中編
ラブミー?
「兄ちゃん、俺も水泳教室に入ることにしたから」
弟の趣味は俺のモノマネをすることである。
夕飯の時は、右利きの俺に合わせて自分も右手で箸を使う。本当は左利きのくせに。運動靴も俺と全く同じメーカーの物をわざわざ買って、自分のものにする。
今日だってそうだ。習い事にまで弟が付き纏ってくるのが嫌で、親にこっそり伝えて秘密裏で水泳教室に入会したのにこの始末。一体どこから情報が漏れたのだろうか、とリビングのソファで考えあぐねていると、そんな俺のこともお構いなしに弟が隣に座ってきた。弟の体重でさらにソファが深く沈む。
「一緒にがんばろうね。兄ちゃん」
▷
いつから弟に気持ち悪さを抱くようになったのだろう。
記憶に新しいのは小学生の頃。一学年に二クラスしかない過疎化した地方の小学校で、弟の
先生の後に続いて教室に入ると、そこには空の牛乳瓶を持った高平と、服を液体でびしょ濡れにしたクラスメイトがいた。半袖短パンのガキ大将っぽいそのクラスメイトは弟の足元で情けなく声を上げて泣いていて、弟はそれを冷たい目で見下ろしている。事の発端を表しているのか、ガキ大将と同じく弟も頭から牛乳を被っていた。間違いなく、あの教室には異質な空気が漂っていた。
「……あ、兄ちゃん。俺のクラスに来るなんて珍しいね」
俯いて虚な目をしていた高平は、教室に入ってきた俺に気づくと、ひまわりの花を咲かせたように目を細めて嬉々として近寄ってきた。…それから後のことは覚えていない。でも、あの時の弟の表情だけは、脳裏に焼き付いて離れないでいる。
当時の俺は先生達が揃いも揃って弟を構っている様子が気に入らなくて、弟に対して気持ち悪いというよりも、”嫌い”という負の感情が強く根付いていた。特に用事があっても無くても休み時間に呼び出すし、俺がイライラしている時なんか、『怒ってるの』『謝るから元気出して』とか、弟は無神経に話しかけてきた。あの牛乳事件から弟が変な不祥事を起こすたびに、先生とか色んな生徒から”破天荒な弟を諌める最終兵器”として駆り出されるし。決して俺はラピュタの雷なんかじゃない。
そうだ。思い出した。母さんが見ていた恋愛ドラマの影響で、弟が毎日変なことを口ずさむ時期があった。
中でも『24時間365日愛しているよ』という主人公の彼氏役が言った台詞には困らされた。よからぬインスピレーションを得た弟は事あるごとにその台詞を多用して、俺に愛を伝えてきたのだ。正直嫌いを通り越して恐怖である。学校でも外出先でも所構わず言うものだから、俺は隣のクラスメイトにも馬鹿にされて恥をかいた。そうしてついに俺が怒って、『お前のそれは嘘だ。今年は閏年だから、お前は一日だけ俺を愛していない時がある。嘘つきなんか大嫌いだ』と言い返した。子どもじみた屁理屈であったが、弟には効果覿面だったのだろうか。翌日から弟からの気味悪い愛の囁きはぱたりと止んだ。その代わり、閏年の二月二十九日になると決まって弟は俺の側にくっついて、何かに怯えるように離れなくなった。それは高校に上がるまで続いた。
なんというか、俺は高平が普通の弟になってほしかった。でも、どこかを直せばどこかが狂う。弟と一緒にいると、普通の弟という定義が何なのか分からなくなっていく。そんな曖昧で不安定な関係と、思春期という若者特有の急激な心身の変化が足並みを揃えるのはそう遅くはなかった。
弟の夢は知っていた。美容師になることだ。俺自身、弟の個人的な趣味嗜好に興味は無い。けれど、毎年恒例の七夕行事で、頼んでもいないのに弟が俺のクラスまで来て、わざわざ願い事を報告しに来ていたから自然と覚えていた。それだけだ。
一度だけ、俺は弟の目を覚まさせようとした時がある。話しても分かり合えないのだから、弟の心を折って諦めさせればいいのでは、と。
