やっちゃったわ
「久しぶりに明るい内に帰れる!」
そう言いながら地下鉄の改札を出た真吾の足取りは軽い。
地上に上がってもそれは同じで、油断をするとスキップになりそうなのを何とか抑えて二日ぶりのアパートへ辿り着いた。
郵便受けの通知を持って宅配ボックスをあけるときれいのラッピングされた今日の為の品々が。
「義理だけど、感謝しなくっちゃ」
例年なら面倒くささが先に立つも、今年はそんなことを呟くと荷物を抱えてエレベーターへ乗り込む。
なんとか鍵をあけて入ったワンルームは真吾の持ち込む古書の類のせいかいつもどおりにどこか埃っぽい香りがした。
かばんと義理チョコをテーブルに置いて、コートを脱いでベランダへ続くサッシを開けるとひんやりとした外気が頬を撫でる。
振り返った部屋は一昨日の朝に慌てて出た時のままで、コーヒーも乾ききったカップを狭いキッチンへと運びながら呟く。
「……掃除して、洗濯機まわして冷蔵庫も空なんだよってまずはシャワーと着替えが先か」
冬だからなんとかななったが着た切りのシャツに顔を顰めてからユニットバスへと足を向けた。
◇◆◇
「……この寒いのに窓を開けっ放しってどんだけ不用心だよ?」
バスルームを出たところでやけに硬いテノールに迎えられて思わず飛び上がった。
「メフィスト二世!」
脇のキッチンから洗ってあった灰皿を掴んで、彼の座ったソファへ飛んでいく。
「来てくれたんだ」
「来なかったら誰かさんがへそを曲げんだろ」
きりりとした目尻に僅かに皺を寄せて、内ポケットから潰れかけのボックスを引き出した。
「そうだけどさ」
「とりあえず、服を着ろ」
火のついていないそれで肌着姿の真吾に命じる。
「風邪なんざ引かせた日には、ナスカにオレがどやされるわ」
「はーい」
ソファの隙間から奥のベッドサイドにあるクローゼットへ向かった。
「でもさ、こんなに早く来るなんて思ってなかったよ」
「……」
紫煙とともに流れてきた声が小さくて首を傾げつつ、セーターを着こんでつづける。
「先に帰って買い出しでも行こうかと思ってたけど、間に合わな……」
そこに鋭い舌打ちが聞こえてまた、今度はしっかり首を捻った。
「ねえ、なんかあったの?」
「誰かさんがいそいそ帰ったって幽子からナスカに行ってそっからサシペレレ、妖虎、ユルグと伝わってきて帰らされたんだよ!」
「それで、怒ってるの……?」
口先を尖らせた真吾に慌てて振り返って言葉を繋ぐ。
「早く会えてラッキーはラッキーだと思ってはいるんだぜ」
「じゃあ、何が引っ掛かってるのさ?」
隣にちょこんと腰掛けて問うと、ため息交じりの紫煙が吐き出された。
「なんで……オレらが付き合ってるのをみんな知ってるんだよ!」
短くなった煙草をぎゅぎゅっと灰皿に押し付けてぼやく。
「面倒事はゴメンだから黙っておこうって話だったろ!」
ピッと鼻先に突き付けられた手袋の人差し指をぐい、と甲側に押し曲げながら口元だけで笑って答えた。
「残念ながら僕は誰にも言ってないけど、どっかの唐変木が行動でバラして回ってるからね」
「いだ!いででって、誰だよそいつは!」
「君しかいないでしょ!」
今度は真吾が尖った鼻先を指の腹で押した。
「うちの警備を他の使徒から横取りしたりしてるからバレたんだよ!」
「ぐ……!」
「まあ、遅かれ早かれバレない方がおかしいんだから観念しなよ!」
ぐいぐいと鼻の穴が上を向きそうなほどに押し込んでくる真吾の指を掴み取ってソファの上で抱き寄せる。
「……ま、今夜が長くなったのは喜んでるんだからよ」
気分を切り替えた二世が真吾のまだ曲がった口の橋からべろりと長い舌で舐った。
「どうすんだ?」
からかいだけじゃないものを含んだ囁きに流されそうになるのを堪えて、二世の左の頬を引っ張る。
「君、晩ごはんは?」
「食ってねえけど」
「僕もだし冷蔵庫が本当の空っぽなんだよね」
「とか言って酒ばっかり詰めてんじゃねえのか?」
「んー、お酒もスネグールカにもらったウォッカが冷凍庫に残ってるだけだから買い物に出ようと思ってたんだよね」
「ロシアの雪姫が凍らず飲めるってどんだけ度数が高いんだよ」
「だから、残ってるんだけどね」
言いながら仕事用のカバンから財布を取り出しつつ苦笑する。
「冬に入ってから大忙しでクリスマスも正月もぶっ飛ぶくらいに忙しかったけど、このまま日本でいう年度末に流れ込みそうな勢いでもなんとなく今夜は空けてみたんだ」
立ち上がって見下ろすとハットの橋からのぞく耳がほんのり朱い。
「……オレだって、いろいろと考えてたんだけど」
「うん、僕の所へ来てくれて嬉しいよ」
