夜の芳香

残業をこなしビルの外に出た頃には、とっくに空の色は黒く塗りつぶされていて。
ここのところの激務に追われ、朝日の眩しさと暗闇の静けさの日々しか繰り返していない気がする。

「…はぁ。…」

見上げた空に星は見えず。3月も終わりとはいえまだ冷たい空気が頬を撫でていく。

明日の予定も朝からぎっちり詰まっている。とりあえず帰って温かいお風呂に浸かりながら作戦会議だ。

ぽつり、雨粒が落ちてきた。

「あ…降ってきた。
天気予報、雨って当たりじゃん。」

朝、車に傘を置いてきてしまったことを後悔しながら足早に駐車場へと向かう。


…ふと、むせ返るほどの香りに足が止まる。
懐かしいような、それでいて胸の奥が締めつけられるような切ない記憶…

外灯の陰で佇む、水滴を纏った白い沈丁花。
控えめで可憐な姿とは裏腹に、存在を誇示するように香り立つ様に、思わず座り込み顔を寄せた。
タイムスリップしたような不思議な感覚に包まれる。


「ネエチャン、濡れてまうで。」


背後から聞こえた低い声に振り返り見上げると、背の高い眼帯をした男が傘を差し出し立っていた。

「あ…ありがとうごさいます。」

「なんや落し物かいな。」

「あ…いえ、」

異様な風貌に思わずギョッとする。
この寒空の下で素肌に蛇柄のジャケット、革パン。

普通じゃない。この人、殺し屋?
関わっちゃいけない、ヤバイ人だ。

「何でもないです。匂い嗅いでただけなんで。気にしないでください。」

「は?」

「この花の匂い、好きなんです。」


端正な顔が一瞬で笑顔に歪む。

あれ、この人、すごく素敵かも。
 

「ネエチャン、ワシも好きや。」

「え?」

「雨に濡れとる花の匂い嗅いどる女の子が。」


ヤバそうな人だけど、悪い人には見えない。何より、すごくカッコいい。
この人のこと、知りたい。
 

「…お酒、好きですか?」

「へ?なんやネエチャン、逆ナンか?」

拍子抜けしたような声を上げて、クックックと笑う。

「今すっごく飲みたい気分なんです。」

「おもろいな、ネエチャン。よし、付き合うたるわ。」


行こか。

と、差し出された黒い掌。


…思い出した。沈丁花の香りは、私の大好きな日本酒の香りによく似ている。



…夜の芳香 2020.3.21


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