仕返しの意思を決めてからの行動は早かった。まず、弟の大切なものを奪おうとした。美容師を志しているだけあって、弟の勉強机にはライト付きの多機能ミラーやストレートアイロン、その他諸々ファッション雑誌などが置かれていた。こっそり弟の机を弄っている最中も、勉強机なのに参考書のさの字もない甘ったるい棚が目に入ってイライラした。今思い出しても髪の毛が逆立つくらいには腹が立つ。俺は勉強しか取り柄が無かったっつーのに。……とりあえずこれは俺の八つ当たりとして、我慢しながら机の引き出しをいくつも開けていると、ふと、目に入った物があった。何の変哲もない黒のヘアゴムである。その当時、弟の髪は肩まで伸びていて女子みたいに長かった。これは髪を結ぶためのゴムだろう。宝物とまでは言わなくても、日常的に使う物が急に無くなれば少しは痛い目を見るだろうか。そうして俺は静かに弟の引き出しからヘアゴムを取って、自分の机の中に隠した。あと、ヘアゴム一つだけを盗んでは意味がないと思ったので、ついでに目に入ったゴムも手当たり次第盗むことにした。
「兄ちゃん、俺のヘアゴム知らない…? 普通の丸いゴムなんだけど、一気に無くなっちゃって」
案の定、弟は困った顔で俺に話しかけてきた。俺は心の中でガッツポーズを決めた。そらきた。お前の使ってたヘアゴムは俺の机の中だよばーーーーか。……と口から出そうになる衝動を抑えて、俺は「知らない」と答えた。テレビの隙間、洗面所、とありもしない場所を一生懸命探す弟の姿。面白くて愉快でたまらなかった。
大学生になった今では、”仕返し”と言うには相応しくない可愛らしいイタズラをしたと思う。でも、仕返しの内容が重要ではなくて、”弟に仕返しをする”ために行動することに意味があったのだろう。仕返しをして、少しでも弟が痛い目に遭えば、今までの自分の行いを反省してくれて、自分の喉に刺さった無数の小さな棘の跡も、少しくらいは消えるだろうと信じて。あわよくば、俺に幻滅してほしかった。
人生は思い通りにいかないことの連続だ。
いつの間にか、自分の引き出しに隠していたはずの弟のヘアゴムが無くなっていた。全部。何もかも。焦った俺は家中を探し回った。自分と弟の部屋、ランドセル、リビング、トイレ。家内では見つからなかったから、次は通学路、学校の道具箱。いくら探しても見つからなかったところで、体が硬直する。脳から指先の神経を巡ってさあっと血の気が引いていくのを感じた。
確実な証拠は無いけれど、きっと、恐らくそうなのだろう。
ある平日の朝。その日は俺の心境とは裏腹に清々しいほどの快晴だった。
「なあ」
朝ごはんの目玉焼きをつつきながら、俺は弟に話しかけた。普段通りの声を出せたのか、緊張しい声が出たのか、俺には分からない。弟はこちらを見向きもせず、目玉焼きの白身を丁寧に切り分けていた。しかし、耳ではしっかり神経を研ぎ澄ませている様子が手に取るように分かる。当時は夏であるにも関わらず、気温が数度下がったかのような空気と直感がそう伝えていた。
母さんの作る目玉焼きはいつも固焼きだ。箸で黄身をさいても、乾燥した黄色の小さな塊がポロポロと皿の上にこぼれていく。皿に散乱した黄身の塊は回収するのが困難だ。いつもならこの黄身にイライラされているというのに、今の俺は隣で目玉焼きを食べている弟にしか意識がない。目の前に映るこぼれた黄身を通して弟を見ていた。
「そういえば、この前無くしたって言ってたゴム、見つかったのか」
つい出来心で聞いてしまった。どうしても気になったのだ。もしかしたら、ヘアゴムは俺が持っていて、ただ単に無くしただけなのかもしれない。机の奥に挟まっているだけなのかもしれない。束の間の安心が欲しかった。欲しかっただけなのだ。
「うん。見つけた」
弟の言葉と共に、パサついた黄身の塊が潰れて皿に張り付いた。
▷
半ば、弟から逃げるように受かった県外の国公立大学は、誰も自分の弟を知っている人はいなくて生きやすかった。弟は地頭こそ良いが、勉強自体は嫌いなようだったから、わざわざ県外に来るほど意欲はないと思う。そうしてどうにか血の滲むような努力を重ねて、弟から物理的に離れるチャンスを掴んだ訳だ。
友達も数人できたし、新歓サークルで新しい彼女とも付き合った。最近は生きるのが楽しい。勿論、大学でのカーストや教授の謎ルール、自分ではどうにもできないクソみたいなこともたくさんあるけれど、ストレスの化身である弟がいた時と比べれば不思議と何てこともないように思えた。
万が一も考えて、県外の大学を受ける時は「弟には自分の新しい引っ越し先を黙っていてほしい」とこれでもかってほど両親や知り合いに釘を刺したから、よほどのことが起きない限り追っては来ないはず。