笑いながらシルクハットを持ち上げると、誰もみたことのない顔をして口先を尖らせた顔が見えて目を丸くした。
「酒とメシ、食えるとこあるか?」
「うん、ラーメン屋じゃなくていいの?」
「ビールって気分じゃねえし、どっちかって言うと肉とか食いたい」
「あ!」
小さく叫んだ真吾が手にしたそれをソファに置いて二世の手を取る。
「ちょっと歩くけど、駅向こうにいい感じのお店があるんだ」
「店は任せるが、着替えたほうがいいか?」
いつもの礼装の襟を引っ張る二世にまた真吾が笑った。
「目立つからシルクハットとマントは置いていったほうがいいかな」
「じゃあ、とっとと行こうぜ」
外したマントを放ると、あっという間に真吾を抱きかかえてベランダへと向かう。
「え、飛んでいくの?」
「もう、暗くなってるからいいだろ」
そう言うと両腕の真吾を落とさぬようにサッシを開けた。
「しっかり掴まってろよ」
そう嬉しそうに言う二世の首にしっかりと腕を回して頷いた。
◆◇◆
「ここ、か?」
駅前から通りを二つ越えた寂しげな路地からさらに一歩、古ぼけたビルの脇から続く階段を真吾に続いて降りる。
「ここねえ、宣伝はしてないけど異種族にもオープンなバー?バル?なんだ」
しっかりとした厚みのあるドアにポケットから出したカードを当ててから押すと、橙がかった灯りが漏れた。
「……広いな」
地下にある店は真吾の通っていた小学校の教室なら二つは入りそうだった。
懐古趣味の店内は入り口の向かいに多種多様な酒瓶が並んだカウンターがあり、右に行くと立ったまま飲めるテーブルかあり左には木製のテーブルセットが並んでいた。
「こっちにしようか」
汽車のボックス席を模したようなテーブルセットに二世を導くと、自分はコートとマフラーだけ置いて中央のカウンターへと歩き出す。
着いて行こうと腰を浮かせたところで声が掛かった。
「すぐ戻るから、君は席をキープしておいて」
言われてみれば店内は立ち飲みのテーブルも自分たちのと並んだボックス席はもちろん、真吾が向かったカウンターの並びにも酒食を楽しむ客でほぼ埋まっている。
「へえ」
眉につけるでもなく唇の端を舐めて、再び目をやると旨い下手はあれど人に擬態したものが半数を占めているのがわかった。
「……ウェイトレスにシルキー、コックにブラウニーがいるなら期待は大だな」
口の中で呟いて、次はだれの正体当てをしようかと彷徨わせた目がすぐ前で止まる。
「こら、あんまりきょろきょろしてると追い出されるよ」
苦笑しながら洒落た字体で店名だろう英字のはいったパイントグラスを両手で運んできた。
グラスの中にはきれいな黄金と艶のある飴色が豊かな泡を湛えている。
「どっちにする?」
テーブルにグラスを置いて向かいへ座ると、真吾の陰にいた背の低いボーイがナッツとキスチョコの載った小皿を置いて忙しそうに去った。
「黒はベルギー産でこっちのはエビスなんだけど……」
「黒、貰ってもいいか?」
「もちろん!」
遠慮がちに告げた二世に笑って自分のグラスを持ち上げる。
二世もグラスを取って、真吾のそれに軽く当てると鈍い音がした。
なんとはなしに視線でタイミングを取って口を付けると、生ぬるいそれは柔らかな苦みと燻されたような甘さがほのかに舌に残る。
半分ほど一息に飲んでからグラスを置くと、ビールに違わぬ恵比須顔の真吾と目が合った。
「ちょっと遠出してよかったでしょう?」
そう言って傾けた真吾のグラスが露でくもる。
「もっと早く教えてくれてもよかったんだぜ」
わざと片眉を上げてそう言うと、半分笑ったようなため息が返った。
「ここねえ、平日しかやってないし0時には閉店しちゃうからさ」
そう言って飲み干すと空のグラスを置いて少しだけ口先を尖らせる。
「ダレカさんは専ら深夜に来るからさ、まあ僕も帰りが遅いことが多いけど」
途端に苦虫を嚙み潰して呻る二世をよそにタロットカード一枚を机の端に置いた。
「ペンタクル、3……」
「これが今夜の僕らのテーブルナンバーだから何か欲しいものがあればこのカードをカウンターへ示して」
「気取ってんな」
「でも、これのおかげで僕もこのお店を見つけたんだから」
まだ微妙な表情の二世に真吾が笑顔で続ける。
「タロットが紹介状になる変な酒場がありますって」
「しょうかいじょう?」
「うん、これを持って帰って次回に来店の時に店主さんへ返すんだよ」
真吾の指とテーブルの間でくるくる回るカードを掠め取って、眺めると微かに魔力を感じた。
「ここは人間界で暮らすひと達の隠れ家だから、さっきみたいに正体を当ててやろうなんて目をしてたら追い出されちゃう。
