夜の芳香
神室町のとある雑居ビルの2階。
マホガニーの重い扉を押すと、都会の喧騒とは切り離された落ち着いた空間が広がる。
仕事に行き詰まると時折、一人でここを訪れる。
緩やかに流れるジャズ。
無口なバーテンにとびきり上質な酒。
この店で過ごす特別な時間が、私はとても好きだった。
週末の深夜にこんな目的でここに通う女は私ぐらいのものだろう。
グラスに漂う琥珀色の液体を眺めていると、散らかった頭の中が次第にクリアになる。
喉を通る華やかで甘い味わい。
全ての感覚が解放され、店を出る頃にはいつも求めていた答えに辿り着くことができた。
「…いらっしゃいませ。」
店の扉が開き、客が入ってきた。
光沢のある白いスーツが大柄な体に見事に張り付いている。
浅黒い肌。艶のある黒髪はオールバックに撫でつけられ。
漆黒のサングラスの下に隠された瞳はさぞかし鋭いのだろう。
明らかに堅気とはいえない雰囲気を醸し出した男。
おぅ
と、バーテンに向かって右手を上げた。
8人ほどが掛けることのできるカウンター。
週末だというのに珍しく他の席はまだ埋まっていない。
男が私の背後を通り過ぎ、斜向かいの席に着くと同時に、滑るように酒が出された。
金色に輝くシガレットケースから煙草を抜き取り火をつける。
吐き出した煙が間接照明の光と混ざり合い、紫色に揺らめいた。
そこだけが切り取られた映像のようにまるで現実味がない。
思わず何を考えていたかを忘れてしまうほど、目の前の男の姿に釘付けになった。
…そないに見られると穴が開いてまうで。
低い声にどきりとし、思わず目を逸らす。
マッカランか。
サングラスに隠れていて分からないが、視線は私のグラスに注がれているようだ。
「…はい。…そちらは?」
同じや。
よう来るんか?
「ええ…。でも、今までお会いしたことありませんね。」
こないなベッピンさん、会うとったら忘れるはずあらへんわ
サングラスにかけられた指を目で追う。
想像した通りの鋭く、彫りの深い顔立ちと初めて視線が合った。
射抜くような瞳の力強さに返す言葉が見つからず、思わず手元の煙草を手繰り寄せ火をつけた。
じりじりと燃える赤が、まるで自分から発せられているのではないかと思えるほど、体の芯が熱くなっていく。
気持ちを落ち着けるように煙を深く吸い込んだ。
「…お上手なんですね。」
動揺を悟られないよう、真っ直ぐに男を見つめ返した。
…ワシは嘘は嫌いなんや。
男は指でグラスの中身をかき混ぜるとそれを一気に煽り、財布から紙幣を数枚抜いてカウンターに置き席を立った。
ごちそうさん。
「…お気をつけて。」
バーテンの抑揚のない声が響く。
通りすがり、私のそばで立ち止まり、耳元に顔を寄せた。
これまで知っているどの香水とも違う香りが、鼻腔をくすぐる。
…アンタを抱きとうてたまらんわ。
驚いて振り返ると同時に唇をふさがれた。
…夜の芳香 2020.3.29
マホガニーの重い扉を押すと、都会の喧騒とは切り離された落ち着いた空間が広がる。
仕事に行き詰まると時折、一人でここを訪れる。
緩やかに流れるジャズ。
無口なバーテンにとびきり上質な酒。
この店で過ごす特別な時間が、私はとても好きだった。
週末の深夜にこんな目的でここに通う女は私ぐらいのものだろう。
グラスに漂う琥珀色の液体を眺めていると、散らかった頭の中が次第にクリアになる。
喉を通る華やかで甘い味わい。
全ての感覚が解放され、店を出る頃にはいつも求めていた答えに辿り着くことができた。
「…いらっしゃいませ。」
店の扉が開き、客が入ってきた。
光沢のある白いスーツが大柄な体に見事に張り付いている。
浅黒い肌。艶のある黒髪はオールバックに撫でつけられ。
漆黒のサングラスの下に隠された瞳はさぞかし鋭いのだろう。
明らかに堅気とはいえない雰囲気を醸し出した男。
おぅ
と、バーテンに向かって右手を上げた。
8人ほどが掛けることのできるカウンター。
週末だというのに珍しく他の席はまだ埋まっていない。
男が私の背後を通り過ぎ、斜向かいの席に着くと同時に、滑るように酒が出された。
金色に輝くシガレットケースから煙草を抜き取り火をつける。
吐き出した煙が間接照明の光と混ざり合い、紫色に揺らめいた。
そこだけが切り取られた映像のようにまるで現実味がない。
思わず何を考えていたかを忘れてしまうほど、目の前の男の姿に釘付けになった。
…そないに見られると穴が開いてまうで。
低い声にどきりとし、思わず目を逸らす。
マッカランか。
サングラスに隠れていて分からないが、視線は私のグラスに注がれているようだ。
「…はい。…そちらは?」
同じや。
よう来るんか?
「ええ…。でも、今までお会いしたことありませんね。」
こないなベッピンさん、会うとったら忘れるはずあらへんわ
サングラスにかけられた指を目で追う。
想像した通りの鋭く、彫りの深い顔立ちと初めて視線が合った。
射抜くような瞳の力強さに返す言葉が見つからず、思わず手元の煙草を手繰り寄せ火をつけた。
じりじりと燃える赤が、まるで自分から発せられているのではないかと思えるほど、体の芯が熱くなっていく。
気持ちを落ち着けるように煙を深く吸い込んだ。
「…お上手なんですね。」
動揺を悟られないよう、真っ直ぐに男を見つめ返した。
…ワシは嘘は嫌いなんや。
男は指でグラスの中身をかき混ぜるとそれを一気に煽り、財布から紙幣を数枚抜いてカウンターに置き席を立った。
ごちそうさん。
「…お気をつけて。」
バーテンの抑揚のない声が響く。
通りすがり、私のそばで立ち止まり、耳元に顔を寄せた。
これまで知っているどの香水とも違う香りが、鼻腔をくすぐる。
…アンタを抱きとうてたまらんわ。
驚いて振り返ると同時に唇をふさがれた。
…夜の芳香 2020.3.29