夜の芳香

…あれ…、もうない。確か今朝買ったばかりなのになぁ…

土曜日の深夜。 
青い光を放つモニターから一旦目を離し、空になった煙草の箱を苦々しい思いで握りつぶすと、軽くため息をついた。

仕事が立て込むと、たちまちチェーンスモーカーまっしぐらの私。 
壁の時計を見ると、時刻は深夜1時。
今日もまた日を跨いでしまった。
ここのところずっとこんな感じで毎日が過ぎている。
でも、今日は午後から新規クライアントとの打ち合わせがあるから、なんとしても朝までには資料を仕上げなければならない。

煙草がないことで急に集中が切れてしまい、痺れた目頭を押さえた。
仕方なく手近にあったパーカーを羽織り、近所のコンビニへ歩いて向かう。

そこで、よりによってこの時間にあるはずのない大好物のラーメンを見つけてしまった。

〝ぐぅ〜。

お腹が鳴る。そういえば昼から何も口にしていない。

…今から食べたら間違いなくヤバいけど、我慢できないなぁ。もうひと頑張りしなきゃだし、いいか、食べちゃえ。

煙草だけじゃすまないのが人の常。

ラーメンの隣の棚に並ぶたこ焼きも一緒にカゴに入れ、もちろん缶ビールも2本放り込む。
たがが外れるとはまさにこのことだ。
レジ横のチョコレートまでどさくさに投げ入れ会計を済ませると、外の喫煙スペースで煙草に火をつけた。

深く吸い込むと体の隅々まで煙が沁みわたり、頭が一気に冴え渡る。

…ふぅ〜、生き返った〜

温泉に浸かったオヤジのように、思わず声が出そうになる。



「明日は雨ですかねぇ。」

隣に立っていた男が呑気な声を出す。

周りには私以外に誰もいない。

…え?もしかして、私に話しかけてる?

「そうみたいですね。星も見えないし。」

仕方なく相槌を打ってみた。

「雨降ると仕事に響くから困るんですよねぇ。」

煙を燻らせながら男がつづける。

…やっぱり私に話しかけてたんだ…って、おたくの仕事とか知らないし

「もう降ってくるんじゃないですか。
雨の匂いしますしね。」

空を見ながら何となく答える。

「え?雨の匂い?初めて聞きましたよ。
どんな匂いですか?」

「どんなって、今みたいな匂いですよ。」

「へぇ〜、ずいぶんと鼻が利くんですね。」

…鼻が利くって、犬じゃないんだから。 
なんか鼻につく言い方。なにコイツ

返事の代わりに、濃い目の煙をたっぷりと吸い込み、男のいる方向に向けて思いきり吐き出した。



昔から可愛げのない女だと言われてきた。

ー女のくせに、頭が回りすぎるんだよ

唯一愛したと言っていいだろう男に、別れ際に投げつけられた言葉。
去っていく背中を見ながら、確か賢いところが好きだと言っていたことをぼんやり思い出していた。
自分の中で何かが壊れていくのを感じた。

それからというもの、会社を軌道に乗せることだけを考え、脇目も振らずに走ってきた。
男に寄りかかる人生なんてまっぴらだ。
そんながむしゃらな日々が功を奏し、ようやくクライアントも定着し、従業員の数も少しずつ増えている。
仕事は面白い。やればやっただけの成果と報酬を私にもたらしてくれる。

それに、男は裏切るけど、お金は裏切らない。



……ぽつ。
地面に黒い染みがひとつ。ふたつ。

「降ってきましたねぇ。」

相変わらず呑気な口調。

「やっぱり降ってきましたね。」

…そういえば、傘、持ってこなかったな。

「俺、ちゃぁんと持ってますよ。すごいでしょ。」

まるで心の声が聞こえたかのように、咥えタバコのまま、左手で傘をヒラヒラさせる。

…なんだよ、すごいでしょって。
いちいちウザいやつ


……?…って…ちょっと待て。

思わず二度見する。


…この殿方、めちゃくちゃ男前じゃあないか。


品の悪い黒シャツの胸元は大きく開いていて、趣味の悪い金色のネックレスが揺れている。それにどこで売ってるのかわからない下品な臙脂色のジャケット。煙を操る手首にはギラギラした金時計が見え隠れしていて。
襟足まで伸びた鈍く光る黒髪に無精髭。
どれをとっても私の趣味じゃない。

それなのに、煙草を燻らすその色っぽい横顔に目を奪われる。
これは、明らかに、ヤバい。



「雨の匂い……」

「はい?」

「雨の匂いって、こんな感じなんですね。」

空を見上げて煙をひと吐きし男は言う。

「わかりますか?」

「いや、心に滲みますね」


…え?

なんで分かるんだ。
 

この感覚は、私だけのもののはずなのに。
こんなそばにそれが分かる人間がいるとは。
しかも、とびきり男前ときている。

胸の中で、静かに感情が爆発するのを感じると同時に、けたたましくサイレンが鳴っている。
この人に近づいたら、いけない。



「落ちますよ。」

「え?」

「灰」

手元を見ると、根本まで燃え尽きそうだった。

「熱っ!」

思わず吸い殻を落としてしまった私に、

「大丈夫?」

と言いながら、糊のきいた黒いハンカチを差し出す。

ハンカチ持ってるような男も、確か嫌いだったなぁなんて考えていると、

「赤くなってるじゃないですか。」

「あ、ああ。これくらい何ともないですよ。」

「女の子は体に傷作っちゃダメですよ。ちょっと待ってて。」

と言い、店に入っていく。

女の子…

私のこと?そっか。私って女の子だったんだ。そんなこと、しばらく忘れてたな。

「これ、当てて。」

手に持ったプラスチックのカップを開け、中から摘んだ氷をハンカチに包んで渡された。

「あ、ありがとうございます。」

じんじんするのは指ではなく、私の心臓なのに。

盗み見るように男の顔を見やると、整った顔をこちらに向けて心配そうにしている。

「跡、残らないといいけど。」

そう言いながら、私の腕にぶら下がっているビニール袋に目を落とす。

反射的に思わず後ろに隠した。

「この時間に、随分食欲は男前なんですね。」

みるみる顔が赤くなるのが分かる。

「か、関係ないじゃないですか。」

男はふふふと笑うと、

「送りますよ。女の子がこんな時間に一人じゃ危ない。」

傘を広げ、中に入るように顎で促した。



サイレンはまだ私の中で鳴り響いている。
でも、それは聞かなかったことにしよう。
今夜同じ匂いを共有できた偶然、それに賭けてみるのも悪くない。



…夜の芳香 2020.4.12
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