真吾がくすくすと笑っていると盆に料理を載せた先ほどのボーイがやってきた。
「ありがとう」
背の低い彼を気遣って皿を受け取り、空になったグラスを戻すと、
「おかわりは?」
と、机の端のカードを確認してそう促した。
「料理に合うのを見繕ってもらえるかしら?」
真吾が言うと鷹揚に微笑んで皿を示す。
「牛脛肉のビール煮込みは煮込みに使用したビールや重めの赤ワイン、豚肉のスペアリブにはしっかりと味がついておりますので同じく重めの赤も良いですが口内をさっぱりさせる軽めの白やシャンパン、柑橘のカクテルもオススメです」
「バーボンはどうだ?」
「そうですね、日本らしくトニックでお割りすると合いそうなものがあったと思われます」
二世の問いにサクッと応えて、真吾をジッと見つめる。
「お客様の以前のお好みですと、軽めの白で作ったサングリアがございますがいかがでしょうか?」
「じゃあ、オススメのそれで」
真吾の言葉にペコリとお辞儀をしてボーイが立ち去った。
「人間の客もいるんだな」
「うん、だから君も魔力は抑えてね」
そんなことを話していると先ほどのボーイが料理と新しい酒をテーブルに並べる。
「これねえ、牛の脛肉を黒ビールで煮込んだんだって」
大ぶりなスープ鉢から取り分けたのを自分と二世の前に置いた。
ほかほかと立ち上る湯気からスパイスと複雑な旨味が鼻先を擽る。
「……カルボナード、か」
「え?ちが……」
「牛肉のビール煮込みをカルボナードって言うんだ」
「へえ、どこの国の言葉?」
「フランスっていうかベルギー寄りの郷土料理だがどこの料理だと思ってたんだよ?」
「……洋食だけど、いいから冷めないうちに食べてってば!」
渡されたスプーンの先を肉の塊に差し込むと力を入れずとも繊維にそって崩れた。
珍しいトマトは控えめようで茶褐色のスープとすくって口に入れると、滋味あふれるそれに思わず目を丸くする。
「こいつは、美味い……」
口の中で脂がとろけて広がり、ついスプーンが止まらなくなった。
「ふふ、こっちも食べてみない?」
真吾が皿の上の骨付き肉を勧めた。
鈍い照明を照り返すほど脂ののったそれを手に取ってかぶりつくと、先とは違う苦味と独特の甘味を伴った歯応えがあった。
豚特有の油っこさに負けずに混ざりあった旨味をスモーキーな味わいのハイボールで流し込むと思わず嘆息する。
「スペアリブも美味い!」
「肉を食べたって感じがするよね」
煮込みを食べながら真吾が微笑んだ。
おしぼりで指先をふきながら残り少ないグラスを干す。
「酒も美味いが……値が張るんじゃねえのか、ここ」
飴色に磨かれたテーブルを撫でて言うと、
「残念ながら僕の手持ちで通える店だよ」
と笑いながら真吾もグラスを空けた。
「人間界で働く異種族とかって特殊な技能でもない限り、お給料が高くないんだよ」
脂で光る口元をナプキンで拭って続ける。
「そういう者たちのためにも安い値段でお腹いっぱいになるようにしてるんだってさ」
そう言ってカウンターの中で気難し気にグラスを磨く店主をちらりと、見遣った。
「へえ」
「人間もOKなんだけど、入り浸るのも悪いからたまにしか僕は来ないけどね」
◆◇◆
「ふうん、ちっとばかし魔力を帯びてんだな」
紙とも金属ともつかないカードを弄んでいると真吾が笑う。
「うん、だからカードだけあっても普通の人間には敷居が高いよね」
「そういう意味でもセキュリティがしっかりしてんだな」
言いながらカードを手に立ち上がると、あわてて真吾も腰を浮かせるのを指先で制した。
「オレも酒が見たいから」
カウンターと言うよりも店主へと大股で向かう。
成長した二世も丈があるが、それよりも頭一つ分は高い老店主は鶴のようなという形容が似合いすぎていた。
矍鑠としてカウンターに立つ姿が首が長く撫で気味の肩から続くシルエットがどことなく大型の鳥を思わせる。
「楽しんでおるかね、お若い紳士」
二世より先に口を開いた店主の丸眼鏡の奥は興味があると語っていた。
「酒も飯も美味いしいい店だな」
「名のある紳士にそう言って頂けると嬉しいものだ」
「オレなんかまだまだひよっこだろ、あんただってそれなりだろう?」
カウンターに肘をついて見上げると、店主は曇りなく磨かれたグラスを置く。
「昔はニスロク様の厨房にいたこともあるが、今はただの酒場の主だよ」
大悪魔の名前を聞いて、料理が美味いのも店主が鳥に似ているのも合点がいった。
「さて、何がご所望かな?」
「そうだな、オレにはハイボールと連れが喜びそうな酒を頼む」
その言葉に二世から視線をボックス席へと送って、ひとつ息を吐いた。
「そうさな、今日にふさわしいカクテルを作らせていただこうか」
