Shredder
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その胸を、心ごと裂いてしまいたいと思った。
人魚は、涙を流すことができないから。
踊り疲れた足を引きずると、だらだらと血が足跡を残す。
大きな扉を押して開けると、これまた大きすぎるベッドの上に、王子は眠っていた。
月明かりが少女の手元を照らす。痛いほどの光を一瞬ぎらりと反射させ、ナイフを大きく振り上げた。
細く目を開いた王子の口に、傍にあった掛け布団の裾を捩じ込む。完全に眠りから醒めるまえに、その場所を刺した。
同じ痛みを、だなんて言えない。
少女が彼を愛したように、彼も少女以外を愛した。
ただそれだけのことでしかなく、けれども、それだけのことであったとしても少女は、不遇な奇跡の踏み台にされたことが許せなかった。
動かなくなった彼と、赤く染った自分を見比べる。
絶望よりも先にもっと早く脳を穿ったのは、ごく平凡な喪失感だった。
もう少女の憧れた物は手に入らない。愛も、魂も、天国も、何もかも埃のように積もるばかりで、二度と宝石には戻らない。
返り血のかかった箇所が、焼けるように熱い。身体の中の何処かから潮騒が聞こえてくる。
足首に浮き出た鱗を見て、少女は最後の数十歩を踏み出した。
舌が痛い。喉の奥がじくじくと疼いて、鉄臭さで肺が満たされる。少女が次に息を吐いた時、城内は身も溶けるような歌声で包まれていた。
涙の代わりに、懺悔の前に。
眠る者達の夢をより濃く染めて、眠らない者達の足を縫い付けるような。海鳴りよりも強く、砕け波より不安定。心春凪に身を任せても、足を浸した海水はまだ温もりと程遠いように。見れる部分は澄んでいても、深く潜れば紺碧が待つように。
少女の唇が奏でるそんな音楽は、きっと海市と呼ぶに相応しい。
ぬかるんだ波打ち際へ指先を沈める。貝殻を手に取る感触が酷く懐かしかった。
じゃり、と砂を踏みしめる音が、歌の隙間に入り込む。
月の透けた水が傷口に滲みて、こと細かに何かを壊しながら少女の足を、作り替えて――否、あるべき姿へと戻してゆく。
足音の正体が息を飲んだ。
痛ましかったその足がたちまち、虹よりも鮮やかで、花弁よりも繊細な鱗におおわれている。
「…………にんぎょ」
「どちらさま?」
少女が上を見上げると、揺れる深緑を覆うようにトリコーンを被り、夜闇を切り取った漆黒のマントを靡かせる男が立っていた。
海鳥がよく噂している、海賊、と呼ばれるものだった。
スカルが踊る指先を顎に当て、海賊は目を細める。
「へぇ、これはこれは、世にも珍しい人魚のお嬢さん。で、一体どこのどいつを殺して来たんですかねぇ?」
「海賊さんこそ、真夜中に乙女を付け回してどういうつもり?」
「そりゃ失礼。ただ俺はお国の治安に貢献しようと思って」
「つかまえるの?」
「……まぁ、そうかもな」
少女は何か答えようとして、けれども特に言いたいこともなく、少しだけ息を吸って口を閉じた。
海賊は少女の隣に腰掛けようとして、躊躇って、結局ブーツで三度足踏みしたあと、手持ち無沙汰に星を数えた。
「……彼、言ったのよ。私に「よそ見せずに必ず帰ってくる」「きみがいちばんすきだよ」って」
「……急に語りだすじゃん」
「どうせ暇なんでしょ?」
「……続きをどうぞ?」
「ありがとう。けどね、彼が私を好きって言ったのは、私が彼のことを助けた女の子に似てたからだって、彼自分でそう言ったの。そもそも私のことを愛してたなら、私はとっくに本物の人間になれてたはずだもの。彼の命を助けたのも本当は、私だったんだけど……私は声を売ったから」
そうして隣国へ旅立った彼は、少女とよく似た王女の手を引いて帰ってきた。
「代わりでもよかった。傍にいれるなら。けど嘘は、嘘は違うじゃない。口付けまでしたのに、はじめてだったのよ?夢が叶ったんだって、自分の事を長い間好いていた私ならよろこんでくれるだろうって、彼が言って、もう、いやになって」
「ちょっと待てよ、王女……ってことは、まさか王子を殺したって?」
「……そうなるわね」
「浮気されて、カッとなって?一国の王子だぞ、俺もここの出身なのに!」
「カッとなってって……まぁ、でも、そう、私がほしかったのは王子の心じゃなくて、"人間としてのしあわせ"と、"死して尚尽きない魂"だった。いやだったの、泡になんかなりたくなかった。三百年も生きるのに、その後もずっと波に揺られて、同じ景色ばかりなんて。人が語るような楽園に、私も行ってみたかった。たぶん、そういうところがだめだったの」
気が付いたら、変わらない二択の結末の、悪い方を選んでいたと少女は語った。