六限を終えた後の講義室は賑やかである。張り詰めた空気が解けて、個体が液体に変わった瞬間の熱運動のように学生が行き交い始めた。そんな中で荷物を片していると、誰かが背後からのしかかって、俺の肩に手を回してきた。この躊躇いのない手つきはあいつ以外に俺は知らない。
「なぁ
在平は俺の名前だ。もれなく今日はダイスケの奢りだぜ、と指で円マークを作る友人の
「ごめん玉秋。俺ちょっとこれから用事あるから、パス」
俺は首に吊り下がった玉秋の手を引っぺがして、講義室の扉に手をかけた。特に予定も何もなければ着いていくつもりだったが、今日はやむを得ない予定があるので仕方ない。
「用事って、あの焼肉バイトの?」
「うん。面接通ったから、来週からシフト入る」
「そ。がんばえ〜」
玉秋の腑抜けた見送りに「なんだそれ」と小さく返す。俺は玉秋のこういう所が嫌いじゃない。弟が月だとすれば、玉秋はその対極にある太陽だ。弟とはまた違った精神的な余裕がある。俺はそんな玉秋の性格に少し救われている部分があった。
それから、ついでに向こうの大人数グループにも手を振って、俺はそのままキャンパスを抜けた。焼肉屋で働くためにマイナンバー付きの住民票を持ってきてくれ、と店長に言われたから、電車に乗って近所の市役所まで足を運ぶ。市役所に来たのは何時ぶりだろうか。引越しの時以来な気がする。数十分経って、俺平成何年生まれだっけ…と四苦八苦しつつも申請書が書き終わり、窓口でお金を払って住民票の写しを受け取った。
「へえ…親父ってもう五十になるのか」
誤って申請書に家族全員分の住民票を発行してしまったようで、住民票には親父の生年月日、母さんの名前、いろんな情報が載っていた。後でもう一枚自分だけの住民票も発行するか。窓口のすぐ隣にあった座椅子に腰をかけてまじまじと眺めていく。ふと、俺の住所が目に入った。今住んでいる少し安めのアパートの住所だ。そういえば、引越しの時に住所変更手続きとかもやったっけ。ぼーっと住民票と睨めっこしていると、下あたりに”
これって弟も申請できるんじゃないか?
…と思考がゴールテープを切った所で、俺はこれ以上考えるのを止めた。蛍光灯眩しいなあ〜〜。そういや蛍光灯ってもう製造終了するんだっけな〜〜〜〜。
▷
「ここが兄さんの家なんだね」
久しぶり、兄さん。
そう言って立ち上がり、手を腰の後ろで組んで俺の顔を覗き込む弟。澄ました顔をしているが、汗でおでこに張り付いている前髪を見るに、相当暑さに堪えているのがわかる。もしくは、俺が帰ってくるまでずっっっと待ち伏せしていた……なんて考えたくもないからその点には目を瞑った。
バイト先の焼肉屋で用事を済ませてアパートへ帰宅すると、弟の高平がピンポイントで俺の号室の前に座り込んでいた。高校以来しばらく会っていなかったせいか、大人びたその美丈夫な容姿に少しだけ動揺する。肩まで長かった後ろ髪はばっさりと切られていて、濡れたように後ろへとかされたオールバックに女々しさは存在しない。納得いかないが、日も暮れた手前弟を玄関払いするのも自分の倫理に反するので、仕方なく一時的に弟を家に招くことにした。(あと俺が開けない限りずっと扉の前で待機していそうで怖いから)。弟は道中スーパーで買い物してきたようで、手に持っていた大きめのレジ袋を狭いキッチンに置くと、中からひき肉、キャベツ、ニラ、餃子の皮を次々と千両役者のように揃えていく。突然の弟の奇行。聞けば、「兄さんは餃子を作るの上手だったから、作り方教えてもらおうと思って」、らしい。相変わらず何を考えているのか読めない奴だ。俺ん家に来るなら携帯に連絡してくれればよかったろ、と俺が言うと、「兄さんの連絡先知らなかったから」と弟。確かに。俺、弟に何も言わず家を出たんだった。少し申し訳ない気持ちが芽生えてきた。
「……餃子食って、寝たら帰れよ」
俺の一言に、弟が目に光を宿す。うん、わかった、と聞き分けのいい子どものように頷いて、最後にレジ袋から水の入ったポリ袋を取り出した。恐らくひき肉を冷やしていた氷袋だろう。やっぱり待ち伏せしてたんじゃねーか、とツッコミそうになる口をぐっと閉めた。
餃子は俺の唯一自信のある得意料理だ。単に小学生の頃、家庭科の自由課題で母さんと一緒に作った記憶が鮮明に残っているから得意なだけであって、普段はコンビニ弁当で生活を食い繋いでいる。というのに、弟は俺が何でも作れる無類のスーパーサイヤ人か何かと勘違いしている。困ったものだ。