磨かれたシェイカーにメジャーカップも使わず流れるようにいくつかのリキュールと砕いた氷を投げ込み、小気味よい音を立てて振る。
そうしてできた淡い褐色のカクテルをグラスに注いでチョコレートを削り、ミントを飾って差し出した。
「アフターエイト、バレンタインの夜にいかがかな?」
「いいね」
二世が頷くと先とは違った手つきで別のグラスに琥珀とソーダが注いでさっと混ぜたのを差し出した。
「山陰バーボン、ブレンドだが美味いのでお試しを」
それだけ言うと何もなかったようにグラスを磨き始める店主に少しだけ頭を下げて席へと戻る。
◆◇◆
「……チョコアイスみたい!美味しい!」
カクテルを一口飲んで真吾が小さく叫んだ。
「アフターエイトって名前らしいぜ」
「アフターエイト、ね?調べる!」
スマホを取り出した真吾を横目に自分もグラスに口をつけると、スモーキーな中にも華やいだ香りが鼻に抜ける。
そんな余韻。楽しんでいるとドアが開いてすでに酔ったような若い男性たちが数人、賑やかに入店してきた。
「……うるせえな」
離れているボックスへもその喧騒が伝わり、二世がそう呟いたのへ苦笑を返す。
「でも空いてる席って僕らの並びにしか……」
真吾の言葉の通り、カウンターでグラスを受け取った客たちが二世といる席の脇を通って奥へと向かう。
談笑する彼らには聞こえないように二世が舌を打つと、通り過ぎざまに一人がぐるりと振り返った。
「なん、だ……!」
明るい髪色に安っぽいスーツの男が二世の顔を覗き込んでから、反対の真吾を見て破顔する。
「やっぱりこの匂い、シンゴくんだった!」
そう言っていそいそと真吾の隣に収まった男に仲間たちが声を掛けた。
「人間?知り合い?」
「うん、知り合いだからちょっと寄って行く」
「後で来いよ」
「頼んだ料理、食っちゃうから」
「オーケー、だいじょーぶ!」
そう言いながら持っていたジョッキに口をつけるのを横目に二世と真吾が小声で話す。
「おい、ほんとに知り合いか……?」
「ごめん、憶えてないかも」
「まさか忘れちゃった?あ……まだ、人間風だった!」
そう言って両頬のテープをはがすと頬いっぱいに裂けた口がにんまりと笑った。
「コンタクトと髪の毛も!」
言いながら髪をかき混ぜ目元をぬぐうとどちらも青みがかった色へと変わる。
「へ?あ、あーっ!」
ぴょんと椅子の上で跳ねるほど驚いた真吾が声を上げた。
「その恰好なに?なんでここにいるの?」
目を白黒させた真吾にへらりと笑って男が口を開いた。
「工場から転職したんだ、半人半魔でもがんばれば正社員になれるとこに」
「……それは、オメデトウ」
「ありがとうな、でもって半魔の同僚とシンゴくんが前に教えてくれたここに飲みにきたっての!」
「あのさ……」
「あ!あっちは辞めてないから、またヨロシクね!」
そう言うと自分のグラスを持って立ち上がったので前を向くと、対面の二世の剣呑なそれと視線が合う。
「おい、てめ……」
「そっちのおニイさんもこうもり猫のダンナのとこの?」
ふわりと二世の肩に触れるとどこからともなく甘い香りがした。
「シンゴくん、泣き顔がめちゃくちゃカワイイし精気がすごくオイシイからよかったね」
文句を言う前に小声で囁かれて、思わず固まる。
「じゃ、ダンナによろしく~!」
それだけ言ってふわふわと仲間のところへ行ってしまい、ボックス席に何とも言えない重い空気が満ちた。
「ごめん、あの……ちょっとした知り合いっていうか」
あたふたと言い訳をひねり出そうとしている真吾をちらりと見て二世も立ち上がった。
「……帰る」
「へ……、ちょっと待ってて!」
そのまま振り向かずに扉へ向かうのを視界に納めつつ、コートを抱えてカウンターへ向かう。
「すみません!お会計おねがいします!」
トレイに伝票代わりでもあるカードと札を投げるように置いた。
「お釣りはいいです!」
それだけ言って出口へ向かうも二世の姿は無くて、あわてて地上への階段を駆け上がるもそこにも。
「お客様、お釣りとカードを……」
後からやってきたウェイトレスからそれらを受け取ると、そのまま駆け出した。
息が切れても構わずに足を動かして、マンションまで戻る。
エレベータを待つのももどかしく何度も躓きながら階段を駆け上がって目指した自室のドアには鍵が掛かっていた。
ポケットから出した鍵でドアを開けても無人で。
そこで精も根も尽きてのろのろと入った部屋には、置いて行った二世のシルクハットもマントもなくなっている。
酸欠の頭からは妙案も出ずにフローリングに膝をつくと、二世の吸った煙草の匂いがした。
そう言いながら地下鉄の改札を出た真吾の足取りは軽い。
