの手を切りつけることができないから。
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