「餡の味付けは塩コショウだけでいいんじゃないの?」
弟に切ってもらったニラとキャベツ入りの餡に、以前買った弁当に付いてた醤油や中濃ソースをぶち込んでいると、シンクで手を洗う弟が不思議そうに問いかけてきた。
「別にそれでもいいけど、ソースとか入れると味に奥行きが出てもっと旨い」
ひき肉を練り込みながら俺が答える。一拍置いて、そうなんだ、と弟が呟く。
「やっぱ、兄さんは兄さんだね」
「……は? どういう意味」
「俺もまだまだって意味」
そう言って一人納得したような笑みを浮かべながら手を拭く弟。切実に、誰でもいいから弟が何を考えているのか教えてほしい。
そうこうして餃子が完成した。白米は貯蓄していたサトウのごはんをレンチンして終わり。メインは餃子のみだが、まあ食えないことはないはずだ。物置から取り出した折り畳み式のミニテーブルを囲んで、いただきます、と二人で手を合わせて餃子に手をつける。
「……! おいしいよ、兄さん」
「そ」
弟は心底美味しそうな表情で餃子を口にする。俺としてはまあまあの味だ。塩分が薄い点を除くと可もなく不可もない。まあ失敗しなかっただけ良しとする。
「ところでお前、もう十九じゃなかったか。進学先は結局専門学校にしたのか?」
実家から俺のアパートまでは新幹線に乗ってニ時間以上かかる。県を跨いでまで、弟がこちらに出向いてきたということは、何かあったのだろう。美容師専門学校とかの合格報告だろうか、と餃子を咀嚼しながら予想する。
「ううん。専門学校はやめた」
左手に白米、右手に箸を持ったまま弟が答える。意外な答えが返ってきて俺は面食った。立て膝をやめて弟と向き合うようにあぐらをかく。ということは就職か、と聞くと、それも違うと言いたげに弟が首を振る。
「昔、兄さんは美容院苦手って言ってたから美容師になって俺が切ってあげようと思ってたけど、通信課程でも取れるみたいだから、やめた」
だから、兄さんと同じ大学にしたよ。
続けて、「大卒の学歴取ったら給料も上がるし、」と一人で話し続ける弟の言葉を聞いて、目の前が真っ暗になった。いや、なってはいないんだが、一瞬だけ何も見えなくなった。
こいつ、何て言った。
俺と同じ大学にした?
「…………もしかして、春から俺の大学にいたのか?」
「うん」
「は、はは…………………そう、おめでとう。大変だったろ、」
今、手に持った箸で弟の喉を突いてもいいだろうか。右手に持つ箸の震えが止まらない。愛想笑いをする口元が引き攣る。抑えろ、抑えるんだ、俺。聞き間違いを切に願ったが、現実は鈍く冷たい。弟の言葉を深く受け止めて絶望に浸っていると、胸ポケットに仕舞っていた俺の携帯が揺れた。箸を置いて開いてみれば玉秋からのメッセージだった。目を見開く。パスワードを打って通知を開くと、『お前って弟いたの!』と脈絡のない謎の連絡。タイミングは完璧。いつの間に、弟は玉秋とも接点を繋いでいたのだろうか。
やはり、俺の弟は異常だ。おかしい。何故兄である俺に執着して付き纏い続けるのか。分からないものを理解しようと努力するのは受験勉強で何度もこなしてきたが、こればかりは紐解けそうにない。現に、弟が俺の隣までにじり寄ってきて、手を重ねてくる時点で既にお手上げだ。
「……知ってる。兄さんが俺のこと好きじゃないのは」
俺の脳内に浮かんだのは”困惑”と”恐怖”の二文字。重ねた手に伝わる体温を確かめるように、弟が一層強く俺の手を握ってきた。地味に蒸し暑い部屋が俺の手に汗を溜めている。
「でも、おれ、にいさんと一緒にいたい」
たぶん、兄さんがいなくなったら、死ぬから。
弟の一言一句が俺の背筋をなぞった。それから保険をかけるように、「嫌だったら突き離していいよ」と弟が言葉を付け足す。こいつ、俺の性格を知った上での発言なら尚更タチが悪い。俺がハッキリ突き離せないのを分かって言っているのなら、俺は一生弟の心を折ることはできないかもしれない。むしろ、心を折られているのは俺の方だ。
「…ははっ。もしかして、俺がいない世界なんて滅べばいいとか思ってる?」
「うん」
「へえ、それだけ、お前は俺のことが大好きでしょうがないわけだ」
「うん」
俺の問いに弟が一寸の迷いもなく頷く。俺アキネイターかよ、と渇いた声が心の内で漏れた。