地上に上がってもそれは同じで、油断をするとスキップになりそうなのを何とか抑えて二日ぶりのアパートへ辿り着いた。
郵便受けの通知を持って宅配ボックスをあけるときれいのラッピングされた今日の為の品々が。
「義理だけど、感謝しなくっちゃ」
例年なら面倒くささが先に立つも、今年はそんなことを呟くと荷物を抱えてエレベーターへ乗り込む。
なんとか鍵をあけて入ったワンルームは真吾の持ち込む古書の類のせいかいつもどおりにどこか埃っぽい香りがした。
かばんと義理チョコをテーブルに置いて、コートを脱いでベランダへ続くサッシを開けるとひんやりとした外気が頬を撫でる。
振り返った部屋は一昨日の朝に慌てて出た時のままで、コーヒーも乾ききったカップを狭いキッチンへと運びながら呟く。
「……掃除して、洗濯機まわして冷蔵庫も空なんだよってまずはシャワーと着替えが先か」
冬だからなんとかななったが着た切りのシャツに顔を顰めてからユニットバスへと足を向けた。
◇◆◇
「……この寒いのに窓を開けっ放しってどんだけ不用心だよ?」
バスルームを出たところでやけに硬いテノールに迎えられて思わず飛び上がった。
「メフィスト二世!」
脇のキッチンから洗ってあった灰皿を掴んで、彼の座ったソファへ飛んでいく。
「来てくれたんだ」
「来なかったら誰かさんがへそを曲げんだろ」
きりりとした目尻に僅かに皺を寄せて、内ポケットから潰れかけのボックスを引き出した。
「そうだけどさ」
「とりあえず、服を着ろ」
火のついていないそれで肌着姿の真吾に命じる。
「風邪なんざ引かせた日には、ナスカにオレがどやされるわ」
「はーい」
ソファの隙間から奥のベッドサイドにあるクローゼットへ向かった。
「でもさ、こんなに早く来るなんて思ってなかったよ」
「……」
紫煙とともに流れてきた声が小さくて首を傾げつつ、セーターを着こんでつづける。
「先に帰って買い出しでも行こうかと思ってたけど、間に合わな……」
そこに鋭い舌打ちが聞こえてまた、今度はしっかり首を捻った。
「ねえ、なんかあったの?」
「誰かさんがいそいそ帰ったって幽子からナスカに行ってそっからサシペレレ、妖虎、ユルグと伝わってきて帰らされたんだよ!」
「それで、怒ってるの……?」
口先を尖らせた真吾に慌てて振り返って言葉を繋ぐ。
「早く会えてラッキーはラッキーだと思ってはいるんだぜ」
「じゃあ、何が引っ掛かってるのさ?」
隣にちょこんと腰掛けて問うと、ため息交じりの紫煙が吐き出された。
「なんで……オレらが付き合ってるのをみんな知ってるんだよ!」
短くなった煙草をぎゅぎゅっと灰皿に押し付けてぼやく。
「面倒事はゴメンだから黙っておこうって話だったろ!」
ピッと鼻先に突き付けられた手袋の人差し指をぐい、と甲側に押し曲げながら口元だけで笑って答えた。
「残念ながら僕は誰にも言ってないけど、どっかの唐変木が行動でバラして回ってるからね」
「いだ!いででって、誰だよそいつは!」
「君しかいないでしょ!」
今度は真吾が尖った鼻先を指の腹で押した。
「うちの警備を他の使徒から横取りしたりしてるからバレたんだよ!」
「ぐ……!」
「まあ、遅かれ早かれバレない方がおかしいんだから観念しなよ!」
ぐいぐいと鼻の穴が上を向きそうなほどに押し込んでくる真吾の指を掴み取ってソファの上で抱き寄せる。
「……ま、今夜が長くなったのは喜んでるんだからよ」
気分を切り替えた二世が真吾のまだ曲がった口の橋からべろりと長い舌で舐った。
「どうすんだ?」
からかいだけじゃないものを含んだ囁きに流されそうになるのを堪えて、二世の左の頬を引っ張る。
「君、晩ごはんは?」
「食ってねえけど」
「僕もだし冷蔵庫が本当の空っぽなんだよね」
「とか言って酒ばっかり詰めてんじゃねえのか?」
「んー、お酒もスネグールカにもらったウォッカが冷凍庫に残ってるだけだから買い物に出ようと思ってたんだよね」
「ロシアの雪姫が凍らず飲めるってどんだけ度数が高いんだよ」
「だから、残ってるんだけどね」
言いながら仕事用のカバンから財布を取り出しつつ苦笑する。
「冬に入ってから大忙しでクリスマスも正月もぶっ飛ぶくらいに忙しかったけど、このまま日本でいう年度末に流れ込みそうな勢いでもなんとなく今夜は空けてみたんだ」
立ち上がって見下ろすとハットの橋からのぞく耳がほんのり朱い。
「……オレだって、いろいろと考えてたんだけど」
「うん、僕の所へ来てくれて嬉しいよ」
笑いながらシルクハットを持ち上げると、誰もみたことのない顔をして口先を尖らせた顔が見えて目を丸くした。
