Shredder
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言葉という曖昧なものは、何度言えばその真意が伝わるのだろうか。それとも、何度も言うから伝わらないのだろうか。
「ぐちさん、もーいいから。大丈夫だから。だいすきだよ」
彼は優しいひとだった。自分の心すら壊してしまうぐらい、優しいひとだった。
絵の具の着いた筆を水に浸す。ゆるりと色がほどけて、透明に線を描く。繊細で美しい、ある種の静かな芸術。楽しさの足跡。けれどもそれは一瞬で、色を重ねれば重ねるほど、キャンバスが完成へと近づくほどに、水は濁っていく。
私にとって、愛とはそういうものだった。
私は彼に、何を求めていたのだろうか。
退屈な授業は黒板の中心から少し目を逸らして、彼の揺れる髪を見つめていたかった。放課後は手でも繋いで、あの日みたいに公園に寄り道したり。休日は適当な予定を立てて、電車で美術館なんかに行って。それと、でも、やっぱり、彼が私の心に触れていてくれたら、それでよかった。何も無くても、つまらなくても、彼の手のひらが好きだったから。
何より一番は、彼に幸せでいてほしかった。
あわよくば、彼の幸せに私という存在が組み込まれていれば嬉しいなと、望むものは結局その程度。
いつからこうだとか、どうでもよくて。ただもうこの地獄から抜け出すには、どちらかが汚れた水を捨てるほかないのだと知った。
この場合の〝水〟とは、何の比喩に成り得るだろう。私が彼を捨てるのか、彼が私を捨てるのか。はたまた、関係性を洗い流すという意味なのか。
どちらにしろ、描かれた絵が駄作であることに変わりはないが。
痛む身体に鞭を打ち、彼を抱きしめ、背を摩る。
馬鹿らしいなと、思ってしまった。
小学六年生の頃、地域の絵画コンクールで最優秀賞になった作品が多目的室の前に飾られていた。
卒業を目前に控えた私達は、絵の上手い下手問わず全員、六年間背負った自分のランドセルを描くことが図工の課題になっていて、私も四苦八苦しながら筆を滑らせたことを覚えている。
特段何か才能があったわけでも、そういった物に造詣があるわけでもなかった私の画用紙は、すぐに手元へ帰ってきた。けれどそうではない人も勿論存在するわけで。
名前しか知らない隣のクラスの男の子が描いたその作品は、痛みすら感じるほど、私の目を、足を、冷えた廊下に縫いつけた。
水彩絵の具を使われて描かれた黒いランドセル。
黒って、こんなに透明だったっけ。
幼稚な私はその程度の感想しか抱けなかったけれど。
厚みのある革の質感や、少し汚れた金具。中から飛び出した勉強道具も、全て余さず六年間の形跡があって。風に撫でられるカーテンの隙間から滑り込んだ桜が、労うように身を寄せていて。
結論から言うならば私は卒業式で一粒の涙も流さなかったし、どの道ほとんどの同級生が中学でも繰り上がるのをわかっていたから、所謂感傷的になることはなかった。
けれどその絵を眺めている間は――否、眺めさせられている、と言った方が、個人的にはしっくりくるけれど、何にせよその時間は。
心の底から、泣きたくなるくらいの淋しさが湧き上がった。
端に書かれた男の子の名前が、未だ眼球を焼いている。
私が絵を好きになった、はじまりの日だった。
放課後、彼のいない美術室で一人パレットに絵の具を乗せる。
運動部の掛け声や足音、吹奏楽部のチューニング。夕日と共に喧騒が射し込む空間で、色付いた筆と水彩紙の擦れる音だけが鮮明だった。
水気を含んで歪んだ花園が乾くのを待ちながら、今日も彼を待っている。
胸いっぱいに吸い込んだ空気が優しくて、優しすぎて。ツンと鼻の奥をくすぐる絵の具の香りが、私は大好きだ。
ぼんやりと年季の入った机をなぞっていると、古くなった扉ががらがらと雑に開かれた。
「失礼しまーす」
「あ、そめくん」
「今日は何描いてんの?」
陽の光を吸い込んだ、柔く輝く髪を揺らして、そめくんはいつも通り近くにあった椅子を引いて隣に腰掛ける。
「今日はお花描いてた。この前花鳥園行ったからさ、描きたくなっちゃって。写真見る?」
「お、ほんとだー! 写真も××さんの絵もめっちゃ綺麗」
「ふふ、ありがとう」
「……今日も待ってんの? ぐちつぼのこと」
「え? あ、うん……。しんじて、るから」
「ふーん」
学年が上がってすぐの頃、新しいクラスで初めての隣の席がそめくんだった。
それまでは、ぐちさんがずっと同じクラスだったからなかなか初対面から人と話す事がなくて、たじたじになる私にも面倒な顔一つせず、そめくんは仲良くしようと言ってくれた。
「××さんはさ、ぐちつぼと別れる気ないの?」
「……ないよ」
「なんで?」
「そめくんには……いや、うん、嫌な言い方になっちゃうけど、でも。そめくんには、関係ないから」
「……ん、俺の方こそ急に踏み込んでごめん」
「ううん、大丈夫。心配してくれたんでしょ? でも、大丈夫だから」
視界の端で時計を一瞥して、手持ち無沙汰に画材を片付ける。
「俺さ、」
「うん?」
「あー、いや、なんでもない」
「……そう?」
「…………××さんは、ぐちつぼと付き合ってるけどさ。それってただの事実で、俺が下心塗れでここ来てんの、気付いててそのままにしてんのは××さんじゃん」
「……それは」
「あ、別に返事がほしいとかじゃなくて。受け入れてもらえないのわかってるし、俺らは友達のままでいよ?」
どういう意味、と問おうとして、彼の方へ視線を向ける。まるでそれが狙いだったかのように彼は私の手を取った。
ただ静かに鼓膜に触れて、静かに、指先を掠める。
「でも、なんかあったらいつでも言いな?」
硬い手のひらが、見えるはずない二の腕の痣を撫でて、肺を締め付けられたみたいに息が詰まった。
「もう全部嫌になったら言ってよ」
彼は賞味期限切れのコーヒーで描いたみたいな、少しくすんだ色の笑顔を浮かべて、
「友達だから、助けてあげる」
と囁いた。