だが、弟がその気なら、俺にも考えがある。利用できる物は何でも利用してやろう。
「じゃあ、俺が”今から沖縄行け”って言ったら行くのか?」
弟が目を見開いて固まる。弟の弱点は他でもない"俺"である。しばらく沈黙の時間が続き、俺が「ほら、できねえくせに」と鼻で笑おうとした瞬間、隣でスッと立ち上がって玄関まで早歩きで向かう弟。
そうだ。高平はそういうやつだった。
今になって気づき、「高平!」と俺が何度も呼び止めるも、弟の暴走は止まらない。俺って弟を止めれる最終兵器じゃなかったのかよ。
「お、おい、
俺の声を防ぐように扉が閉まる。伸ばした手が空を切った。
ああ、この馬鹿、馬鹿野郎馬鹿野郎! 弟のことを避けてばかりで自分に都合の悪い所しか見えていなかった。あいつも馬鹿だ。俺のことばかり見て全てにおいて空回りしている。俺たちは似た物同士だったのかもしれない。
「くそ、くそくそくそっ、なんで俺がっ…!」
気付けば俺は最寄り駅のホームに着いていた。横腹がジクジクして息が切れる。ついさっき餃子を食べたばかりの胃がキリキリ痛む。終電まで残り数本だというのに、俺は迷いなく来た電車に乗り込んで、目的地の空港まで向かった。道中、電車の窓から夜の海が見えて潮の匂いが鼻をくすぐったが、特に感傷に浸る余裕もなかった。
ぜえ、ぜえ、と肩で息をして、ようやっと空港に着いた。続けて休む暇もなく血眼で必死に弟の姿を探す。深夜ということもあって、道中の売店やコンビニは全て閉まっていた。そして国内線にある無数のチェックインカウンターを、スーパーで目当ての商品棚を探すように回った。すると、四列目のカウンターで渡航券を買っているらしき弟の姿が見えた。見つけた瞬間に俺は息を吸って、全速力で弟の元まで走った。
「……っ!?」
と、思ったら盛大に転けた。コーナーを曲がる際に足首を変な方向に動かしたせいでそのまま横滑り。すぐ近くの椅子でうたた寝していた旅行客、ちょうど俺の側を通り過ぎたばかりのCAの人、周囲の人が一斉に俺の方を向く。すぐさまCAの人が大声で立ち寄って怪我の有無を心配してくれた。弟にまでバレたら厄介だと思い、小鳥が呟くような小声で「大丈夫なんで」と何度も諌めてその場から立ち去ろうとする。しかし、遠くでも異変に気付いたらしい弟が血色を変えて俺の元まで走ってきてしまった。
「兄さん!!!!!!!!」
背後から喉を裂くような叫びが聞こえた。まじで恥ずかしい。普通に曲がろうとして足首挫いたなんて言いたくなくて、俺は痛みに耐えるような振りをして顔を隠すように地面に跪いた。弟はよほど俺が深刻な怪我を負ったのだと勘違いして、少しずつ声色が震えていく。
「ねえ、嘘だろ、兄さん」
お願いだから、死なないで、と震えた声で弟が何度も呟く。やばい。取り返しのつかない所まで来てしまった。弟の悲痛な声に共鳴するよう捻った足がジクジクと痛む。俺はいつ真実を切り出そうかと無い頭をフル回転させて黙り込んでいたら、更に弟が言葉の端々に必死さを滲ませて矢継ぎ早に問いかけてきた。
「兄さん、兄さん兄さん兄さん、どこが痛いの? 誰にやられたの? ねえ、兄さん、ごめんなさい、俺が馬鹿なことしたからだよね、今から救護呼ぶから、もう嫌いになっていいから…!」
「…………ぉ……」
「っ、兄さん!!!!!!!」
「……俺が、勝手に転んだだけだから…………」
鳩が豆鉄砲を食ったように弟が目を見開いたまま固まる。いざ改めて、転んだという事実を自ら申告する羞恥に襲われ、顔に熱が集まるのを感じる。うずくめていた体を起こして、捻った足を守るようによろよろと立ち上がった。頭上の照明や周囲の様子が鮮明に視界に映る。弟は俺のすぐ真横で片膝をついてしゃがみ込んでいた。自然と俺を見上げるような形になる。
「………………兄さん」
「……んだよ…文句あんなら言えや」
目を合わせるのが気まずくてそれとなく視線を右下に逸らしていると、弟がむくりと立ち上がって、両手を広げてこちらに迫ってきた。
「兄さんをぎゅってしてもいい?」
「……っ、は、はあ!?」
今度は俺が不意打ちをされた番だった。瞳に一面の星空を閉じこめたようにキラキラと光らせて、今か今かと俺の返事を待ち侘びる弟。なんでこの状況でハグする選択肢が出てくるんだ、と引きつつも、怒涛のイレギュラーな事態の連続に疲れ切って突っ込む気力も失せてきた。