「酒とメシ、食えるとこあるか?」
「うん、ラーメン屋じゃなくていいの?」
「ビールって気分じゃねえし、どっちかって言うと肉とか食いたい」
「あ!」
小さく叫んだ真吾が手にしたそれをソファに置いて二世の手を取る。
「ちょっと歩くけど、駅向こうにいい感じのお店があるんだ」
「店は任せるが、着替えたほうがいいか?」
いつもの礼装の襟を引っ張る二世にまた真吾が笑った。
「目立つからシルクハットとマントは置いていったほうがいいかな」
「じゃあ、とっとと行こうぜ」
外したマントを放ると、あっという間に真吾を抱きかかえてベランダへと向かう。
「え、飛んでいくの?」
「もう、暗くなってるからいいだろ」
そう言うと両腕の真吾を落とさぬようにサッシを開けた。
「しっかり掴まってろよ」
そう嬉しそうに言う二世の首にしっかりと腕を回して頷いた。
◆◇◆
「ここ、か?」
駅前から通りを二つ越えた寂しげな路地からさらに一歩、古ぼけたビルの脇から続く階段を真吾に続いて降りる。
「ここねえ、宣伝はしてないけど異種族にもオープンなバー?バル?なんだ」
しっかりとした厚みのあるドアにポケットから出したカードを当ててから押すと、橙がかった灯りが漏れた。
「……広いな」
地下にある店は真吾の通っていた小学校の教室なら二つは入りそうだった。
懐古趣味の店内は入り口の向かいに多種多様な酒瓶が並んだカウンターがあり、右に行くと立ったまま飲めるテーブルかあり左には木製のテーブルセットが並んでいた。
「こっちにしようか」
汽車のボックス席を模したようなテーブルセットに二世を導くと、自分はコートとマフラーだけ置いて中央のカウンターへと歩き出す。
着いて行こうと腰を浮かせたところで声が掛かった。
「すぐ戻るから、君は席をキープしておいて」
言われてみれば店内は立ち飲みのテーブルも自分たちのと並んだボックス席はもちろん、真吾が向かったカウンターの並びにも酒食を楽しむ客でほぼ埋まっている。
「へえ」
眉につけるでもなく唇の端を舐めて、再び目をやると旨い下手はあれど人に擬態したものが半数を占めているのがわかった。
「……ウェイトレスにシルキー、コックにブラウニーがいるなら期待は大だな」
口の中で呟いて、次はだれの正体当てをしようかと彷徨わせた目がすぐ前で止まる。
「こら、あんまりきょろきょろしてると追い出されるよ」
苦笑しながら洒落た字体で店名だろう英字のはいったパイントグラスを両手で運んできた。
グラスの中にはきれいな黄金と艶のある飴色が豊かな泡を湛えている。
「どっちにする?」
テーブルにグラスを置いて向かいへ座ると、真吾の陰にいた背の低いボーイがナッツとキスチョコの載った小皿を置いて忙しそうに去った。
「黒はベルギー産でこっちのはエビスなんだけど……」
「黒、貰ってもいいか?」
「もちろん!」
遠慮がちに告げた二世に笑って自分のグラスを持ち上げる。
二世もグラスを取って、真吾のそれに軽く当てると鈍い音がした。
なんとはなしに視線でタイミングを取って口を付けると、生ぬるいそれは柔らかな苦みと燻されたような甘さがほのかに舌に残る。
半分ほど一息に飲んでからグラスを置くと、ビールに違わぬ恵比須顔の真吾と目が合った。
「ちょっと遠出してよかったでしょう?」
そう言って傾けた真吾のグラスが露でくもる。
「もっと早く教えてくれてもよかったんだぜ」
わざと片眉を上げてそう言うと、半分笑ったようなため息が返った。
「ここねえ、平日しかやってないし0時には閉店しちゃうからさ」
そう言って飲み干すと空のグラスを置いて少しだけ口先を尖らせる。
「ダレカさんは専ら深夜に来るからさ、まあ僕も帰りが遅いことが多いけど」
途端に苦虫を嚙み潰して呻る二世をよそにタロットカード一枚を机の端に置いた。
「ペンタクル、3……」
「これが今夜の僕らのテーブルナンバーだから何か欲しいものがあればこのカードをカウンターへ示して」
「気取ってんな」
「でも、これのおかげで僕もこのお店を見つけたんだから」
まだ微妙な表情の二世に真吾が笑顔で続ける。
「タロットが紹介状になる変な酒場がありますって」
「しょうかいじょう?」
「うん、これを持って帰って次回に来店の時に店主さんへ返すんだよ」
真吾の指とテーブルの間でくるくる回るカードを掠め取って、眺めると微かに魔力を感じた。
「ここは人間界で暮らすひと達の隠れ家だから、さっきみたいに正体を当ててやろうなんて目をしてたら追い出されちゃう。
真吾がくすくすと笑っていると盆に料理を載せた先ほどのボーイがやってきた。
「ありがとう」
