Shredder
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――たらちゃん、ふゆのうみってつめたいね
午前5時24分。
ワンコールで繋がった電波に零した言葉は大した脈絡も無く、それでいて、彼を走らせるには事足りていた。
自分でも呆れるほどに凍えていて、何故ふたつの候補からわざわざ彼を選んだのだろうと白い息を吐く。
砂に触れる爪先が痛いこと。無理矢理腰まで使ったくせに、どうしてかこれ以上進めないこと。ポケットに入れたままだったスマホが、水没したはずなのに難なく使えてしまえたこと。全てに腹が立って、静かな海面を殴った。
ここで泣けないで、私はいつ泣くんだろう。
喉に何かが詰まったみたいに苦しくて、どれだけ嘔吐いても何も出なくて、塩辛い指を喉に入れる。
それでもどうにもならなくて、涙の代わりに震えた声を押し出した。
「××」
じゃぶじゃぶと音を立てて振り向くと、寒さで潤んだ瞳に愉悦を隠しきれない彼が立っている。
「××、入水は苦しいからやめときな」
広げられたタオルに吸い込まれるように、固まっていた足が動いた。
「はい、タオル持って」
私にタオルを渡した彼は、少し屈んでパーカーの裾を絞る。
砂浜の色を変える塩水が、なけなしの勇気をなかったものへと変えていく。
あからさまに上機嫌な彼に、また心が潰れる感覚がした。
温もりの残った赤いマフラーが首にかかる。
「××、彼氏は? 来てくれなかった?」
「……よばなかった」
「じゃあ、最初に俺に連絡したんだ?」
口角も、笑い声も、彼の全てが歪で、――私と、そっくりだった。
明るい所に手を伸ばしても、結局惨めになって繕って、疲れて、勝手に絶望して、自分のせいにした振りをして、影に戻って顔すら上げない。
何もかもが違ったのだ。私に恋をした先輩は、愛というものを知っていた。
人というものは、自分の心に誰をどれくらい住まわせるかなのだと、どこかの誰かが言っていた。もし本当にそうなのだとしたら、あの人の心は広すぎる。いろんな人が住んでいて、私に会いに来るまでに、何人もの家の前を通らなくちゃいけない。何人もの住人に、声をかけられながら。
私の心は狭すぎて、欲しいと願ったものひとつ住まわせることができなかった。目の前にいる彼だってそうだ。
そこは最早部屋ですらなく、私すら入る隙間もない。それでも彼は押し入れの中から、私の手を掴んで離さなかった。
それが不快で、仕方ない。
「××、かえる?」
「どこに?」
「んー、××のとこ今取り込み中?」
「××さん、きてる。年越しするって」
「なら、俺ん家」
「大丈夫なの?」
「うちは母さんが行ってるから、しばらく帰ってこん」
当たり前みたいに手を繋いで、暗い道を歩き出す。
夜と朝の境目。冬の空はまだ白まない。
「××さぁ、彼氏と別れなよ」
「……なんで?」
「普通の人にはわかんないよ、××の気持ちなんて」
「そんなの、だれだってそうでしょ。たらちゃんが私のきもちわかってるみたいにいわないで」
「は、……なんでそんなこと言うん」
冷たい手をお湯に浸しても、お湯が冷めるだけ。
冷たい手で雪を握っても、悴んでしまうだけ。
ストーブのような人でないと、けれどそれでも、近づきすぎたら火傷をしてしまう。
めんどうくさい人間だ。焼け焦げるほどの熱を求めていて、痛いのは嫌だと駄々を捏ねている。私は彼を暖めれないし、彼も私を暖められない。
互いの足りないところに気が付いて、通常そこに何が埋まっているのか知ることすら叶わず。たらちゃんは私と、愛情ごっこがしたいだけ。
黙る私に足を止めて、空いた手が腕を掴む。
「なぁ、」
「いっ……、た」
「え……」
焦ったように彼が袖を捲ると、青くなった皮膚が見えた。
「××」
「ほらね、わかってないでしょ」
「それは、××が言わんかったから……!」
「そうだね、ごめんね」
「まって、××、ねぇ」
やっぱり冷たい彼の手が下手くそに結ばれたマフラーの下を探る。外気に触れる襟の下。殴られた跡、縛られた跡、そして、鬱血痕。
「たらちゃん、わたしね、あの人が好きだよ。たらちゃんじゃなくて、先輩が好き」
「……ね、いや」
「でもね、先輩は、先輩の肌の色と、私の肌の色が同じだと思ってる」
「なら、おれなら」
「だからいったでしょ、わたしはたらちゃんのこと好きじゃないもん」
助けてほしいわけじゃない。救いなんて望んでいない。ただもう少しましであればと願って、叶わなくて、諦めて。
欲しいのは理解じゃない。痛いのは嫌だ。苦しいのは嫌。惨めな気持ちもしたくないし、悔しさなんて以ての外。思考停止の先の先で、ずっと。
「勘違いしないで。たらちゃんは私のことが好きなんじゃないでしょ」
ぐずぐずと鼻を鳴らす彼の手を握り返して、止まった足を無理やり引きずる。
302。アパートの扉を開けて、自分の家とどこまでも同じだなと思った。
洗濯カゴから溢れた衣類、空き缶、ゴミ、何かの書類。
「たらちゃん、鍵は閉めてきなよね」
メイク道具と香水だけが、この部屋から異質に佇んでいる。
隅に転がった赤いティッシュとカッターは、あぁなるほど毎日送られてくる写真のものかと静かに納得した。床に刃物を置くのはどうかと思うけれど。
「お風呂借りてもいい?」
「……いっしょに、はいる」
「私たちもう高校生だけど」
つまるところ、血は偽れないのだろうか。
「……さき、はいってるからね」
棚の上の睡眠薬を見つけた。