「……勝手にしろ」
渋々許可を下すと、脇の下を通って弟の両腕が回り込み、肩に大きな頭が寄ってきた。昔は一切香らなかった柑橘の爽やかな香りが鼻をくすぐる。高平ってこんなに大きかったっけ、と思っていると、徐々に抱きしめている弟の手の力が強くなる。
「………うぅ…にいさん……」
すぐ側からズズ、と鼻水を啜る音が聞こえる。弟は泣いているのだろうか。もういい大人なんだから泣くなよ、と言うように弟の背中を数回叩いて、ワックスで丁寧に整えられた髪を優しく撫でた。すると、弟はもっと嗚咽を出して俺の胸元に頭をぐりぐりと擦り付けてきた。
▷
「わっ…お取り込み中すみません…! また後で顔出しますね…!」
「いやいや、大丈夫です! すいませんこちらこそ、わざわざありがとうございます」
転けた俺を真っ先に気にかけてくれたCAの人が、いつの間にか氷のうを用意して持ってきてくれた。熱に浮かされたように「兄さん、兄さん」と繰り返して涙と鼻水でぐしょぐしょのまま俺を抱きしめて離さない弟を見ると、空気を読んでその場を去ろうとしていたが、すぐに俺が引き止める。CAさんからポリ袋に氷がいくつか入った簡易的な氷のうを受け取った後、弟が落ち着くまで待って、近場の腰掛けに二人で座る。捻った足元にそっと氷のうを乗せた。今日はアキレス腱の少し上くらいまで長い靴下を履いていたので、氷が肌に張り付くことなくいい感じに冷やせている。ラッキーだ。
「……………」
「……………」
お互いに沈黙である。気まずい。昔はどうやって会話してたっけな。ともかく、家での発言について謝るべきか。落ち着かなくて身じろぎをしようとしても、捻挫した足首が痛んで動くことができない。
ちらりと隣に座っている弟の顔を盗み見る。ずっと前から思っていたが、弟は顔だけはいい。前の女子みたいに長い髪はそれはそれで儚げな雰囲気があったが、無駄な髪を削ぎ落としたオールバックの姿は表情がはっきり見えて凛とした印象だ。俺にもその端正な顔立ちの遺伝子を少しでも分けてほしかったくらいだ。
「…ごめん」
「ごめんなさい」
綺麗にタイミングが被った。お互いに顔を上げて見合わせる。
「……いや、元はと言えば俺の冗談が原因だし。お前は何も悪くないって」
「…兄さんこそ何も悪くないよ。勝手に決めつけて暴走した自分が悪いんだ」
「いやいや……」
何となく、このままだと水掛け論になる気がしてため息を吐いた。弟がびくっと肩を上げる。そんなつもりは無かったのだが、無配慮に弟を傷つけてしまったようで、俺は心の中でニ回目のため息を吐いた。
「帰りの電車はありそうか?」
話を切り替えるように俺が呟く。弟はジーンズのポケットからスマホを取り出して、手慣れた操作で時刻表を調べ始めた。
「……次は49分の快速特急。間に合わなかったら11分の急行に乗れるよ」
「なら余裕だな」
帰るか、と俺が言って立ち上がる。CAさんがくれた氷のうのおかげで捻挫した足もだいぶ回復した。しかし、まだ完璧に治った訳ではなく、前に進もうとすると無意識下で捻挫した足を庇うようになり、変な歩き方になってしまう。
「兄さん。背中乗って」
弟も立ち上がると、すぐにしゃがんでおんぶ待ちのポーズをした。やけに真剣な面持ちをしていて少し吹き出しそうになる。
「いや、おんぶは恥ずかしいから肩だけ貸してくれ」
「これだけは駄目だよ。悪化したらどうするの」
「………高平」
「だめ。いいから乗って」
さっきまでの弱々しさは何だったのか、急に語気を強めて主張する弟。押しに負けて、俺は大人しくその背中に跨った。すると、一気に視点が上昇して今までとは違う景色が広がる。一瞬だけ、小さい頃に父親が肩車してくれた記憶がフラッシュバックした。呆けていたら、弟が心配そうに足の痛みを心配するので、大丈夫だと返事をするとほっとしたように駅のホームへと歩き始める。
ラウンジ、手荷物を預ける窓口、検査場、水平に移動するエスカレーター。目に映る景色がアナログの映画フィルムみたいに変化していく。
ハンモック…いや、ゆりかごと言うべきか。ほんのり温かい弟の背中の体温が眠気を引き起こして、ついうとうと頭を揺らしていると、胸ポケットに仕舞っていたスマホが音を立てて振動した。急かすように鳴るから仕方なく眠たい目を擦ってロックを解除する。すぐ目に飛び込んできたのは彼女からのメッセージ。数週間前から約束している映画館デートの話だった。フリック入力で彼女に連絡を返していると、弟が不審そうに声を低める。