背の低い彼を気遣って皿を受け取り、空になったグラスを戻すと、
「おかわりは?」
と、机の端のカードを確認してそう促した。
「料理に合うのを見繕ってもらえるかしら?」
真吾が言うと鷹揚に微笑んで皿を示す。
「牛脛肉のビール煮込みは煮込みに使用したビールや重めの赤ワイン、豚肉のスペアリブにはしっかりと味がついておりますので同じく重めの赤も良いですが口内をさっぱりさせる軽めの白やシャンパン、柑橘のカクテルもオススメです」
「バーボンはどうだ?」
「そうですね、日本らしくトニックでお割りすると合いそうなものがあったと思われます」
二世の問いにサクッと応えて、真吾をジッと見つめる。
「お客様の以前のお好みですと、軽めの白で作ったサングリアがございますがいかがでしょうか?」
「じゃあ、オススメのそれで」
真吾の言葉にペコリとお辞儀をしてボーイが立ち去った。
「人間の客もいるんだな」
「うん、だから君も魔力は抑えてね」
そんなことを話していると先ほどのボーイが料理と新しい酒をテーブルに並べる。
「これねえ、牛の脛肉を黒ビールで煮込んだんだって」
大ぶりなスープ鉢から取り分けたのを自分と二世の前に置いた。
ほかほかと立ち上る湯気からスパイスと複雑な旨味が鼻先を擽る。
「……カルボナード、か」
「え?ちが……」
「牛肉のビール煮込みをカルボナードって言うんだ」
「へえ、どこの国の言葉?」
「フランスっていうかベルギー寄りの郷土料理だがどこの料理だと思ってたんだよ?」
「……洋食だけど、いいから冷めないうちに食べてってば!」
渡されたスプーンの先を肉の塊に差し込むと力を入れずとも繊維にそって崩れた。
珍しいトマトは控えめようで茶褐色のスープとすくって口に入れると、滋味あふれるそれに思わず目を丸くする。
「こいつは、美味い……」
口の中で脂がとろけて広がり、ついスプーンが止まらなくなった。
「ふふ、こっちも食べてみない?」
真吾が皿の上の骨付き肉を勧めた。
鈍い照明を照り返すほど脂ののったそれを手に取ってかぶりつくと、先とは違う苦味と独特の甘味を伴った歯応えがあった。
豚特有の油っこさに負けずに混ざりあった旨味をスモーキーな味わいのハイボールで流し込むと思わず嘆息する。
「スペアリブも美味い!」
「肉を食べたって感じがするよね」
煮込みを食べながら真吾が微笑んだ。
おしぼりで指先をふきながら残り少ないグラスを干す。
「酒も美味いが……値が張るんじゃねえのか、ここ」
飴色に磨かれたテーブルを撫でて言うと、
「残念ながら僕の手持ちで通える店だよ」
と笑いながら真吾もグラスを空けた。
「人間界で働く異種族とかって特殊な技能でもない限り、お給料が高くないんだよ」
脂で光る口元をナプキンで拭って続ける。
「そういう者たちのためにも安い値段でお腹いっぱいになるようにしてるんだってさ」
そう言ってカウンターの中で気難し気にグラスを磨く店主をちらりと、見遣った。
「へえ」
「人間もOKなんだけど、入り浸るのも悪いからたまにしか僕は来ないけどね」
◆◇◆
「ふうん、ちっとばかし魔力を帯びてんだな」
紙とも金属ともつかないカードを弄んでいると真吾が笑う。
「うん、だからカードだけあっても普通の人間には敷居が高いよね」
「そういう意味でもセキュリティがしっかりしてんだな」
言いながらカードを手に立ち上がると、あわてて真吾も腰を浮かせるのを指先で制した。
「オレも酒が見たいから」
カウンターと言うよりも店主へと大股で向かう。
成長した二世も丈があるが、それよりも頭一つ分は高い老店主は鶴のようなという形容が似合いすぎていた。
矍鑠としてカウンターに立つ姿が首が長く撫で気味の肩から続くシルエットがどことなく大型の鳥を思わせる。
「楽しんでおるかね、お若い紳士」
二世より先に口を開いた店主の丸眼鏡の奥は興味があると語っていた。
「酒も飯も美味いしいい店だな」
「名のある紳士にそう言って頂けると嬉しいものだ」
「オレなんかまだまだひよっこだろ、あんただってそれなりだろう?」
カウンターに肘をついて見上げると、店主は曇りなく磨かれたグラスを置く。
「昔はニスロク様の厨房にいたこともあるが、今はただの酒場の主だよ」
大悪魔の名前を聞いて、料理が美味いのも店主が鳥に似ているのも合点がいった。
「さて、何がご所望かな?」
「そうだな、オレにはハイボールと連れが喜びそうな酒を頼む」
その言葉に二世から視線をボックス席へと送って、ひとつ息を吐いた。
「そうさな、今日にふさわしいカクテルを作らせていただこうか」
磨かれたシェイカーにメジャーカップも使わず流れるようにいくつかのリキュールと砕いた氷を投げ込み、小気味よい音を立てて振る。