それでも彼と一緒にと思っていたことに、間違いはなかったはずなのに。
長い睫毛を震わせて、枯れた瞳を瞼で隠す。
囁くように鼻唄をする少女を見つめて、海賊は納得いかないと眉を寄せた。
「言うほど似てたか?王女と……」
「王女を見たの?」
「え?あー……、まぁちょっーと噂に聞くティアラが気になっちゃって、な?ほら、職業病ってやつ」
「……私を突き出したらあなたもお縄にかかるんじゃないの?」
「ま、お前さんを突き出すのはやめといてやるよ。だってそんな王子に国なんか任せられなそうだし、もうくたばってんなら別に」
「そう……。でも、私が王女と似てないって、ほんとう?」
海賊は少女と目を合わせ、あふれかけの言葉で喉を塞いだ。
星屑を編んだような髪も、海月より透明な肌も、人を殺すような歌声も、血に染まらない意志も、全てが別で、離れていて。欲しいと思った。
理解して、咀嚼して、海賊は肌に夕焼けの色を浮かばせる。
「……種族とか、な?」
「…………そう」
ものを言う目だなと、海賊は思った。
少女は足を動かそうとして、もうそれはそこに無いことを思い出す。
手のひらで砂を押して波に近付くと、大きな手が細い腰に触れ、ふわりと身体が持ち上がった。
少女が驚きながら肩に手を置くと、ばしゃばしゃと音を立てて海賊は海に足を沈めた。
後ろには脱ぎ捨てられたブーツとマントが転がっている。
胸元まで浸かって、つま先が地から離れる少し手前まで来ると、海賊は少女をゆっくり水中に降ろした。
「……おひとよし」
少女は肩から手を離す寸前そう呟いて、息を吸うこともなく頭から潜っていく。
只管静かに、しぶきひとつ立てないで、尾ひれがひらりと輝いた。
まとわりついた血液を海が攫う。魔法の終わりを知った。
どこまでも冷たく、広い海に身を投じて、安堵と悔しさが肺を焼く。水中に踊って沈むのは、レクイエムでは決してない。
抱えきれない痛みが姿を得ただけの、自分勝手にふしあわせな歌。
体から体温が落ちていくことも忘れて、海賊は耳をすませた。
月の真ん中に少女の影が映って、それこそ本当に、月並みな言葉でしかないけれど、時が止まったような気がしたのだった。
「かぜひくよ?」
「……うわ!」
知らぬ間に目の前に雫を垂らした少女が居て、思わず後ずさった海賊はどぼんと青に捕まる。
気泡の隙間から慌てたような少女の顔を見て、本当にものを言う目だなと海賊は笑った。
「ちょっと、なにしてるの?」
「浅瀬なんだから自力で戻ってこれたのに、そっちも大概お人好しなんじゃねーの?」
ふたりともずぶ濡れになって砂の上に寝そべると、空に桃色の帯がかかる。
「……きれい」
「ビーナスベルトって言うんだけど、聞いたことない?」
「ううん、しらない」
「まぁそりゃそっか。こっちの世界の神様が元になってるらしいし。ほら、あれが地球影。まだあっちの方は夜なんだな」
「人は、物事に素敵な名前をつけるのね」
「王子に教えてもらったりしなかったの?」
「彼は……そうね、彼といる時は空なんて見なかったもの」
「へぇ、……教えてやろうか?もっと」
「え?」
「天国に、行きたかったんだっけ?」
海賊は徐に立ち上がり、トリコーンを被り直す。目を細めて口角をつりあげると、端から尖った歯が覗いた。
少女と目を合わせたまま、親指で後ろを指す。朝焼けに照らされた向こうに、荘厳な空気を漂わせる大きな船が佇んでいた。
「地獄でもよければ乗せてってやれるけど」
少女の目が瞬く。暗闇の中ではただそこに在るだけだった海賊の両の目が陽の光に照らされて、赤く、赤く、必要な物も、そうでない物も、構わず焼き尽くすように燃えていた。
「私、人魚よ。人みたいに見えるかもしれないけど、人じゃない」
「けど魚だって俺は飽きるほど見てる」
「あと三百年も生きるのよ?」
「骸骨が船長やってる船もあんだから、俺も応用でなんとかなるだろ」
「なにそれ、自分から呪われにいくってこと?」
「寿命伸びる伸びる石でも見つかれば話は別だけど」
「そんなものがあるの?」
「さぁ?でも海は、人間が知るよりずっと広い」
「……足がないわ」
「ま、俺は海の男だからな」
自信過剰で、それでいて、炎は揺れるもので、不安げに視線の落ちた一瞬に、少女は微笑んだ。
城の方がなんだか騒がしい。また、海鳥が噂を運びにいく。
「嘘ついたら、また刺しちゃうかも」
「そっちこそ、人魚の血はいい薬になる」
海賊が海の中を歩く。腕の中で、少女はひとつあくびをした。甲板の上で金の長い髪が揺れて、船が慌ただしく少女を待つ。海賊が気まずそうに顔を歪めた。
暖かい朝食と、夏の匂いがする。
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