「誰から?」
「…さあ? 言ったら多分お前怒ると思うから言わない」
「…………彼女さんか」
なんで分かったんだよ、と言いかける口を閉じた。早速ここまでくると感心が勝つ。
「別に怒らないよ、彼女の一人や二人くらい。兄さんは俺を何だと思ってるの」
「じゃあ相手が彼氏だったら?」
「……………………………怒らないよ」
嘘つけ。その長い間はなんだ。
両手が塞がっているのをいいことに、スマホの
「…高平はさ、覚えてるか?」
「…? 何の話?」
「昔、お前のヘアゴムが一気に無くなった時あったろ」
「あぁ…確かあったね」
「お前はどう思った?」
弟の歩くペースがわずかに遅まる。熟考しているのか、弟はしばらく黙り込んで顔だけをこっちに向けた。
「…どうって?」
「……どうって…ヘアゴム盗んだ奴許さねえ、とか思わなかったわけ? あの時のお前全然怒ってなかっただろ」
「うーん…まあ、困るなぁとは思ったよ。でも、100均で揃えたものだし、そこまで怒りはしなかったかな」
「そうか」
「なんで急にその話?」
「いや…そういえば、お前が激怒してる姿見たことないなって思って」
何となく思い出しただけだ、とわざとらしいような口ぶりで返す。小さい頃にヘアゴムを勝手に盗んだ犯人は俺だと知っていて、それを根に持っていたらどうしようと冷や冷やしたが、杞憂だったらしい。心中でほっと胸を撫で下ろした。
「あの時は怒ったというか____」
「ん?」
「ううん。何でもない」
意味深に何かを言いかけて口を閉じる弟。何だよ教えろ、と俺が肩を叩いても前を向くばかりで答えてくれなかった。
そうして小言を言い合っていると、いつの間にか駅ホームにたどり着いていた。弟に言って背中から下ろしてもらう。足の痛みは大分引いていた。待つだけ待って、やっと来た急行電車に乗り込む。深夜の電車は朝ラッシュ時よりも空いていたが、席の端っこやちょうど真ん中、ドア付近の四隅は既に人がいて占領済みだった。ビジネスリュックを両手で抱え込むようにして寝るサラリーマン、等身大のぬいぐるみをキャリーバッグに乗せて夜景を楽しんでいる観光客、座り方が独特なジジイ。十人十色な乗客の中、適当に目についた空き席に二人で座る。
「…………」
「…………」
風景は絶えず動いているのに、向かいの窓越しに映る俺たち二人の姿は微動だにしない。誰かとここまで静かな時間を過ごすのは久しぶりだった。普段はおしゃべり好きな玉秋たちと一緒に行動しているから。でも、不思議と今はこの沈黙が怖くない。家族パワーと言ったところか。
途中、何駅かに停車して次々と席が空いていく。終ぞには俺たち二人の貸切状態となってしまった。夜景を眺めながら、頭の片隅で明日の予定について思案する。幸いにも明日は週末だ。朝飯でも食わせたら弟は家に帰らせるか。…いや、俺と同じ大学に進学したって言ってなかったか。ということは、もう実家は出て一人暮らしをしているのだろうか? 俺の通ってる大学近くに学生寮があるし、そこに住んでいるのかもしれない。
「お前は今どこに住んでんの? 大学の寮? 一人暮らし?」
「大学の寮に入ってる」
「へー、いいじゃん。俺も寮か一人暮らしにしようか迷った」
「兄さんはなんで一人暮らしにしたの?」
「あー……俺、生活力ないからさ。今のうちに親のいない生活に慣れておこうと思って一人暮らしにしたんだよ」
弟からの問いかけに若干返事を詰まらせる。理由は単にお前から逃げたかったからだよ。
…なんて正直に言う勇気は生憎持ち合わせていなかったので、適当に思いついたそれっぽい理由を取って付けた。
「それに、寮に住んでたら情報筒抜けになりそうじゃん。俺、大学生になったら彼女欲しかったからプライベートは守っときたくてよ」
「ふーん…」
少し早口だっただろうか。興味があるのか無いのか微妙な弟の返答に、いちいち動揺してしまう自分がいる。
「兄さんは、もし俺に彼女ができたらどう思う?」
「うん? 彼女か、そうだなぁ…」