そうしてできた淡い褐色のカクテルをグラスに注いでチョコレートを削り、ミントを飾って差し出した。
「アフターエイト、バレンタインの夜にいかがかな?」
「いいね」
二世が頷くと先とは違った手つきで別のグラスに琥珀とソーダが注いでさっと混ぜたのを差し出した。
「山陰バーボン、ブレンドだが美味いのでお試しを」
それだけ言うと何もなかったようにグラスを磨き始める店主に少しだけ頭を下げて席へと戻る。
◆◇◆
「……チョコアイスみたい!美味しい!」
カクテルを一口飲んで真吾が小さく叫んだ。
「アフターエイトって名前らしいぜ」
「アフターエイト、ね?調べる!」
スマホを取り出した真吾を横目に自分もグラスに口をつけると、スモーキーな中にも華やいだ香りが鼻に抜ける。
そんな余韻。楽しんでいるとドアが開いてすでに酔ったような若い男性たちが数人、賑やかに入店してきた。
「……うるせえな」
離れているボックスへもその喧騒が伝わり、二世がそう呟いたのへ苦笑を返す。
「でも空いてる席って僕らの並びにしか……」
真吾の言葉の通り、カウンターでグラスを受け取った客たちが二世といる席の脇を通って奥へと向かう。
談笑する彼らには聞こえないように二世が舌を打つと、通り過ぎざまに一人がぐるりと振り返った。
「なん、だ……!」
明るい髪色に安っぽいスーツの男が二世の顔を覗き込んでから、反対の真吾を見て破顔する。
「やっぱりこの匂い、シンゴくんだった!」
そう言っていそいそと真吾の隣に収まった男に仲間たちが声を掛けた。
「人間?知り合い?」
「うん、知り合いだからちょっと寄って行く」
「後で来いよ」
「頼んだ料理、食っちゃうから」
「オーケー、だいじょーぶ!」
そう言いながら持っていたジョッキに口をつけるのを横目に二世と真吾が小声で話す。
「おい、ほんとに知り合いか……?」
「ごめん、憶えてないかも」
「まさか忘れちゃった?あ……まだ、人間風だった!」
そう言って両頬のテープをはがすと頬いっぱいに裂けた口がにんまりと笑った。
「コンタクトと髪の毛も!」
言いながら髪をかき混ぜ目元をぬぐうとどちらも青みがかった色へと変わる。
「へ?あ、あーっ!」
ぴょんと椅子の上で跳ねるほど驚いた真吾が声を上げた。
「その恰好なに?なんでここにいるの?」
目を白黒させた真吾にへらりと笑って男が口を開いた。
「工場から転職したんだ、半人半魔でもがんばれば正社員になれるとこに」
「……それは、オメデトウ」
「ありがとうな、でもって半魔の同僚とシンゴくんが前に教えてくれたここに飲みにきたっての!」
「あのさ……」
「あ!あっちは辞めてないから、またヨロシクね!」
そう言うと自分のグラスを持って立ち上がったので前を向くと、対面の二世の剣呑なそれと視線が合う。
「おい、てめ……」
「そっちのおニイさんもこうもり猫のダンナのとこの?」
ふわりと二世の肩に触れるとどこからともなく甘い香りがした。
「シンゴくん、泣き顔がめちゃくちゃカワイイし精気がすごくオイシイからよかったね」
文句を言う前に小声で囁かれて、思わず固まる。
「じゃ、ダンナによろしく~!」
それだけ言ってふわふわと仲間のところへ行ってしまい、ボックス席に何とも言えない重い空気が満ちた。
「ごめん、あの……ちょっとした知り合いっていうか」
あたふたと言い訳をひねり出そうとしている真吾をちらりと見て二世も立ち上がった。
「……帰る」
「へ……、ちょっと待ってて!」
そのまま振り向かずに扉へ向かうのを視界に納めつつ、コートを抱えてカウンターへ向かう。
「すみません!お会計おねがいします!」
トレイに伝票代わりでもあるカードと札を投げるように置いた。
「お釣りはいいです!」
それだけ言って出口へ向かうも二世の姿は無くて、あわてて地上への階段を駆け上がるもそこにも。
「お客様、お釣りとカードを……」
後からやってきたウェイトレスからそれらを受け取ると、そのまま駆け出した。
息が切れても構わずに足を動かして、マンションまで戻る。
エレベータを待つのももどかしく何度も躓きながら階段を駆け上がって目指した自室のドアには鍵が掛かっていた。
ポケットから出した鍵でドアを開けても無人で。
そこで精も根も尽きてのろのろと入った部屋には、置いて行った二世のシルクハットもマントもなくなっている。
酸欠の頭からは妙案も出ずにフローリングに膝をつくと、二世の吸った煙草の匂いがした。
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