藪から棒な疑問を問いかけてくる弟に、曖昧に頷く。俺にご執心な弟を見初め、さらに恋人になることを認めさせた女性が現れたとしたら、それはそれで変人同士お似合いのカップルになれると思う。有り体にそう伝えると、弟は分かりやすく不機嫌モードになった。”変人”呼ばわりされたことが気に入らなかったのだろうか。文句を言いたげな視線が左肩に集中する。
「彼女なんていらない」
「まあまあそう拗ねるなって。生きてればその内、お前にも素敵な人が見つかるさ」
「俺には兄さんだけだもん…」
「ふはっ、”もん”って何だよ! ”もん”って! お前そんな語尾使うタイプだったか?!」
指差しをして口元を押さえていると、弟は俺の人差し指をうっとおしい小蝿のように手の甲でペチンと音を立てて叩く。それでも俺は耐えれなくて、くすくす思い出し笑いをした。しゃっくりのごとく肩が何度が上下する。先までの緊張はすっかり消えていた。
「……………」
「ごめんて。もう笑ってないから」
「………」
「なー高平、許してよ」
いくら肩を揺すっても無反応になった。本格的に弟を怒らせてしまったらしい。何度声をかけても聞く耳を持たない。
ちょっとだけ反省して、俺は正面を向き直った。言いたいことは自分の口で言って、泣いて、怒る。そんな弟の人間らしい一面に触れることができた気がして、内の底に溜まっていた過去のしこりが一遍に洗い流されたような、胸がすく気分になった。
「(少しくらいなら、俺の人生を弟に預けてみてもいいのかもしれない)」
いつぞやの自分なら死んでも絶対に考えなかったであろう思考が、閃きのように降ってきた。そんな自分を恐ろしいと思うのは、今、俺自身が変わろうとしている片鱗だろうか。俺とは別方向の遠くの夜景をじっと眺め続けている弟。昔の記憶よりも一回り大きくなった体に、そっと自分の頭を乗せる。側から見ればテレビに夢中でそっけない彼氏に甘える彼女のような構図だ。だが、現実は男同士のむさ苦しいじゃれ合いである。全く絵にならないだろうなと思う。でも、俺たちの間にできた歪な溝を埋めるには、こうでもしないとダメな気がした。
「大好きな兄さんに寄り添われる気分はどうだ?」
「……っ、ちょっと、離れて」
「今だけはお前の好きにしたらいい。俺は何も言わん」
「…………にいさん」
普段の呼び方とはまた違う、甘く蕩けるような声が頭上からこぼれ落ちる。俺はごくりと唾を飲み込んだ。しかし、一向に手を出してくる気配はない。
弟は悩みに悩んだ結果、俺の頭に沿ってわずかに頭を傾けた。ただそれだけだった。お互いに頭を預け合う形になる。てっきりキスの一つや二つくらい受ける覚悟でいたので、弟の選択に少しほっとする自分がいた。電車の窓に一つになっている俺たちの姿が浮かんでいる。
「………ほんとにそれでいいわけ?」
「うん。これでいいよ」
「……そ」
俺は窓を通して弟の表情を盗み見ようとして、やめた。別に見ようとしなくたって、今の俺たちには必要ないと思ったからだ。
車内アナウンスで俺たちが乗り込んだ最寄駅の名前が流れる。弟が気遣って再び俺をおんぶしようとするが、足の痛みはいつの間にか完治していたので断った。二人で空港までの電車賃の高さにビビりながら改札を抜ける。
「お前、まだ俺のこと愛してるわけ?」
「もちろん、愛してるよ。兄さん」
夜風に吹かれて前髪が視界を遮り、弟の顔が見えなくなる。目にかかった髪を避けて弟の顔を改めて見ようとすると、鼻先が触れそうなほど至近距離に弟の整った顔。空港で嗅いだ柑橘の香りがふわりと漂う。
「ずっと大好き。在平がこの世に生まれて、俺の兄さんになってくれた日からずうっと愛してる」
今だって心臓が壊れそうなくらいドキドキしてるんだよ、と俺の手を胸元にそっと当てて、少し怒っているような、でも満更でもない満たされた笑みを浮かべる弟。確かに、心臓がパンクしそうなほどビートを刻んでいるのが伝わる。「わかった。もうデレない」と俺がサムズアップすると、突然手のひらを返して「やだ! もっとデレて!」と抱きつき駄々をこね始めた。なんだこいつ。愉快すぎる。
「本当に愛してるよ。365日と1日、ね」
そう言って弟は俺の両手を包み込み、慈しみにあふれた眼差しで目を細めた。まるでプロポーズかのように真剣な声色で話すから、一瞬だけ高平のことを血の繋がった弟だと認識できなくなる。こりゃ、彼女とデートでもしたら高平の匂いに勘付かれて浮気だと怒られるかもしれないな。
おわり